M-1グランプリ2021批評

 「感想」ではなく「批評」をタイトルにしたのは、批評から逃げるな、という自戒からです。以下、敬称略で失礼します。

敗者復活戦

5. ハライチ

 自分は『ハライチのターン』リスナーで紛れもなく彼らのファンなのだが、以前『ゴッドタン』の一企画において、「王道」たるタイムマシーン3号の漫才について言及した岩井の発言にずっと引っかかっりを覚えていた。曰く、「王道」は「新しいことをまったく取り入れないジャンル」であり、「漫才が伝統芸能になっちゃったら衰退していく一方なんで、あなたたちは伝統と一緒に死んだほうがいい」のだと。関西の劇場で吉本新喜劇や師匠レベルの漫才が観られる環境で育ってきた自分としては、「ベタ」を蔑ろにするその発言にどうしても首肯することができなかった。
 それ以降、ハライチの漫才をみる際にどうしても「それだけ言うのなら、『新しいこと』をみせてくれよ」と思って、自然と他よりハードルが上がってしまうのを自覚していた。しかし今回の敗者復活戦のネタは明確に「新しいこと」が示されていて、有無を言わさず説得されたような気持ちになった。

 漫才における「かけ合い」の是非についてはとかく論じられてきて、審査員で言うとオール巨人が最も大切にしている評価軸のひとつであることは言うまでもない。今回のハライチのネタの後半、岩井は沈黙し澤部がひとりで話し続けるパートは、そのような「かけ合い」論争への強烈なアンチテーゼである。
 さらにこのネタの凄いのはただ単に「かけ合わない」だけではなくて、澤部の寸秒違わない間と演技力をもって、不在の「悪魔の声」とのやりとりが可視化される、いわば「かけ合わないかけ合い」が立体的に浮かび上がってくるところである。そこにおいて「かけ合い」漫才の脱構築は見事に成功している。

 一応付け加えておくと、この後半パートで片方が黙るという発想そのものは何を隠そうハライチ自身によって既に提出されていて、2017年のM-1敗者復活戦で披露された「未知の生物」の漫才がある。ただこちらのネタでは「自分に話しかけられているのかどうか」の二極の間で話題が終始していて、「寿命を半分とられてもう戻ってこない」ことへの気づき→嘆願→焦り→怒りというような感情の動きが表現されている今回のネタと比べると若干の見劣りがある。「未知の生物」はただ不在なだけで、「悪魔の声」の、不在であることによって際立つ存在(あるいは寿命を半分とられるという事実)のような重層性はそこにない。ここまで書くと「かけ合わないかけ合い」のニュアンスが伝わるだろうか。
 だからこそ、期せずして響き渡ったバイク音へのアンサーにもなった「ふざけんなよ!」や、タイムオーバー音に対しての「ボカンじゃねえうるせえ!」という澤部の発言には体重が乗っていて、感情移入して観ることができた。彼の名アクターぶりが存分に生かされた出色の出来である。

6. マユリカ

 『ドライブデート』はお笑いファン的には既に有名だったが、面白いくだりがいくつも上乗せされてさらに強いネタになっていた。マユリカはいつもキャラ設定のパワーバランスが絶妙で、理不尽な言動をする阪本に対して、中谷の方にもウザさや配慮のなさが垣間みられる。つまり"誤った行動をするボケ-それを正すツッコミ"という旧来の構造から微妙に脱臼させられていて、そこがマユリカの魅力であり新しさである。「君のために鬼になるね」は、根底に妙な正しさがあるからこそ理不尽がただ理不尽なだけで終わらず、阪本演じるキャラの人間性が単色的にならないフレーズになっている。
 一方で「ヘンテコしっこ」のような、言葉のリズムと馬鹿馬鹿しさでもっていく正統的なくだりもあって、ひとつの漫才における球種が多彩である。

7. ヨネダ2000

 間違いなく彼女たちが今大会を通じて最も「新しいこと」をみせていたコンビだろう。
 「YMCAで寿司をつくる」という設定自体が新しいことは言うまでもないが、マグロをまずつくる→サーモンをつくる過程でその構造を解説する、そのあとに来る展開も新しい。軍艦はつくれるのかとか、サビ抜きはどうするのかとか、その提示された構造を踏まえての遊びどころがいくらでもあるはずなのだが、すぐさまDef techというまったく別の異物を挿入してくるのが彼女たちの大胆不敵さである。
 普通の発想であれば、Def techは後半1分の最後の展開として持ってきそうなものだが、ヨネダ2000は、歌ネタが内在する反復性・規則性——それは歌そのものが持つ統制された構造に起因する——を軽やかに破壊する(そのあとのMy wayも、最後のほうはハモリじゃなくてちょっとズレて歌ってるんだという新たな発見があるのが憎い)。
 かと思えば次は、スピードアップしたYMCAの音楽的な中毒性をもって、歌ネタの反復性を今度は過剰なまでに増幅させる。ここまでどの展開も全く予想ができず、とにかく観客を揺さぶり続ける胆力に脱帽させられる。
 そして銀行強盗のくだりでDef techを回収する周到さすらある。最後の突拍子のない炙りサーモンで突き放してから、「Cが実は逆」という納得感を狙ったオチでグッと引き寄せて終わるはずが、そこが不発だったのだけが彼女たちの誤算か。その落差があまりにもあったことが原因かもしれないが、いずれにせよただ理解可能性の外に出たいだけの漫才師ではないという彼女たちの姿勢がわかる、素晴らしい試みであると思う。

9. アルコ&ピース

 いわゆる「忍者フォーマット」の最新版である。THE MANZAI 2012の例のネタを軽くおさらいしておくと、あくまで漫才コントの設定として「忍者になって巻物をとりたい」と言う酒井に対して、平子は「じゃあ芸人やめろよ」と説教を始める。「忍者になって巻物をとりたい」という漫才の中での虚構だったはずのものが、「売れない芸人」という現実によって侵食され始め、その馬鹿馬鹿しさのギャップが増幅されていく。「〜をやってみたい」「じゃあ練習してみようか」という漫才コントの基本的かつ根本的な型をフリとした、メタ漫才の傑作である。
 今回の酒井の提案は「鳥になりたい」である。上記のフォーマットに則り、酒井が鳥になることを平子は許さず、説教が始まる。そこで引き合いに出されるのはやはり「芸人」であり、彼らのリアルと「鳥になりたい」という虚構の提案が入り混じる。
 その熱に浮かされヒートアップする酒井に対して、「公園だし、子供たちもみている」と平子がいなすところが、「鳥に対して芸人論を熱く語る」という行為の馬鹿馬鹿しさを浮き彫りにする秀逸なくだりである。準決勝ではそこで酒井がうしろを振り返って「みてんじゃねえよ!」と吠えていたのだが、敗者復活では観客側に向かって叫んでいて、はっきり言ってここは改悪であると思った。前者のほうがうしろに公園の遊具や子どもたちが可視化されやすく、空間的な広がりが効果的に生まれていた。

 さて、ここまでは「忍者フォーマット」の亜種としての展開なのだが、酒井が「平子さん!」と叫ぶ2分頃に転調が訪れる。「俺だけなんだよ!……こんだけ漫才師がいるなかで、俺だけだよ、夢叶えてもらえてないの」は、「忍者フォーマット」とともに歩んだアルコ&ピースの漫才の歴史が乗っかったフレーズであり、だからこそ濃いお笑いファンの集まる準決勝では爆発したし、少し客層の変わった敗者復活ではウケなかった。一般的な視聴者層を考えれば、彼らに投票が集まらなかったのも仕方がないだろう。
 ここをどう評価するかは様々だろうが、DCGリスナーとして彼らに愛着のある私としては、このような形で「忍者フォーマット」がひとつ進んだ瞬間を目撃できたのはよかったと思っている。
 それから最後の茶番が始まり、アルコ&ピースの演劇調「漫才」の真骨頂がみられる。「その人本人のていで話す」という前提もクソもない、これこそ「漫才じゃない」に最も近い漫才である。ラストイヤーにふさわしい漫才だった。

13. 東京ホテイソン

 たけるの備中神楽の経験を活かし、「い〜や、」のフォーマットを生み出したが、霜降り明星と同時代であったがゆえに「余白の多いボケ→説明的なツッコミ」のスタイルから先に進まざるを得なかった不幸なコンビが彼らである。しかしそれでもなお東京ホテイソンは進化を続け、たとえば名作『英語』のネタでは「わわわこれこれわこれこれ」という意味性を極限まで削ぎ落したフレーズのリズム感と響きを演出する方法として、備中神楽の節が生まれ変わった。
 考えてみると、東京ホテイソンの「フォーマット」はあるようでない。ミルクボーイの「行ったり来たり漫才」や後述するももの「〇〇顔漫才」は明確にひとつの型があって、それにより漫才の進行がある程度規定されるが、たけるの備中神楽はそうではない。言ってみれば、「一方(ツッコミ)が他方(ボケ)に話しかける」という構図を超えて、名詞を名詞としてその場に置くための役割を果たしている。むろん粗品の特徴的なツッコミも同じである。
 だから彼らは、「い〜や、」のスタイルが充分に知名度を持ったうえで、「名詞を名詞としてその場に置く」という手法の活かし方で逆に新規性をみせやすいのではないか、というのが最近の彼らに対する私見である。とはいえずっと新しいネタをつくり続けているのはただただ凄い。

 今回のネタは、クイズの答えを並べると「シャカシャカポテト」というような荒唐無稽なフレーズが現れる、という構造になっている。クイズ自体は完全に恣意的に選択・配置できるため、最後に現れるフレーズを何にするかは、ルール無用のシンプル大喜利になる。『信長とガンディーのオールナイトニッポン』を出す勇気と、それがちゃんとウケていることの凄さたるや。
 ただルールが自由であるがゆえに、クイズがクイズとして成立しているという最低限の前提は守られるべきではないかということも思わないではなくて、「『と』って言ってください」の辺りがネタにおける僅かな、しかし致命的になり得るノイズにみえた。

14. 金属バット

 「赤言うてんねやから、左やろ」「思想強っ」とか、「宗教の勧誘」とか、「ねずみ講」とか、単に「言ってはいけないことを言う」笑いはいささか安っぽくみえた。しかも「『赤が左』って言うことが思想が強い」とか「『宗教』ってワード出しておけばタブー感でる」とかの発想も、散々お笑いの世界ではこすられてきたような領域で、はっきり言って安直だと思う。
 ただネタ終わり最後30秒の使い方は、他の誰も真似できないし格好いい。カリスマたる所以だと思う。個人的には、ウケだけではなく人気投票の要素も多分に含む敗者復活において、金属バットが2位になるくらいの知名度を得てきているという事実が感慨深い。

決勝ファーストラウンド

1. モグライダー

 明るい口調で「美川憲一さんって、気の毒ですよね」の一言目で、謎の論理を主張する明るくて馬鹿な人、というキャラクターが一瞬で知れ渡る幕開けである。「当てずっぽうで星座と性別を聞いてきた輩がいる」「このふたりをWin-Winにしたい」「美川さんが歌い出すまでに、さそり座の女以外の可能性を全部消したければいいんですよ」という事前の説明が多い漫才だが、間違いなく独自の設定と言えるだろう。
 まだ観客が咀嚼し切れない状況で始めることで、1回目のチャレンジはこの状況の馬鹿馬鹿しさ自体がおもしろさになる。そこでの「気の毒だなこれ!」と芝のツッコミが入ることが、その後のともしげの挑戦をただ「意味のないもの」と馬鹿にするのではなく、「気の毒」な状況が解決されるよう応援するスタンスに観客を導いている。
 上記のような導入と、星座8つのおさらい・「男か女かは最後に聞けばいい」のアドバイス、祈る時間が長い・「うわ〜美川さんだ!」の時間が不要というくだりは恐らく既定路線として決まっていて、それ以外のチャレンジがどれだけ上手くいくかはその日にならないとわからない、という即興性・ギャンブル性の含まれた漫才である。賞レース漫才は、洗練されて雑味がなくなっていくほど台本感が増して「その人」性(ニンという言葉をあててもよいかもしれないが)が失われていく、という矛盾を本来的に抱えているが、そもそもすべてを決め切らないという点においてこのネタは乗り越えている。

 それゆえこの漫才の出来はともしげのコンディションのみならず、その場の環境にも大きく左右される。ふつうM-1のトップバッターが不利と言われる以上に、モグライダーにとって観客がまだ漫才をみる状態になり切っていないときの登場は苦しいものだっただろう。加えて、ともしげがややかかり気味にみえて、大きな声と滑舌の悪さがいつも以上に際立って一瞬理解を妨げる瞬間がいくばくかあった。『さそり座の女』を歌い出したあとにともしげが肩を落としながら何を叫んでいるのかということは、ついぞわからなかったし、今何度観直しても聞き取ることができない。
 そういう積み重ねが観客の世界観への没入レベルを規定していて、「お前の夢はなんだ?」「さそり座の女以外の可能性を全部消したいです」「変な夢だなしかし」という我に帰る場面での振り幅にそのまま直結している。ここでそこまで盛り上がりがみられなかったことは、上述のようなノイズを消しきれなかったことに起因するだろう。

 今書いたようなことはすべて結果論なのだが、その即興性・ギャンブル性ゆえに結果論でしか語れないのがこの漫才である。予期せぬともしげのハプニングなどがあれば、芝の対応次第ではもっと爆発し得ただろうが、狙ってハプニングを起こすことは誰にもできない。『さそり座の女』に質問するチャレンジは基本的には流れとしてうまくいっていて、それゆえにうまくいかなかったといったところだ。
 こうして書いてみるとノイズとハプニングは連続した概念で、その危ういバランスのなかにこの漫才が存在していることがわかる。いずれにせよ作品性の高い漫才の並ぶM-1において、まったく違う闘い方を持ち込んできたコンビとして評価ができる。

2. ランジャタイ

 率直に言うと、ランジャタイのネタが今回ではいちばん好きだった。強い風が吹く日、国崎は顔に張り付いてきた猫を飼い始める。その猫が耳から入りこみ、国崎は頭の中のコックピットで操作させられてしまう。日常的風景の裂け目から非現実に誘うその手法は、いわばマジックリアリズム漫才とでも名付けたくなる。この導入だけでワクワクするし、他のコンビと比べても描かれている情景の解像度が段違いである。それが国崎の高い演技力・マイム力で可能になっていることは言うまでもないだろう。
 その非現実を描くタッチが、シュルレアリスムを思わせるDr.ハインリッヒとは違い、コロコロコミックのようなギャグ漫画のそれであることもランジャタイの独自性である。尻尾を引っ張る国崎と、尻尾を引っ張られる猫の攻防は見ものであり、今回のネタで最も好きな場面だった。

 そのぶん、たとえば「将棋ロボ」のくだりで観客を突き放す結果になっているのは勿体無いようにみえた。ギャグ漫画的マジックリアリズムという形式で漫才のなかでは発想の飛んだ作品になっているので、そのストーリー内での整合性はある程度求めてもいいのではないかと思う。ここにおける整合性とは、耳の穴から入りこんだ猫が国崎をコントロールしてとらせたい行動は果たして何だろうか、ということである。猫VS人間の荒唐無稽なSF活劇のような世界観で統一してもよかったのかもしれない。
 一方で、マイケルジャクソンのムーンウォークを何回もやるくだりは、たしかに明らかにストーリーの進行上過多なのだが、この漫才における良い異物になっていたと思う。国崎の悪ふざけで何回も繰り返しやっているのだろうなとわかるところが、この漫才が漫才であることへの自覚を促すというか、ある意味でストーリーに入り込ませすぎないようになっていて、「その人」性が伝わる部分になっている。ここは評価がわかれるところだろう。
 最後に、『風猫』というタイトルが抜群に素敵だ。

3. ゆにばーす

 唯一の男女コンビである。男女コンビとして「その人」性のある話題を選択した結果、男女関係ないしは性的関係になるのはひとつのあり得る帰結なのかもしれないが、しかし必然性があるわけではないだろう。ただここ数年でガラッと変わった「女芸人」をとりまく状況が示しているように、笑いの題材として「女性」性を扱うことには、(フェミニズムの観点から、という枕詞を持ち出すまでもなく)いくつもの障壁がある。
 今回のネタで問題になり得るのは大きくふたつあるだろう。すなわち、「男子っていうのは生物学上そう(=女性に好意を持ち、性的関係の対象としてみる)なってますから」と「男女の関係性なんていうのは詰まるところ遺伝子を残し合う関係性でしかないんです」である。前者はジェンダーおよびセクシュアリティの多様性をまったく無視した発言であるし、後者はたとえば妊娠を望んでもできなかった夫婦への配慮に欠けている。

 こういうことを言うと、「規制ばかりでうるさい世の中だ」「漫才の構成上そういう発言になっただけで川瀬名人がほんとうにそう思っているわけではない」という反論が返ってくることがある。
 前者に対しては、そういうことを言うのはいつだって強者・マジョリティであり、「規制」によって救われる弱者・マイノリティは蔑ろにされている。
 後者に対しては、もちろん私も理解している。川瀬名人は言わずもがなM-1に懸けている人物で、作品性のある漫才を突き詰めた結果として、あの発言が一要素として必要になったのだろう。しかしそれは何百万・何千万という人が観るメディアの責任を軽視した意見だ。たとえ漫才の中の本筋ではない一フレーズであったとしても、そのような発言を電波に乗せることはそれを容認したことと同義である。

 最後に別の話として、ゆにばーすの漫才をみていると、はらはほんとうにあのように川瀬名人を理詰めで論破するような人物なのだろうか?という疑問が湧いてくる。これに関しては川瀬名人が長年の付き合いを経て最も適したキャラクターとして選んだのかもしれないが、平場や「イェエエエエエイ!」のギャグをみている一視聴者としては、常に違和感が残ってしまう。

4. ハライチ

 澤部の始めたいことを否定する岩井、というくだりがあったあとに、岩井の始めたいことを澤部が否定した瞬間に我を失うほどブチギレる。丁寧なフリオチがあるという意味ではクラシカルな構造だと思う。このやりとりが新しくみえるとすれば、それは普段のバラエティ出演で積み上げてきた岩井のクールな印象があるからで、ネタの外の話であるように思う。
 その感情から発展していくわけではなく、否定される→怒るの繰り返しで、展開としても一辺倒である。そこから「関係ない話」として自分の夢について語り出すのだが、話題としてほんとうに関係ないので観客が入り込めないままに、巨大ロボの話が始まる。巨大ロボ→妖精→空飛ぶ筏、と非現実さをエスカレーションしていきたいがゆえのひとつめのチョイスなのだろうが、少なくとも私は「巨大ロボ」と言われてパッと少年漫画等で扱われるそれが浮かばず、技術の発展した現代ではないわけではないよなと思っていた。
 「危ないことやってるんですか」みたいな、薬物使用を暗示するようなフレーズもお笑い界ではこすられまくってきた領域で、チープに聞こえた。

5. 真空ジェシカ

 コメントでオール巨人が「頭いい」と言ったこともあり、巷では真空ジェシカが「インテリジェンスのある笑い」として評価を受けている(あるいは、それを理解できる自分もまた「インテリジェンス」があるというマウントの手段に使われている)らしいのだが、その評は少しずれている。真空ジェシカの難解さはお笑い的な文脈性から来ているのであって、決して学力的な意味でのそれではない。すなわち、既出のお笑いの構造を踏まえたその一つ先を常に提示しているために、そのお笑い的な文脈を把握していないと理解が遅れることがあるのだ(一般視聴者、あるいは上沼恵美子のように「ついていけなかった」こととなる)。
 今回の漫才の冒頭のくだりをみてみよう。

川:10日副市長の大城です。
ガ:10日副市長?
川:2ヶ月会計の知念です。
ガ:2ヶ月会計?
川:5秒秘書の比嘉です。
ガ:ああ沖縄の苗字気になる。島人ばっか体験に来てる。
川:無期懲役の山田です。
ガ:つみんちゅもいた。罪人と書いてつみんちゅもいた。
川:お疲れ様でした。
ガ:ああ5秒秘書帰っちゃった。貴重な5秒をつみんちゅの説明に使ってしまった。

 ここは非常に複雑な構造をしている。「1日市長」のパロディとして「10日副市長」「2ヶ月会計」「5秒秘書」が順に出てきていて、このような数字遊びのボケはひとつのセオリーである。普通なら3つ目の「5秒秘書」の時点でそこにツッコむのだが、そのようなお笑いの既出の流れには則らず、もう一つの線として走らされていた「沖縄の苗字」のほうに意識を向けるのである。さらに「無期懲役の山田」に対してツッコミのガクが言う「つみんちゅ」も、ボケの誤りを指摘するというよりは自発的にボケワードを入れ込む形になっていて、そこも観客の一歩先を行っている。そして最後にようやく「5秒秘書」の回収に戻ってくる。すなわち「10副市長」で始まったひとつのボケの線に対して、別の種類のふたつのボケが複雑に絡み合っているのだ。
 このような「わかりにくさ」を、今までにない先進的な試みととるか、あくまで大衆文化の漫才として伝わりにくくなる弊害ととるかは、評者によるだろう。たとえばサンドウィッチマンの富澤は真空ジェシカに対して最低点をつけているが、彼がある種の「わかりやすさ」をひとつの基準としていることが窺える点数である。一お笑いファンとしては、真空ジェシカにはブレずに突き詰めてもらって、いつか世間のほうが彼らに歩み寄るくらいのことを期待している。

 あとはボケのひとつひとつの並べ方に必然性があるわけではないのだが、「これ、隣町の地図。踏めますか?」「好きな法律だけ守ってもらえれば」「ハンドサインでヘルプミーってやってた!」といった、どこか妖しい雰囲気のする街に「1日市長」というまったくの外部の人間として入り込んでいく、という統一された世界観があるのが素晴らしいと思う。
 ただ一点、「ああでも一回体験しただけでわかった気になる市民が一番厄介だけどお前それになりたいんだなやってやるよ」という導入は、「ウザいマウンティングとってくる奴」みたいなみたことのあるボケでチープにみえて、そこが惜しい。

6. オズワルド

 とにかく、隙がないネタだと思った。減点要素のない漫才だと言い換えてもいいかもしれない。
 ツカミがある。「今度、キミの友達、俺にひとりくれないかな?」「キミのなかでいちばん要らない奴でいいから」「キミの友達全員を一斉にグラウンドに解き放って、その5秒後に俺が追いかけるから、最初に捕まった奴が友達な」など、畠中の奇天烈な人間性がわかるようになっていて、一貫性がある。フォーマットに頼っていない。かけ合いがある。話が展開して進んでいて、予測できない。ボケにオリジナリティがある。「俺のことを中指が立ってると思え」→「俺のことはでっかい人差し指だと思って」「ビッグピースじゃん」で伏線回収しつつの大団円オチ。そしてもちろんウケている。
 競技用としてのしゃべくり漫才の到達点とも言えるが、それを機械的だとか批判するのも馬鹿らしいくらいに、とにかく惚れ惚れするような構成の完成度だった。納得の1位通過である。

7. ロングコートダディ

 「肉うどん」のワードは完全に大喜利である。その一点にこのネタのすべては懸かっていて、結果としてちゃんとウケているのがロングコートダディの地肩の強さだろう。ではなぜ肉うどんがおもしろいのか? 生き物が続くなかでの突然の食べ物、それも大衆向けの安い麺類で、さらにうどんではなく肉うどんという不要なディテールがあるのがちょうど馬鹿馬鹿しいのかもしれない。肉うどんでしかあり得ないという必然性があるわけではないので説明し切ることは難しいが、チョイスとして最良のひとつであることは間違いない。
 その際の「肉うどぉん?!」と驚く兎の表情も一級品だ。展開としては本筋の展開パートに加えて、生まれ変わったあとの描写が挿入される。肉うどんが吸われる様の表現も、短くキレがあって笑いやすい。
 2ターン目、しりとりになっているというルールを見つけてからの「ワニ」→「肉うどん」の流れは美しい。よくできた構成である。
 最後のターン、「2文字タイム」が唐突だが、しりとりで生まれ変わりが決まっていく馬鹿馬鹿しい世界観によくマッチしていて受け入れやすい。果たして「ワ」の段階で2文字タイムが終了し、「ワ」から始まる別のものに生まれ変わるのだが、ここの大喜利も(本人たちが後番組で語っていたように)相当ハードルが高い。言ってみれば何でもいいなかから探してくるわけである。「ワゴンR」は本番ではあまりウケなかったし、個人的にもハマらなかったが、じゃあ何が良かったのかと言われると難しい。「ワゴンR」は肉うどんに対して馬鹿馬鹿しさが減るし、何となく安っぽいものになってしまう悲哀みたいなものも薄れてしまうのが良くなかったのかなとは思う。

 全体として世界観の細部の作りこみが曖昧なことも気になった。「お前」呼びなのには特に理由はなかったし、しりとりで繋がる天界で「肉うどん」が「ん」で終わってしまうと次どうなるのか、という点はモヤモヤした。兎を応援してくれている天界の案内人がただの案内人でしかなくて、人間的な深まりがなかったのも物足りなく思った。ワニになりたい兎(芸名が非常にややこしい)とそれを妨げる天界の人間模様、あるいは根底にあるルールの説得力の描きぶりは改善の余地がある。
 余談だが、「何に生まれ変わるかを順に決定していく」というネタの設定はかつていたムニムニヤエバというコンビの漫才を思い出さざるを得ず、才能あるコンビが世に出ないまま解散していったことを惜しく思う。

8. 錦鯉

 ハライチのパートで、岩井のクールな印象をフリに使うのはネタの外の話だと書いたが、ことM-1グランプリに関しては、個々の漫才師が大会を通じてつくってきたストーリーが多分に影響する(せざるを得ない)大会になっている。
 代表的なのはマヂカルラブリーで、2017年で上沼恵美子とできた因縁が2020年のM-1グランプリのツカミになっていて、それが観客をウェルカム態勢にすることを助けていた。和牛も3年連続準優勝という偉業のなかで「和牛のM-1挑戦物語」が共有されていたし、2019年から始まった「M-1アナザーストーリー」のようなドキュメンタリー番組はその流れを加速させ続けている。

 今回の大会で言えば、最もその恩恵を受けたのが錦鯉で、「M-1に挑戦するお馬鹿な50歳男性」たるまさのりのストーリーをほとんどの観客によって共有していた。だからこそ、「合コン」という設定を持ってくるだけで、まさのり自身の人間性とのギャップがいち早く伝わるし、それに沿ったボケを重ねていくことで丁寧に笑いが積み上げられていく。最後の1分、「子供の頃さ、公園に紙芝居屋さん来てたじゃん」から「ヒーザ!」までの怒涛のボケの積み重ねは、しばしば審査基準として言及される「ラストの盛り上がり」を最も確実に演出していて、賞レース漫才のひとつの正攻法である。
 そもそも「ラストの畳みかけ」概念は、ゼロ年代後半のM-1で「手数論」全盛期の頃、その密度を終盤にかけて限界まで上げていく試みのなかでうまれてきたものだと認識している。サンドウィッチマンの富澤などでは今でもよく言及しているイメージがあるが、ボケ数が正義ではなくなった今、加点要素にこそなれど、必ずしもそれがないからといって減点ポイントにはならないのではないかというのが私の見解である。

 結果的に、いちばん笑ったコンビだった。「穴でも掘ってろよ」「穴は掘らないよ」というのが、特に何の伏線回収でもなく、「穴でも掘ってろよ」という罵倒と「穴は掘らないよ」という鸚鵡返しの返答でしかない、というのが伏線回収全盛の時代に愛おしいやりとりである。

9. インディアンス

 彼らのことはキング・オブ・ポップとでも言うべきだろうか。真空ジェシカの対極のような存在で、とにかく視覚的に派手だしやっていることがわかりやすい。明るくて親しみやすい。そして当然ウケる。
 ところでM-1の審査基準には何と書かれているかご存知だろうか。答えは「とにかくおもしろい漫才」である。それならば問答無用で最も多くの人に受け入れられるインディアンスが優勝なのかもしれないが、ハライチの項で散々書いたように、暗黙の前提として漫才の新規性を求めてしまうのがM-1という大会である(むろん、その「新規性」が「とにかくおもしろい」に繋がるし、完全に分離できる概念ではないというのは承知の上だ)。
 そういう観点からみると、インディアンスの漫才の新規性がどこにあるのかというのは甚だ疑問である。まず設定からして「心霊スポットに行く」という、何度漫才でみたかわからないそれである。コントに入ってツッコミが進行しようとするのをボケが邪魔をし、ツッコミがそのたびにコントを降りてツッコむ、という形式はNON STYLEをはじめとするゼロ年代後半のM-1をどうしても思い出す。ボケ自体もベタなものが多く、たしかにそれを今の時代に全力でやることが逆に振り切っていて新しいと評価する向きもあるだろうが、「楽天ええわ!」の天丼の仕方なども強く既視感がある。

 もちろん、普段の劇場で彼らを観たら絶対ずっと楽しいし笑えるだろうが、私のM-1観がそうである以上こういう評価にならざるを得ない。
 これは私の誤解だったら申し訳ないが、「お前たちは誰だ?」「どーもーインディアンスでーす」のオチが、2012年のMBS漫才アワードでの彼らのネタで既にあったような気がする。今確かめる術もないので、もしわかる人がいればご教示願いたい。

10. もも

 私は2015年からほとんど毎年祇園花月M-1 3回戦を観ていたので、彼らが初めて準々決勝に進出したときもよく覚えている。しかし当時から彼らのネタでうまく笑えない。理由はふたつある。
 ひとつは強烈な「フォーマット感」である。お互いの顔を喩え合う進行の仕方が人工的過ぎるようにみえて、「あっこれはフォーマット漫才ね」と自分のなかでひとつのカテゴリの中に分類されてしまった。ただこのような感想を私はミルクボーイに抱いていて、決勝に進出してもなお絶対に優勝しないと信じ込んでいたから、この感覚は私はあてにならないと自分に対して思っている。ただ、「ズレてへんよ」「ズレてますよね」「ズレてます?」のやりとりはいつも台詞っぽく聞こえていて変な引っかかりになっているので、あれだけはやめたほうがいいと思う。
 ふたつめはやはりルッキズムの再生産への加担だろう。ふたりどうしの内々のやりとりとして罵り合っているだけだから偏見漫才でも大丈夫、とするような風潮もあるが、その言い訳は通用しない。あの漫才自体が、人を顔で判断することを容認・助長するメッセージを暗に発している。

最終決戦

 こうしてファーストラウンドの感想をざっと書いてみると、もし私が選んでいいならオズワルド・ランジャタイ・錦鯉を最終決戦の3組にしていたと思うので、実際と1組だけが違うことになる。その意味で、審査の総体として私の感覚と大きな乖離はなかった。
 最終決勝の3組は、これまで書いてきた通りのそれぞれ違ったスタイルで、何を基準に選ぶかによって優勝者は変わり得るメンツであった。わかりやすさならインディアンスで、かけ合いの妙と展開の予測不能性ならオズワルドが優勝でよかったかもしれない。しかし最後に勝負をわけたのは単純にウケ量だろう。錦鯉を応援する空気に持っていくだけのパワーがあった。

 最終決戦の錦鯉のネタについて少しだけ書くと、「森の中へ逃げこんだ!」「……じゃあいいじゃねえか」のくだりは、いつしか自分がまさのりのほうに感情移入してしまっていることに気づいて我に返らされる瞬間で、技巧の光るくだりである。自分の仕掛けたバナナに目が眩んで何度も罠にかかる後半は、あまりにも馬鹿馬鹿しくキャラに合っていて、「錦鯉を応援したい」という空気にさせるに充分であった。「もうやめろ!」で「頭を最後に」の伏線を回収するラストは、そういった馬鹿馬鹿しさを崩すほどのあざとさはなく、ちょうど良い塩梅だった。

 錦鯉の優勝を観客のみならず、他の出場していた芸人、審査員まで祝福していた光景はとても素晴らしく、そしてそれに値する人たちであると思った。いかにも人生は美しい。