M-1グランプリ2022分析

 客観的な分析を始める前に、私情を書いておく。私は2012年のTHE MANZAIの認定漫才師になったことでウエストランドを知り、Podcastでぶちラジ!を聴き始めた。そこから10年以上彼らのラジオを聴き続けてきていて、大阪に来たときは単独ライブも観に行ったし、さすがに古参アピールしてもいいのではないかと思っている。2012年に時を同じくして聴き始めたのがアルコ&ピースのラジオなので、私がこの2組以外で古参アピールをしていることが今後あれば咎めてもらってよい。

 しかし私は懺悔しなければならない。井口(以下、すべて敬称略)が「M-1で優勝できる人生だと思っていなかった」とコメントしていたが、私もまた、彼らがM-1で優勝できるということを信じることができていなかった。それは彼らの漫才のスタイルが、いわゆる賞レースで「勝てる」とはされてこなかったものであるからだ。だから優勝した瞬間は夢のようで信じられなくて、目頭が熱くなって手が震え始めて、結局最終的には喜びが勝ったのは我ながら現金なファンであると思う。

カベポスター

 このネタが最も今大会で美しかったと思う。『大声大会』は、2本の線が並行して走り最後に交わる構成が、これまでの彼らのネタと比較しても進化していた。

 初めてみたカベポスターの漫才は絵本を考えてきたというネタだった。『もぐらとドーナツ工場』は、ドーナツに穴をあける機械が壊れたことを聞いたもぐらがパン工場にしようと提案する話。『アライグマと忙しいレストラン』は、アライグマがアルバイトの面接に行って店長に「君はホールで働いて」と言われる話。穴を掘る能力や洗い物をする能力など、動物の特性を活かさずに絵本がつくられているというネタだ。

 この時点では構造はまだシンプルで、ひとつの発想に沿ってボケが配置されている。ある意味で「綺麗過ぎる(面白味がない)」みたいな、発想を綺麗にパッケージする力が卓越しているがゆえに不合理な批判を受けてきたコンビでもある。

 しかし今回のネタでは、「大声大会なのに叫びにくいワードばかりを選んでいる」という発想ひとつでは終わらず、実は「ユリアに告白する男性」という別のストーリーが走っていて、それが最後に「しりとりでユリアに告白するために皆が協力していた」という大団円で2つの線が交わる構成になっている。しかも、しりとりになったのも「大会がルール変更をした」からであるというような、無理のない理由づけがされており、そういった細部に至るつくり込みのおかげでラストの伏線回収に嫌なあざとさを全く感じさせない。伏線回収のための伏線回収ではなくて、実に自然な物語の帰結なのだ。

 

 ひとつの発想だけで4分を構成するくらいのことは予選レベルで当たり前にみられるようになってきたなかで、ポリフォニックな構成にしながらも難なくストーリーを追える可読性の高さもある、カベポスターのような存在は卓越していると思う。本年は「完成度は高かったがトップバッターで不運だった」というのが総意であり、次年度以降に「進化した」と言って評価される(近年のM-1ではもはやお決まりの)ストーリーに乗るチケットを獲得したのは間違いないだろう。

真空ジェシカ

 真空ジェシカを語るうえでまず参照しなければならないのは霜降り明星である。

 2018年のM-1霜降り明星が一本目で披露した「豪華客船」のネタのなかで、ボケのせいやがハンドルを時計回りと反時計回りの交互に回す動作をしながら、「こっから明日~こっから今日~」と言うくだりがある。それを二度繰り返すのを待ってから満を持して粗品が「日付変更線で遊ぶな!」と言う。ここにおいて相手に指摘する口調という『ツッコミ』の形式だけとってはいるが、実質的には、せいやの動きと粗品の言葉の2つが揃って初めて、一つのボケとして完結すると解釈する方が自然である*1

 テン年代後半から明確に流行り始めていて、東京ホテイソンやカナメストーンといったコンビが台頭するなかで頭ひとつ抜けていた霜降り明星の優勝は、そのスタイルの全盛の時代の幕開けを宣言するものであった。今予選を見渡していると、実に「相手に指摘する口調という『ツッコミ』の形式だけとってはいるが、実質的にはその言葉が揃って初めて一つのボケとして完結する」スタイルもしくはその亜種が多くみられることがわかる。

 ここにおけるボケ-ツッコミの関係性について、古典的な構図との比較から考えてみよう。古典的にはボケとはある共通認識からのズレ(およびそれによる意外感の笑い)であり*2、ツッコミがそのズレの指摘=共通認識の縁取り(およびそれによる納得感の笑い)である*3。観客がボケを聞いた瞬間にどの程度、その参照元である共通認識を想起できるかによってツッコミの役割が変わってくるということはその定義からすぐに理解できる。すなわちどの共通認識からどうズレたのかがすぐにわかるようなボケ(例:冬だからスイカ割りをしよう)であれば、ツッコミ(例:それは夏やろ)の役割というのは観客が思ったこと(あるいはコンマ数秒後に思うであろうこと)の代弁者である。一方で上述の豪華客船の例においては、「こっから明日」を聞いただけではどの共通認識からどうズレたのかはすぐにわからないため、ツッコミの言葉がその種明かしになっており、観客は初めてそこで参照元の共通認識から含めて全体像を把握するのである(最適なネーミングだとは思わないが、ここまで議論してきたようなスタイルを仮に「種明かしツッコミ」と呼称することにする)。

 しかしながら、対比させつつ書いたものの、これらのクラシカルなボケ-ツッコミ構図と種明かしツッコミというのは連続した概念である。なぜなら「わかりにくい」「わかりやすい」というのは二項対立的に捉えるよりは、「どのくらいのわかりやすさなのか(観客がボケの言葉のみを聞いたときにどこまで参照元の共通認識およびそこからのズレを認識できるか)」をグラデーショナルなものとして考えたほうが実態に即しているからである。わかりやすさを左右の軸とし、その間のどこにボケが位置するかによって、ツッコミに求められる役割・説明量が変化するのだ。

 

 さて、ようやく真空ジェシカの話に戻るが、彼らは現時点で「種明かしツッコミ」スタイルにおける最先端にいる。ときに彼らが難解であると評される理由の半分は、そのスタイルによる。もう半分は何かというと、扱うトピックそれ自体が必ずしもその時代のすべての観客にとって親しみのあるものではないことである。これは例えばNON STYLEなどゼロ年代後半の代表的な漫才師が、とにかく万人にとってただちに理解しやすいトピック・言葉をチョイスしていたのとは逆方向の考え方であり、それゆえに彼らの漫才を独自のものにしている。

 では具体的にどのようなトピックなのかというと、それは必ずしも(昨年のネタの2進法のように、世間ではしばしば彼らの学歴と結び付けられている)知的レベルの高さだけではない。最もその特徴を反映しているのはお笑いファンに向けたトピックだろう。「人材智則です」「派遣のニューウェーブ」というようなやりとりは、エンタの神様において陣内智則が「笑いのニューウェーブ」というキャッチフレーズをつけられていたことに由来するが、それを何の説明もなく前提として引用している。彼らには「種明かし」の過程においてそういう故意犯的な飛躍・説明のなさがあり、霜降り明星とからもう一歩踏み込んだスタイルになっている。

 これはまだお笑いに関する知識としては入り口のほうで、彼らの普段のライブ活動においては常に自らに近い世代のお笑い(ときに大変ニッチである)を意図的に過剰に反復・再生産する姿をたびたびみかける。「まーちゃんごめんね(まーごめ)」というママタルトのギャグを真空ジェシカ川北がところ構わず使い続けるのが代表例で、そういう「お笑いファンのためのお笑い」を半ば露悪的に志向することにより内輪の拡大を続けている。最近ではダイヤモンドno寄席も話題になっていたが、元ネタのパロディ(派生物)を超えて別の秩序を創造してしまうその一連のムーヴメントは、オリジナルとコピーの二項対立で捉えるよりかは、東浩紀が言うところのデータベースとシミュラークルだと解釈するべきだろう。真空ジェシカはいわば「お笑い同人誌」のトップジャーナルである。かなり手垢がついた言葉で形容して申し訳ないが、彼らは今まさにポストモダン的お笑いの中心にいる。

 話を戻すと、彼らのトピックの特徴はそれだけではない。実は「笑いのニューウェーブ」もそうなのだが、「俺でなきゃ見逃しちゃうね」のような、ネットミームからの引用もよく彼らの用いる手法である。「パトカーでお越しですか」「韓国の受験生じゃないんで」はネットミームではないが、SNSなどで少し前のニュース映像としてたびたびみかけたものだ。

 

 最後に少しだけネタ中に気になった部分を書くと、シルバー人材センターというオリジナルなコントの設定は素晴らしいと思うが、ガクが今の自分としてただみにいくというだけなのか、(漫才のネタによくあるように)将来高齢者として行くときのための練習なのか、あるいは高齢者の人材を探しに行く側なのか、導入からは分からなかったのが気になった。最後までみてもそこは明示的に示されていないので本筋とは関係ないという判断なのだろうが、コント内における川北に対するガクの立ち位置が不明瞭であることが、彼を単なるボケの説明係以上の何者でもないものに収めてしまっていると思った。あとは「私の腰が曲がっているのではなく」のくだりの間が怪しく、例の「ネタ飛ばしの青」を思い出してヒヤヒヤした。

オズワルド

 明晰夢というテーマのオリジナリティについてはもういいだろう。というか、ここ数年たくさん賞レース予選の漫才をみてきたが、まだこんなにも誰も触っていないテーマがあったのかということにいちいち驚かされる。

 「フーッ!」とテンション高く騒いで「夢ならこんなことできないはず」という主張自体は理に適っているのだが、そもそもの畠中が夢だと信じるに至ったきっかけについては(「ごちゃごちゃになっちゃってる」という伊藤の言及以外には)明かされないので、そこに感情移入できないままにネタが始まってしまったという印象があった。後半の「現実だった場合傷害罪だけど大丈夫?」というセリフはたしかに駆け引きを含んだ脅しなのは理解するが、やはり畠中の「ここが夢だと信じ込んでいる」というスタンスとは矛盾するので、ネタの進行上都合のいいセリフが選ばれていたと言わざるを得ない。

 「往生際の悪さが河童並み」はネタの進行上必然的ではないセリフで、場合によってはネタの遊びの部分として効果的な局面もあるだろうが、上記のような混乱があるなかでは結果論ではあるがノイズにしかならなかった。

 オズワルドは完全に手の内がバレていて(「だってさ〜」もかなりウケにくくなっている)、かつ昨年度に準優勝という極めて高い評価を受けてしまったがために、他よりもどうしても別の基準点を置いて審査員からも観客からもみられている印象がある。和牛同様、修羅の道に入ったのは間違いないだろう。

ロングコートダディ

 今大会でいちばん衝撃だったのが彼らのマラソンのネタだ。ダブルボケという(ニッチな)ジャンルにおいて、1ページにいた笑い飯から長らく歴史は進んでいなかったが、今回明確に第2ページ目への書き込みが行われたのではないか。

 ダブルボケは難しい。なぜかというと、少し前までにふざけていた人間が、次の瞬間には間違いを指摘する側になる、しかもその交代が繰り返し行われるというのは、観客の漫才師に対する人間的理解を阻害するものだからだ。この人はおかしな人なのか常識人なのか、普通に考えると分からなくなってしまう。

 その壁を「競い合う」という手法で乗り越えたのが2002年(!)にM-1の歴史に登場した笑い飯だ。彼らは「それぞれが自分のほうがおもしろいと信じており、それゆえに相手がボケたあとに自分もボケたいというモチベーションがある」ということを観客にわからせることによってダブルボケというスタイルを成立させた。これが革新的だったのは言うまでもない。一時期のAマッソもダブルボケのスタイルをとっていたが、笑い飯のフォロワーであることを明言している彼女らも同様に「競い合う」形をとっていた。

 しかしこのスタイルにも限界はあって、「競う過程でどんどん白熱していく」というのが基調となるために、どうしても最初からトップスピードに入ることはできない。(別にダブルボケに限った話ではないが)後半に向けて徐々にエンジンをかけていく構成をどうしてもとらざるを得ないのだ。

 

 その意味で、マラソンという設定は画期的だ。なぜならば、その設定においては必然的な「抜く/抜かれる」という事象にのせることによって、はじめから短いサイクルで効率的かつ自然にダブルボケをみせることできるからだ。これは「競い合う」以外の仕方を示した、明確に発明だと思う。言ってみれば「変なマラソンランナーがいた。どんな?」というかなり自由度の高い大喜利の羅列なのだが、マラソン大会というストーリーの導入を丁寧に描いているためにネタが散発的にみえない。「一緒に走ろうな」と冒頭で言っていた人物がオチで再登場するのだが、それも「どんどん抜かされる」ことの帰結として自然であり、伏線回収のあざとさもない。正直文句のつけようがないネタだと思う。

 おそらくM-1の歴史上、コント内で最多の登場人物があったネタだろうが、抜かされていく際にそれまでの登場人物が出てくるのもストーリーとしてのカタルシスがあって、漫才でこんなことが表現できるのだという感動があった。

 

 2本目のタイムマシンのネタはとにかく馬鹿馬鹿しいに尽きる。1本目の「みてもらう?」や2本目の「ええの?」大仰さは、敢えて演技っぽい異物感を残すことで、漫才の導入において一発で兎のひととなりをわからせる機能を有している。「鳥貴族やんけ〜!」と言いながら観客の正面を向いて拳を突き上げるのはかなりの力技なのだが、そういうことを言いそうな人として兎が描かれてきたという意味では1本目、もっと言えば昨年の時点から連続しているネタである。しかしながら、もちろん構成上の工夫はあるものの、基本的には同じボケの天丼であるために、そのシンプル過ぎる構成ではM-1では(キングオブコントでも)ウケはしても勝ち切ることはできない時代になっていると思う。

 あとは瑣末な部分ではあるが、冒頭の「もう帰る」が何の伏線回収でもないのが素晴らしかった。敢えて残している余剰として、その無意味さ・無駄さがお洒落だったと思う。

さや香

 私はにとってのM-1の歴史のなかでの最高傑作は、2005年のブラックマヨネーズと2006年のチュートリアルである。各年で優勝したネタというのはあくまでもその時代での流行りや最先端を反映しているが、あのふたつのネタだけは今のM-1に出場しても優勝する可能性があるくらいに色褪せないといまだに思っている。

 ブラマヨのネタの基本的な構造は、「ボケを正すためのツッコミがヒートアップしていくにつれておかしなことを言ってしまい、最終的にはそれをボケ側に正されてしまう」というものであり、当時の審査員である島田紳助の有名なコメント「4分の使い方抜群」というのもそれを指している。

 どこまで意図的かどうかは別にして、この構図自体は20年代に突入した今になってもしばしば引用されている。しかしブラマヨのフォロワーとしての評価対象に甘んじてしまうばかりか、その多くはおかしなことを言ってしまうまでにヒートアップする感情の推移の描き方が甘くて、台本の進行上都合のいい言葉にみえてしまうのが関の山であった。例外はTHE MANZAI 2012で優勝したハマカーンくらいであろう。

 さや香は、今回の大会において、ブラックマヨネーズハマカーンの系譜に自らを置くにふさわしいことを確かに証明した。しかも、ブラマヨのように後半につれて逆転していくというわけではなくて、時にはツッコミの新山がヒートアップしておかしなことを言ったり、再びそれに反論する形でボケの石井がやはりズレていたりと、より複雑で有機的な展開がつくられていた。それはしかし基本に立ち返ってみると、日常においてお互いにちょっと変なところがあるふたりが言い合えばそういうことが起こるはずで、最も「生身のその人とその人どうしの会話」という漫才師にとっての核となる部分を表現していると言える。彼らが「正統派」や「漫才としては最も完成度が高かった」などと表現されるゆえんだ。「……81歳?」で引きの部分を入れたり、佐賀の天丼をしたりなど細かい加点要素も多く、賞レースで勝ち切るためにつくりこんできた気迫がよくわかる。

 

 あとさや香について特筆すべきは、2021年からボケとツッコミが入れ替わっているという点である。もともとは暴走する新山のボケを常識人の石井が正していくというスタイルであったが、その新山をツッコミ、というよりは派手なリアクターとして配置する方針転換をしたのだ。このように、アクの強いボケと無個性だったツッコミが入れ替わる、というのはテン年代に入ってからしばしばみられる。代表的なのはジャングルポケット三四郎で、先述のハマカーンもそうであるし、ぺこぱもやや亜型ではあるが同じ括りに入る。真空ジェシカもスタイルこそは違うものの、(ボケではなく)ツッコミの仕方でオリジナリティを出すという点においては、テン年代以降のお笑いを反映していると思う。これは蛇足だが、チュートリアルも神様のいたずらか何かで優勝できなかった世界線があれば、今の時代ならボケとツッコミが入れ替わっていたのかもしれないと妄想することもある。

男性ブランコ

 音符運びというアニメないしは童話っぽい題材で、それをマイムで表現することの上手さについてはもう敢えて言及しなくてもいいくらい自明なことだろう。漫才は基本的には生身の人間としてやるという前提に立っており、小道具や衣装などで表現することはないがゆえに、その場にないものをはっきりとビジュアライズしたときの気持ちよさがある。男性ブランコとはスタイルがまったく違うが、サンドウィッチマンからし蓮根といった、構造のシンプルなコント漫才師の卓越した部分もビジュアライズであると思っている。

 ただどうしても、架空のものを持つという発想自体はバカリズムによって既に提出されており、それを上回る新規性が何かあったかというと難しい。持つと危険が起こってしまうからその対策を考える、というような展開であればストーリーとしての厚みがみえたのだろうか。ある程度の変奏はあるものの「運ぶ→死ぬ」という反復が基本的構造のため、ロングコートダディに書いたのと同様にそれで勝ち切るのには高い壁がある。

 あと「あさま山荘」は看過できない歴史的文脈が多々ある言葉なので、漫才中のおもしろワードとして出すのは不用意であると感じた。

ダイヤモンド

 ダイヤモンドに一目惚れをしたのは2020年の2回戦のネタがきっかけだ。表情からは感情が読めない小野と、怒っているように叫ぶのだが空々しい野沢がはじめに印象に残った。しかし次第に、それが賞レース漫才のお決まりの構造のひとつをフリにした壮大なギミックへの布石だったことが明らかになる。伏線をバレないようにするために普通は違和感を消すのだが、より大きな違和感によって伏線となる部分を隠すというまったく別の発想に立っているのが斬新だった。だから私は、彼らのどこか強張りを感じる、いい意味でのつくりものぽさが好きだった。いつしかジグザグジギーの池田がダイヤモンドと浜口浜村を重ね合わせていたが、それは非常に納得感のある並べ方である。

 『レトロニム』は、そういった構造剥き出しのネタというよりも、微妙な言葉のニュアンスの面白さを拾った漫才である。おそらくいろいろな葛藤を経て彼らの表現の仕方も変わりつつあって、ネタの趣向に合わせて小野・野澤両人の感情が出るようなかけ合いをしていたが、まだ上述の強張りのようなものが残っておりこのネタにおいては悪影響になっていると感じた。「いちいちうるせえな」と怒ったり「『もね』やめてよ」と嘆いたりするような表現は、正直なところ大仰さだけが目を引いて感情がついていかなった。

 ではこれからどうやって漫才を表現していくのかというのは、難しい問題であると思う。元からある強張りが生きるようなネタに回帰するのか、それとも自然な感情の表出が似合うようにチューニングしていくのか、彼らはどちらを選択するのだろうか。

ヨネダ2000

 天才の名を冠するにふさわしい存在だと思う。紛れもなくみたことがないお笑いである。

 歌ネタないしはリズムネタというジャンルは昔からある。「Aメロ→Bメロ→サビ」といったそもそも構造を内包している歌にのせることによって、ネタの展開で盛り上がりがつくりやすく観客の期待感も煽りやすくなるのが特徴である。だから基本的には、それ自体に展開がある歌/リズムと漫才における話の進行の相性が良いというのがこれまでの発想だったのだが、彼女たちはその逆をいっている。歌のあるフレーズをサンプリングして反復して繋げたような、「ぺったんこ」「アーイ」のBPM 160が基本的リズムである。さながらテクノビートのような反復を漫才に持ち込んだことがまず画期的である。

 その過剰な反復が何を可能にさせるのかというと、文脈からネタを引き剥がすということである。展開の構造をもった歌ではないということが逆説的に、「ぺったんこ」「アーイ」のブリッジさえ挟めば次のくだりで(前のくだりとは独立して)何をやってもいい自由さが生まれるのだ。

 このネタにおいて「ぺったんこ」のビートが流れているのは実質後半の2分である。最初の「絶対に成功させようね」のくだりもたしかに面白いのだが、そのような無限の可能性のあるフォーマットであるから、導入までの部分を短くしてビートに何をのせるかという部分での遊びがもっと増えるとよいと思った。

キュウ

 ここもつくりものぽさが逆に良いコンビだが、ダイヤモンド的な強張りというよりはもっと、完成された演劇のような台詞回しが魅力的なふたりである。「全然違うもの」と並べられたものがちょっと似ていて、だんだん全く同じものになっていき、最後は謎かけが始まるが失敗に終わる。非常に間をたっぷりとるのも彼らの特徴だが、その間を超えるだけの意外性がなかったのが敗因だろう。清水の豊かな表情も横向きになることで威力が半減してしまっていた。ただもっとおもしろいネタは間違いなくたくさんあるコンビなので、今後に期待したい。

ウエストランド

 彼らの漫才の独自性および「勝てる」とされてこなかった部分について、私はそれが今よく言われているような「脱コンプラ」みたいな意味で言いたいわけではない。ものすごく当たり前に、ポリティカル・コレクトネスを守るというのは重要であるし、それが今の日本においてはまったく不十分であり、「これで悪口が許される、窮屈な世の中へのアンチテーゼだ」と(主にマジョリティ・強者が)喜ぶというのはあまりに短絡的で忌々しい構図である。世の中でポリティカル・コレクトネスについて語られるときに、「行き過ぎた正論」「ポリコレの加熱」というような批判のされ方をされるのをみてもいつも感じるのは、それによってリバウンド的に「昔はよかった」とアンチ・ポリコレ的な言説が正当化されるロジックになる瞬間の忌々しさである。繰り返しになるが今の世の中では、「正論が行き過ぎる」ことへの懸念よりも、それより手前の、いわゆる真っ当なポリコレが浸透していないことがまずもって問題なのである。

 ただ一方で、今回のウエストランドの2本のネタの内容をちゃんとみずにただ「方々にヘイトを喧伝する類の芸風が倫理的に褒められたものじゃない」と吐き捨てるようなヒラギノ游ゴのような評論も雑であると言わざるを得ない。彼のこの記事*4ウエストランドのネタに登場した具体的な「ヘイト」が何かを挙げることなく、一般論に終始している。

 もちろん「人権意識やジェンダー論、反差別のロジック」に抵触するようなお笑いが日本にまだまだのさばっていて、それに対していちいち意義を唱えていかなければならないのも事実で、「悪口を言う」お笑いについてはこうやって両側に絶えず視線をやりながら繊細に議論しなければならない。例えば2022年のまさにウエストランド自身の1回戦のネタも典型的な「多様性」を盾にして自らの加虐性を正当化する典型的なロジックであり、容認することはできない。井口の発する弱者男性的言説がミソジニー的な価値観の強化につながると感じることも多々ある。井口はよく「笑わせたいだけ」と弁明しているが、「笑わせたい」対象である大衆の気分を反映した結果、マイノリティへの配慮が欠けることにつながってしまう、というのは何もお笑いという表現に限って起こる現象ではないだろう。

 

 さて、前置きはこのくらいにして、そろそろ決勝のネタの内容の話をしたい。「賞レースで勝てるとはされてこなかったもの」とは何なのか。それは、お笑いないしは賞レースそれ自体への自己言及である。これまで予選ではどれだけウケても、M-1それ自体をネタにした場合には「反則」として落とされる、というのが芸人ないしはお笑いファンにとって明文化されているわけではないが何となくのコンセンサスであった。それを決勝の舞台で「M-1にあってR-1にない、夢」とネタにしてそして優勝までしてしまったのだ。こんなにも鮮やかな父殺しは他にない。M-1におけるウエストランドの優勝は、2022年のキングオブコントの準々決勝もジグザグジギーがイチウケながら「反則」で落ちたことが一部で話題になっていたが、そんなものは実は我々が勝手に抱いていた幻想に過ぎなかったのかもしれない、と考えを改めさせられる事件であった。「とにかくおもしろい漫才」という審査基準に嘘偽りはない。

 あるなしクイズというフォーマットを発見したのも素晴らしい。河本の台詞量が少なくて井口がたくさん話していても不自然ではないし、出題者として弱々しく否定する様も違和感なくみることができる。最初は河本がボケ・井口がツッコミという役割だったのが、最近は河本が話題提示・井口がボケもツッコミもすべて担うというスタイルになりつつあると感じていたのだが、まさにそれにハマる設定がこれだったのだろう。クイズという形なので、文脈を気にせず自分が話したいトピックを並べることができるし、一方で「警察に捕まり始めている」ような連関が生まれたときの気持ちよさも生まれる。クイズに答えるという大義名分があるから、同じワードを偏執狂的に何度も繰り返すのも自然だし、それが井口の(素には近いが)「何でもかんでも偏執狂的に噛みつく人」というキャラの演出に役立っている。

 ニューヨークが自身のラジオで「大ドキュメンタリー時代が来ている」と評したように、今お笑い界においてドキュメント的なものが流行している(シン・りょう、赤もみじの道標、竹内ズのGERAラジオ、オジンオズボーンの終活)。その間違いなく火付け役となったアナザーストーリーについて、まさにM-1の大会のなかで「アナザーストーリーがうざい」と最後にシャウトするネタが優勝して2022年が締め括られるというのは、物語であってもでき過ぎではないかと思うくらいである。ひとつのバラエティ番組に世相を過剰に反映させようとすると大局観を見失うので注意が必要であるが、賞レースそれ自体への自己言及を含めたメタ的発言への評価、およびドキュメンタリー的なお笑いに対する観客の消費の仕方にウエストランドの優勝が影響するのは間違いない(繰り返しにはなるが、決して「脱コンプラ」的な価値観の助長にはなってはいけないし、それはウエストランド自身も望んでいないだろう)。

 最後に、お笑いの分析についてもウエストランドからの言及があったので書いておく。例えばウエストランドのネタ自体が恋愛映画の分析(批評)になっているように、大衆に向けて表現として提出されたものはすべて批評の対象となり得ることは避けられない。「笑いは情動的な反応であるから分析をすると楽しむことができない」という反論もよくされるが、映画評論における感動の涙も情動的な反応であるし、それと比較して笑いだけがなぜ特権化されるのかはわからない。我が身をもってしてempirically provenであるとするのは少し卑怯かもしれないが、現に私はこれだけ分析をしていてもお笑いをみていて即応的に笑うことができるし分析をすることでもっと楽しくなっている。

 もちろん我々がお笑いを批評する権利があるように、表現者自身が批評を「皆目見当違い」だとする権利もある。そう言われないような批評をしなければならないし、そういった二者間の緊張感があるのがお笑いに限らずどんな表現においても健全な状況だと思う。だから私はお笑いを分析し続けるし、分析を「やめてくれ~」と言う井口(ウエストランド)の応援も続ける。