私たちはぺこぱの何を笑っているのか——相対主義の限界と可能性

<第Ⅰ部> 相対主義の可能性

1-1. ぺこぱは「お笑いの末期」なのか

 ぺこぱの「プロポーズ」という漫才の冒頭部分に、以下のような下りがある。

松陰寺:じゃあ俺が女をやってやろう。「ねえ、大事な話があるって何?」
シュウペイ:「私あなたのこと愛してるの!」
松陰寺:えっ?
シュウペイ:「結婚しておくんなまし~!」
松陰寺:いや女どうしが結婚したって別にいいじゃないか!

 このネタはメディアで披露される機会も多かったので、ご覧になったことのある方も少なくないと思う。「プロポーズ」というお題において、女性役の松陰寺に対してシュウペイも女性役を演じたことにツッコむのかと思いきや、そのまま言葉をつなげて最終的に相方の発言を許容する。これが彼らの彼らの基本フォーマットであり、ダウンタウン松本は「ノリツッコまないボケ」と名付けた。
 さて、「多様性を認める漫才」とも呼ばれる彼らのネタを私たちが観るとき、いったいその実何を面白いと思って笑っているのだろうか? その一つの回答として、半年ほど前に少しバズった以下の記事がある。

anond.hatelabo.jp

 お笑いとは、「既存の常識レールからズレたモノを、常識レールに当てはまることで『非常識』を際立たせ、そのギャップを笑って受け入れる」という性質を持っている。

 この記事の著者は、お笑いをこのように定義したうえで、ぺこぱについて以下のように述べている。

 ぺこぱはどうだろうか。正直これを「多様性の尊重」と称賛する人は多いが、皆はこれを見て何を笑ってるのだろうか。
「変な事をしている人間(多様性)」という常識レールに、「多様性を受け入れる変な人間」という非常識を置いて、それを笑っている。
 皆受け入れてはいるが、尊重はしてないのだ。多様性を受け入れる社会、つまりポリコレを笑ってるのだ。ギャップを顕在化させてる突っ込み役は観客である。突っ込む責任は観客も分担する。
 ただ「笑い」と「納得」の境界を曖昧にしてるので、受け入れられない部分は笑って、受け入れる部分は頷く。

 著者の議論を整理すると、私たちは、ぺこぱの漫才を観たときの反応として二つの可能性があり得る。

(A)シュウペイの体現する「多様性」が聴衆にとって受け入れられるものであった場合には、その「多様性」を受け入れる松陰寺にただ「納得」して頷くのみ(そこに笑いはない)。
(B)シュウペイの体現する「多様性」を聴衆が受け入れられない場合は、その「多様性」を受け入れる松陰寺を「変な人間」として、笑う。

 特に後者(B)が著者にとって批判したい点で、私たちは決して「多様性を認める」ことなどなく、むしろ自分の許容できない「多様性」を笑う(嗤う)のだという。常識と非常識、正常と異常を峻別する装置たるお笑いが、ポリティカルコレクトネスそれ自体を「非常識」「異常」として笑いの対象にする。つまり「優しい漫才」としてのぺこぱは全くの幻想であり、それどころか彼ら自身の手によって多様性に満ちた社会への可能性は閉ざされる——確かにそれが真実ならば、まさに「お笑いの末期」だろう。

1-2. 「変」を笑うだけがお笑いではない

 しかし、本当にそうなのだろうか? 本節では、ブログ記事の議論を検討していくにあたって、まずはそもそも「笑い」とはどのようにして生まれるのかを考えていく。
 私は、これまで書いた記事で論じてきたように、笑いの構造を分析するにあたって、意外感・納得感・期待感の3つのタームで説明可能だと考えている。最後の「期待感」についてはややこしくなるので今回は触れないが、「意外感」と「納得感」について簡単に解説しておく。
 「意外感」という概念は、いわゆる「ボケ」という言葉を聞いたときにすぐに想像できるものである。変な顔、変な言葉、変な行動――普通ではあり得ないことが起こったり、誰かがおかしなことを言ったとき、人はその「ズレ」を笑う。とてもシンプルな構図であり、あのブログの著者が「お笑いとは〜」という記述で定義していたのと一致する。

satzdachs.hatenablog.com

 しかしよく知られているように、漫才というのはボケとツッコミから成り立つ。ツッコミとは「相方(ボケ)を注意し正す役割」である。漫才において聴衆はボケの部分だけで笑っているのかというと、そんなことはなくて、むしろツッコミの部分で笑いが大きくなっていることに気付く。
 それではツッコミに笑いを起こす力があるのだとして、「良いツッコミ」とは何なのだろうか。それは端的には、ツッコミの指摘した「正しいこと(共通認識)」に対して観客が「確かにそうだよね」と納得できるかどうか、にかかっている。つまり「納得感」があることが、笑いを支える構造の一部となっている。
 もう一つ例を重ねるとすれば、いわゆる毒舌のお笑いについて、ただ相手を貶せばよいのではなく、「確かにその指摘はもっともだ」と思わせるような本質を突く部分がなければ笑いにならないことは、(例の「あだ名芸」を思い起こすまでもなく)理解してもらえると思う。

satzdachs.hatenablog.com

 便宜上、「意外感の笑い」と「納得感の笑い」がそれぞれ独立に存在するかのような書き方をしたが、大事なことは、一つの笑いのなかにこれらの要素が影響しあいながら混在していることである。例えばあるあるや大喜利とは、端的に、「言われるまでは思いつかなかった(意外感)が、確かに言われてみればそうだ(納得感)」という場所を見つける営みである。

satzdachs.hatenablog.com

1-3. 「女どうしが結婚したって別にいいじゃないか!」

 少し前置きが長くなった。つまり私の指摘したかったのは、あのブログの著者が「笑い」と「納得」を二項対立的に(両立しないものとして)書いていたことの誤りである。しかしむしろ、「納得」は「笑い」を下支えするものとして機能するのだ。
 したがって「女どうしが結婚したって別にいい」ということに「納得」していたとしても、いやというより、「納得」していたからこそ、あの部分で聴衆は笑うのである。決して、「女どうしが結婚したって別にいい」という主張が「異常」であるから笑っていたわけではない。
 ここにおいて、聴衆は多様性を受け入れているし尊重している。

1-4. 松陰寺の何が「変」なのか

 それでは、ぺこぱの漫才は「納得感」だけなのかというと、決してそんなことはない。彼らの漫才、もとい、松陰寺には十分に「変」な要素がある。先述したように、「意外感」と「納得感」は単一の笑いに同時に存在し得る。

 結論から言うと、ぺこぱの漫才の「意外感」は、漫才の構造そのものに由来する。「ツッコミとは、『相方(ボケ)を注意し正す役割』だ」という共通認識を踏まえて、ツッコミをせずにそのまま言葉をつなげて最終的に相方の発言を許容することによって、「漫才はこう進むだろう」という聴衆の想定を裏切るのだ。
 むろんこのとき、漫才にツッコミは存在しない。松陰寺は既存の漫才の構造をフリにしていわばボケているわけであり、観客個々人はそのおかしさを見出して笑う。そう考えると、あのブログで「ツッコミ役は観客」としていたのはある意味ではあたっているが、しかしその内実が違ったわけだ。

 まとめると、「ツッコミをせずに肯定する」という構造には聴衆は意外感を抱くが、その主張自体(女どうしが結婚したっていい)には納得感を抱く。この二つが両立して存在し、相乗効果を生み出す。ここにぺこぱの漫才の新しさがあったわけだ。

<第Ⅱ部> 相対主義の限界

2-1. 文化相対主義の限界

 それでは、"ぺこぱ=多様性を認める優しい漫才"なのだろうか。残念ながら、必ずしもこの等号が成立するとは限らない。本節ではまず、ぺこぱの漫才について考える前に、相対主義的と言える立場のなかでも「文化相対主義」という考え方が辿った運命を簡単に見てみよう*1

 文化相対主義とは、都市の発展しているような"進んだ"国の文化にも、ジャングルの奥地にあるような"遅れた"国の文化にも優劣は存在せず、それぞれに平等に価値があるとする立場である。背景には19世紀までに支配的であった近代西洋中心主義への反省があり、これを機に「異質な他者に対して敬意を払うべきだ」という考えが浸透していった。例えば1946年にアメリカ人類学会が国連人権委員会に対して提出した「人権声明」には、以下のような記述がある。

 基準や価値は文化に相対的である。一つの文化[西洋文化]の信条や倫理にもとづく思考からは、全人類に当てはまる人権宣言は生まれない。

 非常にもっともらしく見える文章だが、しかし半世紀後の1999年、アメリカ人類学会が採択した「人類学と人権に関する宣言」ではこうした無条件の文化差の尊重は影を潜めることになる。そこでは代わりに「差異の主張が基本的人権の否定のうえになされるとき、学会は容認しない」という方針が打ち出された。
 上述の変化は明らかに、過去半世紀の間に起きた国際情勢のなかで、文化相対主義が「どんなに反社会的で倫理的に問題のある行為でも、相対主義御旗のもとに正当化されてしまう」として批判されてきたことを反映している。つまり、一つの価値体系が支配的な世界においては相対主義的態度は一定の意味を持つが、しかしそれは同時に、社会通念上許容されない主張さえも「みんな違ってみんないい」的な考えのもとに認められてしまうリスクがあるということである。
 ここに文化相対主義、ひいては相対主義の限界がある。

2-2. ぺこぱの漫才に見る相対主義の限界

 少し話が壮大になってしまったが、翻ってぺこぱの漫才をもう一度考えてみよう。松陰寺が「悪くないだろう」と言って許容するのは、それが社会的に認められるべき価値観だと判断してのことでは決してない。許容する理由はただ一つ、「ツッコミと見せかけて最終的に相方の発言を許容する」という漫才の構造上、シュウペイが何を言おうとそれを肯定せざるを得ないからだ。相対主義的立場によってそうすることを強いられていると言っても良いだろう。
 つまり、ぺこぱの漫才において最終的にどのようなメッセージが(明示的か非明示的かに関わらず)発せられるのかは、ひとえにシュウペイが何を言うかにかかっている。
 それが「女どうしが結婚したっていい」というような、リベラルな価値観のもとに今後認められていくべき主張ならば、私が第Ⅰ部で示したように「多様性を認める漫才」として歓迎される。しかしもし例えば、同じくプロポーズのネタにおいて、男役のシュウペイが相手の女性を蔑ろにするような「ボケ」をした場合にも、松陰寺はそれに何らかの理由をつけて肯定することを宿命づけられている*2。このとき、ぺこぱの漫才は男—女の権力関係を容認し、その再生産に加担してしまうのだ。これでは断じて「優しい漫才」にはならない(敢えて言うならそれはただ「シュウペイに優しい漫才」である)。

 これと同じ点についてあのブログの著者も指摘していて、雑巾の例を実際にぺこぱがネタで取り上げたわけではないと思うが、そういう危険性については私も一定以上賛同する。ただ、必ずしも「『常識を語る人』がボケになる」未来が待っているとは限らないと思う(次節で述べるように、それは回避可能である)。

 ぺこぱは「いじめにならない」という人は多いが、違う。ツッコミ役は割と理不尽な目に会う。
 首に雑巾巻かたり、叩かれたり。「雑巾が綺麗なのは部屋がきれいにしてるって事」「痛いというのは生きている事」みたいな事を「言わされる」いじめは容易に想像できる。
 「何が正しいか、何を選ぶかは全て自分自身」の価値観も、結局「選ばさせられる」という事は容易に想像できる。暴力もまた多様性の一つだ。
 僕たちはそれを見て笑うのだ。そしていつか「多様性を強いられてる人」が常識レールになり「常識を語る人」がボケになる。

 いずれにせよ、相対主義的態度の限界は、ぺこぱの漫才にも同様に見出すことができる。

2-3. 避けられるべき「ボケ」

 ここで今一度、ぺこぱの漫才の構造を整理する。彼らのネタの肝は、以下のような構造にあった。この①にどのような言明が代入されるかによって、この漫才の持つ意味合いは大きく変わる。

①シュウペイの「ボケ」
②松陰寺がツッコむと見せかけて、最終的に相方の発言を許容する

 もし①が、「今まではお笑いの世界で『変』とされてツッコミの対象であったが、リベラルな思想では今後認められていくべき価値観*3」ならば、②において、構造からの逸脱の「意外感」と主張それ自体への「納得感」の複合の笑いが生み出されることになる。このように書き下してみてわかるのは、「今まではお笑いの世界で『変』とされてツッコミの対象であった」という前提がなければ、「松陰寺がツッコむと見せかけて」の部分が成立せず、笑いにならないということだ。逆に言うと、このパターンにおいては必然的に(期せずとも)お笑いの世界で常識とされていた旧来の価値観を更新するような形になる。これがぺこぱが「新時代の笑い」として持て囃されるところの所以であると思う。

 一方、最も避けるべきなのは①が「許容すべきでない価値観」になる場合だ。そのとき松陰寺はただ、シュウペイの主張の「異常さ」をそのまま無条件に肯定する構図になってしまう。
 ここで留意しておきたいのは、①には、特に価値観の含まれないニュートラルなボケも代入され得るということだ。実際、ぺこぱの漫才が常に「女どうしが結婚したっていい」のような主張だけで埋め尽くされることはなく(彼らは何らかの政治的主張をするために漫才をしているわけではない)、そのようなボケもたくさんある。そこでの笑いは、ただ②において既存の漫才の構造から逸脱すること(あるいはその仕方)による意外感のそれのみだが、もちろんそれでも十分に良いし面白い。しかし漫才における「普通のボケ」と思っていたものが得てして、「許容すべきでない価値観」を内包していることが往々にしてある。彼らはそこに十分過ぎるほどに注意を払わなければならない。

<第Ⅲ部> ぺこぱの可能性

3-1. 既存の漫才体系からの脱出

 最後に少し趣向を変えて、相対主義というワードに縛られることなく、ぺこぱの漫才の(より開かれた)可能性について考えてみたいと思う。

 前節で「今まではお笑いの世界で『変』とされてツッコミの対象であったが、リベラルな思想では今後認められていくべき価値観」とサラッと書いたが、この「お笑いの世界で」というのはとても重要な点だ。ぺこぱの漫才は既存の漫才体系をフリにしているのだから、「一般社会において」ではなくあくまで「お笑いの世界で」なのである*4。松陰寺は「多様性を認める漫才をつくろう」と思っていたわけではなく、「M-1で勝てる何か新しいものを」と探求した結果行き着いた漫才なのだから、当然といえば当然である。
 さて、これまでは便宜上、ぺこぱの漫才には「ツッコむと見せかけて最終的に相方の発言を許容する」パターンしかないかのように書いてきた。しかしながら、既存の漫才体系をフリにしたうえでそこからどう逸脱するのかという問題について、何も「肯定する」だけがその答えではない。
 例えば、M-1グランプリ2019最終決戦のネタに以下のようなフレーズがある。

松陰寺:漫画みたいなボケって言うけどその漫画って何!

 このくだりは、「漫画みたいなボケするな!」というよく漫才で使われがちなフレーズに対する、非常に批評性の高い言葉になっている。言ってみれば、これは(既存の)ツッコミに対するツッコミであり、お笑いの枠組み自体に言及しているという点でメタ的な意味合いを備えている。そして非常に納得感がある。
 また、以下のくだりも印象的であった。

シュウペイ:今ボケのたたみかけ中ですけど、みなさんどうですか?
松陰寺:いや聞かなくていい!……けど、実際のところどうですか?

 これも「たたみかけ」という賞レース漫才用語をネタ中に出すという点では、メタの範疇に含まれる。しかし先ほどの漫画の下りがツッコミに対するツッコミによる納得感の笑いだったのに対して、こちらは「既存のお笑いで頻出する進行からの逸脱による、意外感の笑い」である。

 以上見てきたように、ぺこぱの漫才は既存のお笑い体系をフリにしながら、その脱出方法が一通りでなく、あらゆる類型がマージされている。ここがまさに、私が(勝手に)ぺこぱの漫才に希望を託しているところだ。つまり、「ツッコむと見せかけて〜」の「〜」で何をするかというのは、無限の可能性に開かれているである。彼らの漫才はまだ二段階も三段階も進化するだけの余力を有している。
 ただ「肯定する」だけではない、この複雑な多重性を備えたぺこぱの漫才は、ここ数年の漫才界で最も大きな発明だと言ってもよいのではないか。

結語

 もともとこの記事を書こうと思ったきっかけは、ぺこぱを「お笑いの末期」と断じる記事を見て、それは彼らの漫才を一面的にしか捉えていないと憤慨したことだった。ここ数年は特に、特定の芸人やネタについて、お笑いのことを十分に知らない人に適当な社会批評のダシにされるということがままある。
 それが嫌だったので、あのブログの主張に一部は同意しながら反論しつつ、相対主義というワードを通してぺこぱについて考えられることをフェアに書いてきたつもりだ。この文章もまた、ぺこぱを「適当な社会批評のダシ」にしているのではないかと言われるとなかなか返す言葉がないのだが、これをきっかけに少しでも、お笑い好きと非お笑い好き、その双方の理解が深まることを願う。

*1:桑山敬己 編『詳論 文化人類学:基本と最新のトピックを深く学ぶ(ミネルヴァ書房, 2018)

*2:確か実際にネタパレで観たときにそう感じた下りがあったのだが、詳細は覚えていない。もしかしたらプロポーズのネタでもないかもしれないが、男女関係についてのやりとりで違和感を覚えたのは確かである。

*3:むろん、果たしてそれは何なのかというのは、全く別の問題としてある。

*4:もちろんそれが一致することは多い。あくまで漫才の構造上という話だ。