2023年1月〜6月に読んだ本

 言い訳と言われればそれまでですが、2023年の前半は環境の変化が大きかったのもあり、お世辞にもたくさん本を読めたとは言い難かったです。また、医学の勉強の仕方も変わりました。初期研修医時代であればその科をローテするうえで道標となる本を数冊読む、というのが通用していましたが、呼吸器内科という専門に踏み入れてからは論文の精読やガイドラインのつまみ読みなどを迫られ、必ずしも通読できない状況となりました。
 そこでこれまでの、「医学の勉強の本とそれ以外の本を交互に読む」というルールに拘るのをやめて、自由に読書することにしましたた。そう思うとかなり楽になってまた本を読む習慣が戻ってきたので、続けていきたいと思っています。

1月

2301 山﨑圭一『一度読んだら絶対に忘れない世界史の教科書』(SBクリエイティブ、2018)

 地理選択で恥ずかしながらこういう知識がちゃんとないので読んだ。どこまで正確なのかはわからないが、概要を掴むには大変充実した内容だった。

2302 小尾口邦彦『こういうことだったのか!! ハイフローセラピー』(中外医学社、2022)

 このシリーズは大変信頼できる。

2303 東千茅『人類堆肥化計画』(創元社、2020)

 書きぶりは半ば露悪的と言えるほどのアジテーションに満ち満ちているものの、内容は一貫している。生物学的腐敗と道徳的腐敗、中途半端な腐敗はやめて堆肥になろう。<しない>で、かつ<しなさすぎない>、みたいな言ってみれば「ほどほど」の実践というのは私たちが無意識にやってきたのだけれど、それを形而上学的に理論化するにあたってどちらかの極に振れてアクチュアリティを失っていたものを、改めて地に、もとい、<土>に足をつけて考え直そう、というスタンスが今の潮流のひとつなのだと思う。マルチスピーシーズ民族誌は特に。

いかにも、食糧の自給自足などという事態は実際にはありえず、農耕はいつも食糧となる生物との協働である。そうして生きよう生きようとすればするほど、作物/家畜とのずぶずぶの関係は深度を増して、元には戻れない。 堆肥になるとは、さらにそこからもう一歩進むことである。〈土〉に堕落したうえで、よりいっそう腐敗を進めなければならない。(170頁)

2月

2304 『ウエスト呼吸生理学入門:正常肺編 第2版』(メディカルサイエンスインターナショナル、2017)

 読もうと思いながらずっと積んでいたが、ICUで人工呼吸器管理を学んだ直後の今がベストのタイミングであった。逆に言えば、呼吸器内科の多くの仕事はこういう生理学的な次元まで降りて考えることは必須ではないかのかもしれない、と複雑な気持ちにもなった。

2305 近藤祉秋『犬に話しかけてはいけない』(慶應義塾大学出版会、2022)

「犬に話しかけてはいけない」という昔の禁忌は、「一つでもなければ二つでもない何か」であるような「犬―人間」、「犬」と「人間」に限りなく近いものとして一時的に抽出することで——しかしその瞬間にもそれらは「犬―間」に戻っていく——何とかうまく「ともに生きる」ことができるようにしてきた北方狩猟民のハビトゥスを示すものだと私は考える。(102ページ)

2306 『ウエスト呼吸生理学入門:疾患肺編 第2版』(メディカルサイエンスインターナショナル、2018)

 続編。

2307 Roger Neighbour『The Inner Consultation 内なる診療』(カイ書林、2014)

 医療面接で経験レベルで言われていたであろうようなことが全部言語化されている。凄い本。

5月

2308 つやちゃん『わたしはラップをやることに決めた』(DU BOOKS、2022)

 2020年現在までの「フィーメールラッパー」について記録された貴重な本。登場する人物の数を減らしてそれぞれを厚く書いてくれるともう少し満足度があったかと思う(元々の連載の字数なのだろうが)。

2309 『ユリイカ 2023年5月 <フィーメールラップ>の現在』(青土社、2023)

 『フィメールラッパーの恋愛表象』はzoom galsのそれぞれのスタンスを理解するうえでの補助線として役に立った。『Tha 女子会 is Hot』はこの特集の巻頭論文にすべきと思うくらい、「ヒップホップ・フェミニズム」あるいは「フィメールラッパー」について語るということについての非常に丁寧な導入になっていた。「女子会」としての身体の乱舞という観点はおもしろい。「フィメールラッパー」の(アイデンティティではなく)アフィニティを考えるときに、「ギャルマインドとは別様な言葉として「女子会」の可能性を感じた。

2310 久保明教『「家庭料理」という戦場:暮らしはデザインできるか?』(コトニ社、2020)

 この本を読んでまず思ったのは、私自身の「家庭料理」へのこだわりである。外食しない家庭で育った私は今、「家庭料理」をつくることに楽しみを見出し、意地のように続けている。そこにおいて私は、将来的に「女性が家庭料理をつくる」という関係を脱構築しようとしているものの、「家庭料理」なるもの自体は温存されている。読書会に参加していた女性は、「女性だから料理」という観念に反発し、今はこだわりのある料理を時間をかけてつくっている。どちらも同じ出発点・目的地から、違う着地点になっているのが興味深い。
 この本においては、家庭で男がつくる料理、あるいは一人暮らしの料理、というのに言及しない。読者としてターゲットにしているのは「家庭料理をする女性」というのもあるかもしれないが、読書会に参加していた先生から「ポストフェミニズム的な素振りを意識的にか無意識的にか感じる」という指摘があったのは目から鱗であった。
 「家庭料理を社会的構造に還元しない」といった趣旨のことを終わりにの脚注で書いているが、逆に、後者を前者に還元する構造に陥ってしまっている。男女雇用機会均等法などをスルーして、家庭料理だけを通じて戦後の女性の生き方を追うことはできない。

たしかに小林カツ代は既存の料理のありかたを疑い、解体し、再構築する手法を提示した。しかし、その主な対象は日本料理で正統とされる調理法や、高名な西洋料理研究家たちが広めた洋食の正しい作り方などであり、彼女や読者が想定する「家庭料理なるもの」自体は温存される。(略)白米を中心に和洋中の美味しい一汁三菜を女性(妻/母)が心をこめて手作りすることが家庭生活の潤滑油になる、という、高度経済成長期に確立された家庭料理の理念的なあり方自体は基本的に肯定されているのである。

一九六〇~七〇年代の家庭生活とは異なり、一九九〇年代の家族を構成する各人は、家庭料理以外にもコンビニやファストフード店ファミリーレストランで様々な料理を日常的に味わい、自らの味の好みを育てている。それを一律に「我が家の味」へと集約させることには無理があるし、だからといって、各人の好みの味をコンビニで買い集めて別々の食品を同じテーブルで食べるのはあまりに寂しい。そう感じる人々にとって、はるみのレシピは、家庭料理を「お店の味」に確実に近づけてくれる強力な手段となる。

手作りの 「我が家の味」とは、祖母世代において地理的・社会的コンテクストに埋め込まれていた家庭料理が、流通や情報や器具の標準化を通じて脱埋め込み化され、誰でもどんな場所でも大体同じように調理することが可能になったからこそ生まれる差異であり、個性なのである。

栗原はるみが切り開いた「ゆとりの空間」を旺盛な商品探索とママ友コミュニティによって拡張し、「我が家の味」の圏域から離脱していった『マート』に対して小林カツ代が切り開いた「美味しい時短」の可能性をレシピのデジタルデータ化とランキングシステムによって拡張し、 「我が家の味」 のデータベース化を進めていったのが「クックパッド」である。

以上で検討してきたノンモダン期の家庭料理のあり方を一言で表すならば、家庭という固着したコンテクストにおいて蓄積される「我が家の味」という圏域から離脱して暮らしを自由にデザインしていこうとする試みとして把握できるだろう。

本書の副題に掲げた「暮らしはデザインできるか?」という問いに対してはここまでの記述を通じて暗に示してきたように 単純にイエス/ノーで答えることはできない。暮らしをデザインすることは実践的にはたしかに可能だが、それは私たちの生にこれまでにない受動性をもたらしている。デザインできるものが増えるほど、 デザインできないものも増える。

前著『ブルーノ・ラトゥールの取説』 (二〇一九年、月曜社)において、筆者は、世界を外側から捉える近代的な対応説 (世界と言語の正確な対応に知の根拠を求める発想)でも、その内在性を暴露することで知の脱構築を目指すポストモダンなフィルター付き対応説 (世界と言語の対応に社会的・文化的なフィルターの介在を措定する発想)でもないものとして、世界に内在する諸関係から一時的に世界に外在する知が産出されるとみなすノンモダニズムの発想を提示した。

6月

2311 『 Medium 2 特集 ダナ・ハラウェイ』(七月堂、2021)

 ハラウェイの見取り図を掴むには逆巻の論考は素晴らしくまとまっていた。しかし特集のそのほかの論考はあまりハラウェイの概念を使うことの強さが感じられず、かろうじて「わたしたちがホモ・サピエンスだったことは一度もない」が「あやとり」概念で遊ぶことの実践になっている程度だった。

2312 町田洋『砂の都』(講談社、2023)

 忘れられない記憶の美しさについて描写する前半と、失われていく記憶のはかなさについて語る後半。「しかしもちろん元通りにはならなかったのだ」というのは予期していたが、ページをめくってすぐに現れる構成にはやられた。ラストの邂逅は賛否あるかもしれない。

2313 芸人雑誌volume8(太田出版、2022)

 きしたかのYouTubeの更新頻度が減っているの、忙しいのはわかりつつも、やはり寂しい。

2314 町田洋『日食ステレオサウンド』(講談社、2023)

 出てくるモチーフは何となく既視感があり、また人をフェアにみる主人公が豪邸の庭のペンキ塗りをする構図は、どことなく村上の『午後の最後の芝生』を想起させる。しかし描かれていたのは、これまで触れてきた町田洋の著作においてそこはかとなく伝わってきた生きづらさ、対人関係のままならなさ(しかし優しい他者への眼差しはある)がストレートにテーマになっていた。ラストは臭さもあるが好みである。

2315久保明教『ブルーノ・ラトゥールの取説』(月曜社、2019)

 医者にとってのSTSってせいぜい科学コミュニケーション論か臨床/研究倫理って思われがちだが、アクターネットワークセオリーってまさに我々臨床医の感覚ではないか、と思う箇所が多々あっておもしろかった。「人間+銃」はたとえば「医者+気管支鏡」として考えることができるし、また、パストゥールの乳酸発酵素の話はそのまま、未知の疾患概念が導入される医療現場に置き換えるとより納得がいく。「プラズマ的外部」は常に我々が意識せざるを得ない部分だ。
 医者は「素手」で医療行為はできず、何かしらの医療器具=アクターと結びつけられるという事実と、最終的に診断や治療という形で患者/疾患と関係付けられることが宿命である、ということが相性の良さたるゆえんなのかもしれない。一方で様態論みたいなのは(哲学あるあるかもしれないが)ANTの行き着く先としてはあまり良い線ではないだろう。
 ラトゥール、あるいは久保のラトゥール理解においては、結局「We have never been Modern」の構図が重要なのだとわかった。すなわち、表層的には「純化」ができたと思っていても、深層では「翻訳」が行われている。それが、能動的に思える外在的な汎構築主義=汎デザイン主義が、実は受動的である、という構図と相似なのである(「毎日料理をするんだ」と言っていた大学院生が、結局はクックパッドのランキングを順番につくるだけになるように)。

 追記:このあたりに考えていたことを後にブログ記事にしました。

satzdachs.hatenablog.com