複数の実在としての間質性肺炎 -ストラザーンとモルを補助線にすることの可能性

0. はじめに

 筆者は、内科専攻医1年目(呼吸器内科のサブスペシャリティ重点研修)として地方の総合病院で働きながら、文化人類学にかねてから関心を抱いている者である。大学5年次の臨床実習から、自身の医療現場における経験について自己再帰的にエスノグラフィックな記述を書き始め、現在で4年と7ヶ月程度が経過している。本稿に断りなく挿入されるフィールドノートはすべて私自身の経験に基づくものである。
 本稿は、間質性肺炎という難病疾患の診断、あるいは存在論についての試論である。全体の流れとしては、まずはマリリン・ストラザーンのフラクタル構造のイメージと「スケール」の概念を補助線にしつつ、気管支の解剖学的構造と間質性肺炎の特に特発性肺線維症において重要な蜂巣肺について理解する。最終的にはアネマリー・モルの動脈硬化の研究における「複数の実在」と比較しながら、間質性肺炎という疾患概念とその存在論についてどこまで論じることができるのか、その可能性について考える。

1. 気管支のなかで迷子になる

2021年11月17日 14:00-15:00 BAL

 自分が呼吸器ローテ中にやる、2回目のBALである。
 気管支鏡は、目隠しをした上にマスクをし、そのマスクに開けた小さな穴からチューブを入れていく。私は左手に気管支鏡の本体を持ち、右手の親指と人差し指でチューブをつまみながら口の中に入れていった。少しアップをかけながらチューブを進めていくと、すぐに声帯がみえた。教科書通り、三角の頂点に近づくようにアップをかけてからダウンをかけると、すんなり声帯を通ることができた。(…)それから気管支の中を進んでいく。何度も予習したつもりだったのだが、気管支鏡の操作で頭がいっぱいになると、すぐに自分の場所を見失ってしまった。(…)見下ろしの三分岐だと思ってみていた底幹枝が異様に細く思えて、こんなことあるのだろうかと焦っていたら、すでに底幹枝に入っていてB8、B9、B10を勘違いしていたのだった。

 気管支鏡を始めたての頃は、気管支のなかでよく迷子になっていた。毎日のように考えているうちにさすがに覚えてしまったが、そもそも気管支の分岐というのは立体的で複雑で、その構造をまず理解することに骨が折れる。しかしたとえ頭の中に入っていたとしても、それが気管支鏡の景色としてどうみえるのかを想像できるようになるまでには、さらにもう一段階努力が必要である。
 それを難しくしている原因のひとつとして、気管支の中の景色は(一見)どこも同じである、ということがある。主気管支から奥へ進んでいくとうすいピンク色に細く赤い血管が走る粘膜がふたてにわかれていて(気管分岐部)、右を選ぶとさらに同じような粘膜が上下にわかれている(右上中間幹分岐部)。下を選んでも当然同じような粘膜の壁がずっと広がっていて、上記のフィールドノートに出てくるみっつの分岐(左から順に右中葉気管支、右底区気管支、B6区域気管支)である。さらに中葉枝に入ると左右にわかれ(B5、B6)、B5に入るとまた左右にわかれている(B6b、B6a)。これはファイバーの太さで侵入することができる限界まではもちろん、それより先でも分岐は続いている。このように順を追って今自分がどこにいるかを把握しながら進まないと、ひとたび自分の場所がわからなくなった場合にその景色から判断するのは難しく、「ファーストカリーナまで戻ってみな(=気管分岐部までファイバーを引いてくること)」と上級医にやんわりと注意されるのが関の山である。

 そうやって実際にリアルタイムで考えながら気管支鏡の画面をみているうちはまだいいが、終わったあとに撮影した写真となるといよいよどこの景色なのかさっぱりわからなくなる。何の脈絡もなく、一枚の気管支鏡の写真をみただけでそれがどこの枝か間違いなく言い当てることができる、というのは(かなり特徴的な場合を除いて)熟練した呼吸器内科医であっても難しいだろう。そこで、私は気管支鏡を握り始めた頃、「入るときと出るときに必ず写真をとるように」と教えられた。つまり、上記であれば、気管分岐部→右上中間幹分岐部→三分岐と進んでいくごとに写真を撮るのはもちろんのこと、三分岐→右上中間幹分岐部→気管分岐部と戻ってくるときにも写真を撮ることによって、あとから見返してもその写真がどの場所なのか(どの位相のものなのか)を追体験することができるのだ。

左から気管分岐部、右上中間幹分岐部、見下ろしの三分岐、中葉枝*1

 ただ言うは易く行うは難しで、特に初心者の頃は「入るときと出るときに写真を撮る」ことができず、気管支鏡が終わったあとに自分の写真のどれが何の気管支なのかさっぱりわからず途方に暮れる、というのは呼吸器内科医を志す者なら一度は体験するあるあるなのではないだろうか。それはこれまで書いてきたように、(完全に対称というわけではないものの)気管支の分岐がある種のフラクタル構造(fractal structure)をとっていることに起因するものであることは、もう読者にはおわかりいただけたかと思う。

2. カントールの塵、あるいは人類学におけるスケールの問題

 さて、気管支のフラクタル構造について考えるときに私がいつも喚起されるのは、ストラザーンが『部分的つながり』の冒頭で重要なイメージとして提出する「カントールの塵(cantor dust)」である。

まず一線分からはじめ、これを三等分して中央部を取り除く。そして残った各線分を三等分しては、その中央の1/3 の線分をとっていく過程を繰返す。カントール集合とは、残った点の「塵」である。この埃の数は無限だが、全長はゼロである。(…)*2

 『部分的つながり』の章立て自体が「人類学を書く」と「部分的つながり」のフラクタル構造をとっている*3ことは有名だが、どうしてそこまでストラザーンがフラクタル構造に拘っていたのかを理解するには、人類学における「スケール(scale)」の問題について触れる必要がある。
 「スケール」とは、ひとまずは文字通り、どのくらい縮尺・規模で物事をみるかという意味で理解してもらって構わない。「近づけば近づくほど、物事はより緻密になる。ひとつの次元(レンズの倍率)を上げれば、他の次元(データの緻密さ)が増大する」。*4人類学者たちは、どのスケールで対象を分析するかということに常に頭を悩まされている。

 スケールの切り替えは情報を増殖させる効果だけでなく、情報の「損失」をも作りだす。例えば青年儀礼の描写から社会化をめぐる一般化へと切り替えをするときに、データは異なる種類のデータにとって代えられるように見えるだろう。ここで情報の損失は、その時点で探究される焦点によって、細かな部分や特定の範囲が覆い隠されるという形で現れる。これは、視野の拡縮変更によっても、取り扱う領域の変更によっても等しく生じることである。しかしながら、スケールを切り替えていることを承知していたとしても、不釣合いの感覚(a sense of disproportion)が忍び込むことは妨げられない。人類学者たちが互いに近視眼的だとか過度に総括的だとかと批判しあうときなどは、この感覚自体がある種の絶望をもたらす。個別的な事例も広範な一般化も、民族誌だけでも分析だけでも、臍も地球も、いずれも充分ではないように思える。*5

 ここで前提となっているのは、スケールを切り替えることによって含まれる情報量が変わるということである。より広いスケールであれば全体を見渡せる代わりに詳細は捨象され、狭いスケールであれば個別具体的な営みに注目できる代わりに全体性は失われる。*6

 しかしながら、ストラザーンがカントールの塵のイメージから引き出したのは、スケールが変わっても表現される図の複雑性は変わらないという特性である。上の図において、一段目、二段目、三段目、どのスケールに注目したとしても、黒い線分(塵)がふたつ並んでいるという状況は変わらない。あるいは第一節の例に戻れば、気管分岐部、右上中間幹分岐部、見下ろしの三分岐、中葉枝、それぞれ異なる「スケール」であっても写真ではほとんど同じようにみえるということは、言い換えればその情報量に変化がないと解釈することができる。
 ストラザーンは『部分的つながり』において、スケールの変更によって複雑さが変わらない例として、パプアニューギニア高地南部のウォラにおける工芸品・日用品についてポール・シリトーが作成した表について触れている。その一覧表は、驚くべきことに、「ひとつの社会全体についての標準的なモノグラフと同じ量のページに達する」。

 言い換えるなら、分類、構成、分析、弁別といった同じような知的操作は、どんなスケールであるかに関わらず行われなければならない。パースペクティヴの変化は、まったく新しい世界を立ち上がらせるものの、一揃いの「同じ」知的活動を要請するのである。視野の大きさは単純な例を提供する。近くから観察したひとつのものが遠くから観察した多くのものと同じくらいややこしく見えるとしたら、ややこしさ自体は変わらない。*7

 ここにおいて、より細かく見たりより広く見たりするというスケールの変更は意味を成さず、具体的なものと抽象的なものの区分を無効化するような状況が展開されている。そしてこれをもとにストラザーンは、それまでのポストモダン人類学/再帰人類学の認識論的前提であった多元主義および観点主義(遠近法)を批判し、代わりにポスト多元主義の提案へと至る。

3. 間質性肺炎とは何か

 前節の終わりに示唆したストラザーンの議論の核心については、あとで戻ってくることとして、ここからは本稿の主題である間質性肺炎においてもフラクタル構造が重要な意味を持つことを確認したい。その議論の準備として、本節では間質性肺炎の疾患概念についてガイドラインから基本事項を引用しつつ解説する。

 間質性肺炎とは、肺の間質と呼ばれる肺胞(隔)壁を炎症や線維化病変の基本的な場とする疾患群*8のことである。私は患者に「肺は小さな袋の集まりだが、その袋の外側の部分が硬くなってバリバリと開きにくくなる感じ」とよく説明する。
 間質性肺炎は原因が明らかなものと原因不明のものに二分され、後者は特発性間質性肺炎(idiopathic interstitial pneumonias:IIPs)と呼ばれる。IIPsはその病理組織パターンに基づいて2013年からは九型にわけられているが、そのなかでも最も患者数が多く、かつ予後も極めて悪い疾患が特発性肺線維症(idiopathic pulmonary fibrosis:IPF)である。IPFの病理組織パターンは通常型間質性肺炎(usual interstitial pneumonia:UIP)と呼ばれる。UIPパターンは、下記の表のようにどこまでの確からしさがあるのかを評価されるのだが、なかでも重要なのは蜂巣肺(honeycomb lung)と呼ばれる概念である。

2018年ATS/ERS/JRS/ALATによるIPFガイドラインにおけるIPF/UIPの病理診断基準*9

 蜂巣肺は、病理学的には、小葉辺縁部の肺胞虚脱を伴う線維化と末梢気腔の嚢胞病変の集合からなる。その名の通り、蜂の巣のように小さな分厚い壁の袋が多数集まったようにみえることが特徴である。UIPパターンの診断においては、蜂巣肺のような慢性に経過した線維化病変に正常肺が介在し急激に変化すること(abrupt change)が診断上重要であり、「1つの二次小葉内で正常の肺胞領域から、進行した線維化初見までの、新旧の病変が混在する空間的時間的多彩さ(temporal or spatial heterogeneity)」が病理学上のホールマークのひとつとされている。*10

UIPにみられる蜂巣肺*11

 この蜂巣肺という概念は、間質性肺炎放射線画像診断においても、あるいはより一層重要である。IPFの高分解能CT(high-resolution computed tomography:HRCT)に認められる所見も病理組織像同様にUIPパターンと呼ばれており、下記の表の通りに確からしさを評価されている。一読すればわかるように、UIPがdefiniteであるかprobableであるかをわけるのは、蜂巣肺があるかどうかが鍵となっている。画像所見における蜂巣肺の定義は、「1-3mmの壁の厚みを持つ3-10mm程度のサイズの嚢胞の集簇」である。*12

2018年改訂ATS/ERS/JRS/ALATによるIPF診断ガイドラインのCTパターン*13


 なお、どのHRCT像を蜂巣肺とみなすかについては胸部専門放射線科診断医による定性的評価が中心となっており、その所見の解釈は放射線科医間でさえ、必ずしも一致しないことが知られている。*14例えば私が今働いている施設では、前施設と比べて「蜂巣肺」と言い切るためのハードルが高く、「世間で言うところの蜂巣肺」というような言われ方を頻回に耳にする。

2023年6月14日14:00 A先生の外来診察室にて

 A先生にせっかくなのでいろいろ質問しようと思い、「これって蜂巣肺っぽいですけどやっぱりちょっと違う感じですよね」と恐る恐る尋ねると、「まあ世間ではUIPって言われるかもしれんな」とバッサリと言われた。
「どのあたりがハニカムっぽくないんですか」
「まずこれ、一緒に出てきてるやろ。時相が一致してるやんか。それで、基本トラクション、気管支拡張の延長になってるねん。気管支とつながってるやろ。肺胞の構造破壊があまりなくて折りたたみになってるねん。だからこれを言うなら、『牽引性気管支拡張を主体とした嚢胞性変化』やな」

 後の議論で重要になるため注釈を付け加えておくと、ここで登場したHRCTというのは、1mm以下のスライス厚で撮影されたCTから、空間分解能を重視したアルゴリズムで再構成を行なって作成した画像*15のことである。要は、従来のシングルスライスCT(single-detector row CT:)よりも性能のよい多列検出器CT(multi-director row CT:MDCT)のおかげで、より薄く輪切りにして分解能が上がったということである。たとえばスライスの厚い画像では既存の脈管構造と病変の連続性をみることが困難となり、正常血管が粒状影のようにみえてしまうことがある。

2023年7月24日10:00 医局にて

 t41の入院時のHRCTを「thin slice」で依頼していたのだが、当院だとそれでは2mm厚になるのを知らなくて、末梢の気管支を追うのが難しかった。結局、前回の入院時に撮像していた1mm厚のHRCTを参照することにした。どの厚さで輪切りにするのかによって、末梢の気管支があったりなかったり、その存在の有無が変容しているかのように思えるのは不思議な感覚である。

 IPFのガイドラインでも「推奨撮影条件」として、「0.5mmから1mm程度の連続スライスデータとして撮影し、そのデータを再構成することによって、5mm厚のCT(肺野条件、縦隔条件)および0.5-1.25mm厚程度のHRCTを作成して観察する」という記載がある。*16
 なお5mm厚や1mm厚というのは体軸(Z軸)方向の空間分解能であり、体軸断面(XY平面)内側の空間分解能は0.5mm程度である。このようにXY平面に対してZ軸方向の空間分解能力が粗いことを指して、非等方性のデータであると言う。

UIPパターンのCT像。背側胸膜直下優位に蜂巣肺、網状影を認める。*17

4. フラクタル構造としての蜂巣肺

 さて、ようやく準備が整ったので、どのようにしてこの間質性肺炎という疾患がフラクタル構造と関係し得るのか、という本筋に戻りたい。私は、蜂巣肺の病理組織像とHRCT像について、医師人生2年ちょっとでいつの間にか前提としてしまっていた勘違いがあった。実は本稿においても、それと同じ勘違いを抱くように敢えてミスリーディングに記述している部分がある。
 その勘違いは、サイズの違い(size gap)について無視をしてしまっていることに起因する。病理組織像とHRCT像の蜂巣肺を並べられると、何となく「病理ではこうみえているものは、画像ではこうなるのか」と納得してしまいがちだが、それらは実はそもそも縮尺が異なるのである。上に引用したUIPの病理組織像の右下には、「1mm」という縮尺が書かれているが、CT像のほうにも縮尺を記述するとすればせいぜい「1cm」程度と書かれるだろう。そう、まさにスケールの違いがそこにあるのだが、病理組織像もCT像も何となく同じような「分厚い壁の袋の集まり」であるために、私は気付かぬうちに同じスケールで「蜂巣肺」というものをみていると勘違いしていたのである。
 ちなみに、このような顕微鏡写真や地図の四隅のいずれかに表示される、実際の長さの目安となる物差しのような目盛りは、スケールバー(scale bar)と呼ばれる。

 ここをさらに正確に理解するために、改めて基本的な解剖から確認する。改めて、気管支のフラクタルな分岐を思い出そう。声門から太い気管として伸びてきたものは左右の主気管支にわかれ、次に葉気管支に分岐する。右肺は3つ、左肺は2つの大葉にわかれており、それぞれに繋がるのを葉気管支と呼ぶわけである。さらに奥に進むにつれ第一節でみたように気管支はフラクタルに分岐を繰り返し、内径が2mm以下になると細気管支、1mm以下になると終末細気管支と呼ばれるようになる。

気管支の分岐と小葉、細葉、肺胞*18

 肺の解剖学的な単位として重要なのは、小葉(Millerの二次小葉)と呼ばれる、約1cm四方(小指頭大)くらいの線維性の小葉間隔壁に囲まれた領域である。だいたいこれを支配しているのが細気管支である。広義の間質(すなわち間質性肺炎という疾患の主座)にはこの小葉間隔壁と、肺胞毛細血管(ガス交換に寄与する狭義の間質)、肺静脈、リンパ管が分布している。
 さらに分岐したあとの終末細気管支に支配される、5mm四方くらいの大きさの領域は細葉と定義されている。1個の小葉の内部には2-5個の細葉が含まれている。そしてさらにその細葉は、肺胞という内径0.2mm程度の「小さい袋」の集まりとなっている。*19

小葉の構造。上図では肺胞の集まりとしての細葉は表現されていないが、胸部CTにおける小葉のスケールがわかりやすく表現されているため引用した。*20

 すなわち非常に大雑把に言えば、上の病理組織像は細葉に、CT像は小葉にだいたい対応している。そのように異なるスケールでありながらも、蜂巣肺のフラクタルな構造のために、それらはあたかも同じ「分厚い壁の袋の集まり」のようにみえているわけである。
 もう少し丁寧に論じよう。下に、前掲とは異なるUIPパターンの病理組織像を示す。この病理組織像は先ほどよりも弱拡大(=より大きなスケール)でみたものであり、みにくいが左下の黒い縮尺の棒には「2.5mm」と書かれてある。引用元の書籍には、病理組織像の注釈に「小葉や、より小さな細葉の辺縁部に沿って線維化病変が分布している」との記載がある。*21図中のISとは小葉間隔壁(interlobular septum:IS)のことだが、小葉のスケールでの「分厚い壁の袋の集まり」と、細葉のスケールでの「分厚い壁の袋の集まり」のどちらもを一望でき、そのフラクタルな構造を直感的に理解しやすい視野となっている。
 前掲の「小葉の構造」の図と下の図を総合的に考えると、UIPパターンのCT像というのは、基本的には小葉のスケールでの「分厚い壁の袋の集まり」をみつつ、一部細葉のスケールでの「分厚い壁の袋の集まり」でも大きいものは確認できる、ということになるのだろうか。 なぜ常に細葉まで、病理組織像と同じように認識できないかというと、それは既に確認したように空間分解能の問題である。小葉間隔壁厚は通常で0.1mm、細葉の壁厚はさらに薄く0.025mm程度で、MDCTのXY平面の空間分解能0.5mmでは通常どちらも認識することができない。それが小葉・細葉の線維化により認識できるようになるわけだが、元々の壁厚の差を考えるとHRCTで認識できるのは小葉間隔壁になるのも頷けるだろう。

『肺HRCT 原著第5版』(丸善出版、2016)55ページ

 ときに、ここで蜂巣肺の定義を改めて確認してみると、「1-3mmの壁の厚みを持つ3-10mm程度のサイズの嚢胞の集簇」というのはあくまで大きさと形態の話であり、小葉か細葉かという解剖学的構造には由来していないことがわかる。ガイドラインにおいても「IPF/UIPのみならず間質性肺炎は、一般的に小葉、細葉辺縁の肺静脈周囲から病変が始まる」という記述がある。*22
 少し話を整理しよう。小葉間隔壁肥厚も細葉辺縁の線維化もどちらもあるとき、病理組織像としてもHRCT像としても蜂巣肺が認められる、というのは想像に容易い。一方で、ひとつは、細葉レベルでは蜂巣肺があっても、小葉レベルでは蜂巣肺が認められないという事態もあり得る。つまりこのような、病理組織学的に顕微鏡下のみで認められる蜂巣肺は、顕微鏡的蜂巣肺(microscopic honeycomb)*23と呼ばれている。顕微鏡的蜂巣肺は、HRCTではスケールと空間分解能の問題から、単にマダラ状の高吸収域としか認識されない場合がある。

より大きなスケールでみたUIPパターンの病理組織像と、そのシェーマ

 それでは、呼吸器内科医が「肺は小さな袋の集まり」と言うときに意識しているのは、どのスケールなのだろうか。それは、小葉であり、細葉であり、肺胞である。胸部HRCTをみているときは小葉のスケールを意識しているだろうし、つくしのようなモコモコした肺のシェーマを紙に書いて疾患の説明をしているときは細葉のスケールを使用しているし、聴診でfine cracklesというバリバリとした音を聞いている瞬間は、線維化した肺胞のひとつひとつが開いていくイメージが頭の中に浮かんでいる。呼吸器内科医は、どこまで自覚的かどうかはさておくにしても、そういったフラクタルな構造とスケールの問題について常に無関係ではいられない職業なのである。それが間質性肺炎の臨床だけではなく、気管支鏡検査を施行するときにも付き纏うということは、もう改めて確認するまでもないことだろう。

5. ポスト多元主義、部分的つながり

 これまで、ストラザーンの『カントールの塵』にインスピレーションを受けつつ、気管支の分岐と蜂巣肺をフラクタル構造として捉えて、病理組織像とHRCT像はスケールの違いによって複雑さは変わらないことを確認してきた。では、そのことが間質性肺炎の診断あるいは存在論を考えるうえでどのような意味を持つのだろうか。
 その問いに答える前に、ストラザーンの議論に再び戻ってこよう。すなわち本節では、すでに予告していたように、ストラザーンによる多元主義および観点主義(遠近法)批判と、その代わりに提出されるポスト多元主義について論じる。彼女はこう言う。

 スケールを変化させるという言葉で、私は、人類学者が資料を組織化するときに決まってする、現象に対するひとつのパースペクティヴから他のパースペクティヴへの切り替えを指している。このパースペクティヴの切り替えが可能なのは、世界が本来的に複数の存在多様な個体や集合や関係性から構成されているという自然観があるからである。*24

 世界には異なるまとまりが共在していて、お互いに重なり合うことがない離接的な状態にあり(多元主義(pluraism))、その世界に対する複数の視点を加算していくことで、全体的な眺望を手にできる(観点主義/遠近法(perspectivalism))。ストラザーンが批判するその世界観を理解するには、『部分的つながり』の原著が書かれた1991年から新版(日本語版の訳出の底本となっている)が出版された2004年あたりの時代の雰囲気について知っておく必要がある。
 当時の人類学が直面させられていたのは、ジェイムズ・クリフォードの『文化を書く(Writing Culture)』(1986年)が与えた多大な影響のもと、民族誌は「大地を上から眺めて」唯一の絶対的な「真実(the truth)」を描くことなどできないという反省であった。*25そのようなポストモダン人類学/再帰人類学の流れにあって、もはや「権威的なヴィジョンをもったフィールドワーカーという『単一形象』」*26に頼ることはできず、複数の、より多くの声を集めるほうへと力学が働く。そこにあるのは「一に取って代わるものは多である」*27という事態だ。

 この論点はのちに、望ましくないイメージをモノグラフから取り除くことをめぐる問いへと至るものの、資料が豊富であるばかりか過剰でさえあるとの筆者の感覚は、当初の通り一遍な取扱いでは充分に向き合うことができないものだった。当時、研究者も大学も、生産する情報の量を倍増しなければならないとされる時代だった。ただ研究するだけでなく、研究者が自分自身について、そして自らの研究活動について幾重にも記述を重ね、アカデミック・パフォーマンスの監査に備えなければならなかった。*28

 多元主義と観点主義/遠近法の批判をするとき、ストラザーンの念頭にあるのはそういう時代性なのである。ただそういう「より多くの」断片を集めることへの志向性というのは、結局、俯瞰や全体性という「一なるもの」へのノスタルジーを捨て切れていないことの表れなのだ、とストラザーンは看破する。

 ここには、コラージュをひとつの複合体と捉えるポストモダンのまなざしとの類縁性がある。いかにも、〔死んだはずの〕主体が消費者像のうちに復活したかのようでなかろうか。旅人が消費者であるというのは、著者性の関わりからでも、出会いの形式との関わりからでさえもない。ただ出会いの効果が立ち現れる場所と想像される点で、消費者なのである。私たちは、フィールドワーカーの殺戮のはてに、ツーリストを発見しただけだったのだろうか。結局、問題になっているのは多声性でなく、自分自身にどのように作用するかを基準に経験を選ぶ、審美家の趣向のうちにある異種混淆性だったのだろうか。自分たちを特定のテクストの生産者として考えることに背を向けたすえ、私たちはただ、すべてを貪り食う消費者に巡り合うだけなのだろうか。*29

 しかしストラザーンによれば、「いかなるパースペクティヴも想定とは異なり、〔加算することで辿り着けるような〕全体的な眺望を提供することはできない」。なぜならばスケールを変更しても複雑性は変わらず、情報量は保存されており、すなわち、より大きなスケールはより小さなスケールの単なる集合ではない。あるいは「すべての」スケールを足し合わせることも原理的に不可能であると、彼女は論じる。

 現象「に対して」数多くのパースペクティヴや観点があるという考えは、理念的には、ありうるすべての見方の総和のようなものを、あるいは少なくとも、パースペクティヴ自体の生産に関する枠組みや発生的モデルのようなものを定式化することができるということを含意している。しかしこれは、パースペクティヴを切り替える際に人が感じる移動や旅の感覚や、ありうるパースペクティヴの数は実際には無限であるという暗黙の知識を、説明できないだろう。というのも、その数とは、そこに立って世界を見ることができる事物の数、あるいは、そのために世界を見たいと考える目的の数、足す一に等しいからである。すなわちそれらの数に、パースペクティヴを通して世界を見るということ自体から生じるパースペクティヴが加わるのである。どれほど多くのパースペクティヴが集められようと、それらはいずれも〔残余であるまたひとつの〕パースペクティヴを作りだす。この形式的な帰結は無限性である。*30

 「複数の一」や「一の多数化や分割」*31の代わりにストラザーンが提示するのが、異なるまとまりが共在していて、なおかつお互いに部分的に重なり合っている状態、つまりポスト多元主義post-pluraismと呼ばれる状況である。人類学者ストラザーンのフィールドであるメラネシア(あるいはグローバル化する現代世界)においては、様々な文化的・社会的要素が互いに部分的につながりあい、互いを前提しあっている。

 西洋のいかなる歴史観に基づいたとしても、広域的な比較ができるのは、パプアニューギニア内陸部にみられるような諸社会が歴史的に関係しあっているという、暗黙の知識が前提としてあるからである。(…)それらの社会はある種の起源、諸集団の移動という同じ歴史を共有し、人々とともに、あるいは彼らとは別に旅をする観念や人工物を共有している。その意味で、諸社会は相互にコミュニケーションしているのである。*32

 ストラザーンはその事態を、先の「一に取って代わるものは多である」に対抗して、「一つは少なすぎるが二つは多すぎる*33と表現する。なおこのタイトルが付けられた節を含む章「フェミニズム批評」で中心的に論じられるのは、ダナ・ハラウェイの「サイボーグ」概念である。本稿では深く立ち入らないが、書籍のタイトルでもある「部分的つながり」は、サイボーグの「つながっていながら比較可能=同質(compatible)でないというイメージ」*34に大いに喚起されて提出された概念である。*35

 私がサイボーグにこだわったのは、その人型の像が釣り合いの感覚に対峙するからである。 サイボーグはスケールに従わない。サイボーグは単数でも複数でもなく、一でも多でもなく、お互いに同形ではないがゆえに比較できない部分と部分を結合するつながりの回路である。単一の存在、あるいは複数の存在からなるひとつの多数体として、全体論的あるいはアトミズム的にアプローチしてはならない。

 サイボーグは、異なる部分が作用するための諸原理が単一のシステムを形成しないため、身体でも機械でもない。各部分は互いに釣り合いがとれてもいないし不釣り合いでもない。内部のつながりは集積回路を構成してはいるものの、単一のユニットというわけではない。 ハラウェイのイメージもこのように作用する。それはひとまとまりのイメージではあるが、全体性のイメージではない〔a whole image but not an image of a whole〕。想像と現実とを接合するからだ。サイボーグは、仮想存在のイメージであり、その文脈や参照点のイメージである。つまり、想像上のサイボーグたちの世界における、他者とつながっているサイボーグのイメージであると共に、そのイメージを用いて思考するに相応しい今日の世界におけるさまざまな状況のあいだのつながりのイメージである。*36

6. 「一よりも多いが、多よりは少ない」 -「複数の存在」としての動脈硬化

 紙幅の都合もあるが、前節まででポスト多元主義の位置付けについては明らかにすることはできたものの、それが具体的に何を意味するかについてはいまだ曖昧なままであることを認めなければない。そこで本節では、ストラザーンに着想を得て動脈硬化存在論についての「実践誌」*37を記述したアネマリー・モルの議論を追っていくことで、医療実践という文脈のなかでその重要性について理解を試みる。
 モルはその著作、『多としての身体(The Body Multiple)』(原著2002)のなかで、「一つは少なすぎるが二つは多すぎる」を明らかに意識した「一よりも多いが多よりは少ない」というテーゼを展開し、「複数の実在ontologies」としての動脈硬化を提示した。次節は、この概念を携えて再び間質性肺炎の実践に立ち返ることによって、その存在論について理解を深める試みになることをここに予告しておく。

 モルは、オランダ中央部の中規模都市の大学病院を舞台に、外来診察室における内科医の診察や手術室での血管外科医の手術、血管検査室における検査技師の検査、合併症を伴う血管病患者の治療についてのカンファレンスの参与観察を行った。以下、『多としての身体』の冒頭で、モルが病理診断室を訪れた際のフィールドノートとそれについての論考を、少し長いが省略しつつみてみよう。

 他の二人と共同で使っている本や論文が散乱した小さな部屋で、病理学の専門研修医が、私の訪問に合わせて二組の接眼レンズがついた顕微鏡を設置していた。(…)私たちは、テーブルのうえの顕微鏡を挟んで座り、それぞれの接眼レンズを覗きこんだ。(…)
「見て、これが血管だ。ここにある。正確には円ではないけど、ほぼ円でしょ。染色液でピンク色になっている。それから、ここにある紫色の部分、これが石灰化だ。中膜のなか。損傷している。脱灰をうまくできていない。それほど長く脱灰しなかったので、メスで切断するのは大変だった。(…)」。彼は、円の中をポインターで指した。「これが内腔だ(…)それから、内腔の周いの最初の細胞の層が内膜だ。厚い。おお、わぁ、厚いな! ここからここまでだ。見て。あなたの探していた動脈硬化だ。これだ。内膜の肥厚。これがまさにそれだ」
 それから、少し間をおいて、彼はつけ加えた。「顕微鏡の下に」。

 私の試みは、この最後の補足にかかっている。(…)この補足がなければ、動脈硬化はひとりぼっちだ。それは、顕微鏡を通して可視化される。(…)
 (…)この補足を通じて全面に出されるのは、内腔の可視性は顕微鏡に依存しているということである。そして同じ意味で、たくさんのものにも依存している。ポインター。スライドを作る二つのガラスシート。検査技師が血管の薄い横断面を作るのを可能にする脱灰も、たとえ十分な長さではなかったとしても、忘れてはいけない。検査技師の仕事もである。ピンセットとメス。いろいろな細胞組織をピンクや紫に染める染色液。病理医が血管壁の肥厚した内腔を見ようとするなら、これらすべてが必要になる。
 (…)疾病は、独り立ちしていない。それが実践されている際に動いているすべてのものと人に依存している。*38疾病は行われるものだ。 
 もちろん、病理医は彼らが見ている肥厚したアテローム動脈硬化症の血管壁を作成していないし、構築してもいない。(…)疾病が行われているとき、それは特定のやり方で演じられていると言えるかもしれない。(…)
 しかしこの場合もやはり、パフォーマンスの比喩は、いくつかの不適切な含意も持っている。パフォーマンスの比喩は、〔舞台上で行われるのは演技であり〕舞台裏に本当の実在が隠れていることを示唆していると受け取られるかもしれない。(…)私は、それらの連想によって、私が行おうとしていること、認識論的ではなく実践誌的に実在を探求するということを、妨げられたくはない。そのためには、多くのことを示唆しすぎない言葉が必要だ。学術的な歴史が長すぎない言葉。英語には、一つのすてきな言葉がある。実行する(enact)。実践のなかで、客体が実行されると述べることは可能だ。この言葉は、アクターを曖昧にしたままで、様々な活動が起きることを示唆する。それはまた、行為のなかで、そしてそのときその場所でのみ、何かが実行されていることも示唆する。*39

 モルは、「存在」はアプリオリにあるものではなく実践に伴って生起するとして、存在を確認したり現象させたりする実践を「実行(enactment)」と呼んだ。*40疾病の存在は、それを実行している実践から決して切り離して考えることはできない。

 この〔引用者注:認識論的な理解から実践誌的な理解への〕変化が意味しているのは、新しい「ある」は状況に埋め込まれているということだ。*41それは、動脈硬化が、どこでもこうであるとか、本質的にこうであるとか、それ自体としてこうであるとは言わない。単独で「ある」ものなどないからだ。あるということは関連付けられているということだ。*42

 そしてそのようにして、客体を、多くの視点(perspectives)がフォーカスする中心である単一の存在(ontology)として捉えるのではなく、客体を実践において操作されるものとして理解することは、「操作の対象が実践ごとに異なる以上、実在は複数化する」。*43すなわち「複数の実在(ontologies)」へと必然的に帰結する。

 病理部の顕微鏡の下で、医療的介入の正否を判定するために、血管の欠片がひとたび身体から切り取られ、薄く切られ、着色され、ガラス製のスライドに固定されたときには、動脈硬化は血管の内宮の浸食と血管壁の肥厚である。しかし、外来診察室で外科医が「何をすべきか?」という問いに直面しているときには、動脈硬化は何か違うものである。それは、定の量の運動の後に起きる痛みであり、歩行中の痛みである。*44

 しかしここにおいて、ポスト多元主義者たるモルにとっての重要なのは、多元的(pluralistic)ではなく多重的(multiple)であるという違いである。多くの実践において実行される動脈硬化はもはや一つではなく、様々なバージョンで出現するが、しかし同時に、何らかの形でまとまってもいる(客体は断片化されていない=多元主義的ではない)。臨床所見、血圧測定、社会的問診、超音波検査、血管造影などたくさん行われたの結果はすべて、ひとりの患者の、ひとつの患者ファイルにまとめられて、治療方針の決定へと帰結する。複数の実在は異なりつつ、部分的につながり、まとまっている。その事態をモルは「多重的」*45と表現しているのだ。ここで、「一よりも多いが多よりは少ない」というテーゼの理解へと至る。

 一つの医療施設においても、たくさんの異なる動脈硬化がある。そうは言っても、その建物は、決して開くことのないドアによって棟に分けられているのではない。異なる形式の知識は、互いに孤立しているパラダイムに分けられているのではない。これは、病院の生活の偉大な奇跡の一つである。病院には異なる複数の動脈硬化が存在しており、それらには差異があるにも関わらず、複数の動脈硬化はつながっている。実行された動脈硬化は、より多い——しかし、多よりは少ない 。多としての身体は断片化されていない。たとえ多数であっても、それはまとまってもいる。*46

 ここで一つの疑問が生まれる。そのように実践において多重化された客体が「まとまってもいる」というのならば、その「取りまとめ(coordination)の形式」は一体どのようなものなのだろうか? 
 しかしその答えを求めるために、モルの動脈硬化についてのいささか抽象的な議論をさらに追いかけるのは、いささか時期尚早である。まだ準備がすべて整っているとは言えない。
 次節では、再び間質性肺炎の議論に戻ってくる。実は、IPFの診断のGolden Standardとされている手法は、(もちろんほとんどの呼吸器内科医が自覚的ではないが)「複数の実在」としての間質性肺炎を前提としたものになっており、まずはそのことを確かめることでこれまでの議論の理解を深めたい。それからその多重的な客体の「取りまとめの形式」について考えるヒントを得るために、IFPのガイドラインを詳しく読みこむこととしよう。

7. 間質性肺炎診断における「MDD」 -「基礎づけ」と「包含」を超えて

 以下に、実際にガイドラインに掲載されている特発性肺線維症のフローチャート*47を示す。余談だが、私はこのフローチャートの面白さに心惹かれて、呼吸器内科医になる最後の決断をしたという経緯がある。

どこにいくにしてもMDDを通る

 刮目すべきは、このフローチャートではどうやっても「MDD」という過程を踏まないと「IPF」という診断に辿り着くことができないという点である。「MDD」とは、呼吸器科医、放射線科医、病理医を含めた多分野による集学的検討(multidisciplinary discussion:MDD)のことである。それはどういう営みであるのか。
 ガイドラインの記載によると、「臨床情報、画像診断、病理診断についてダイナミックな意見交換を通じて行われ、各々の不確実性を補い、判断の精度を高めることにつながる」*48とある。小難しく書いてあるが、「意見交換」とあるように、要は最終的にプロフェッショナルである呼吸器科医、放射線科医、病理医どうしで話し合って診断を決めましょうということだ。私は、ガイドラインというソリッドなエビデンスに基づくはずの文書で、さらに本来であれば機械的に枝分かれを追っていけば診断に辿り着くはずのフローチャートにおいて、このような曖昧さを残していることに衝撃を受けた。最後は話し合いで決まるならばフローチャートもへったくれもないではないか。
 なお「特発性肺線維症診断」というタイトルになってはいるが、「not IPF」ならばどんな疾患であるのか、特発性ではなく二次性=原因があるならそれは何なのか、という議論をすることになるので、実質的にはMDDはIPFを含めたすべての間質性肺炎(あるいはより広い概念としてびまん性肺疾患)の診断のために開催されるカンファレンスであると理解してよい。よく鑑別に挙げられる疾患としては、線維性過敏性肺炎と膠原病肺が圧倒的多数で、あとはサルコイドーシスや石綿などの吸入肺がある。

 さて、私が何よりこのMDDという営みにおいて興味深いと思ったのは、「病理が実在の基礎づけである」という、科学としての生物医学の枠組みにおいては一見揺らぎようのないドグマを(無意識的に)裏切っている点だ。詳しくみていこう。
 たとえば肺癌領域であれば、基本的には治療方針の決定において病理診断が絶対である。*49いくら小細胞肺癌っぽい(腫瘍マーカーproGRPの上昇のような)臨床所見があり、小細胞肺癌(中枢側でむくむくと急速に増大する腫瘤のような)CT像だったとしても、経気管支的な生検の結果「肺腺癌」だという結論になれば、(「おかしいな、小細胞肺癌ぽいと思ったんだけどな」と首を傾げつつも)その患者は肺腺癌として治療されるだろう。「ガンについては、ひとたび病理医による顕微鏡画像が利用できるようになると、それが臨床での物語を凌駕する傾向にある」。*50ここでは、病理組織像が疾病の「基礎的な実在(underlying reality)*51であり、何よりも優先される。
 上記の例で前提としてあるのは、古典的なユークリッド空間における、存在論の階層である。「教科書的な身体——動脈硬化の様々な変異体が投影される単一の仮想的な身体——においては、小さな部分が集まって大きな全体を形成する。細胞は組織の一部であり、組織が臓器を構成し、臓器が身体を作り、身体が人口を形成し、人口が生態系の一部となる」*52。前者は後者を基礎づける。あるいは後者は前者を包含(inclusion)する。なおこのような、基礎づけ-包含を存在論のピラミッドにおいて二項対立的に捉える仕方は『多としての身体』では明示的ではなく、私独自のものであることには注意されたい。*53

 しかしMDDにおいては、画像診断医と病理医が「意見交換」をすることを求められていることからわかるように、どちらも同等の価値をもつ情報として扱われており、片方が他方を基礎づける/包含するということはない。MDDではどうしてこのような事態が起こるのか。
 それは、ひとえに間質性肺炎が「びまん性肺疾患」であることに由来する。先ほどこの名前をさらっと出したばかりだが、びまん性肺疾患とは、「胸部X線写真や胸部CT画像にて、両側肺野にびまん性の陰影が広がる疾患群」の総称のことである。要は肺癌の結節/腫瘤のようにひとところに病変が局地化されているのではなく、肺の全体にわたって病変が認められるような疾患すべてを指す。その定義から察せられるようにびまん性肺疾患に分類されるものは多岐にわたり、そのひとつのグループとして広義間質を炎症の主座とする間質性肺肺炎という疾患がある、という位置付けになっている。

びまん性肺疾患の一覧*54

 びまん性肺疾患あるいは間質性肺炎の病理組織像をみるために実行されるのは、古くは外科的肺生検(surgical lung biopsy:SLB)、近年では経気管支に呼吸器内科医が行うクライオバイオブシー(transbronchial lung cryobiopsy:TLBC)である(クライオとは氷を意味し、気管支鏡づたいに挿入したプローブの先端を凍らせ引きちぎることで検体を採取する手法である)。しかし肺全体に「びまん性に」広がっている病変とは裏腹に、SLBないしはTLBCで得られる組織は肺のごく一部であり、肺全体の病理組織像を代表しているとは限らない。一方で、HRCTでは全肺にわたる病変分布や病変の強弱の評価が可能である。*55
 つまり、病理組織像もHRCT像も、どちらも特発性肺線維症の実在において特権的ではあり得ないのだ。基礎づけあるいは包含という形で、特発性肺線維症という単一の名前のもとに単一の実在を示すことはできない。ここにおいて、古典的な存在論の階層は脱構築されている。「実践においては、医療の存在論は小さいほうから大きいほうへとランクづけされた客体の集合体(assemblage)ではない」*56
 モルも「実在を実行する際の行為の詳細が前面に出されるとすぐに、そのようなスケーリング〔ある尺度に基づいて順序立てること〕の努力は崩壊する」*57と書いているように、ここにあるのはスケールの問題である。ここで改めて、ストラザーンがフラクタル構造から取り出した、「より細かく見たりより広く見たりするというスケールの変更は意味を成さず、具体的なものと抽象的なものの区分を無効化するような状況」を思い出そう。蜂巣肺の例でもみたように、組織病理像からHRCT像にスケールが変わっても複雑性は変わらず、情報量は保存されそれゆえに同等の価値をもつ。一方が他方を包含するということはなく、むしろ、客体はお互いの部分であり得る——すなわち包含は相互的である。
 このことを、モルは非推移性(intransitivity)という言葉を用いて説明している。

 スケールが固定され階層化されているという性質を持つ推移的な世界では、AがBを包含する一方で、BもまたAの内部にあるということは、ありえない。しかし、私たちが住んでいる、実行された客体の世界では、これは起こる。さらには、客体が互いを内包する一方で、同時に、複数の意味で、それらが互換不可能だということもありうる。*58

 議論の流れの都合上、病理組織像とHRCT像の関係について書いてきたが、MDDにはもうひとり、呼吸器内科医も参加している。私たち臨床医は、性別・年齢、患者背景(家族歴・喫煙歴・飲酒歴・職業歴・居住環境・ペットの有無・粉塵暴露歴など)、常用薬、身体所見、血液・尿検査・動脈血液ガス、肺機能検査、6分間歩行試験、気管支肺胞洗浄液*59の所見について述べる。例えば、(蜂巣肺=UIPパターンとIPFが一対一対応であるかのように説明してきたが、実際には)過敏性肺臓炎やリウマチ肺などIPF以外の二次性の間質性肺炎で組織学的/放射線学的UIPパターンが観察されるため、「特発性である」と言い切るためには、このような臨床像が重要になってくる。*60
 もはや口説くなってしまうが、そういった「臨床像」が病理組織像やHRCT像より大きな円で、後者を包含し「全体」を表現するわけではない。蜂巣肺と患者は推移的な関係になく、臨床像もそれ自体として一つの実在である。モルはこのような関係を、ピラミッドとスケッチブックの比喩を用いて表現している。

  実行される客体を、小さいものから大きいものへ、あるいは単純なものから複雑なものへと、一列に並べることはできない。客体間の関係は、実践において見出される入り組んだものである。その関係は、ピラミッド状に重ねられるものではなくスケッチブックのなかのページのように結びついている。新しいページはそれぞれに、別々の技術に基づいた新しいイメージを生み出す。そして、認識できたとしても、スケールもまた、毎回、異なりうる。比較のための固定された点はない。*61

 このように、病理組織像、HRCT像、臨床像、それぞれの実行において実在は複数化されており、それらの複数の実在が、部分的につながりながらとりまとめられる(多重性、あるいはポスト多元主義)ということについては理解してもらえただろう。ではその間質性肺炎の「取りまとめの形式」としてのMDDはどのようなものなのか、という前節最後の問いに戻ってくることになる。以下に、ガイドラインに記載されている、MDDカンファレンスを行う際の推奨事項を示す。

MDDカンファレンスにおける推奨事項*62

 一読してわかるように、この表に書かれているのは徹頭徹尾、どう話し合うべきなのかという条件についてのみである。いかにして「取りまとめの形式」が行われているかは、まったくヒントは隠されていない。これまで何度か引用してきた間質性肺炎の入門書にも、「すなわちMDDは3者が専門家としての情報を持ち寄ってこれを包括的かつ理論的にまとめあげ、診断に結びつけるプロセスを指す」としか書かれていない。少なくとも私が手に入る資料の範囲では、どうやって病理組織像、HRCT像、臨床像が「取りまとめ」られるのかの実際は棚に上げられたままなのである。
 これにはいくつかの理由が考えられる。そもそもMDDを行っている施設は少ない。JRSびまん性肺疾患学術部会がJRS呼吸器専門研修プログラム基幹施設を対象に行ったアンケート調査によると、MDDを定期的に行っている施設は9.6%であった。*63さらにMDDの内容も、上級医や他施設の医師の話を聞いて察するに、施設によってかなり異なっているようなのである。私は、IPFに対してガイドライン的なスタンダードな考えを持つ施設から、今働いている施設に赴任した初日に「この病院にはIPFは存在しないから」(基本的に間質性肺炎は背景に何らかの原因疾患があるという考えに基づく=「特発性」ではあり得ない)と言われて、誇張表現も含まれていたのだろうが衝撃を受けた。
 それでは私が見聞きしたMDDについての効果的なフィールドノートを引用できればいいのだが、残念ながら今のところ手持ちの資料で適切だと思えるものがない。そもそも呼吸器内科のエラ若手である私のMDDに対する参加は実に周辺的であり、フォーマットに則り臨床所見について事前に埋めた用紙を読み上げるスピーカーにすぎない。実際の議論は、熟練した呼吸器内科医、放射線科医、病理診断医による空中戦で、ついていくのにやっとである。これが現時点での本論の限界である。

 やはり私たちは今一度、モルの議論に戻る必要がある。複数の客体の取りまとめの形式について、『多としての身体』の動脈硬化の例ではどのように説明されているのだろうか。その読解と並行して、間質性肺炎の例にも照らし合わせて考えていくこととする。

8. 取りまとめの形式① 加算

 患者が歩行中の痛みを報告し(臨床症状)、外科医は微弱な血管の拍動を感じ(身体所見)、検査技師が足首の血圧が上腕より低いことと、超音波で血流速度が増加していることを測定し(生理学的所見)、血管造影で内腔が狭窄していることを確認する(放射線画像所見)。そのように各種の検査結果が一致しているとき、話はわかりやすい。紛れもなくその患者は動脈硬化を有している。
 間質性肺炎の例も挙げておこう。患者が関節の朝のこわばりを訴え、聴診でfine cracklesを聴取し、血液検査でリマトイド因子や抗CCP抗体が上昇し、HRCT像で蜂巣肺を認め、病理組織像で斑状に分布する小葉辺縁有意の線維化内に胚中心をもったリンパ濾胞の過形成が認められれば、それらはすべてリウマチ肺の診断を支持し、MDDでも満場一致で決定されるだろう。

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リウマチ肺は、IPFではない二次性の間質性肺炎でUIPパターンを示す代表的な例である*65

 しかし、問題なのは検査結果がお互いに不整合(imcompatible)なときである。*66これを考えることが重要なのは、ストラザーンの「部分的つながり」が、ハラウェイのサイボーグの「つながっていながら比較可能=同質(compatible)でないというイメージ」に喚起された概念であることを思い出せば明らかである。
 不整合がある場合のひとつの解決策として、相反する測定結果の間の序列が打ち立てられることによって、一貫性が保たれる。ある人が症状を訴えているにも関わらず血圧が正常であるならば、彼の問題は血管に原因があるわけではない。あるいは、ある人に症状がなくても血圧が異常なのであれば、血管に何か異常があるのだろう。このように検査室が序列の上に来る場合が、医師にとって最も親しみのあるものだろう。
 しかししばしば、測定の実践的な詳細の「括弧を外す」*67ことで、その序列は覆り得る。モルは糖尿病患者を例にとり、進行した動脈の石灰化によりカフが圧迫できず血圧が測定できていない場合や、末梢神経障害のため患者が痛みをそもそも知覚できていない場合を挙げている。そのとき、一方の検査結果は破棄され、他方の検査結果が序列の上に立つことで、不整合は解消される。
 実はこれも、医師にとって馴染み深い営みである。典型的な疾患の症状や検査結果を学び終えた初期研修医が、次のステップとして「診断のピットフォール」として教育されるような事柄についてモルは言及している。しかしここにおいて、結局は「本当は」血圧が低くなるはずなのに測定手法の限界によってそれに到達できていない、というように、序列がたとえ覆ったとしても古典的な存在論の階層は温存されたままだ。それは、これが「科学的な」医師がすでに抵抗なく受け入れている思考法であることそれ自体が、暗示していることだろう。
 そこで、不整合があるときのもうひとつの解決策、つまり異なる検査が異なる結果を与えたとしても一方を破棄しないで済む方法に注目したい。モルは、それを取りまとめの第一の形式として、加算(addition)と呼んでいる。動脈硬化における「ラザフォードの成功の基準」がその典型例として引用されている。

 ラザフォードの計算では、成功の指標は互いにやり合うのではなく、加算される。一方がポジティヴで他方がネガティヴならば、どちらも破棄される必要はない。それらは、相互に置き換えられさえする。
 文献では、「ラザフォードの成功の基準」が何度も何度も使われる。ラザフォード自身だけでなく、他の多くの者によっても。これは、治療結果を評価する異なる研究の比較を可能にする。「ラザフォードの成功の基準」では、改善は複合的な方法で定義される。それは、臨床症状と足関節上腕血圧比の組み合わせだ。様々なカテゴリーの改善が差異化される。たとえば、最良の点数は+3、著しい改善だ。これは、(a)症状が消失するか著しく改善したときか、(b)足関節上腕血圧比が0.9よりも増加したときに付けられる。しかし、もっとも印象的な加算は最小限の改善である+1というカテゴリーだ。これは、(a)足関節上腕血圧比が0.1異常改善するか、(b)症状があるカテゴリーから他のカテゴリーにジャンプしていないときに付けられる。

 しかしながら、これを動脈硬化の多重性を理解するのに適した例として直ちに受け入れるのには、疑問が残る。ひとつには、時間の位相がいつの間にかすり替えられているためだ。これまで治療に至るまでの診断の話をしていたはずなのに、このラザフォードの基準は「成功の」と冠されているように、治療したあとの話(効果)をしている。さらに、部分的につながるということの複雑なあり方について思考してきたにも関わらず、それを単なる数字に還元して決着を着けるというのはいささか乱暴に思える。もちろん、定性的な評価を定量的な評価に落としこむのは必ずしも悪い試みではないが、すべての局面において有用であるとは言えない。それが可能と考えるのならば、それこそすべてを「単一の客体」に還元する多元主義・観点主義的思考だろう。*68
 ただ同時に、この例は本稿で触れてこなかった重大な視点をもたらしてもくれている。それは、たしかに診断と治療というのは不可分であるということである。その意味では、加算のもうひとつのモルが挙げている例は「治療に至るまで」という事相も一致しているし、それらの不可分な関係を考えるのにもよいケースである。

 社会的動脈硬化は、その他の疾病のヴァージョンに加算される。歩行距離や足関節上腕血圧比と、「日常生活への支障」と「やる気」の間に線形的な関係は期待されていない。まさに、患者の身体的な疾病と、私たちが「社会的な疾病」と呼びうるものの間に、線型的な関係があるとはだれも期待していないからこそ、後者に独自の関心が向けられるのだ。(…)加算の結果が、単一の客体となる。侵襲的に治療されるべき動脈硬化か、そうでない動脈硬化だ。
 意思決定会合で、スティンストラさんの検査結果が説明された。私は、彼女が来たときに外来診察室にいた。社交的な女性で70代になっていた。意欲的に外に出て、人生を楽しもうとしていた。愛想が良かった。「これを見てみろ」。年長の外科医がある検査結果を指しながら、若手に言う。「きみはこの患者を手術したいのか?」この状態の血管を? 本気で? そこまで悪くないだろ? どうして、様子を見て、運動し続けるように言わないの?」若手の外科医は平静を保っている。「ええ、はい、そうかもしれません。でも問題は、その女性はいろいろな場所に出かけることが本当に好きなのです。去年、彼女は旅行できていて、今年はできません。旅行は彼女の生きがいです。挑戦しない理由はありません」。*69

 これはMDDにおいてもあり得る話である。仮に、身体所見や血液検査所見は(ステロイドが選択肢として有用な)リウマチ肺を支持し、HRCT像はUIPパターンで、病理組織像は胚中心など膠原病を示唆する所見がなく(ステロイドが長期予後を改善しないと言われている)IPFを支持するような場合を考えよう。このとき、「どんどん呼吸困難が悪化している」「本人が強く希望している」という情報が加算されることによって、ステロイドを導入して治療が開始される可能性がある。これは、臨床像も実行された実在であることを理解できる例として捉えることができる。

 しかし残念ながら、これまで論じてきた加算では、少なくともモルの挙げている例は「本人の社会的な背景が治療介入の有無や内容に影響する」以上のことを言えているか怪しい。それは診断と治療介入が不可分であるという重大な事実を気づかせてくれるものの、動脈硬化存在論における多重性を理解するには不充分に感じる。次節では、もうひとつの取りまとめの形式をみてみよう。

9. 取りまとめの形式② 較正

 モルは取りまとめの第二の形式を論じるうえで、超音波検査と血管造影というふたつの検査に注目している。超音波検査によって血管の流速を測定し、収縮期最大流速(peak systolic velocity:PSV)が2.5以上というのが、血管造影検査における内腔の減少50%以上とそれ未満を区別する基準値となる。かくして超音波検査結果が血管造影検査結果へと翻訳(translation)される。
 PSV 2.5以上をもって血管内腔の50%以上減少とする、という一方向性において、超音波検査と血管造影間の「この翻訳のルールは、超音波検査を血管造影に服従させ*70ている。
 しかしこの翻訳における「服従」について意義を唱える事実がふたつある。ひとつは、血管造影という検査の限界である。血管造影は血管の直径を二次元的にみることしかできず、内腔の三次元的な減少を反映していない。また小さい血管における50%の減少と、大きい血管の50%の減少とでは患者にもたらす影響が異なるのだが、それを同じ数字に還元してしまっている。超音波という動的なデータを得るのが得意な検査の特性を考えると、前者のほうが翻訳がうまくいかない理由として重要だろう。
 もうひとつの事実は、上記の基準値のもとになった研究論文をつぶさに読むことで現れる。その研究では、超音波検査と血管造影検査によって診断された患者のカテゴリーが82%重複していたと報告されている。しかしそれは逆に言えば、18%の患者では翻訳が成功しないということを意味する。相関研究では、そういった両者の差異を「合理的に小さいパーセンテージ」として飼い慣らしてしまっているのだ。
 それでは、実際に翻訳がうまくいかない場合に、どのような取りまとめが行われるのだろうか? モルはそれを較正と呼んでいる。以下に、モルが第三章「調整(coordination)」の最後を締めくくる例として引用しているフィールドノートと、それに付けられた論考を掲載する。

 六ヶ月前に手術したターカンスさんのケース。その後、彼女のバイパスはまた詰まっていた。しかし、正確にはどこまで詰まっているのか? 血管造影写真は問題の場所の先に造影剤を写していないので、閉塞しているだろう。白色は突然止まっている。しかし、超音波検査は依然として、この場所の先でもピークのあるグラフを示している。血流。一人の放射線科の専門研修医が尋ねる。「このようなケース、血管造影が「閉じている」といい、超音波検査が「開いている」といっているケースでは、何を信じるべきですか?」二人の外科医が同時に言う。「超音波検査」。それから、二人のうちの一人がかつてこれに類似した17のケース(血管造影が閉塞を示し、超音波検査が血流を示す患者)をどのように研究したかを語る。17のすべてのケースにおいて、超音波検査が手術の際の発見と一致していることが判明した。「17ケースだけだったから、出版はできなかった。しかし、例外はなかった」。
 ここで超音波検査の肩を持っている二人の外科医は、この技術について多くの研究をしてきていた。その研究のおかげで、ときには、血管造影が閉塞を示し、超音波がそうでないときのような場合には、超音波検査を勝たせることができるようになった。超音波検査を勝たせるために裁定者が引き合いに出された。それは、圧倒的な外科の実在である。すなわち、手術においてひとたび患者の身体が麻酔を打たれ、メスで切開されると可視化される血管の実在であり、そのなかを血が流れていない限りにおいて、外科医が直に内側から見ることができる血管壁の実在である。*71

 これまでの議論に粘り強く付き合ってきてくれた読者であれば、この箇所には疑問を多く抱くことだろう。まず、最終的に超音波検査を「勝たせる」という結論に達するこのケースは、翻訳とそれに伴う較正というより、前節において論じた序列が覆ることの例として捉えるほうが適切に感じる。さらに、「圧倒的な外科の実在」が「裁定者」であるとするその書きぶりは、まるでそれが「基礎づけ」であるかのような違和感がある。どうしてこのようなことが起こるのか。

 それは、動脈硬化について論じている『多としての身体』と、間質性肺炎のMDDという営みを理解したいというモチベーションで読んできた私たちには、これまで見て見ぬふりをしてきた決定的な齟齬があることが原因である。間質性肺炎動脈硬化とでは、診断〜治療の流れにおける病理組織像が実行される時相が異なるのである。
 第八節冒頭の、検査結果が一致していて診断が容易である例において、動脈硬化間質性肺炎を並べて書いた。実は、前者には病理学的所見が含まれていないが、後者には含まれているという重大な違いがあることに注目したい。なぜそうなるかというと、動脈硬化の病理組織像は足を切断もしくは手術=治療されなければ現れないからである。あるいは、亡くなったあとの病理解剖室のなかにおいて実行されることもあるが、いずれにしてもそれは診断の時相よりもずっと後のことである。
 意図的に読み飛ばしてきたモルの議論に、「臨床において実行される実在は、すべてに先立つ」*72というテーゼがある。病理組織像が臨床像の「後付け」として現れるその事態をもって、それが「基礎的な実在」とされているのを転覆するというのが実は本書の試みなのだが、そこを避けても立論は可能であると判断したので言及しなかった。避けた理由は、必ずしも間質性肺炎にもおいては「後付けとして」病理組織像が実行されるわけではないからである。これまで何度も強調してきたように、MDD=診断の過程において病理組織像が重要な役割を果たしているということは、臨床像と同じ時相で病理組織像が実行されていることを意味する。
 どうしてそのことが可能になるのか。それは、間質性肺炎が「びまん性」肺疾患であるからである。肺全体にわたって病変があるからこそ、その「ごく一部」をとってきて、診断に役立てる、という発想が可能になる
(そもそも両肺をぜんぶとるような治療は存在しない)。だからこそ、論じてきたようなHRCT像と病理組織像のスケールの問題が生まれるとも言える。それは、血管を「とってくる」ことがただちに治療を意味する動脈硬化とは対照的である。

 だから、モルの『多としての身体』は、複数の実在としての間質性肺炎を捉えるにはこの上ない補助線となるが、病理組織像、HRCT像、臨床像をに並べて、診断、その後の治療を決定するMDDを理解するには不足している。その時相は決定的に動脈硬化とは異なっているのだ。残念ながら、それが本稿の結論であると言わざるを得ない。

10. Micro-CTは間質性肺炎存在論を揺るがし得るか?

 本稿を締めくくる前に、間質性肺炎領域の最新の研究から、改めて蜂巣肺のスケールの問題について考えてみたい。本節では明確な結論はなく、いくつかの探索的な問いを投げかけるに留まることになる。
 病理組織像とHRCT像の「サイズの違い(size gap)」について勘違いをしていたと第四節で書いたが、実は、それに気付かされたのは今から引用する論文がきっかけであった。その論文*73の、まずは用いられている手法から理解しよう。論文の冒頭に、次のような一文がある。

   Recent studies using ultra–high-resolution microCT imaging have bridged the gap in resolution between MDCT and histopathology.〔強調は引用者による〕

 Micro-CTというのは、HRCTよりもさらに高い空間分解能で撮像することが可能になった装置である。Micro-CTはXY平面もZ軸平面も等しく7μm-13μmと大幅に細かくデータを得ることができるようになり、等方向性空間解像度であることが特徴である。それにより、これまでのHRCTの解像度では不可能であった終末細気管支や肺胞構造を確認できるようになった。

研究のworkflow

 上に示したのは、この論文においてMicro-CTがどのように活用されているのかを解説した図である。研究の詳細は後で触れるとして、注目すべきは「Micro-CT」と題された写真である。その右にあるHE染色された病理組織像は見慣れたものだが、それと同じ「2mm」のスケールで、CT画像の白黒の写真が載っている。つまり端的に、Mico-CTは放射線画像でありながら、病理組織像と同じスケールのものを表現することができるのだ。これがすなわち、HRCT像と病理組織像の間の「gap」を「bridge」するということである。
 これは、単に非侵襲的に病理組織像と同じスケールのものを得られるということ以上に、重要な意味を持つ。すなわちそれは非推移性の問題に関わる。HRCT像と病理組織像はスケールを変更しても複雑性は変わらず、互いに非推移的な存在として実行されていると論じてきた。しかし今や、研究のwork"flow"を左から右にみると、「2cm」のスケールバーのついたHRCT像がそのまま、「2mm」のスケールバーのついたMicro-CT像、そして病理組織像と「流れるように」連なっていく。はたしてMicro-CTは、HRCT像と病理組織像に推移性(transitivity)をもたらし得るのだろうか? もしそうだとすれば、間質性肺炎存在論を根底から揺るがし得る重要な変化である。

 しかし実のところ、本論文における目的、ないしMicro-CTの強みというのは、「分解能が高い二次元画像を得られる」ということにあるわけではない。本論文においてMicro-CTは、Stereology(二次元の断面から三次元の構造に関する情報を抽出し定量化する方法論)の一種として紹介される。すなわち、下記の図の通り、Mico-CTの二次元の断面から、末梢気道の立体構造を3D構築することが可能になるのである。
 カントールの塵にせよ、蜂巣肺にせよ、これまで本稿でスケールの問題を語るとき、それは常に二次元のイメージであった。しかし第四節冒頭の図を思い出すと、そもそも気管支の分岐は三次元にフラクタルな構造をとっているのである。これまでの私たちが存在を実行するための手段(MDCT、顕微鏡)の限界によって、二次元的に捉えていたに過ぎないのだ。

正常肺とIPF肺の3D構成の比較

 さて、ようやく本論文の内容をみていくことにしよう。と言っても、統計学的な手続き(定性的なものを定量的なものに変換する試みである)のすべてを論じるのは私の手に余るので、その重要な示唆するところのみを確認していくことにする。
 本論文は、IPFの早期病変がどのようなものかをMicro-CTを用いて明らかにすることが目的である。両側肺移植を受けた末期IPF患者8人の摘出肺に対して、年齢と性別が一致した未使用のドナー対照肺8人の摘出肺を用意した。全肺を空気で膨張・凍結させたあと、まずはHRCTを撮影した。そのあとsystematic uniform random (SUR) samplingによって全肺から無作為にサンプリングした組織(23mmx23mmx23mm)8つに対して、Micro-CTを撮像した。
 その結果、3D構成されたIPF肺の線維化がある領域では、終末細気管支数の減少、壁面積の増大、気道の変形が認められた。これはある意味自明なことであり、これまでの解剖学的な知識の蓄積で知られていたことを目でみえる形にしたに過ぎない。驚くべきなのは、IPF肺の(病理組織像あるいはMico-CTで二次元に認識できる)顕微鏡的には実質の線維化を伴わない領域においても、三次元病理で定量化された情報によると、有意に終末細気管支数の減少、壁面積の増大を認めていたことである。
 これは、「顕微鏡的には」線維化があると認識されないような領域にも、Micro-CTでは既に病変が進行し始めており、上記の所見はIPFの早期病変であると考えらえる、というのが本論文から得られる知見のひとつである。

下の写真は、IPF肺の顕微鏡的に線維化がない領域とある領域について、Micro-CTの二次元画像と3Dモデルの比較。上の箱ひげ図は、3Dモデルから定量化した結果、顕微鏡的に線維化がない領域とある領域どちらもについて有意に終末細気管支数の減少・壁面積の増大を認めたことを示している。

 これはもちろん、間質性肺炎存在論的にも極めて重要な意味をもつ。HRCT像ではみえない、顕微鏡的蜂巣肺がある(病理組織学的に処理をすることで初めて実行される蜂巣肺がある)ということについては既に論じた。この研究が示唆しているのは、顕微鏡的には確認できない、Micro-CTによって初めて実行される蜂巣肺が存在し得るということである。おそらくもっと適切な名前はあるだろうが、暫定的にMicro-CT的蜂巣肺(Micro-CT honeycomb)と呼んでおこう。
 Micro-CTの臨床応用はまだずっと先になることは確かだろう。しかしこのような、二次元のスケールから三次元のスケールへの変化によって、呼吸器内科医はこれまでと異なる「取りまとめの形式」を求められるようになるかもしれない。

11. 今後の展開について -なぜ診断するか?

 前節において、いくつか今後に繋がるであろう問いを残してきた。最終節となる本節では、また別の角度から、今後考えていきたい展開について論じて締めくくることにする。
 私が改めて論じなければならないと思っているのは、「MDDという医療者にとっては骨の折れる、患者にとっては侵襲的な検査によるリスクを伴う過程を踏んでまで、なぜ診断をする必要があるのか?」ということである。以下に、今働いている施設での一場面を示す。

2023年7月10日10:00 医局での会話

 この病院生え抜きの専攻医ふたりが、外の病院事情について話している。
「××病院は謎に包まれてますよね、肺癌のことになるとエビデンスで責められるという噂ですけど。でも間質性肺炎は結局パルスするから同じやろみたいな空気らしいです」
「うちは診断にこだわるからなあ」
「まあでも診断にこだわるってびまん性くらいですもんね」

 MDDを行なっている施設は少ないということを書いたと思うが、間質性肺炎の診断をどこまで突き詰めたいのか、という関心は本当に施設によって様々である。たしかに間質性肺炎の急性増悪(急激にぐんぐん悪くなること)に対してできることはただひとつ、ステロイドパルス(大量療法)である。慢性期であったとしても、診断をつけたところで呼吸器内科医の使える薬はステロイド免疫抑制剤か抗線維化薬かくらいしか選択肢がないわけで、「診断にこだわる」ことにどこまで意味があるのかという視点を持つ人がいてもおかしくはないだろう。実際、肺癌診療に力を入れている施設で私が働いていたときは、間質性肺炎は「あるかないか」以上の関心が払われる対象ではなかった(間質性肺炎があれば使用可能な化学療法が変わるのだ)。
 しかしながら、すぐにできる反駁としては、第八節の最後に挙げたリウマチ肺とIPFが鑑別になるような例では、やはり診断をつけることは重要だろう。なぜなら診断がそのまま治療に直結するからである。「患者の呼吸状態を考えると治療介入すべきであるから、リウマチ肺と判断してステロイドを入れる」という結論もあり得ると書いたが、それはまさに、そのあとに続く治療が遡行的に診断に影響する、という有様について端的に表している。本稿では、そういった事態について充分に説明し切れていない。
 そういう意味で、診断における取りまとめの形式を議論する際に、治療の話が不可避に忍びこんできたのは、まったくの偶然というわけはないはずだ。モルはその点について充分に意識的でなかったために、「加算」の説明において診断の話と治療効果の話をごちゃ混ぜにしてしまっていたのだろう。*74

 今後の展開のために私がまず取り組むべきなのは、呼吸器内科医としての勉強を重ねていくことはもちろん、MDDの議論を詳細に記述することであると感じている。その資料の蓄積が充分なものになり、本稿の議論を発展することができればまた論じようと思う。

*1:『改訂第2版 初めて握る人のための気管支鏡入門マニュアル』(メジカルビュー社、2021)80ページ

*2:マリリン・ストラザーン『部分的つながり』(水声社、2015)67ページ扉絵

*3:「人類学を書く」営みのうちに『部分的つながり』が位置づけられ、そのオリジナル版序文が「人類学を書く」と題されたのちに、本書全体が「人類学を書く」と「部分的つながり」に二分される。さらに、前者の「人類学を書く」の最後のサブ・セクション、より正確にはサブ・サブ・サブ・サブ・セクションが「部分的つながり」で結ばれ、後者の「部分的つながり」の(サブ・サブ・サブ・)サブ・セクションが「人類学を書く」で閉じられる。

*4:マリリン・ストラザーン『部分的つながり』(水声社、2015)21ページ

*5:マリリン・ストラザーン『部分的つながり』(水声社、2015)24ページ

*6:以前出会ったある人類学者が「自分は理論じゃなくてあくまで地域研究者なので」と話していたのが印象に残っているのだが、この発言もこのスケールの問題をめぐって人類学者が常に自分の立ち位置を意識せざるを得ない状況を反映してのものだろう。

*7:マリリン・ストラザーン『部分的つながり』(水声社、2015)25ページ

*8:日本呼吸器学会 びまん性肺疾患診断・治療ガイドライン作成委員会 編『特発性間質性肺炎 診断と治療の手引き 2022 改訂第4版』12ページ

*9:日本呼吸器学会 びまん性肺疾患診断・治療ガイドライン作成委員会 編『特発性間質性肺炎 診断と治療の手引き 2022 改訂第4版』70ページ

*10:日本呼吸器学会 びまん性肺疾患診断・治療ガイドライン作成委員会 編『特発性間質性肺炎 診断と治療の手引き 2022 改訂第4版』66ページ

*11:日本呼吸器学会 びまん性肺疾患診断・治療ガイドライン作成委員会 編『特発性間質性肺炎 診断と治療の手引き 2022 改訂第4版』70ページ

*12:Hansel DM, et al. Radiology.  2008.

*13:日本呼吸器学会 びまん性肺疾患診断・治療ガイドライン作成委員会 編『特発性間質性肺炎 診断と治療の手引き 2022 改訂第4版』67ページ

*14:Walsh SLF, et al. Thorax. 2016.

*15:Murata K, et al. Radiology. 1989.

*16:日本呼吸器学会 びまん性肺疾患診断・治療ガイドライン作成委員会 編『特発性間質性肺炎 診断と治療の手引き 2022 改訂第4版』11ページ

*17:日本呼吸器学会 びまん性肺疾患診断・治療ガイドライン作成委員会 編『特発性間質性肺炎 診断と治療の手引き 2022 改訂第4版』66ページ

*18:藤田次郎. 日本内科学会雑誌. 2013.

*19:日本呼吸器学会 びまん性肺疾患診断・治療ガイドライン作成委員会 編『特発性間質性肺炎 診断と治療の手引き 2022 改訂第4版』13ページ

*20:長尾大志『レジデントのためのやさしイイ胸部画像教室 第二版』(日本医事新報、2018)184ページ

*21:画像診断 Vol.41 No13. 特集『なぜによくわからない間質性肺炎―疑問と悩みにお答えします― 』(学研メディカル秀潤社、2021)1324ページ

*22:日本呼吸器学会 びまん性肺疾患診断・治療ガイドライン作成委員会 編『特発性間質性肺炎 診断と治療の手引き 2022 改訂第4版』13ページ

*23:日本呼吸器学会 びまん性肺疾患診断・治療ガイドライン作成委員会 編『特発性間質性肺炎 診断と治療の手引き 2022 改訂第4版』67ページ

*24:マリリン・ストラザーン『部分的つながり』(水声社、2015)22ページ

*25:書籍のオリジナル版の序文と前半セクションの題である「人類学を書く(Writing Anthlopology)」が、 『文化を書く(Writing Culture)』のもじりであり、さらに書籍のタイトルである「部分的つながり(partial connections)」は、『文化を書く』の序論「部分的な真実(partial truth)」のもじりであることにここで言及しておきたい。

*26:マリリン・ストラザーン『部分的つながり』(水声社、2015)109ページ

*27:マリリン・ストラザーン『部分的つながり』(水声社、2015)160ページ

*28:マリリン・ストラザーン『部分的つながり』(水声社、2015)48ページ

*29:マリリン・ストラザーン『部分的つながり』(水声社、2015)89-90ページ

*30:マリリン・ストラザーン『部分的つながり』(水声社、2015)257-258ページ

*31:マリリン・ストラザーン『部分的つながり』(水声社、2015)161ページ

*32:マリリン・ストラザーン『部分的つながり』(水声社、2015)227ページ

*33:マリリン・ストラザーン『部分的つながり』(水声社、2015)128ページ

*34:マリリン・ストラザーン『部分的つながり』(水声社、2015)136ページ

*35:なお、サイボーグ・フェミニズムの議論の詳細については手前味噌であるが下記の論考を参考にされたい。

satzdachs.hatenablog.com

*36:マリリン・ストラザーン『部分的つながり』(水声社、2015)128-129ページ

*37:1980年代、アーサー・クラインマンにより、生物学的に定義される「疾病(disease)」と病者の経験する「病い(illness)」の差異が定式化されたことは、医療人類学に少しでも関心のある読者にとっては有名な事実であろう。これに対しモルは、医師による病気の説明を患者のものと同列の「認識」とする主張(ここに通底しているのは観点主義である)は、かえってそれらの「認識」のうちに彼らを留まらせ、両者の分断を強化するものだと考えた。その問題意識からモルは、「認識」のみに注目するアプローチから脱却し、病いと疾病の混合を実践されたものとしてアプローチする方法を提案した。これを「実践誌」と呼ぶ。

*38:詳細に立ち入ることはできないが、このような記述にモルのアクター・ネットワーク・セオリー(Actor-network-theory:ANT)からの影響を感じとることができる。

*39:アネマリー・モル『多としての身体』(水声社、2016)60-64ページ

*40:岸上伸啓 編著『はじめて学ぶ文化人類学』(ミネルヴァ書房、2018)301ページ

*41:この一節にはダナ・ハラウェイの論文「状況に置かれた知(Situated Knowledges)」(原著1988)の影響を強く感じる。ハラウェイは、超越的な、俯瞰的な立場からの客観性ではなく、特定の具体的に置かれた位置・状況からの見方=ヴィジョン(vision)に基づいた客観性について論じた。

*42:アネマリー・モル『多としての身体』(水声社、2016)90ページ

*43:アネマリー・モル『多としての身体』(水声社、2016)29-30ページ

*44:アネマリー・モル『多としての身体』(水声社、2016)90ページ

*45:アネマリー・モル『多としての身体』(水声社、2016)129ページ

*46:アネマリー・モル『多としての身体』(水声社、2016)92ページ

*47:日本呼吸器学会 びまん性肺疾患診断・治療ガイドライン作成委員会 編『特発性間質性肺炎 診断と治療の手引き 2022 改訂第4版』5ページ

*48:日本呼吸器学会 びまん性肺疾患診断・治療ガイドライン作成委員会 編『特発性間質性肺炎 診断と治療の手引き 2022 改訂第4版』6ページ

*49:もちろん肺癌領域においても下記の例のようにクリアカットに診断できるわけではなく、臨床と画像と病理が衝突し合う悩ましい症例において、最終的に「臨床判断」により決定される例もあることは私が呼吸器内科医としていちばん知っている。それは本論が不充分であることを暴くものではなく、むしろ肺癌領域においてさえ病理組織像が疾病の「基礎的な実在」にならない可能性を示唆するものとして捉えることができるだろう。

*50:アネマリー・モル『多としての身体』(水声社、2016)74ページ

*51:アネマリー・モル『多としての身体』(水声社、2016)68ページ

*52:アネマリー・モル『多としての身体』(水声社、2016)171ページ

*53:この階層構造で想起されるのは、精神医学や家庭医療学に関心のある医療者にとっては有名な、生物-心理-社会的(bio-pshycho-social:BPS)モデルを説明する際にしばしば描かれる同心円である。江口重幸『病いは物語である: 文化精神医学という問い』(金剛出版、2019)においてBPSモデルは、「確固とした生物学的な疾患単位が中心にあって、それを取り巻いて派生的な心理的・社会的問題という外皮が被っている」状態であり、ギアーツが描いた「生物学のケーキに、文化の粉砂糖を振りかけた」という図式を決して超えられていないと批判されているが、それも本稿と問題意識を部分的に共有していると認識してよいだろう。またリトルウッドはそれを「マトリョーシカ人形(Russian doll)」型のバイアスと表現したという。

*54:日本呼吸器学会 びまん性肺疾患診断・治療ガイドライン作成委員会 編『特発性間質性肺炎 診断と治療の手引き 2022 改訂第4版』1ページ

*55:喜舎場朝雄 編著『間質性肺炎のみかた、考えかた』(中外医学社、2022)116ページ

*56:アネマリー・モル『多としての身体』(水声社、2016)174ページ

*57:アネマリー・モル『多としての身体』(水声社、2016)172ページ

*58:アネマリー・モル『多としての身体』(水声社、2016)174ページ

*59:ここで詳細に踏み込むことはできないが、気管支肺胞洗浄という呼吸器内科医にとってお馴染みの検査もなかなかなか興味深いものである。すなわち肺という知りたい対象そのものではなく、病変があるだろうところへ向けて生理食塩水を150mL程度かけ、それを回収し、その成分から疾患の性質について類推する、というずいぶん間接的に実在に迫る方法なのだ。これは、呼吸器内科医にとって疾患そのものが(気管支鏡を使ってでさえも)「肉眼的に」みえることが少ない、という診療科の特徴と切っても切れない関係にあるのだが、この論点についてはまた紙を改めて触れたい。

*60:喜舎場朝雄 編著『間質性肺炎のみかた、考えかた』(中外医学社、2022)116ページ

*61:アネマリー・モル『多としての身体』(水声社、2016)221ページ

*62:日本呼吸器学会 びまん性肺疾患診断・治療ガイドライン作成委員会 編『特発性間質性肺炎 診断と治療の手引き 2022 改訂第4版』7ページ

*63:富岡洋海. 日呼吸誌. 2021.

*64:日本呼吸器学会・日本リウマチ学会合同 膠原病に伴う間質性肺疾患 診断・治療指針 2020 作成委員会 編『間質性肺疾患 診断・治療指針 2020』7ページ

*65:日本呼吸器学会・日本リウマチ学会合同 膠原病に伴う間質性肺疾患 診断・治療指針 2020 作成委員会 編『間質性肺疾患 診断・治療指針 2020』7ページ

*66:アネマリー・モル『多としての身体』(水声社、2016)132ページ

*67:アネマリー・モル『多としての身体』(水声社、2016)104ページ

*68:こう考えると、「加算」という名称が、ストラザーンがあれほど散々批判してきた観点主義に通底する「加算主義」と一致しているのは皮肉な話であるし、混乱を招き得るワーディングであると感じる。

*69:アネマリー・モル『多としての身体』(水声社、2016)114ページ

*70:アネマリー・モル『多としての身体』(水声社、2016)122ページ

*71:アネマリー・モル『多としての身体』(水声社、2016)127-128ページ

*72:アネマリー・モル『多としての身体』(水声社、2016)72ページ

*73:Ikezoe K. et al. Am J Respir Crit Care Med. 2021.

*74:「診断と治療」についてモルが論じていないということではなくて、第4章「分配」はまさに治療介入が議論の中心となっている。しかし先述の通り間質性肺炎とは病理組織像の時相の違いがあり、本稿においてはほとんど触れる機会がなかった。