<お笑いと構造 第5回> 「拮抗性」への自己反論 ーー伏線回収に見られる相乗性

 文狸(ぶんり)です。前回は意外感と納得感の拮抗性について解説しました。

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 本稿では、「『拮抗性』への自己反論」と題して、意外感と納得感が相乗的に作用して笑いが生み出される場合について考えます。

2700のネタ「寿司屋」

 今回は、まず具体例から入りましょう。ここで、2700の「寿司屋」というショートリズムネタを紹介します*1。今から書きおこしをしますが、おそらく文面だけ見ても伝わらないので、各自頑張って探して観てみてください(また、その場合はネタバレになってしまいますので、この文面を見る前にネタを観てください)。

十島(以下、八):大将、お任せで握ってください♪
ツネ(以下、ツ):イカ、タコ、ウニ、エビ♪
八:いやウニ、食べれませ~ん♪
ツ:イカイカ、ウニ、ウニ♪
八:いやウニ、要りませ~ん♪
ツ:ウニ、ウニ、イカ、ウニ♪
八:いやウニ、要りませ~ん♪
ツ:ウニウニイカタコ、ウニウニイカイカ
八:いやウニ、要りませ~ん……しかしイカ多い~ですね~♪

 このネタを初めて観たときに私はめちゃくちゃ笑ったのですが、それからずっと「これの何が面白かったんだろう?」と考え続けていました。そのからくりを解き明かすヒントに、このネタをとある番組で披露した際の千原ジュニアさんとダウンタウン・松本さんの感想を引用します。

ジュニア「ウニのほうに気いってたら、(確かに)イカ多いわ」
松本「ちゃんとしたサイドストーリーあったんやな」

 実は、これは非常に的確な批評です。はじめ観客は、「ウニが食べられないと言っているのに、しつこくウニを出してくる」点が笑いどころとしてこのネタを観ます。しかしそれが最後の一言によって世界が反転し、「イカの多さ」というところにネタの全てが収束してしまうのです。
 このとき観客が抱く感情と言うのは、「オチはそっちだったのか」という意外感と、「確かに言われてみれば、イカが多かったわ」という納得感です。それらは紛れもなく、お互いに阻害し合うことなく、相乗効果として笑いを形成しています。

共通認識が互いに異なる場合、拮抗しない

 私は、「意外感と納得感は拮抗し合う」と言った舌の根の乾かぬうちに、「意外感と納得感は相乗的に働くこともある」と書いていることになります。これは一体どういうことなのでしょうか? 前回用いたのと同じ式を用いて説明することにしましょう。

式1:S(意外感の大きさ) = c(共通認識の明瞭さ) × d(共通認識からの距離)
式2:A(納得感の大きさ)=c(共通認識の明瞭さ)×{1-d(共通認識からの距離)}
式3: (面白さ)y = S(意外感の大きさ) × A(納得感の大きさ)

 この式3のS,Aに式1,式2を代入したのですが、前回、実はさらっと「意外感と納得感の根底にある共通認識が同一のものだとすると」という前提を入れて話しています。共通認識が同一であるとすれば式1,式2のc,dはいずれも等しい値になりますが、ある笑いにおける、「意外感の元となる共通認識」と「納得感の元となる共通認識」が異なるとすると、勿論式1におけるc,dと式2におけるc,dも異なる値になるわけです。

式1':S(意外感の大きさ) = c₁(共通認識の明瞭さ) × d₁(共通認識からの距離)
式2':A(納得感の大きさ)=c₂(共通認識の明瞭さ)×{1-d₂(共通認識からの距離)}

 式1',式2'を式3に代入すると、

式3': (面白さ)y = (c₁ × d₁) × {c₂ × (1 - d₂)}

 となります。c₁,d₁とc₂,d₂はそれぞれ独立した値ですので、 d₁の値が大きくなったら(1-d₂)の値が小さくなる、ということもありません。つまり拮抗的な関係にありません。あくまで独立の事象として、c₁,d₁とc₂,d₂をそれぞれSやAが大きくなるようにとることができます。

 2700の『寿司屋』のネタの構造分析をすると、オチの「しかしイカ多い~ですね~♪」という一言に対して、意外感の根底にある共通認識は「これは『要らないウニを押し付けてくる』というネタである」であり、納得感の根底にある(未だ自覚されていない)共通認識は「イカが多い」です。これらの共通認識が異なるからこそ、意外感と納得感がどちらも大きい値をとって相乗的に笑いを増幅することができるのです*2

パンクブーブーのジャンパー:伏線回収の妙

 一つのネタだけでは不十分ですので、他の具体例も見てみましょう。2011年のTHE MANZAIという大会でパンクブーブーが披露した「怖い話」という漫才があります。ネタの中盤でこんな下りがあります。

佐藤(以下、佐):肩をパッと見たら血がべっとりとついてて、俺このままじゃダサいと思ったから急いでジャンパーをリバーシブルにして
黒瀬(以下、黒):そんな場合じゃねえよ!

 これ自体もめちゃくちゃ面白いですが、しかしこのボケはそれだけではなくて、後からさらに効いてくるのです。ネタの最終盤、こんな下りが出てきます

佐:それから家に帰り着いて、パッと鏡見たら着てる服も全然違うんだよ。
黒:……リバーシブル!

 これはただの「天丼」(一度登場したボケ、あるいはワードを繰り返し使う技法のこと)とは一味違います。重要なのはツッコミの……」というわずかな間です。ここにこの下りの真髄があります。
 ボケの佐藤の「着てる服も全然違う」という発言を受けて、観客は考えます。何で違うのだろうか。変わっているから怖い話ということなのか。いやそうではないだろう。それならボケにもならない。ならば途中で着替えたということなのか。いや、そういえば途中でリバーシブルにするというボケがあったような――むろん、全員がそっくりそのままこういう思考の道筋をたどるわけではありませんが、観客がそうやって思い出すコンマ一秒前くらいに、黒瀬さんの「リバーシブル!」というツッコミが入ります。それに必要な「……」という間なのです。

 観客が「思い出す」瞬間、「その話がここに効いてくるのか!」という意外感と、「確かにリバーシブルにしたから服も違うよな」という納得感が同時に訪れます。それらは相乗的にお笑いを形成するのです。
 それはさながら、推理小説のクライマックスの伏線回収に感じるカタルシスのようです*3

終わりに

 本稿では、意外感と納得感が相乗的に働く例として、お笑いにおける伏線回収に注目しました。前回と今回を通じて、意外感と納得感という二要素がどのようにダイナミックに作用しているのか、ということについて理解してもらえたと思います。いよいよ次回では、お笑いの構造分析における三尺度の最後の一つ、「期待感」について説明したいと思います。

 

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*1:余談ですが、最近この「寿司屋」のネタがTikTokで話題になっていたようです。

*2:鋭い方は、この辺の議論に胡散臭さを感じるかもしれません。共通認識が同じとか異なるとか、毎回こじつけて喋ってるだけだろう、そこに必然性があるのか、といった風に。
 それに対して私は、「その通りです、これが私の分析の限界です」と答えます。思い出してほしいのですが、第1回で言ったように、私の分析は常に結果論です。自分が面白いと思ったものに関して、それがなぜ面白かったのかを事後的に言語化できればそれで満足なのです。私の分析だけでは新しいお笑いを再生産するには至らない、という理由もこの辺りからよく分かりますね。

*3:実は今、M-1グランプリは伏線回収漫才の全盛期に来ていると言えます。例えば2017年だけでも、カミナリの「一番強い生物」、スーパーマラドーナの「コンパ」、和牛の「結婚プランナー」など、鮮やかな伏線回収が光る漫才が多く見られました。もちろんそれぞれの回収の仕方は個別に全く異なるわけで、このような括り方がどれほど意味があるのかは分かりませんが、とにかくM-1を予選から観ていても伏線回収漫才をよく見ます。4分という時間的制約のなかで、構成の妙をアピールするやり方として使われやすいのかな、と私は推察しています。