<お笑いと構造 第7回> 先行文献との比較:森下伸也・桂枝雀・カント

 前回まで、「お笑いの構造分析における三尺度」として、意外感・納得感・期待感について解説してきました。どうでもいいですが、少し順番を変えて「な・い・き」という語呂合わせだと覚えやすいです。

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 今回は、三尺度の応用編に入る前に、お笑いの研究における過去の知見について紹介したいと思います。

1. 森下伸也『もっと笑うためのユーモア学入門』(2003年、新曜社

 森下伸也は、ユーモア論が専門テーマの社会学者で、「日本笑い学会」の会長でもある人物です。「日本笑い学会」のHPはかなり怪しげですが、文献目録などは異常な充実ぶりなので一度見てみることをオススメします。

www.nwgk.jp

 さて、彼は「知性のレベルで生じる愉快な笑い」には「一方の極に知性の満足から生じる快笑系のものと、他方の極に知性の攪乱から生じる苦笑系のものの二系統の笑いがある」と言い、前者を「『やっぱりそうか』の笑い」、後者を「『ええ、どういうこと?』の笑い」と名付けます。

「やっぱりそうか」の笑い

 人間の頭のなか、つまり知性には、「〇〇はこれこれこういうもの」という、たいていは漠然とした知識あるいは図式が無数に蓄積されており、われわれは日常生活のなかで必要に応じて取り出しては活用している(56ページ)。

 この「知識あるいは図式」というときの「図式」の定義はいたって不明瞭ですが、私がこれまでの議論で「共通認識」と呼んでいた概念と基本的には同一で考えてよいと思います。

 また、われわれは、そのような図式をいくつか組み合わせることによって、「こうすればこうなるはずだ」とか「こうすればこうなるだろう」といった、推論や予測を立て、そのとおりになることを期待する。そして実際にそうなったとき、われわれは「やっぱりそうか」と知性の満足を感じるのである。(略)こうして「やっぱりそうか」の笑いとは、図式どおりに現実が進行することによって知性の満足から生まれる笑いである、とすることができる(56ページ)。

 この、「図式どおりに現実が進行する」「やっぱりそうか」の笑いを、これまでの私の議論に照らし合わせると、「納得感」の笑いであるとも、「期待感」の笑いであるとも解釈できることが分かります。以下、本連載からそれぞれについて説明した箇所を引用します。

 つまりこの比較から、ツッコミで笑いが起きたとしたら、それは指摘された「正しいこと(共通認識)」に対して観客が「確かにそうだよね」と納得しているから、ということが見えてきます*1

 つまりこのとき、A子ちゃんへの周囲の期待というのが根底にあり、それが満たされることによって笑いが起きています。これが三尺度の最後、期待感の笑いです*2

それでは、私が今まで「納得感」と「期待感」と分けて議論してきたものは、「やっぱりそうか」の笑い=知性の満足の笑いという同一の概念として語るべきものだったのでしょうか?

時系列から考える「知性の満足」

 私はやはり、二つは異なる概念として扱うべきと考えます。同じ知性の満足でも、「納得感」と「期待感」は「満足」の仕方の時間的な向きが異なるのです。

 どういうことかというと、納得感は「図式通りに現実が進行している(いた)こと」を、事後的に気が付く/教えてもらうことによって発生する知性の満足です。ツッコミの例を改めて思い出してもらえればと思います。つまり、納得感は「後ろ向き(retrospective)な知性の満足」です。
 一方で期待感は、聴衆は最初から自分の中にある図式に意識的です。そしてその図式通りに現実が進行することを、その現実が進行する前から「期待」しているわけですから、こちらは「前向き(prospective)な知性の満足」であると言えます。

 このように、森下の定義は上述の二概念が混同して捉えられてしまうという危険性があり、その意味で不十分であると考えます(しかし逆に言うと、私は彼の議論と比較して初めてこの性質が明確に言語化されました)。

「ええ、どういうこと?」の笑い

 少し話が逸れました。森下の議論に戻って、次は「ええ、どういうこと?」の笑いとは何かを見ていきたいと思います。

 たとえば、『桃太郎』の昔話を全部語って聞かせるオウムを、テレビで見て大笑いしたことがある。「ええっ、どういうこと?」と違和感を覚えつつ、おかしくてたまらないのだ。それでは、その違和感やおかしさはどこから来るか。それはひとことで言えば「図式のズレ」からやって来る。つまりこのオウムは、オウムとは「オハヨウ」とか「オカエリナサイ」とかいった単純な言葉をくり返す鳥である、というわれわれの常識的図式をくつがえし、それから大きくはずれた姿をしめすことによって、われわれを笑わせるのである(57ページ)。

 これは素直に、私が論じてきた「意外感」の笑いと同じ概念であると考えてよいでしょう。

「なあるほど」の笑い

 森下の面白いのは、ここからさらに一歩踏み込んだところまで議論ができている点です。彼は言います。

 「やっぱりそうか」というストレートな知性の満足から来る笑いと「ええっ、どういうこと?」という知性の攪乱から来る逆説的な笑いが結びつくことがある。それが「なあるほど」の笑いである(58ページ)。

 「知性の満足」と「知性の攪乱」という一見反する二つの概念が、相乗的に笑いをもたらすことがあると彼は主張するのです。

 多くのジョークや謎かけはそのような構造をもっている。たとえばこんな謎かけ。「『あ』の字とかけて心臓ととく」。「そのこころは?」「『い』(胃)の上にある」。ここで、ひとはまず「あ」の字と心臓という奇想天外な結合に驚く。つまり、「あ」の字と心臓とは、日常的な図式のなかではなんら結びつきをもたないので、図式のズレが発生するのだ。ところが、謎解きの部分を聞くと、その驚きや図式のズレは、「心臓は胃の上にある」というよく見知った図式に解消され、ひとつの謎が図式に一致する形で解決されたことで知性の満足が生じる。そしてその結果、ひとは「おかしみ」を感じつつ、「なあるほど」と納得して笑うのである。

 賢明な読者の方は既にお分かりと思いますが、これはまさに、「伏線回収において、意外感と納得感は相乗効果を有する」とした私の主張と一致しています*3
 このように、森下の笑い論は、私の構造分析と驚くほどに類似点を持っています。むろん、時系列的には私が書いた文章が後なので、メンデルの法則の再発見的な切なさはそこにあるのですが。

2. 桂枝雀の「緊張と緩和」・カント

 森下伸也の次は、桂枝雀(2代目)のお笑い理論を見ていきましょう。枝雀について、NHKのHPから説明を引用します。

www2.nhk.or.jp

 派手で型破りなアクション、そして軽妙な語りで多くのファンを魅了した上方落語の爆笑王。寝ても覚めてもわずかな時間を惜しんでけいこに励んだ。古典落語のみならず、自ら翻訳を手がけた英語落語やSR(ショートラクゴの略)と名付けたちょっと変わった小噺などにも挑戦し、落語の世界に新しい風を送り続けた。

 やや異端の落語家だった枝雀は、ストイックな理論派としても知られており、その緻密なお笑い理論のうち最も有名なのは「緊張と緩和」論です。

「緊張と緩和」とは

 「緊張と緩和」とは、そのまま「緊張状態から緩和されたとき、人は笑う」という理論です。これだけで説明を済ますのは余りに味気ないので、ここではお葬式というシチュエーションを例にとって考えてみましょう。実はライフイベントのなかで最も笑い話ができやすいものはお葬式だと言われています。

 お葬式という粗相の許されない、緊張した場面においては「おかしなことをしてはいけない」という意識が強く働きます。それなのに、いやそれゆえに、その緊張を緩ませるようなおかしな出来事が起こったときに、余計に笑いが大きくなるのです。つまり、日常(=緩和された状況)ならば流されてしまうようなことも、葬式という「緊張」した場面においてはそれを「緩和」する誘発剤となり笑いを引き起こしてしまうということです。
 「ダウンタウンガキの使いやあらへんで!」という番組の「笑ってはいけないシリーズ」も、「緊張と緩和」理論の延長上にあると言えます。つまり、絶対に笑ってはいけない」という緊張感が演出され、それが仕掛けによって「緩和」されたときに笑いが起こる仕組みになっています。番組の企画として考えなくても、皆さんも、大真面目にしなきゃいけない場面でハプニングが起こり、必死に笑いをこらえた経験はあるのではないでしょうか?

構造分析の尺度「意外感」から見る

 この理論をよくよく考えると、私が「意外感」の説明のときにしていた話のより特殊な場面について言及しているということが分かります。
 私は、「『意外感』のボケが前提としている「共通認識」からの距離が大きいほど、笑いが起きやすい」といたうえで、それを下記のような式で表現しました*4

(意外感の大きさ) = (共通認識の明瞭さ) × (共通認識からの距離)

 つまり「緊張と緩和」理論は、「共通認識の明瞭さ」(=「笑ってはいけない」という共通認識の強さ=緊張)と「共通認識からの距離」(=緊張した場面と滑稽な出来事との落差の大きさ=緩和)によって説明されます。

カントの「笑い」論

 ちなみに、この原稿を書く過程で、哲学者のエマニュエル・カントが「緊張の緩和」理論と似たようなことを言っていたことを知ったので、そちらも参考に引用しておきます。

笑いは緊張した期待が突然無に転化することから生じる情緒である*5

 笑いを分析した哲学者といえばベルクソンですが、彼についてはまた機会を改めて触れたいと思っています。

3. 桂枝雀『らくご DE 枝雀 』(1993年、ちくま文庫

 桂枝雀といえば「緊張と緩和」のみがことさら有名なイメージですが、実は、彼のお笑いについての理論はそれだけに留まりません。もっと緻密で、壮大なことを枝雀は考えていたのです。ここでは、彼の理論の中から、「サゲの四分類」を紹介したいと思います。「サゲ」とは、落語におけるオチの台詞のことを指します。また、文章自体は前掲書からの引用ですが、画像はこちらのブログから引用させていただきました。

kogotokoub.exblog.jp

離れ領域・合わせ領域

画像1

 次の図を見とくなはれ。いろの濃いとこがフツーというかホンマの領域なんです。(略)で、外側を「離れ領域」と申しまして、ホンマの世界から離れる、さいぜん言いました「ヘン」の領域なわけです。常識の枠を出るわけですからウソの領域ですわね。しかもとりとめがありませんから極く不安定な世界です。
 対して内側にあるのが「合わせ領域」です。これもさいぜん言いましたとおり「人為的に合わせる」というウソの領域です。「合う」という状況も、あんまりぴったり合いすぎると「こしらえた」ということでウソになってしまいますわね。但し、「離れ領域」とちごうて「合う」ということは型ができるということやさかい安定してますわ(104-105ページ)。

 この「離れ領域」と「合わせ領域」を森下の議論と比較すると、笑いの原因として「現実が図式通りに進行しなかった」ことと「現実が図式通りに進行した」ことがあるという基本スタンスでは同じです。
 しかし枝雀が「合わせ領域」について、「『合う』という状況も、あんまりぴったり合いすぎると『こしらえた』ということでウソになってしまいますわね」と注釈しているのは、結局それも「知性の攪乱」(=離れ領域)の議論に回収されてしまっているという点で、やや不十分さを感じます。それに則ると「現実が図式通りに進行し『過ぎ』」ない限りは笑いは起こらないことになってしまいます。
 それでは、枝雀は「合う」ことによる「安定」それ自体(=知性の満足)が笑いにつながるとは考えなかったのでしょうか? これは後に見るサゲの四分類の引用で分かりますが、彼自身が「合わせ領域」の説明の際に「安定」や「安心」といったワードを援用しています。よって、桂枝雀は「安心」それ自体が笑いにつながるとは考えているが、彼のなかで明示的に言語化されておらず、説明をする際に「『こしらえた』ということでウソになってしま」うと口を滑らせてしまったのでしょう。
 また、この「合わせ領域」概念に対する私の考えは、先述の森下の「知性の満足」概念に対するそれと基本的に同じです(少し気になるのは、既に言ったように私は森下も枝雀も知らずに<お笑いと構造>を書いてきましたが、森下は枝雀のことをどれだけ念頭に置いていたのでしょうか?)。

サゲの四分類

 さて、森下と比して枝雀の詰めが甘いからといって、『落語DE枝雀』の文献的価値がなくなるというわけではありません。その後に連なる「サゲの四分類」は、特に落語について書いた文章ですが、それだけに留まらずお笑い一般に容易に適用可能であることが分かります。

①「ドンデン」
聞き手:「ドンデン」ちゅうのは「ドンデン返し」のことですか?
枝 雀:そうです。「こっちかいな」と思てたら「あっちやった」というやつですわ。(94ページ)

画像2

 つまり、サゲ前で一度、「合わせ領域」の方へ近づく。この「安定」に近づくのが「ドン」の部分であり、そのあと「離れ領域」へ「デン」と飛び出したところでとサゲになります。
 端的にこれは意外感の笑いでしょう。(意外感の大きさ) = (共通認識の明瞭さ) × (共通認識からの距離)の式を思い出してもらうと、「ドン」の部分が(共通認識の明瞭さ)を強化する働きであると分かります。

②「謎解き」
聞き手:「謎解き」はどうですか?
枝 雀:文字通り謎を解いた答えがサゲになるという型ですね。

画像3

 謎解きはドンデンの逆で、サゲ前で一度、「離れ領域」へ膨らみます。これが「謎」部分であり、それからその謎を解くことで「合わせ領域」に入って、サゲとなります。これは、納得感の笑いでしょう。

③「へん」
聞き手:お次は「へん」ですけど……
枝 雀:これはねェ、ほんまにあるような噺をしてて、最後に変なことがおこって常識の枠を踏み越えた時噺全体がウソになって終わるというやつです。

画像4

 ドンデンに近いですが、「安心」に近づく「ドン」のプロセスがなく、いきなり「デン」と「離れ領域」に飛び出るサゲのことを指します。意外感の笑いという意味では同様ですが、(共通認識の明瞭さ)の強化がないという意味ではよりチャレンジングなサゲです。

④「合わせ」
聞き手:いよいよ四つ目の「合わせ」ですけども……。
枝 雀:これはね、セリフでも趣向でもなんでもええんですけど人為的に合わせることでサゲになるというわけだ。

画像5

 謎解きに近いですが、「謎」の部分のふくらみがなく、いきなり「合わせ領域」に入るサゲです。これは少し解釈が難しいですが、いわゆる伏線回収のネタと同じで、意外感(ここでサゲが来るのか)からの納得感(でも確かに言われてみれば合っている)という、複合型の笑いと考えてよいでしょう。

枝雀の何が凄いのか
 この分類もね、ただただ趣味や道楽で「分類のための分類」をやっているわけやおまへんねで。再生産のためにやってますねん(124ページ)。

 私が枝雀を尊敬し、そしてどう足掻いてもかなわないと思うのは、彼は結局そのお笑い理論を実際のネタ作りに活かしていたという点です。頭脳明晰な分析者であると同時に、超一流のプレーヤーでもある。そこが枝雀の凄さです。

4. 結語

 以上、先行文献の比較として、森下伸也と桂枝雀、そしてちょっとだけカントにも触れました。全体を通して分かることは、「期待感」が笑いにつながるという考えが希薄だということです。理由は分かりませんが、「期待感」の笑いというのは比較的新しい概念なのではないか、という仮説を私は持っています。
 それを検証するのは別の機会に譲るとして、次回以降から、三尺度の応用編を始めます。理論編が終わり、ようやく、実際に現代のお笑いの細かいギミックについて考察していこうと考えています。まずは次回、「天丼」について扱います。

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