人間の身体には凹凸がある。

 循環器ローテ中、毎朝のカンファで話を聞きながら私は、自分の左手の甲から前腕にかけてくっきりと浮き出た自分の静脈を触っている。7階の狭い小部屋の窓はちょうど朝日と私の真ん中にあって、その光は青緑の管に陰影をつける。あまりはっきりとはみえないが、実は親指側にもむにむにと弾力のある血管がいて、私はそれも押しては離してを繰り返す。そこに流れる血液を、あの赤黒い液体とそれを包む血管壁を、教科書でみたような現実感のないシェーマで想像する。院長の話が終わる。

 ちょうど1年半前に、初めてサーフロ針を置く場所としての静脈を意識するまでは、私は知らなかった。人間の身体にはこんなにも凹凸がある。

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 人間には乳頭がある。実にそれぞれにさまざまな形をしている。探触子で皮膚の、筋肉の、心膜の内側を覗くとき、私の小指がそばの乳頭に触れることがある。そんなとき乳頭は、思いがけないほど素知らぬ顔をしている。親密にはなれない、あるいはなることを前提としていない身体の凹凸は、単なる引っ掛かりでしかない。記号的意味すら持たないのだ。

 いつも多過ぎるくらいに塗りたくられるあの青色のゼリーを、私は拭き切れた試しがない。ガーゼをゴミ箱に捨てたあと、自分が何をされていたのかもわからないような彼女の胸を最後にそっと触ると、いつもちょっと私の指と皮膚とがはりつく。私はそっとシャツをおろして、薄緑の布の紐を結ぶ。病室を出たあともべたつきは私の人差し指と中指に居座っていて、皮肉にもそれは彼女の身体にまとわりついてしまった微妙な、しかし不快な凹凸について忘れさせてくれない。

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 この前初めてタイ古式マッサージに行った。普通の住宅街にある一軒家の2階で、熱い小豆を目に被せられ、トークセンと呼ばれる木槌のようなもので脚を、足の裏を、腕を、手の平を叩かれた。気持ち良さはまったくなく、カンカンという硬質な音がとにかく耳に障った。最後にはうつ伏せにされ、おでこで自分の身体を支える姿勢になって、背骨を頭の後ろからお尻の上まで木槌で叩かれた。こうやっているうちに私の身体は、トンカチで平らにされて一枚の板みたいになってしまうのではないかと想像すると、おかしくなってきて笑えた。

 しかしそのあと、仕上げなのか何かわからないが、トークセンを捨てた相手の指が私の肩甲骨の内側へぐりっと入り込んだときには、痛みで笑う余裕なんてなくなってしまった。小さい悲鳴をマット越しに吐きながら、そのときばかりは自分の身体の凹凸を憎んだ。