外科医と雪かき

 10月半ばから年明けの第1週まで、同じ市内ではあるが別の大きな病院で研修をしている。自宅からはやや離れていて、寒いというよりは痛いという感情に襲われながら、12月頭までは自転車を15分漕いで氷点下の世界を走っていた。しかしさすがに路面が凍結し始めると自転車は不可能になり、40分近くかけて徒歩で通うことも考え始めていた頃、同僚から車を1か月借りられることになった。私の人生史上、最も「渡りに船」という言葉に適したシチュエーションであった。

 いざ冬の北海道で自分の車を持ってみると、困難が多いことに気が付いた。まず車内が寒い。朝出勤する十数分前にはエンジンをかけておかないと、運転し始めてから暖めるのでは到底間に合わないのである。さらに気温が下がってくると(ここでは平気で12月半ばの最低気温が-15℃になる)、車の窓が凍結している。それが軽度であった頃は「雪の結晶ってこんなに綺麗にできるんだ」となどと呑気に写真を撮っていたが、酷くなってくると車内を30分暖めたうえでガリガリと雪を削らなければならない。寒いのが嫌で車を貸してもらっているはずなのに、寝起きでまだ体が底冷えしているときに屋外で作業しなければならないので、溜まったものではなかった。

 とはいえ特に大きなトラブルなく2週間程度は車で通っていたのだが、事件は年に何度かある数十cmのドカ雪が降った日のことだった。予想外のことに遅刻を恐れた私は、車についた雪を軽く除けただけで慌てて発車し、そして2mも進まないうちに——車は止まった。そしていくらエンジンをふかしても、前にも後ろにも進めなくなってしまった。
 それが自分の駐車場の範囲内であれば、車を放置してタクシーで出勤ということもあり得たのだが、あいにく車道から駐車場へ入る道をちょうど塞ぐような場所になってしまっていた。近くで雪かきしていた人に声をかけ、タイヤの下に脱出用のラダーを噛ませ、後ろから押してもらいながらエンジンを全力で踏みつけるも、びくともしなかった。
「これはJAFを呼ぶしかありませんね」
 そう言われて私は、とりあえず「JAFを呼んでいます」というホワイトボードを車の窓からみえるようにして——ただ放置しているのではなく、何とか対処しているという意志を示すためだ——家の中に戻って、藁にもすがる思いでJAFに電話した。しかし見込みが甘かったのは、私の住んでいる地域では会員でなければ呼ぶことができないということだった。他のロードサービスに電話しても軒並みお断り。私はじわじわと絶望を感じ始めていた。これは、自分でどうにかする以外に方法はないのだと。

 私は覚悟を決めて、プラスチックのスコップを外へ出た。作業を始めて少しして、冬になると「雪かきACS」が救急車で運ばれてくる理由がすぐにわかった。とんだ重労働だった。いわゆるべちゃ雪だったために重さは何割かマシになっており、私は汗だくになりながら車まわりの雪を除けていった。タイヤまわりを綺麗にしても車は動かず、いわゆるスタックでなければ理由は何なのかと思いながら雪かきを進めると、車の腹の下にギチギチに雪が詰まっている状態であることが徐々にわかっていった。亀がお腹の下に岩を置かれて足をぷらぷらさせているような状態だ。この雪をぜんぶ除けて、さらに車を駐車場に戻すためにそのコース上の雪もすべてさらってしまわなければならない。このとき作業開始から1時間半。既に手はかじかみ、腕は痛み始め、ダウンを脱いでもなお髪の毛がびしゃびしゃになるくらいの汗をかいていたが、一度やめると作業を再開できる気がしなかった。
 闘いのなかで成長していくとはこのことだと私は思った。雪かきをしていくうちに、そのコツを自ら勝手に習得していった。スコップの雪に対する入射角が非常に重要で、雪を切るような動きとはがすような動きはそれぞれ独立して考えたほうがうまくいくことに気がついた。また雪の塊をなげるときもなるべくそこで腕の力を消費しないように、時には足で蹴る動きも組み合わせつつ工夫をするようになった。結局はちょっとずつ端から順序立ててコツコツ進んでいくのが最短の方法だった。
 私は雪かきをやっているうちに外科医のことを思い出していた。外科医というのは、とりあえず体をあけて切ってしまえば治ると思っている、大ざっぱで大胆な人、と一般的なイメージとして持たれることがあると思うが、外科ローテをしているときに私はその真逆の感想を抱いた。腸管のまわりの脂肪組織や血管、リンパ節を、目的以外の部分は傷つけないようにして、進んでいるかいないかわからないくらいのスピードでちまちまと剥離していく。開腹ではなく腹腔鏡の手術となるとそのイライラ棒的な地道さには拍車がかかった。つくづく、外科手術というのは根気のいる仕事だと思った。そして私にとって、まさしく雪かきというのがそれと相似関係にあった。
 結論から言えば、すべての作業を終えるまでに計5時間かかった。もう二度と、車が動かなくなったときの感覚を味わいたくなくてやや過剰に除雪を行ったために、私の駐車場まわりだけ隕石が落ちたみたいに雪がなくなっていた。最後、車の下に詰まった雪を除けるときだけは力わざで押し出すしかなく、冷たい道路に腹ばいになってスコップの柄で突きを繰り返した。私はとにかく必死で、目が血走っていて、自分がお気に入りの白いパーカーを着ていてそれが泥まみれになっていることに気が付かなかった。しかし最後についに車が動いた瞬間に脳に溢れ出た快感物質の量は凄まじく、私はひとり車内で「愛してるぜベイベー!」と叫んだ。人は極限に追い込まれると自分の知らない一面が出てくるものだと思った。

 このような雪かきの話を書いたが、私が住んでいる場所は気温のわりには雪が圧倒的に少ない。晴れが多く、冬でも空が美しい。昼は青く透き通っていて、朝と夕方は嘘みたいに鮮やかな橙色で染め上げられる。この一年、つらいこともたくさんあったが、いつだって変わらず美しい空に助けられた場面が何度あっただろうか。
 もうすぐこの土地を離れる。そういう予感を少しずつ強めながら寂寞とした思いに駆られ、同時にそれを忘却しようとひとつひとつの瞬間を大切にした一年だった。私はすべてを愛している。それも一過性のものではなくて、たぶん私は愛し続けると思う。