身体・享受・規律

 濡れた草の匂いを嗅いだ。ある中華料理屋で炒飯を食べ、外に出たときだった。その刹那、この2年間忘れていた匂いだと感じた。北海道は関西と比べて湿気が少ないのはもちろんのこと、夏の夕立ちを経験することもほとんどなかったのだ。身体的な位相で刻印されている記憶を掘り起こされた私は、これまでで最も強く、自分は関西に「戻ってきた」のだと実感した。もともと私はここで生まれて、ここで育ち、そしてここに帰ってくる人間だったのだ。
 帯広での記憶が自らの身体に刻みこまれているのかどうかはわからなくて、私はちょっとこわい。あの日々は幻のようだったね。

 専攻医の生活が始まって自炊が疎かになると思いきや、むしろ輪をかけて夜ごはんづくりに熱を入れている*1。仕事と研究で日々が手いっぱいなので、楽しみを見出すのが料理くらいしかなくなっているのだ。毎日働きながら、朝から「今日は何をつくろう」ということを考えて過ごすのが励みになっている。一人暮らしゆえに冷蔵庫に食材がどうしても余るので、それを組み合わせて自分がつくったことのない料理を創発するのが醍醐味である。
 休日にランチを開拓しに出かけるのもまた楽しい。自分で料理するようになって余計に、ごはんの美味しさ、そこにこめられた創意工夫を舌できめ細やかに感じられるようになって、「自分は食を享受している」と心の底から幸せを感じる瞬間が増えた。私の生には享受が欠けているというのはかねてからの私の悩みであり*2、いまそこに風穴が空きつつあるのだ。
 料理をつくること/食べることというのはどこまでいっても身体的な営みであり、結局のところ私はこれまで、認識論的におもしろいと思えるものしか信頼できていなかったのだろう。

 実は帯広にいる2年間で15kg痩せた。理由は明白で、自炊を始めてから「今日はランチでいっぱい食べたから夜は少なめにしよう」「飲み会がある日はお昼を控えめにしておこう」という自己調節が容易になったからだ。しかしそれはほんとうに気づかないうちだったので、今年の4月に就職するにあたっての身体測定で判明した。
 一度痩せてしまうとそれを保ちたいと思うようになり、体重計を買った。自分の性格上こうなるのはわかっていたのだが、数字として結果が出ることへの執着が増し、目標とする体重値の±500gに収めることが日々の日課になっている。具体的には、(低体重を下回るのはさすがにまずいと思っているので)私の身長でBMI 18.5となる56.0kgを下限に、56.5kg±0.5kgになるよう毎日体重を測り、食事量を調整し続けている。
 私は、痩せて以降の自分の身体を気に入っている。昔は少しぽよっと出ていたお腹が今は締まっていて、しばしばお風呂に入る前に裸の身体を鏡に映して眺める。数百gの体重の上下に一喜一憂する生活が健康的であると到底言えないのはわかっているが、しかし今の身体が失われるのが惜しくて、体重計に乗るのをやめられない。
 食べることと重みを増すことは表裏一体であり、食を享受することが、体重の規律という観点からは罪の意識を孕んだ行為となる。その両極の緊張まで含めて私はアディクトしているのかもしれない。そう思うとやはり病的である。