Zoomgalsの「自己矛盾」とサイボーグ・フェミニズム

は? ギャルの鉄則? なんてあるようで無いし好きにやりや

 それは衝撃だった。私には、漠然と感じていたZoomgalsの「自己矛盾」が、大門弥生のその一言で一挙に顕わになったように思えて、動揺した。

1. Zoomgalsとは何か

 Zoomgalsとは、世界が世界を「コロナ渦」であると認識し始めた2020年3月、ギャルラッパー・valkneeのこのツイートをきっかけに集まったMarukido、田島ハルコ、なみちえ、ASOBOiSM、あっこゴリラのフィーメールラッパー6人組のヒップホップクルーである。

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 その6人のバックグラウンドは様々である。たとえば、なみちえは、黒人女性へのルッキズムへのアンチテーゼとしての東京藝術大学でのの着ぐるみ制作で話題になった経歴を持つ*1。彼女がラッパーとして名をヘッズに知らしめたのが『おまえをにがす』(2020)であり、一見意味を成さないフックがリフレインされることで黒人の蔑称である「ニガー」が浮かび上がる、ユーモラスながら批評性の高い一曲になっている。

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 またMarukidoは、秋葉原のいわゆるJKビジネスを題材にした『合法JK』(2019)が出世作だ。「ギャラ飲み地方出身成り上がり/パパ活投資家エンジェルばかり」「単価落ち/クレカ審査落ち港区女子」などという歌詞で、性の商品化の蔓延るストリートをリアルに描く。Marukidoは歌詞であけすけに性的な用語を使うことを厭わないし、MVやアートワークにおいても電マやディルドといったアイテムを故意犯的に多用する。彼女はそういった社会の暗部に陥る若い女性の絶望を歌いながら、ドラッグを想起させるワーディング・演出で束の間のアジールを見出そうとする。

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2. ギャルマインド

 もともとはvalkneeの「『自分は最強』みたいなことだけ言うラッパー」として集まった6人だったが、その「自分は最強」というメッセージは、トキシック・マスキュラリティのいまだ強く蔓延るヒップホップの世界においては彼女たちが女性であるという事実とは切り離せなかった。そうした時代の必然性と彼女らの意志がちょうど噛み合う形で、Zoomgalsは日本のヒップホップ・フェミニズム史に外せない存在へと一躍のしあがった。Zoomgalsとして出したのは(valkneeのfeat.名義であった『Zoom』も含めると)4曲で現在は自然消滅的に活動休止をしているにも関わらず、2023年5月に刊行されたばかりの『ユリイカ』(青土社)の特集「<フィーメールラップ>の現在」で実に多くの記事が彼女たちに言及しているのがその証拠であろう。

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 背景のバラバラな彼女たちを結びつけているのは「ギャルマインド」であると、つやちゃん『わたしはラップをやることに決めた』(DU BOOKS、2022)は論じる。冒頭の歌詞は『GALS(feat. 大門弥生)』からの引用だが、あっこゴリラのヴァースで「蘭ちゃん一生崇める/みほなはマリア」と歌われるように、そもそもこの曲のタイトルの参照元は伝説のギャル漫画『GALS!』(藤井みほな作、1998年12月から2002年5月まで雑誌「りぼん」にて連載)だ。

引用された漫画『GALS!』は、90年代末という時代に連載されながらも、当時のいわゆるギャルらしくない子に対して“ギャルかどうかはお前が決めろ!" と指南する先進的な漫画だったことを忘れてはならない。約20年の時を経て、Zoomgalsは、『GALS!』で提示された価値観を受け継ぎながらも、"マインドこそがギャルをギャルたらしめている"という再定義された昨今のギャル像を彼女たちなりの表現で描いている。(123ページ)

 「ギャル」というのが指しているのはむろん、特定のギャル、すなわちコギャルでもガングロギャルでも白ギャルでも姫ギャルでもない。「男ウケ」を狙うのではない本当に自分のしたい服装をする「ギャル」という属性が、単なるファッションの意味を超えて、アイデンティティ・ポリティクスにおける「女性」をエンパワーメントする標語へと彼女らは拡大させた、と私は理解していた。

だが、このMVで映されているのは、90年代の元祖ギャルがまとっていたあのコーディネートではない。誰一人として重なることのないばらばらの装い、独自の主張、そして一本軸が通された「好きにやる」という美意識。(前掲書、123ページ)

3. Zoomgalsの「自己矛盾」

 しかし私には『GALS』以前から、その「独自の主張」の「ばらばら」さが気がかりであった。各々がやりたいことを自由に表現するがあまり、一曲の中でそれぞれの価値観がバッティングしているように思える瞬間があったのだ。

 この点について重要な示唆を与えてくれるのは、前掲のユリイカの特集に収載されている中條千晴『フィメールラッパーの恋愛表像』である。この論文において、まさにZoomgalsのメンバーであるMarukido、あっこゴリラ、Valknee、そして大門弥生に関する言及があった。
 Markidoは、様々なメディアで自らの性体験について赤裸々に語ったり、先述のように性の商品化をアイロニカルにネタにしている。「性を商品化することが日常となってしまった現代の日本社会のなかで、その支配構造をこっそりと転覆する女の子たちの『密猟(セルトー 1990)』を臨場感ある表現で語る」のだが、「その社会病理を直接的な形で批判・糾弾するという姿勢を取ってはいない」。

彼女たちの描く女性のエージェンシーは、家父長的なジェンダー規範に基づく男性の恋愛観、男女関係への価値観を完全に否定するものではなく、そのため本質的にはそのような規範に基づく支配・被支配と共謀する構造を保存し、女性の身体を積極的に「従属」(assujetti)させる可能性を孕んでいることにも留意する必要はあるだろう。社会の病理をうまく取り込み生き残るその戦術は、結果的に(フーコー的な)生権力による「主体化」(a-sujettissement)を再生産し続けているとも見て取れる。(『フィメールラッパーの恋愛表象』、122ページ)

 Marukidoの下記のような露悪的なツイートもその象徴だろう。*2

 一方で、あっこゴリラや大門弥生は、「男性中心のセクシュアリティの規範を否定し、自己の選択を肯定するようにエンパワメントし続けるフェミニストを公言する」。あっこゴリラのリリックからはいつも、学術的基盤がしっかりしていることを窺わせられる。
 またValkneeは、「『かわいさ』を(男性主体ではなく)自らの価値基準によるものとする 立場をとる。「男性中心の恋愛規範に自らを寄せるのではなく「尊敬せいよ」「生まれたまんまのあたしを愛して」(Valknee「DIARY」2020)と社会に要求する Valknee の男性(性)を軸としない恋愛表象には、「尊敬」ということばによって恋愛における男女間の支配・被支配の構造を打開しようとする姿勢が窺える」。

 このように一口に「ギャルマインド」と言っても彼女たちの態度はさまざまであり、他の果たしてメンバーどうしでお互いに齟齬はないのだろうか、というのは一リスナーとしての私の疑問であった。それぞれが「好きにやる」ことの帰結としてZoomgalsは自己矛盾に陥っているのではないか。その疑問が頂点に達したのが『GALS』であった。
 この曲は、「GALの鉄則」が何かということについてのマイクリレーである。あっこゴリラ、なみちえ、valknee、ASOBOiSMが鉄則をその1、2、3、4と繋いだあと、田島ハルコが「その○」という形式を使わずに崩し、そしてMarukidoが登場する。宮台真司が脈絡なくネームドロップされたあと(彼女の引用の仕方にはややぺダンティックなことが多い)、「お前の頭にI'ma naked the shit/ I'm naked the shit/ ギャルの鉄則I'm naked the shit」という耳で聞くと「生中出し」と聞こえるリリックが繰り返される。「お前」で想定されているのは(有害な)男性であり、それを「生中出し」という本来は男性側が行う行為を逆手にとって、カウンター的な意味合いを帯びさせているのだろう。しかしそういうやや露悪的な性的表現が私にはどうも、他のメンバーのリリックとは馴染まないような気がした。
 たまたま「自分が最強」と思って集まった即席のZoolgalsの連帯は難しいのではないか、そう予期していたところに冒頭の大門弥生のリリックである。「は? ギャルの鉄則? なんてあるようで無いし好きにやりや」と強い関西弁でそう吐き捨てる大門弥生には、曲のコンセプト自体を無に帰すような破壊力があった。特に直前がMarukidoの「ギャルの鉄則生中出し」であったのも余計に、マイクリレーの断絶を私に感じさせた。そういった異性愛規範を前提とした露悪的な歌詞を吐き捨てるように聞こえた大門弥生の一言、いや「は?」の一文字は、私にZoomgalsの「自己矛盾」*3について改めて考えさせるには充分すぎる重みがあった。

4. フェミニズム科学論、および、全体性の問題

 そんな疑問を氷解させたのがダナ・ハラウェイの『サイボーグ宣言』であった。フェミニズム科学論における金字塔のひとつであるこの論文は、端的に言えばフェミニズムにおいて「ばらばらでありながら連帯すること」がどういうことなのかを明らかにしている。それはまさに言わばZoomgals的な連帯を40年近く前にすでに先取りしていた内容であったのだ。

 なぜフェミニズム史においてサイボーグが出現しなければならなかったのかについて、ふたつの補助線を引こう。
 ひとつはフェミニズム科学論の文脈である。それは80年代初めにフェミニストたちが、科学技術のジェンダー化について批判的に論じるところからスタートした。掃除機やキッチン家電などのテクノロジーは本当に女性を解放したか。フェミニズム科学論は、科学技術がジェンダーや人種といった差異と結びつきながらそれらの間の不平等を維持していることを明らかにした一方で、次第に議論はエスカレートし、科学技術における男女のジェンダーの差を本質的なものとする見方や、科学技術そのものや男性性を厳しく否定する議論も巻き起こった*4

 もうひとつは『サイボーグ宣言』においてハラウェイが論じている、フェミニズムにおける全体性の問題である。マルクス主義フェミニズムもラディカルフェミニズムも、すべてを包摂するような議論を目指したが、それゆえに、排除する=「全体性」から漏れる要員を必然的に生み出してきた。

カテゴリーとしての女性や、社会グループとしての女性が、一体化された存在として、あるいは全体化が可能なあるまとまりとして構成されていることを明らかにすると主張するような理論には、人種(やその他こもごも)が入りこめるような構造的余地などなかったといえる。(ダナ・ハラウェイ『猿と女とサイボーグ』、308ページ)

 ハラウェイは、まさしく私がZoomglasについて考えていたのと同じような、フェミニズムをひとくくりにすることの困難さについて語っている。

今日では、ある者にとってのフェミニズムに対して、単一の形容詞をもって名称を付与することは困難となっているし、状況にかかわりなく、フェミニズムという名詞にこだわりつづけることさえすでに難しい。名称の付与という行為に伴う排除の意識には、尖鋭なものがある。アイデンティティというものは、常に、相矛盾し、部分的で、戦略的であるかのようにみえる。ジェンダー、人種、階級の持つ社会的、歴史的な構成がようやくのことで認識されるようになった今、たとえ「本質的な」一体性を信じる場合であっても、その根拠を、こうしたジェンダー、人種、階級といった構成に求めることはもはや不可能である。「女性(female)」であることに、女性(women)を自然に結束させるべき何ものかがあるわけではない。「女性」というカテゴリーにしてみても、極めて問題の多い性科学の文脈をはじめとする社会実践の中で構成されてきた高度に錯綜したカテゴリーなのであって、女性「である」という状態が存在するわけではない。(同書、297ページ、太字強調は筆者)

 それは、近年フィーメールラッパーが「フィーメールラッパー」というカテゴリーそのものの荒唐無稽さについて語るのにも呼応している。もはや女性「である」、フィーメールラッパー「である」というアイデンティティに基づいた連帯というのは意味をなさなくなっているのだ。

5. 異なりながら結びつく

 そこで登場するのがサイボーグである。

サイボーグ―サイバネティックな有機体―とは、機械と生体の複合体であり、社会のリアリティと同時にフィクションを生き抜く生き物である。(同書、287ページ)

 サイボーグの身体においては、生体と機械は部分的につながりつつ、ほかの部分ではそれぞれが差異を保ったまま同じ身体に存在している。ハラウェイはそのモチーフを用いて、いき過ぎたフェミニズム科学論のようにただ男性性を否定・批判するのではなく、その前提となる男性/女性の二元論のそのものが、単純な支配関係ではなく、いかにアイデンティティ・政治・経済などにおいて複合的に結びついているかに注目した。異なりつつ結びつくということのメタファーは、西洋近代哲学が前提としてきたあらゆる二元論を解体・脱構築する。

原著の表紙絵

 そしてハラウェイのサイボーグは、フェミニズムにおける全体性の概念も脱臼させる。ハラウェイに多大な影響を受けた人類学者マリリン・ストラザーンの言葉を借りれば、「それはひとまとまりのイメージではあるが、全体性のイメージではない(a whole image but not an image of a whole)」(『部分的つながり』、128ページ)。

サイボーグはスケールに従わない。サイボーグは単数でも複数でもなく、一でも多でもなく、お互いに同形ではないがゆえに比較できない部分と部分を結合するつながりの回路である。単一の存在、あるいは複数の存在からなるひとつの多数体として、全体論的あるいはアトミズム的にアプローチしてはならない(同書、163頁)。

 ではサイボーグ・フェミニズムにおける連帯とはどのようなものなのか。ハラウェイは、「である」という単一のアイデンティティ(identity)を基盤に全体性を目指す代わりに、異なりながらも結びつき、同時にそこに存在するあり方について論じる。そこで用いられるのはアフィニティ(affinity)という単語である。次章でこの言葉について論じよう。

しかし、提携、すなわちアイデンティティではなくアフィニティを介した、もっとちがったかたちでの応答が、徐々に認識されるようになってきている。(『猿と女とサイボーグ』、298ページ)

6. 状況に置かれた知とアフィニティ

 アフィニティという言葉を理解するうえで、同じ『猿と女とサイボーグ』に収録されている論文『状況に置かれた知(situated knowledge)』を読む必要がある。

 ハラウェイが批判の対象としたフェミニズム科学論において、一部の極端な社会構築主義者は俯瞰的な立場を自称してきた。しかしハラウェイにとって、「上から全体を見渡すことができる」というのは幻想である*5。再びマリリン・ストラザーンの言葉を借りれば、「私たちが描く世界像は、肉体組織と人工器官の能動的な知覚系に依存している」(『部分的つながり』、120ページ)。

……それら多様な像は、無限の移動性や互換性のアレゴリーであってはならないが、ハラウェイがいうように、「細微にいたる特異性や差異の、そして他者の視点から誠実に物事を見ることを学ぶ際に人々がしめすであろう愛のある配慮の」(Haraway 1988)アレゴリーである。この視点にたてば、合理的知識は中立的であることを装わないだろう。部分的であること=肩入れをすることは、意見を聞かれ、主張を行うポジションをとるということであり、それは上からの眺めではなく身体からの眺めである。だから、あらゆる視覚的な可能性は非常に限定的にならざるをえない。ハラウェイは宣言する。ただ部分的なパースペクティヴのみが客観的なヴィジョンを保証する、と。だとすればハラウェイの著作は、自らが関与する言説の内部に自身を位置づけながら、同時に当事者として熱を帯びた批評活動をする権利を保持する、私たちの時代のもうひとつの民族誌である(同書、120ページ)。

 ハラウェイはこの「身体からの眺め」を「ヴィジョン(vision)」と表現した。そしてハラウェイはこの「ヴィジョン」に基づいたフェミニズムにおける客観性を、以下のように表現する。

フェミニズムの立場にたった客観性とは、限定された位置、 そして状況に置かれた知に関わるものなのであって、主体や客体の超越や、主体と客体の解離に関わるものではない。(『猿と女とサイボーグ』、364ページ)

 改めて注意を喚起しておくが、ここで言われている「位置」とはすなわち、女性であるかそうでないかという「アイデンティティ」に関わるものではなく、ある特定の人がその身体をもって置かれている特定の位置のことである。「具象化された身体/生体の固定された位置」(同書、373ページ)。

フェミニズムにおける科学の問題が有している多様なイメージとは、逃避したり限界を超越したりした結果としての産物、すなわち、上方からの眺め(ヴィジョン)であなく、さまざまな部分的な眺め(ヴィジョン)やとぎれがちな声を、集団としての主体という位置へ結び合わせていくことであり、こうした集団としての主体という位置こそ、進行中の有限の具象化作業の手段としての見方/見え方(ヴィジョン)、さまざまな限界や矛盾の内部に棲息する手段としての見方/見え方(ヴィジョン)、すなわち、特定のどこかからの眺め(ヴィジョン)を保証する。(同書378ページ、)

 ここで本章の主題へと戻るが、フェミニズムにおけるアフィニティとは、置かれた状況の類似性をもってつながるということである。黒人女性なのか白人女性なのか、ブルジョワなのかプロレタリアなのか、母なのか娘なのか、その「アイデンティティ」は異なろうとも、置かれた状況の親和性をもって成立する関係である。これが、アカデミズムとしてのフェミニズムも、運動としてのフェミニズムも常に突きつけられてきた、「『我々』とは何か」という問いに関する(それには答えないという形での)答えである。

7. Zoomgals的連帯を再考する

 さて、ようやく、Zoomgalsの話に戻る。彼女らの「ギャル」性について、私が当初抱いていた解釈について改めて考えてみよう。私は第2章で「アイデンティティ・ポリティクスにおける『女性』をエンパワーメントする標語」として「ギャル」を解釈したが、そもそもこの「アイデンティティ」の文脈に置くのが違和感の源であった。
 Zoomgalsは「フィーメールラッパー」であるから連帯したわけではなく、マスキュラリズムの色濃いヒップホップという世界にいる彼女たちの個々の置かれた状況の類似性=アフィニティから、結成に至ったのである。そこにおいて、彼女たちの「アイデンティティ」が「ばらばら」であることはその連帯を阻害するものではないし、ましてや「自己矛盾」などではない。
 そう思うと、マイクリレーというヒップホップでは一般的な形式も、異質な他者が同じビートのうえでひとつの曲をつくるという意味で、実にサイボーグ的である。valkneeと、Marukidoと、田島ハルコと、なみちえと、ASOBOiSMと、あっこゴリラは、それぞれに異なりながら、しかし部分的につながり、Zoomgalsというサイボーグとなったのだ。そして「は?」と吐き捨てるように6人に投げかける大門弥生もまた、そのサイボーグにアフィニティをもって接続されている。

 Zoomgalsの実質的なリーダーであったvalkneeの、前掲のつやちゃんの著書内で行われたインタビューでの発言を紹介して本稿の締めとしたい。彼女がどこまでハラウェイ的な思想を念頭に置いていたのかは不明だが、図らずもZoomgalsの連帯におけるサイボーグ・フェミニズム的な性質について語っていた。

——わたしは、全然キャラクターの違う人同士がお互いのリリックとかにケチをつけず連帯してみるっていう動きがあってもいいじゃんと思って Zoomgals を始めたんです。世の中も、全然違う考えの人同士で協力しあえるようになってほしいんですよね。(『わたしはラップをやることに決めた』、160ページ)

8. おわりに

 敢えて本稿では触れなかったが、ハラウェイ自身は『サイボーグ宣言』でアフィニティという言葉の注釈として、「血縁ではなく、選択にもとづくような関係。"化学"作用の核となるようなある集団が、別の集団に呼びかけることによって成立する関係。親和性」(同書、297ページ)と書いている。
 「選択にもとづく」というのは、論じてきたように特定の位置に置かれたある個人を想定したような書き方で理解しやすい。一方でその前の「血縁ではなく」というのは、フェミニズムの文脈ではどのようなことを想定されているのかがすぐにはつながりにくい。ハラウェイが2020年代前半現在掲げている「Make kin not babies(子どもではなく類縁関係をつくろう)」というスローガン、および人と「人以外」の絡まり合いに注目するマルチ・スピーシーズ民族誌の潮流へとつながっていく*6のは理解できるのだが、本稿の論旨との関連についてはいまの私にはシームレスに語ることができないというのが正直なところである。これを次の課題として、ハラウェイの思想の全体像を掴むことを目指していきたい。

*1:https://grinweb.jp/feature/0005/

*2:フェアであるために書いておくと、彼女が結婚・出産を経て以降はそういった方面もやや翳りをみせたようにも思える。

*3:と言いつつ本記事がMarukidoとその他のメンバーの対立のようになってしまっているのは、誠に私の筆力の至らぬところである。実際にはメンバーどうしが互いにすべてお互いの態度について賛同し合っているのだろうか、と疑問に思っていた。

*4:鈴木和歌奈.“実験室から「相互の係わりあい」の民族誌へ ポスト-アクターネットワーク理論の展開とダナ・ハラウェイに注目して”(2020).

*5:このようなハラウェイの思想はジェイムズ・クリフォード『文化を書く』以降のポストモダン人類学の問題意識と共鳴していて、ストラザーンをして「世界に対する複数の視点を加算していくことで全体的な眺望を手にできる」という西洋近代の多元主義(pluralism)および観点主義/遠近法(perspectivism)批判を書かせたことを理解するのはたやすい。それがさらにサイボーグのイメージによって喚起されて結実するのが、ストラザーンの「異なるまとまりが共在していて、なおかつ、お互いに部分的に重なり合っている」ポスト多元主義(postpluralism)の思想である。ストラザーンの影響を受けて動脈硬化の存在の複数性についての民族誌を書いたアネマリー・モルは、それを「一より多いが、多より少ない」と表現した。

*6:

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