平成31年4月12日 第13回 財布見つからない

 財布が見つからない。あるいは、もう諦めるとするならば、見つからなかった。
 現金約9000円、図書カード約5000円分、クレジットカード2枚、デビットカード1枚、運転免許証、マイナンバーカード、保険証、その全てを失った。そして、失くした財布自体が、私の20歳の誕生日に親が買ってくれたものだったことが辛くて申し訳ない。
 「すでに落としてしまったことに気づく」とか言ってる場合ではない。大切なのは落としたときに気づくことだ。さもなければ、数万円と、母の信用を同時に失うことになる。

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 弱り目にたたり目というわけではないが、今、私のiPadはバキバキに破損している。画面には縦横無尽にヒビが走り、この前などは、ついに穴が空いた。穴が空いた状態のiPadを頭のなかに描ける人はそうそういないと思うが、ともかく、こうやって文章を打つことはできているのだからAppleは偉大だ。
 先週、さすがに新しいiPadに替えようとdocomoショップに行こうと思いたったものの、私ははたと気がついた。免許証がない。保険証もない。マイナンバーカードもない。自分が自分であると証明できるものが何もない。

 共同体で社会的生活を行うためには、「何者であるか」を常に示し続けることが求められる。何者か分からない人は、社会に帰属することは許されず、「ソト」の存在になる。
 社会に帰属するための免許証であり、保険証であり、マイナンバーカードであるのだが、それらは、思っている以上に簡単に失われる(個人差はある)。私たちは、いともたやすく、社会に「自分が何者か」を証明することが難しくなる。
 それはとても不安で耐えがたいことだ。証明できなくなって初めて、自分が実は証明し続けながら生きてきたことに気づく。

 ××免許試験場でようやく免許証を再交付できたとき、また社会に帰属し直すことができたという安心感が、私を包む。

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 帰属意識は、私たちをこの社会につなぎとめてくれる安全帯のようなものだ。
 でもときには、それを外して歩いてみることも必要だと思っている。

 私はお酒が大して好きでもないくせに、生意気にも、たまにひとりでバーに行く。木屋町の飲み屋コミュニティのリアルを知る、フィールドワーク的楽しみ方をしているのもある。この前は、バーのバイトのお兄さんが近くのスナックのママの車椅子を押してヨドバシカメラまで買い物に付き合った話を聞いた(いったいそのママっていうのは何歳なんだ?)。
 が、何より、自分が「どこどこ大学の何学部」という所属から全くもってフリーな世界に身を投じることができるのが、最大の魅力だ。「×××」という名前以外は何も情報もない、ありのままの私としてその場に存在できる。そんなことは、自分が帰属してしまっている社会では実現不可能である。
 そして、「ありのままの私」は、ただの人見知りで華もなくテンションの低い若者で、結果、常連のおじさんに「大人しくてつまんないね、この人」という烙印を押される。わりと落ちこむ。でも、それがいいのだ。

 医学生は、医学生であるという事実それだけで、多くの人が凄いと言ってくれる。また、自分がこれまで色々な課外活動をやってきたことを知っている人たちは、何をやっても凄いと褒めてくれる。
 けれども、そういうのに縋ってばかりではいけないと思っている。自分の所属とか歴史とかそういうのを全てとっぱらい、ゼロからのスタートを切らなければならなくても、自分の魅力・面白さは自分でプレゼンできるようにならなくてはいけない。
 その練習として、私は、バーに行って知らないおじさんと話す。そしてつまらなさそうな顔をされる。それを繰り返す(たまには笑ってくれることもある)。

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 “Get out of your comfort zone.”
 誰に教えてもらったのか忘れたが、とても好きな言葉だ。「自分が何者かを皆が知ってくれている、分かってくれる」社会に身を置き続けていては、いつまで経っても成長できない。
 一応注意しておくが、この言葉は、「それを身をもって知るために財布を落とせ」というメッセージでは、決してない。