人と出会うこと、そしてつながること

 本稿では、人と人のつながり、あるいは出会いにおいて、新型コロナウイルスの影響によってどのような変化が起こっているのか、思考の流れるままに追っていく。

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 「オンライン飲み会」なるものが流行っている。zoomを始めとするビデオ会議システムを通じて、家にいながらにして知人たちと開催する「飲み会」のことだ。同世代の大学生の多いSNSのTLを眺めていると、頻繁に「zoom飲み」をしたという報告が流れてくる。大学での対面の授業が中止になり、外出を制限される中で、それもなお人との繋がりを希求する者たちの必然的な帰結として流行しているように思う。かく言う私も、少なくとも週に一回は親しい友人とコミュニケーションをとる時間がなければ、(実家暮らしとはいえ)対人関係に飢えてしまうだろう。
 以上の記述で想定していた「オンライン飲み会」は、コロナの騒動がなければface-to-faceで会っていたはずの人たちとのそれであり、失われた対人関係を取り戻すことを目指している。ただそのような単なる復旧だけではなく、本来会わなかったはずの人たちとの交流の場が新たに創出されるパターンもある。それは特に遠方の友人である。「いつか会おう」と話していた人が、「どうせ会えない」になり、「じゃあ今話そう」となってオンラインでの対面が実現する。私も、その思考の流れによって何人かの友人との久方ぶりの「再会」を果たした。
 この「再会」は、対面ではなくオンライン上であるからあくまで鉤かっこ付きの「再会」である。あくまで個人的な所感で恐縮だが、そこには絶対的な差異が存在する(ように感じる)。このまま友人たちと死ぬまで対面で会うことなしにオンラインで全てが事足りるのかというと、多くの人がそういうわけにはいかないというのが現状だろう。zoomで誰かと散々喋った後でもなお、私はその人に「会いたい」と思う。恐らくそれには「身体性」の議論、あるいは現状のビデオ通話における技術的問題も多分に関係していると思うが、その話題については別の機会に譲りたい。
 ともかくここで強調しておきたいのは、コロナによる外出自粛・3密回避の方針により、対人関係において決定的に喪失されたものがあるということである。

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 さて、その「喪失されたもの」は私が思うに他にもある。それは<偶発的な出会い>である、と勝手にここで名付けておく。
 医学生である私にとって卑近な例で言えば、大学病院の北の端にある、学生用の更衣室前の休憩スペースになるだろう。そこでは実習前、大学に早く着いてしまった人が他の班員を待っている。あるいは実習の合間、中途半端な、家にいったん帰るほどでもない自由時間を与えられた人暇を潰している。あるいは実習終わり、その日の夕方から特に予定もなく、やるべきこともない人がダラダラしている。あるいは病院のWi-Fiでカルテを見ながらレポートを書きたい人が、イヤホンしながら作業している。
 そのような場においては、ある人がある時間にそこにいるということのほとんど全てが、意図したものではない。実習という医学生にとっての最大のタスクをこなす過程で、様々な外的要因に影響されながら、「更衣室前の休憩スペース」に寄ったり、寄らなかったりする。その結果、「休憩スペース」における出会いは純に偶発的なものとなる。
 特定の誰かに会うことを期待するわけではないが、時間があればとりあえず行ってみて、誰かいるならその人と話すし、いないならいないで少し時間を潰してから帰る。そのような<偶発的な出会い>は、実習が完全に中止になることにより失われてしまった。
 何もそれは「更衣室前の休憩スペース」にだけ存在するわけではない。私自身の他の例で言えば、「所属する部活の部室のソファー」がある。積極的に連絡をとってそこで落ち合うのではなくて、その時間にたまたま「部室のソファー」にいた人と喋る。その場にどれだけの時間いるのかということも、誰と何を話すかということも決まっていない。そこに<偶発的な出会い>がある。そして読者の皆さんも、それぞれの生活空間において<偶発的な出会い>があるのではないだろうか。
 そして次の問いは以下のようなものである。その<偶発的な出会い>の喪失は、どのような影響を私たちに与えるのだろうか?

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 一つには、私が上にあげた例に限って言えばだが、Goffmanが言うところのBack stage(裏舞台)へのアクセスの制限が言えるのかもしれない。Gofmanは、「我々は、日常生活という舞台で、何らかの役割を演じながら生きている」という考え方を提示した(ドラマツルギー)。私たち医学生が、病院というFront stage(表舞台)で「実習生」という役割を演じているのだとすれば、「更衣室前の休憩スペース」は、その役割から自由になることのできるBack stageである。
 そこでは、臨床実習をするなかでの不満あるいは率直なコメント、目下最も重要である国試対策の進捗度やそれに関する所感、マッチング先の病院についての情報のやり取り、あるいは医学部コミュニティという村社会におけるゴシップ、など盛んにBack stageとしてのコミュニケーションが遂行されていた。なんとなくそれによって、積極的に求めずして、周りの学生と一定の情報、あるいは(同等に重要なこととして)感情も、共有できているような感触があった。
 しかし今やそれは全くアクセス不能であり、不可視なものになってしまった。多くの同級生とはSNSで繋がっているが、所詮そこに書かれることは(もちろんど真ん中ではないが)Front stageの延長上である。「休憩スペース」での発言の十倍希釈くらいのものしか見ることができない。このような状況にあっても連絡をとり、オンライン飲み会などの手段を通じて「わざわざ」繋がろうとはしない友人たちの存在が、一気に遠くなってしまった。
 このことは一方で、私たちのコミュニティが多分に選択的になっていることを意味する。「自分から連絡をとってオンラインでもコミュニケーションを取ろう」とする閾値がどこにあるのかは人それぞれだが、その閾値が高いにしろ低いにしろ、それは「ここからこっちの人とは『わざわざ』話す、ここからこっちの人は『わざわざ』話さない」と線引きすることである。冒頭に挙げた、「親密な友人」の場合も「遠方の友人」の場合も同じである。そこに偶然性は排除されている。否応なしに、たまたま、誰かと遭遇するという体験が失われてしまっている。
 <偶発的な出会い>は完全に失われてしまい、<意図的な出会い>のみがそこに残る。

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 ここで大事なことは、<意図的な出会い>は、私たちがこれまで(対面で)つくりあげてきた紐帯によって初めて可能になる事象であるということである。(出会い系ツールなどの利用を除いて)お互いにまだ知らない人たちと、<意図的に出会う>ことは難しい。言ってみれば、コロナ以前の紐帯=過去の遺産があるからこそ、「こんなときだし/こんなときだけど、zoomで飲み会でもする?」という話が進むわけである。
 このことから、二つのことが言える。一つめは、普段から紐帯をうまく築けていなかった人にとって、今が大変厳しい局面であるということである(本人が紐帯を望んでいるかどうかはまた別の話だが)。以前にも増して互いに選択的になっていくコミュニティにおいて、疎外される人が発生してしまう可能性がある。
 もう一つは、今の時代において、人と<新たに出会う>ということがかなり難しくなっているということである。この文章は、今年大学一年生になったばかりの学生を想定して書いたが、新生活が始まってただでさえ不安ななか、授業が延期そしてオンラインになり、そして新たなコミュニティにおけるつながりも築きにくいとなると、ほんとうに辛い思いをしていることだと思う。学術面・金銭面におけるサポートはもちろんだが、彼らの心のサポートをするシステムも大学において機能することを願う。

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 やや散漫に書いてきた。最後に話をまとめておく。
 私たちは今、互いにSocial distancingする世界に生きている。物理的な身体をもった存在として人と「出会う」ということと、画面を通じて人と「出会う」ということは、何かが決定的に異なる(ように思える)。そして人々の紐帯は、サイバー空間においてこれまでと全く異なるものとして急速に組み直されている。そこでは<偶発的な出会い>が失われ、<意図的な出会い>が圧倒的に優勢になる。すなわち既存の紐帯は互いに選択的なコミュニティに切り詰められ、また、これまでなかった紐帯が新たに生まれる可能性は限りなく狭められている。
 緊急事態宣言が解除される(と現時点では言われている)5月初旬を境に、たちまち「アフターコロナ」の時代に突入するという楽観的な見込みを持っている人はもうほとんどいないだろう。少なくともあと一年は、「ウィズコロナ」の時代として「これまで通りの」生活は送れないと考えたほうが良いと思う。夏以降、人と対面でのコミュニケーションがどこまで可能になっていくのかは現時点で全く分からないが、変わりゆく紐帯のなかでこぼれてしまう(そしてそれを望んでいない)人がひとりでも存在する限り、私たちはそこへのまなざし・想像力を忘れてはいけないと思う。