「他者」についての覚え書き

satzdachs.hatenablog.com

 この記事を書いてからもずっと、レヴィナスのことが気になっている。その理由の一つは、彼が「他者」について語った哲学者であったということだと思う。他者をどう捉えるかというのは私にとってずっと切実な主題であり続けている。また、(「グローバル社会」のような言葉を持ち出すまでもなく)人とモノとが密接に繋がり絡み合ったこの社会において、その矛盾が今回のCOVID-19の「感染」(=それは「他者」によって起こる)によって露呈させられている姿を見るにつけ、やはり「他者」は重要なテーマである。
 しかし正直なところ、レヴィナ は手強く、まだ私が気軽に扱えるような相手ではない。そこで本記事では、熊野純彦 著『レヴィナス入門』 (ちくま新書、1999)を読みながら、「他者」についての覚え書きをここに記しておき、いつか必要になったときのための準備としておく。先に断っておくが、結論は特にない。

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 前の記事にも書いたが、ハイデッガーによれば、存在者との関係は「了解」に帰着する。 例えば、手元にあるハンマーを手に取り、その手ごろさを発見することが、存在者を存在者として存在させることである。
 では、他者との関係はどうだろうか。レヴィナスはここにおいて、彼はハイデッガーの「了解」という概念を批判する。
 つまり彼は、他者との関係を、了解をはみ出て溢れ出していくものとして捉えるのだ。そして、他者を了解するとはむしろ、他者が私の知の一切から逃れでる存在であることを理解することである。そうした了解=包摂の対象とはなり得ないもの、それゆえに優れて「対話」の相手となるものをこそ、ひとは「他者」と呼ぶのではないか、と彼は問いかける。

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 レヴィナスはまた、フッサールをも批判する。
 周知の通りフッサールは、世界に関するすべての常識的判断を保留する「現象学的エポケー」として、「自分は、客観的に実在する世界の中に存在している心身である」という信念を遮断し、そのような遮断の後も疑えないものとして残る「純粋意識」の構造を分析した。意識に現れている対象にではなく、意識への現れそのものに関心を引き戻すことを目指したわけだが、それでも現象学独我論に陥らないのは、「自分の意識に現れているものは、他人の意識にも同じように現れている」という前提を引き受けているからである。フッサール流には、この「間主観性」と呼ばれるあり方こそが、互いを他者として認めながら一つの世界のうちに存在することである。
 しかしレヴィナスはこれを、 私が<私>であるという同一性=<同>の内部に、世界の外部性=<他>が回収される営みとして捉える。そしてそこにおいて、自己投入を介して到達される他者は、<私>にとっての対象である他者と成り果ててしまっている、と言ってフッサールを批判するのだ。つまり構成された他者は、既に私によって飼い慣らされ、その他性を予め喪失している他者なのである。

 レヴィナスにしてみれば、他者をその他性において構成することはできない。とすれば、他者は、超越論的領野の外部から(世界の外部)から到来すると語る以外にないのではないか。そう彼は考える。

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 レヴィナスにおいて重要な概念は、「顔」である。以下少し長いが、レヴィナスの言葉を引用する*1

「顔」には意味作用があるが、そこに文脈はない。私が言いたいのは、「他者」という観念において、あるがままの「顔」そのものには、社会的特性はないということだ。通常、人間には固有の特性がある。ソルボンヌ大学の教授、国務院の次長、何某の息子……パスポートや服装、その着こなし方を見れば、さまざまなことがわかる。そして、あらゆる意味や定義は、一般的観点からいえば、それぞれの文脈と関係している。何かの意味は、他の何かとの関係の上に成り立っている。
一方「顔」には、「顔」そのものに意味がある。あなたはあなたなのだ。その意味でいえば、「顔」は“見られる”ものではないと言えるだろう。それは、自らの思考の中でしか捉えられないものでありながら、内容となることを拒む。飽くことなくさらなる場所へあなたを導くのだ。

 世界内の他者たちは、「なにか」である。教師であり警官であり、男であり女性である。しかし他者の他性は、他者を私から区別する何らかの性質に依存しているのではない。むしろ逆に、そうした種類の区別は我々の間でまさに類が共通していることを含意しており、その共通性は他性を無化するものであるのだ。
 大事なことは、「なにか?」ではなく「誰か?」という問いである。そして「なにか?」への問いをすべて剥ぎ取り、「誰か?」の問いを突きつめた先にあるのが、レヴィナスの言う「顔」である。正確な表現ではないかもしれないが、「顔」とは、「その人そのもの」と言い換えてもよいのかもしれない。「顔」は、内容となることを拒否することにおいて現前する。そして他者が他者であることが、顔において現れる。

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 レヴィナスにとって「顔」とは殺人を不可能にするものであり、そしてそこに倫理の現れを見る。以下、先ほどの文章の続きを引用する。

しかしながら「顔」によってもたらされる関係性の本質は、倫理である。「顔」は人を殺すことを不可能にする。「汝、殺すなかれ」と発しているのだ。殺人はありふれた現実であり、人は他人を殺すことができるし、倫理観は存在論的な必然ではない。殺人が禁じられたところで、現実的にそれを不可能にすることはできず、たとえ権力によって罰則が科されたところで、邪悪な悪意、卑劣な悪がなくなることはない。

 フッサールの項において述べたような、<他>を解消し続ける<同>の論理の中では、殺人を禁止するものはない。そこではひともまた資材であり、資材である以上は消費し抹消することが可能であるからだ。
 しかしながら「顔」において現れている<他>が、殺人を不可能にする。なぜならその「顔」は、我々に共通のものでありうる世界と手を切っているからだ。他者の他性が、世界の組成に絶えず亀裂を生じさせる。このように、「他者の現前」そのものが、「他者を私に還元することができないということ」が、倫理として現成するのだ。

 そして殺さない以上(=他者を<他>として<同>に還元不能なものとする以上)、私は呼応し続ける他ない。応答し続けるという、この債務には際限がない。他者が無限である限り、呼応には終わりがあり得ないからである。
 この「責め(ルスポンサビリテ)」において、私が<私>として構成される。レヴィナスのいうルスポンサビリテは、いっさいの受動性よりも受動的な「受動性(パッシヴィテ)」である。

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 なんだかわかるようなわからないような、という感じである。そもそも私がレヴィナスを好きになったのは、「握手」と「愛撫」に関する彼の記述が、自分の素朴な所感に一致していたからだった。それについて触れながら、ここで一度、要点だけまとめておく。

 「握手」という営みについて、例えばメルロ=ポンティならば、諸身体を縫い合わせる原初的な次元=「間身体性」を認めるようとするだろう。しかし私は長らくこれが気に食わなかった。
 それに比して私の気に入ったのは、「握手は『差異』の中にある」とするレヴィナスの考え方だった。その埋めようもない差異を越えようとする切なさ、独特な切迫が、握手にはあるのだ。「〜ではない」という否定形の形で辛うじて友情は伝えられるのみである。
 愛撫もそうだ。愛撫において、他者をとらえようとして、決してとらえることができない。身体のこれ以上ないほどの接近にあってもなお、(むしろ接近したがゆえに)他者との隔たりは増大していく。ここで、裸形においてこのうえなく剥き出しになっているかに思えて、結局手の届かないかなた、「存在するもののかなた」へ逃されるものが、他者なのである——これは、私がまさに切に感じたことだった。

 このように、他者とは私との無限の差異である(ディファレンス)。他者に対して無関心であるとは、差異のうちにとどまっていることである(アン-ディファレンス)。にもかかわらず、他者との関係は不可避であり、私はつねに・すでに他者との関係を抱え込んでしまっている。だから、私は他者に対して「無関心では―ありえない(ノン-アンディフェランス)」のだ。
 このことがまさに、およそ<倫理>が可能であるための最下の条件なのではないか、とレヴィナスは問いかけている。