M-1グランプリ2021批評

 「感想」ではなく「批評」をタイトルにしたのは、批評から逃げるな、という自戒からです。以下、敬称略で失礼します。

敗者復活戦

5. ハライチ

 自分は『ハライチのターン』リスナーで紛れもなく彼らのファンなのだが、以前『ゴッドタン』の一企画において、「王道」たるタイムマシーン3号の漫才について言及した岩井の発言にずっと引っかかっりを覚えていた。曰く、「王道」は「新しいことをまったく取り入れないジャンル」であり、「漫才が伝統芸能になっちゃったら衰退していく一方なんで、あなたたちは伝統と一緒に死んだほうがいい」のだと。関西の劇場で吉本新喜劇や師匠レベルの漫才が観られる環境で育ってきた自分としては、「ベタ」を蔑ろにするその発言にどうしても首肯することができなかった。
 それ以降、ハライチの漫才をみる際にどうしても「それだけ言うのなら、『新しいこと』をみせてくれよ」と思って、自然と他よりハードルが上がってしまうのを自覚していた。しかし今回の敗者復活戦のネタは明確に「新しいこと」が示されていて、有無を言わさず説得されたような気持ちになった。

 漫才における「かけ合い」の是非についてはとかく論じられてきて、審査員で言うとオール巨人が最も大切にしている評価軸のひとつであることは言うまでもない。今回のハライチのネタの後半、岩井は沈黙し澤部がひとりで話し続けるパートは、そのような「かけ合い」論争への強烈なアンチテーゼである。
 さらにこのネタの凄いのはただ単に「かけ合わない」だけではなくて、澤部の寸秒違わない間と演技力をもって、不在の「悪魔の声」とのやりとりが可視化される、いわば「かけ合わないかけ合い」が立体的に浮かび上がってくるところである。そこにおいて「かけ合い」漫才の脱構築は見事に成功している。

 一応付け加えておくと、この後半パートで片方が黙るという発想そのものは何を隠そうハライチ自身によって既に提出されていて、2017年のM-1敗者復活戦で披露された「未知の生物」の漫才がある。ただこちらのネタでは「自分に話しかけられているのかどうか」の二極の間で話題が終始していて、「寿命を半分とられてもう戻ってこない」ことへの気づき→嘆願→焦り→怒りというような感情の動きが表現されている今回のネタと比べると若干の見劣りがある。「未知の生物」はただ不在なだけで、「悪魔の声」の、不在であることによって際立つ存在(あるいは寿命を半分とられるという事実)のような重層性はそこにない。ここまで書くと「かけ合わないかけ合い」のニュアンスが伝わるだろうか。
 だからこそ、期せずして響き渡ったバイク音へのアンサーにもなった「ふざけんなよ!」や、タイムオーバー音に対しての「ボカンじゃねえうるせえ!」という澤部の発言には体重が乗っていて、感情移入して観ることができた。彼の名アクターぶりが存分に生かされた出色の出来である。

6. マユリカ

 『ドライブデート』はお笑いファン的には既に有名だったが、面白いくだりがいくつも上乗せされてさらに強いネタになっていた。マユリカはいつもキャラ設定のパワーバランスが絶妙で、理不尽な言動をする阪本に対して、中谷の方にもウザさや配慮のなさが垣間みられる。つまり"誤った行動をするボケ-それを正すツッコミ"という旧来の構造から微妙に脱臼させられていて、そこがマユリカの魅力であり新しさである。「君のために鬼になるね」は、根底に妙な正しさがあるからこそ理不尽がただ理不尽なだけで終わらず、阪本演じるキャラの人間性が単色的にならないフレーズになっている。
 一方で「ヘンテコしっこ」のような、言葉のリズムと馬鹿馬鹿しさでもっていく正統的なくだりもあって、ひとつの漫才における球種が多彩である。

7. ヨネダ2000

 間違いなく彼女たちが今大会を通じて最も「新しいこと」をみせていたコンビだろう。
 「YMCAで寿司をつくる」という設定自体が新しいことは言うまでもないが、マグロをまずつくる→サーモンをつくる過程でその構造を解説する、そのあとに来る展開も新しい。軍艦はつくれるのかとか、サビ抜きはどうするのかとか、その提示された構造を踏まえての遊びどころがいくらでもあるはずなのだが、すぐさまDef techというまったく別の異物を挿入してくるのが彼女たちの大胆不敵さである。
 普通の発想であれば、Def techは後半1分の最後の展開として持ってきそうなものだが、ヨネダ2000は、歌ネタが内在する反復性・規則性——それは歌そのものが持つ統制された構造に起因する——を軽やかに破壊する(そのあとのMy wayも、最後のほうはハモリじゃなくてちょっとズレて歌ってるんだという新たな発見があるのが憎い)。
 かと思えば次は、スピードアップしたYMCAの音楽的な中毒性をもって、歌ネタの反復性を今度は過剰なまでに増幅させる。ここまでどの展開も全く予想ができず、とにかく観客を揺さぶり続ける胆力に脱帽させられる。
 そして銀行強盗のくだりでDef techを回収する周到さすらある。最後の突拍子のない炙りサーモンで突き放してから、「Cが実は逆」という納得感を狙ったオチでグッと引き寄せて終わるはずが、そこが不発だったのだけが彼女たちの誤算か。その落差があまりにもあったことが原因かもしれないが、いずれにせよただ理解可能性の外に出たいだけの漫才師ではないという彼女たちの姿勢がわかる、素晴らしい試みであると思う。

9. アルコ&ピース

 いわゆる「忍者フォーマット」の最新版である。THE MANZAI 2012の例のネタを軽くおさらいしておくと、あくまで漫才コントの設定として「忍者になって巻物をとりたい」と言う酒井に対して、平子は「じゃあ芸人やめろよ」と説教を始める。「忍者になって巻物をとりたい」という漫才の中での虚構だったはずのものが、「売れない芸人」という現実によって侵食され始め、その馬鹿馬鹿しさのギャップが増幅されていく。「〜をやってみたい」「じゃあ練習してみようか」という漫才コントの基本的かつ根本的な型をフリとした、メタ漫才の傑作である。
 今回の酒井の提案は「鳥になりたい」である。上記のフォーマットに則り、酒井が鳥になることを平子は許さず、説教が始まる。そこで引き合いに出されるのはやはり「芸人」であり、彼らのリアルと「鳥になりたい」という虚構の提案が入り混じる。
 その熱に浮かされヒートアップする酒井に対して、「公園だし、子供たちもみている」と平子がいなすところが、「鳥に対して芸人論を熱く語る」という行為の馬鹿馬鹿しさを浮き彫りにする秀逸なくだりである。準決勝ではそこで酒井がうしろを振り返って「みてんじゃねえよ!」と吠えていたのだが、敗者復活では観客側に向かって叫んでいて、はっきり言ってここは改悪であると思った。前者のほうがうしろに公園の遊具や子どもたちが可視化されやすく、空間的な広がりが効果的に生まれていた。

 さて、ここまでは「忍者フォーマット」の亜種としての展開なのだが、酒井が「平子さん!」と叫ぶ2分頃に転調が訪れる。「俺だけなんだよ!……こんだけ漫才師がいるなかで、俺だけだよ、夢叶えてもらえてないの」は、「忍者フォーマット」とともに歩んだアルコ&ピースの漫才の歴史が乗っかったフレーズであり、だからこそ濃いお笑いファンの集まる準決勝では爆発したし、少し客層の変わった敗者復活ではウケなかった。一般的な視聴者層を考えれば、彼らに投票が集まらなかったのも仕方がないだろう。
 ここをどう評価するかは様々だろうが、DCGリスナーとして彼らに愛着のある私としては、このような形で「忍者フォーマット」がひとつ進んだ瞬間を目撃できたのはよかったと思っている。
 それから最後の茶番が始まり、アルコ&ピースの演劇調「漫才」の真骨頂がみられる。「その人本人のていで話す」という前提もクソもない、これこそ「漫才じゃない」に最も近い漫才である。ラストイヤーにふさわしい漫才だった。

13. 東京ホテイソン

 たけるの備中神楽の経験を活かし、「い〜や、」のフォーマットを生み出したが、霜降り明星と同時代であったがゆえに「余白の多いボケ→説明的なツッコミ」のスタイルから先に進まざるを得なかった不幸なコンビが彼らである。しかしそれでもなお東京ホテイソンは進化を続け、たとえば名作『英語』のネタでは「わわわこれこれわこれこれ」という意味性を極限まで削ぎ落したフレーズのリズム感と響きを演出する方法として、備中神楽の節が生まれ変わった。
 考えてみると、東京ホテイソンの「フォーマット」はあるようでない。ミルクボーイの「行ったり来たり漫才」や後述するももの「〇〇顔漫才」は明確にひとつの型があって、それにより漫才の進行がある程度規定されるが、たけるの備中神楽はそうではない。言ってみれば、「一方(ツッコミ)が他方(ボケ)に話しかける」という構図を超えて、名詞を名詞としてその場に置くための役割を果たしている。むろん粗品の特徴的なツッコミも同じである。
 だから彼らは、「い〜や、」のスタイルが充分に知名度を持ったうえで、「名詞を名詞としてその場に置く」という手法の活かし方で逆に新規性をみせやすいのではないか、というのが最近の彼らに対する私見である。とはいえずっと新しいネタをつくり続けているのはただただ凄い。

 今回のネタは、クイズの答えを並べると「シャカシャカポテト」というような荒唐無稽なフレーズが現れる、という構造になっている。クイズ自体は完全に恣意的に選択・配置できるため、最後に現れるフレーズを何にするかは、ルール無用のシンプル大喜利になる。『信長とガンディーのオールナイトニッポン』を出す勇気と、それがちゃんとウケていることの凄さたるや。
 ただルールが自由であるがゆえに、クイズがクイズとして成立しているという最低限の前提は守られるべきではないかということも思わないではなくて、「『と』って言ってください」の辺りがネタにおける僅かな、しかし致命的になり得るノイズにみえた。

14. 金属バット

 「赤言うてんねやから、左やろ」「思想強っ」とか、「宗教の勧誘」とか、「ねずみ講」とか、単に「言ってはいけないことを言う」笑いはいささか安っぽくみえた。しかも「『赤が左』って言うことが思想が強い」とか「『宗教』ってワード出しておけばタブー感でる」とかの発想も、散々お笑いの世界ではこすられてきたような領域で、はっきり言って安直だと思う。
 ただネタ終わり最後30秒の使い方は、他の誰も真似できないし格好いい。カリスマたる所以だと思う。個人的には、ウケだけではなく人気投票の要素も多分に含む敗者復活において、金属バットが2位になるくらいの知名度を得てきているという事実が感慨深い。

決勝ファーストラウンド

1. モグライダー

 明るい口調で「美川憲一さんって、気の毒ですよね」の一言目で、謎の論理を主張する明るくて馬鹿な人、というキャラクターが一瞬で知れ渡る幕開けである。「当てずっぽうで星座と性別を聞いてきた輩がいる」「このふたりをWin-Winにしたい」「美川さんが歌い出すまでに、さそり座の女以外の可能性を全部消したければいいんですよ」という事前の説明が多い漫才だが、間違いなく独自の設定と言えるだろう。
 まだ観客が咀嚼し切れない状況で始めることで、1回目のチャレンジはこの状況の馬鹿馬鹿しさ自体がおもしろさになる。そこでの「気の毒だなこれ!」と芝のツッコミが入ることが、その後のともしげの挑戦をただ「意味のないもの」と馬鹿にするのではなく、「気の毒」な状況が解決されるよう応援するスタンスに観客を導いている。
 上記のような導入と、星座8つのおさらい・「男か女かは最後に聞けばいい」のアドバイス、祈る時間が長い・「うわ〜美川さんだ!」の時間が不要というくだりは恐らく既定路線として決まっていて、それ以外のチャレンジがどれだけ上手くいくかはその日にならないとわからない、という即興性・ギャンブル性の含まれた漫才である。賞レース漫才は、洗練されて雑味がなくなっていくほど台本感が増して「その人」性(ニンという言葉をあててもよいかもしれないが)が失われていく、という矛盾を本来的に抱えているが、そもそもすべてを決め切らないという点においてこのネタは乗り越えている。

 それゆえこの漫才の出来はともしげのコンディションのみならず、その場の環境にも大きく左右される。ふつうM-1のトップバッターが不利と言われる以上に、モグライダーにとって観客がまだ漫才をみる状態になり切っていないときの登場は苦しいものだっただろう。加えて、ともしげがややかかり気味にみえて、大きな声と滑舌の悪さがいつも以上に際立って一瞬理解を妨げる瞬間がいくばくかあった。『さそり座の女』を歌い出したあとにともしげが肩を落としながら何を叫んでいるのかということは、ついぞわからなかったし、今何度観直しても聞き取ることができない。
 そういう積み重ねが観客の世界観への没入レベルを規定していて、「お前の夢はなんだ?」「さそり座の女以外の可能性を全部消したいです」「変な夢だなしかし」という我に帰る場面での振り幅にそのまま直結している。ここでそこまで盛り上がりがみられなかったことは、上述のようなノイズを消しきれなかったことに起因するだろう。

 今書いたようなことはすべて結果論なのだが、その即興性・ギャンブル性ゆえに結果論でしか語れないのがこの漫才である。予期せぬともしげのハプニングなどがあれば、芝の対応次第ではもっと爆発し得ただろうが、狙ってハプニングを起こすことは誰にもできない。『さそり座の女』に質問するチャレンジは基本的には流れとしてうまくいっていて、それゆえにうまくいかなかったといったところだ。
 こうして書いてみるとノイズとハプニングは連続した概念で、その危ういバランスのなかにこの漫才が存在していることがわかる。いずれにせよ作品性の高い漫才の並ぶM-1において、まったく違う闘い方を持ち込んできたコンビとして評価ができる。

2. ランジャタイ

 率直に言うと、ランジャタイのネタが今回ではいちばん好きだった。強い風が吹く日、国崎は顔に張り付いてきた猫を飼い始める。その猫が耳から入りこみ、国崎は頭の中のコックピットで操作させられてしまう。日常的風景の裂け目から非現実に誘うその手法は、いわばマジックリアリズム漫才とでも名付けたくなる。この導入だけでワクワクするし、他のコンビと比べても描かれている情景の解像度が段違いである。それが国崎の高い演技力・マイム力で可能になっていることは言うまでもないだろう。
 その非現実を描くタッチが、シュルレアリスムを思わせるDr.ハインリッヒとは違い、コロコロコミックのようなギャグ漫画のそれであることもランジャタイの独自性である。尻尾を引っ張る国崎と、尻尾を引っ張られる猫の攻防は見ものであり、今回のネタで最も好きな場面だった。

 そのぶん、たとえば「将棋ロボ」のくだりで観客を突き放す結果になっているのは勿体無いようにみえた。ギャグ漫画的マジックリアリズムという形式で漫才のなかでは発想の飛んだ作品になっているので、そのストーリー内での整合性はある程度求めてもいいのではないかと思う。ここにおける整合性とは、耳の穴から入りこんだ猫が国崎をコントロールしてとらせたい行動は果たして何だろうか、ということである。猫VS人間の荒唐無稽なSF活劇のような世界観で統一してもよかったのかもしれない。
 一方で、マイケルジャクソンのムーンウォークを何回もやるくだりは、たしかに明らかにストーリーの進行上過多なのだが、この漫才における良い異物になっていたと思う。国崎の悪ふざけで何回も繰り返しやっているのだろうなとわかるところが、この漫才が漫才であることへの自覚を促すというか、ある意味でストーリーに入り込ませすぎないようになっていて、「その人」性が伝わる部分になっている。ここは評価がわかれるところだろう。
 最後に、『風猫』というタイトルが抜群に素敵だ。

3. ゆにばーす

 唯一の男女コンビである。男女コンビとして「その人」性のある話題を選択した結果、男女関係ないしは性的関係になるのはひとつのあり得る帰結なのかもしれないが、しかし必然性があるわけではないだろう。ただここ数年でガラッと変わった「女芸人」をとりまく状況が示しているように、笑いの題材として「女性」性を扱うことには、(フェミニズムの観点から、という枕詞を持ち出すまでもなく)いくつもの障壁がある。
 今回のネタで問題になり得るのは大きくふたつあるだろう。すなわち、「男子っていうのは生物学上そう(=女性に好意を持ち、性的関係の対象としてみる)なってますから」と「男女の関係性なんていうのは詰まるところ遺伝子を残し合う関係性でしかないんです」である。前者はジェンダーおよびセクシュアリティの多様性をまったく無視した発言であるし、後者はたとえば妊娠を望んでもできなかった夫婦への配慮に欠けている。

 こういうことを言うと、「規制ばかりでうるさい世の中だ」「漫才の構成上そういう発言になっただけで川瀬名人がほんとうにそう思っているわけではない」という反論が返ってくることがある。
 前者に対しては、そういうことを言うのはいつだって強者・マジョリティであり、「規制」によって救われる弱者・マイノリティは蔑ろにされている。
 後者に対しては、もちろん私も理解している。川瀬名人は言わずもがなM-1に懸けている人物で、作品性のある漫才を突き詰めた結果として、あの発言が一要素として必要になったのだろう。しかしそれは何百万・何千万という人が観るメディアの責任を軽視した意見だ。たとえ漫才の中の本筋ではない一フレーズであったとしても、そのような発言を電波に乗せることはそれを容認したことと同義である。

 最後に別の話として、ゆにばーすの漫才をみていると、はらはほんとうにあのように川瀬名人を理詰めで論破するような人物なのだろうか?という疑問が湧いてくる。これに関しては川瀬名人が長年の付き合いを経て最も適したキャラクターとして選んだのかもしれないが、平場や「イェエエエエエイ!」のギャグをみている一視聴者としては、常に違和感が残ってしまう。

4. ハライチ

 澤部の始めたいことを否定する岩井、というくだりがあったあとに、岩井の始めたいことを澤部が否定した瞬間に我を失うほどブチギレる。丁寧なフリオチがあるという意味ではクラシカルな構造だと思う。このやりとりが新しくみえるとすれば、それは普段のバラエティ出演で積み上げてきた岩井のクールな印象があるからで、ネタの外の話であるように思う。
 その感情から発展していくわけではなく、否定される→怒るの繰り返しで、展開としても一辺倒である。そこから「関係ない話」として自分の夢について語り出すのだが、話題としてほんとうに関係ないので観客が入り込めないままに、巨大ロボの話が始まる。巨大ロボ→妖精→空飛ぶ筏、と非現実さをエスカレーションしていきたいがゆえのひとつめのチョイスなのだろうが、少なくとも私は「巨大ロボ」と言われてパッと少年漫画等で扱われるそれが浮かばず、技術の発展した現代ではないわけではないよなと思っていた。
 「危ないことやってるんですか」みたいな、薬物使用を暗示するようなフレーズもお笑い界ではこすられまくってきた領域で、チープに聞こえた。

5. 真空ジェシカ

 コメントでオール巨人が「頭いい」と言ったこともあり、巷では真空ジェシカが「インテリジェンスのある笑い」として評価を受けている(あるいは、それを理解できる自分もまた「インテリジェンス」があるというマウントの手段に使われている)らしいのだが、その評は少しずれている。真空ジェシカの難解さはお笑い的な文脈性から来ているのであって、決して学力的な意味でのそれではない。すなわち、既出のお笑いの構造を踏まえたその一つ先を常に提示しているために、そのお笑い的な文脈を把握していないと理解が遅れることがあるのだ(一般視聴者、あるいは上沼恵美子のように「ついていけなかった」こととなる)。
 今回の漫才の冒頭のくだりをみてみよう。

川:10日副市長の大城です。
ガ:10日副市長?
川:2ヶ月会計の知念です。
ガ:2ヶ月会計?
川:5秒秘書の比嘉です。
ガ:ああ沖縄の苗字気になる。島人ばっか体験に来てる。
川:無期懲役の山田です。
ガ:つみんちゅもいた。罪人と書いてつみんちゅもいた。
川:お疲れ様でした。
ガ:ああ5秒秘書帰っちゃった。貴重な5秒をつみんちゅの説明に使ってしまった。

 ここは非常に複雑な構造をしている。「1日市長」のパロディとして「10日副市長」「2ヶ月会計」「5秒秘書」が順に出てきていて、このような数字遊びのボケはひとつのセオリーである。普通なら3つ目の「5秒秘書」の時点でそこにツッコむのだが、そのようなお笑いの既出の流れには則らず、もう一つの線として走らされていた「沖縄の苗字」のほうに意識を向けるのである。さらに「無期懲役の山田」に対してツッコミのガクが言う「つみんちゅ」も、ボケの誤りを指摘するというよりは自発的にボケワードを入れ込む形になっていて、そこも観客の一歩先を行っている。そして最後にようやく「5秒秘書」の回収に戻ってくる。すなわち「10副市長」で始まったひとつのボケの線に対して、別の種類のふたつのボケが複雑に絡み合っているのだ。
 このような「わかりにくさ」を、今までにない先進的な試みととるか、あくまで大衆文化の漫才として伝わりにくくなる弊害ととるかは、評者によるだろう。たとえばサンドウィッチマンの富澤は真空ジェシカに対して最低点をつけているが、彼がある種の「わかりやすさ」をひとつの基準としていることが窺える点数である。一お笑いファンとしては、真空ジェシカにはブレずに突き詰めてもらって、いつか世間のほうが彼らに歩み寄るくらいのことを期待している。

 あとはボケのひとつひとつの並べ方に必然性があるわけではないのだが、「これ、隣町の地図。踏めますか?」「好きな法律だけ守ってもらえれば」「ハンドサインでヘルプミーってやってた!」といった、どこか妖しい雰囲気のする街に「1日市長」というまったくの外部の人間として入り込んでいく、という統一された世界観があるのが素晴らしいと思う。
 ただ一点、「ああでも一回体験しただけでわかった気になる市民が一番厄介だけどお前それになりたいんだなやってやるよ」という導入は、「ウザいマウンティングとってくる奴」みたいなみたことのあるボケでチープにみえて、そこが惜しい。

6. オズワルド

 とにかく、隙がないネタだと思った。減点要素のない漫才だと言い換えてもいいかもしれない。
 ツカミがある。「今度、キミの友達、俺にひとりくれないかな?」「キミのなかでいちばん要らない奴でいいから」「キミの友達全員を一斉にグラウンドに解き放って、その5秒後に俺が追いかけるから、最初に捕まった奴が友達な」など、畠中の奇天烈な人間性がわかるようになっていて、一貫性がある。フォーマットに頼っていない。かけ合いがある。話が展開して進んでいて、予測できない。ボケにオリジナリティがある。「俺のことを中指が立ってると思え」→「俺のことはでっかい人差し指だと思って」「ビッグピースじゃん」で伏線回収しつつの大団円オチ。そしてもちろんウケている。
 競技用としてのしゃべくり漫才の到達点とも言えるが、それを機械的だとか批判するのも馬鹿らしいくらいに、とにかく惚れ惚れするような構成の完成度だった。納得の1位通過である。

7. ロングコートダディ

 「肉うどん」のワードは完全に大喜利である。その一点にこのネタのすべては懸かっていて、結果としてちゃんとウケているのがロングコートダディの地肩の強さだろう。ではなぜ肉うどんがおもしろいのか? 生き物が続くなかでの突然の食べ物、それも大衆向けの安い麺類で、さらにうどんではなく肉うどんという不要なディテールがあるのがちょうど馬鹿馬鹿しいのかもしれない。肉うどんでしかあり得ないという必然性があるわけではないので説明し切ることは難しいが、チョイスとして最良のひとつであることは間違いない。
 その際の「肉うどぉん?!」と驚く兎の表情も一級品だ。展開としては本筋の展開パートに加えて、生まれ変わったあとの描写が挿入される。肉うどんが吸われる様の表現も、短くキレがあって笑いやすい。
 2ターン目、しりとりになっているというルールを見つけてからの「ワニ」→「肉うどん」の流れは美しい。よくできた構成である。
 最後のターン、「2文字タイム」が唐突だが、しりとりで生まれ変わりが決まっていく馬鹿馬鹿しい世界観によくマッチしていて受け入れやすい。果たして「ワ」の段階で2文字タイムが終了し、「ワ」から始まる別のものに生まれ変わるのだが、ここの大喜利も(本人たちが後番組で語っていたように)相当ハードルが高い。言ってみれば何でもいいなかから探してくるわけである。「ワゴンR」は本番ではあまりウケなかったし、個人的にもハマらなかったが、じゃあ何が良かったのかと言われると難しい。「ワゴンR」は肉うどんに対して馬鹿馬鹿しさが減るし、何となく安っぽいものになってしまう悲哀みたいなものも薄れてしまうのが良くなかったのかなとは思う。

 全体として世界観の細部の作りこみが曖昧なことも気になった。「お前」呼びなのには特に理由はなかったし、しりとりで繋がる天界で「肉うどん」が「ん」で終わってしまうと次どうなるのか、という点はモヤモヤした。兎を応援してくれている天界の案内人がただの案内人でしかなくて、人間的な深まりがなかったのも物足りなく思った。ワニになりたい兎(芸名が非常にややこしい)とそれを妨げる天界の人間模様、あるいは根底にあるルールの説得力の描きぶりは改善の余地がある。
 余談だが、「何に生まれ変わるかを順に決定していく」というネタの設定はかつていたムニムニヤエバというコンビの漫才を思い出さざるを得ず、才能あるコンビが世に出ないまま解散していったことを惜しく思う。

8. 錦鯉

 ハライチのパートで、岩井のクールな印象をフリに使うのはネタの外の話だと書いたが、ことM-1グランプリに関しては、個々の漫才師が大会を通じてつくってきたストーリーが多分に影響する(せざるを得ない)大会になっている。
 代表的なのはマヂカルラブリーで、2017年で上沼恵美子とできた因縁が2020年のM-1グランプリのツカミになっていて、それが観客をウェルカム態勢にすることを助けていた。和牛も3年連続準優勝という偉業のなかで「和牛のM-1挑戦物語」が共有されていたし、2019年から始まった「M-1アナザーストーリー」のようなドキュメンタリー番組はその流れを加速させ続けている。

 今回の大会で言えば、最もその恩恵を受けたのが錦鯉で、「M-1に挑戦するお馬鹿な50歳男性」たるまさのりのストーリーをほとんどの観客によって共有していた。だからこそ、「合コン」という設定を持ってくるだけで、まさのり自身の人間性とのギャップがいち早く伝わるし、それに沿ったボケを重ねていくことで丁寧に笑いが積み上げられていく。最後の1分、「子供の頃さ、公園に紙芝居屋さん来てたじゃん」から「ヒーザ!」までの怒涛のボケの積み重ねは、しばしば審査基準として言及される「ラストの盛り上がり」を最も確実に演出していて、賞レース漫才のひとつの正攻法である。
 そもそも「ラストの畳みかけ」概念は、ゼロ年代後半のM-1で「手数論」全盛期の頃、その密度を終盤にかけて限界まで上げていく試みのなかでうまれてきたものだと認識している。サンドウィッチマンの富澤などでは今でもよく言及しているイメージがあるが、ボケ数が正義ではなくなった今、加点要素にこそなれど、必ずしもそれがないからといって減点ポイントにはならないのではないかというのが私の見解である。

 結果的に、いちばん笑ったコンビだった。「穴でも掘ってろよ」「穴は掘らないよ」というのが、特に何の伏線回収でもなく、「穴でも掘ってろよ」という罵倒と「穴は掘らないよ」という鸚鵡返しの返答でしかない、というのが伏線回収全盛の時代に愛おしいやりとりである。

9. インディアンス

 彼らのことはキング・オブ・ポップとでも言うべきだろうか。真空ジェシカの対極のような存在で、とにかく視覚的に派手だしやっていることがわかりやすい。明るくて親しみやすい。そして当然ウケる。
 ところでM-1の審査基準には何と書かれているかご存知だろうか。答えは「とにかくおもしろい漫才」である。それならば問答無用で最も多くの人に受け入れられるインディアンスが優勝なのかもしれないが、ハライチの項で散々書いたように、暗黙の前提として漫才の新規性を求めてしまうのがM-1という大会である(むろん、その「新規性」が「とにかくおもしろい」に繋がるし、完全に分離できる概念ではないというのは承知の上だ)。
 そういう観点からみると、インディアンスの漫才の新規性がどこにあるのかというのは甚だ疑問である。まず設定からして「心霊スポットに行く」という、何度漫才でみたかわからないそれである。コントに入ってツッコミが進行しようとするのをボケが邪魔をし、ツッコミがそのたびにコントを降りてツッコむ、という形式はNON STYLEをはじめとするゼロ年代後半のM-1をどうしても思い出す。ボケ自体もベタなものが多く、たしかにそれを今の時代に全力でやることが逆に振り切っていて新しいと評価する向きもあるだろうが、「楽天ええわ!」の天丼の仕方なども強く既視感がある。

 もちろん、普段の劇場で彼らを観たら絶対ずっと楽しいし笑えるだろうが、私のM-1観がそうである以上こういう評価にならざるを得ない。
 これは私の誤解だったら申し訳ないが、「お前たちは誰だ?」「どーもーインディアンスでーす」のオチが、2012年のMBS漫才アワードでの彼らのネタで既にあったような気がする。今確かめる術もないので、もしわかる人がいればご教示願いたい。

10. もも

 私は2015年からほとんど毎年祇園花月M-1 3回戦を観ていたので、彼らが初めて準々決勝に進出したときもよく覚えている。しかし当時から彼らのネタでうまく笑えない。理由はふたつある。
 ひとつは強烈な「フォーマット感」である。お互いの顔を喩え合う進行の仕方が人工的過ぎるようにみえて、「あっこれはフォーマット漫才ね」と自分のなかでひとつのカテゴリの中に分類されてしまった。ただこのような感想を私はミルクボーイに抱いていて、決勝に進出してもなお絶対に優勝しないと信じ込んでいたから、この感覚は私はあてにならないと自分に対して思っている。ただ、「ズレてへんよ」「ズレてますよね」「ズレてます?」のやりとりはいつも台詞っぽく聞こえていて変な引っかかりになっているので、あれだけはやめたほうがいいと思う。
 ふたつめはやはりルッキズムの再生産への加担だろう。ふたりどうしの内々のやりとりとして罵り合っているだけだから偏見漫才でも大丈夫、とするような風潮もあるが、その言い訳は通用しない。あの漫才自体が、人を顔で判断することを容認・助長するメッセージを暗に発している。

最終決戦

 こうしてファーストラウンドの感想をざっと書いてみると、もし私が選んでいいならオズワルド・ランジャタイ・錦鯉を最終決戦の3組にしていたと思うので、実際と1組だけが違うことになる。その意味で、審査の総体として私の感覚と大きな乖離はなかった。
 最終決勝の3組は、これまで書いてきた通りのそれぞれ違ったスタイルで、何を基準に選ぶかによって優勝者は変わり得るメンツであった。わかりやすさならインディアンスで、かけ合いの妙と展開の予測不能性ならオズワルドが優勝でよかったかもしれない。しかし最後に勝負をわけたのは単純にウケ量だろう。錦鯉を応援する空気に持っていくだけのパワーがあった。

 最終決戦の錦鯉のネタについて少しだけ書くと、「森の中へ逃げこんだ!」「……じゃあいいじゃねえか」のくだりは、いつしか自分がまさのりのほうに感情移入してしまっていることに気づいて我に返らされる瞬間で、技巧の光るくだりである。自分の仕掛けたバナナに目が眩んで何度も罠にかかる後半は、あまりにも馬鹿馬鹿しくキャラに合っていて、「錦鯉を応援したい」という空気にさせるに充分であった。「もうやめろ!」で「頭を最後に」の伏線を回収するラストは、そういった馬鹿馬鹿しさを崩すほどのあざとさはなく、ちょうど良い塩梅だった。

 錦鯉の優勝を観客のみならず、他の出場していた芸人、審査員まで祝福していた光景はとても素晴らしく、そしてそれに値する人たちであると思った。いかにも人生は美しい。

頭虫は汚いし目も当てられない

 休日、一日中本を読んでいたら我慢できなくなって、銀杏BOYZを聴きながらチャリで走り出した。24歳の夏である。23歳から1つ歳をとって、もう夏休みは来ない。

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 もともと、川というものが好きだ。だから近くの川まで走った。夕暮れに景色がよく映えていた。私が今住む土地には、高い建物がない。そのおかげで地平線が遠くのほうまでみえる。

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 ふたつある川の合流部まで行ってみようと思った。途中からアスファルト舗装されていない道から砂利に変わり、チャリを適当なところで置いて歩き始めた。10分もすればたどり着くと思っていたら、目測を誤っていて30分近くかかった。気づけばチャリで走っていたころの清涼感はなく、頭虫がぶんぶんと頭上を飛び交い、ときおり耳元を通り過ぎて私を苛立たせた。私はイヤホンの音量を上げたが、一度抱いた不快感は消えなかった。 

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 私は、気づけば銀杏BOYZみたいなことばっかり書いていたし話していたし、それを自分が好きな人にわかってもらいたかったのだと思う。しかしもう自意識と自慰で息をつまらせている場合ではない。自分にまとまりつく頭虫についても書かなければならない。頭虫の不快な羽音も、肌を舐めるような湿気も、サンダルに入りこんで裸の足を汚す砂も、ぜんぶ詳らかに書かなければならない。

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 この前登山をしてエゾナキウサギをみた。たぶんエゾナキウサギはおれのことを知らないと思う。でも人の形をした何かくらいに思ってもらえれば御の字。

2021年1月〜6月に読んだ本

 働き始めたら冊数は減るかなと思っていたのですが、何とかペースを大幅に落とすことなく本を読めました。研修医としての最低限は担保するよう、4月からは「医学のお勉強の本とそれ以外の本を交互に読む」というルールを自分に課しています。

1月

21001 山下武志『3秒で心電図を読む本』(メディカルサイエンス社、2010)

 今までとは全く違う心電図の見方で目から鱗だった。

21002 衿沢世衣子『ベランダは難攻不落のラ・フランス』(CUE COMICS、Kindle

 『GIRL'S SURVIVAL KIT』と『市場にて』が好きでした。

21003 panpanya『足摺り水族館』(1月と7月、2013)

 漫画は全然読んできていないが、小説を含めても今まで読んだ創作のなかでベスト5に入るくらい良かった。偏執狂的に書き込まれた無数のモチーフのひとつひとつが魅力的だし、歩いてる子がその訳のわからなさを受け止める仕方も絶妙だ。

21004 黒田硫黄『茄子(1)』(アフタヌーンKC、2001)
21005 黒田硫黄『茄子(2)』(アフタヌーンKC、2002)
21006 黒田硫黄『茄子(3)』(アフタヌーンKC、2002)

 何が起こるというわけでもないがずっと読んでいられる。

2月

21007 松澤和正『臨床で書く 精神科看護のエスノグラフィー』(医学書院、2008)

 自分が絶対に関心あるだろうと思って読んだものにイマイチ興味を持てないとモヤッとする。エスノグラフィーと言いながら本人のパーソナルな省察の域を出ていないこと、また本書を通じての一貫したテーマを見出せなかったこと、が原因としてあるのだろうか。

21008 大和田俊之/磯部涼/吉田雅史『ラップは何を映しているのか』(毎日新聞出版、2017)

 日本語ラップでの右傾化で用いられたサムライ、般若、軍服などの日本的なモチーフは、一見グローバル視点で日本を見た際のエキゾチックなイメージのように見えるが、どちらかといえば「ラップは浅薄だ」という日本国内の批判への目配りであるという点は盲点だったが非常に納得がいった。この頃Qアノンにご執心のKダブのことを思うとタイムリーでもある。アメリカがコンプレックスで、そのオブセッションを治癒する方法をナショナリズムに見出して行った、という流れは、HIP HOP内外に限らず起こっている話でもありそう。

 ポリティカル・ラップのパロディのスチャダラパー『クラッカーMCズ』(四季の移り変わりを深刻なふりして警告する)の2年後にキングギドラ『星の阻止』(シリアスに環境破壊を訴える)という流れ=「メタのあとにベタがくる」(順番が逆)と、 ラップはストーリーテリングしないといけないという前提があったが日本にはゲットーや人種問題といった"らしい"話は見つからず、いとうせいこう『東京ブロンクス』のように想像力で補ったという話、はラップが輸入物であるからこその話で面白く読んだ。

 また吉田は、(MC漢のように)政治に抑圧された若者としてその身振り・口ぶりが自然と政治性を孕むラッパーこそがポリティカルであるという話を受けて、見えていなかった様々な場所の生活がラップという形で可視化されることを岸政彦『街の人生』になぞらえて論じていたが、「エスノグラフィー的なもの」として今最初に出てくるのが岸政彦であるというのが、彼の売れっ子具合を感じさせられる。上述のような特徴はもちろん岸に限った話ではないので、ストーリーテリング的なラップのエスノグラフィックな意義を論じたものがあったら面白そう。

 相変わらずフェミニズムとヒップホップの関係にも関心がある。『文化系のためのヒップホップ入門』では、女性ラッパー4タイプとして「クイーン・マザー(肝っ玉母さん)」「フライ・ガール(おしゃれで可愛くてファッショナブル)」「レズビアン」に加えて、「シスタ・ウィズ・アティテュード(差別的意に使用されていた「ビッチ」を被差別者自身が逆手にとる)」が挙げられていたが、その例としてのリル・キムの話が今回も出てきていて面白かった。リル・キム以前の、「男性性をまとい、ビッチをdisる」という行為が、社会に進出する女性は男性的であらねばならないという抑圧を表現していたという話は、例えば日本のお笑いにおいても、先日のアメトーークにて3時のヒロインの福田麻貴がラランドのサーヤを「褒める」際に「男の笑いをしている」という表現を用いていたことにオーバーラップする。そういう意味でも日本のお笑いにおけるフェミニズムの議論は何周も遅れていると改めて感じる。
 全然関係ないが、お笑いの話をもう一つすると、本書で紹介されていたECDの「聴衆は現実や政治から逃れるためにクラブに来ているので、ポリティカルなメッセージ性のある曲をクラブのライブで歌うのが躊躇われる」という話は、先日ぶちラジ!でウエストランド井口が「皆現実から逃避するためにお笑いライブに来ているのに、世間に対する愚痴を言ってたらそりゃ人気が出ない」と言っていたのとダブった。

 あとは箇条書きで面白かった話。
・金持ち、自信家、口が悪い」というトランプは「ラップ的」
・トラップ曲が量産され、あまりにも溢れすぎたことによってそのリリックも自己模倣化して均質化していった先に、言語の記号化のような現象が起きている
・トラップはラップとトラックとの境界線が曖昧
アメリカでもスクリブル・ジャムの時代から、いいフリースタイラーほど音源がダサいというジンクスがある
・日本では英語で何を言ってるかわからないのが原体験だったからこそ、逆に過剰に内容を気にする?

21009大橋裕之『太郎は水になりたかった』(リイド社、2015)
21010 大橋裕之『太郎は水になりたかった』(リイド社、2016)

 めちゃくちゃ面白くてあっという間に読んだ。「あの頃」のスクールカーストの下から見上げる虚しさとか、しょうもない自意識とか、いまだに思い出して「アッ……」となる記憶とか、そういうものを生々しく、しかしどこかコミカルに描いている。漫画の合間に挟まれている著者のエッセイを読まずとも、「あの感じ」を学生生活に味わった人が書いた漫画なんだろうなというのがわかった。とてもよい。ところで、とても気になるところで話が終わっていたのだが、この本の第3巻は出ていないのだろうか……?(探しても見つからない)

21011 施川ユウキ『鬱ごはん 1』(ヤングチャンピオン烈コミックス、2013)
21012 施川ユウキ『鬱ごはん 2』(ヤングチャンピオン烈コミックス、2016)
21013 施川ユウキ『鬱ごはん 3』(ヤングチャンピオン烈コミックス、2019)

 共感とか安易にそういうことを言うつもりはないが、飯を食いながらブツブツ独りごつ様子に身を任せて文字列を追うのは単純に心地がよかった。オードリー若林のp高j低という言葉を思い出しつつ、同じような一年を繰り返し消費する鬱野の人生に思いを馳せた。「環境音と同じ周波数の声」めっちゃわかる。

21014 重田 園江『フーコーの風向き: 近代国家の系譜学』(青土社、2020)

 法的権力、規律権力あたりの議論が特に詳しく、頭のなかが整理された。かねてから気になっている、フーコーの「主体性」概念については軽く触れるのみで、充分に理解できたとは言い難いので、また別の機会に勉強したい。

 新自由主義は、社会主義福祉国家を全体の目的のために個人の自由を抑圧する体制として批判し、自らを自由の擁護者であると主張する。このため、新自由主義はあらかじめ「自然に」存在する自由を擁護しているように見える。だが、統治の観点から見ると、実際には全体の秩序や繁栄と両立しうる特定のタイプの自由に価値を与え、その価値を自ら受け入れゲームに参加する個人を作り出しているのである。たしかに彼らは、直接的・強制的な手段に訴えて個人を管理することには反対する。しかし、特定の生活や行為の様式を、個人が「自由に」洗濯するように導く枠組みを作り出す新自由主義のやり方もまた、別の型の統治のテクノロジーであり、別の道を通って自由を秩序に組み込んでゆく方法に他ならない。言い換えれば、新自由主義とは日常生活に介入し、特定のタイプの生を積極的に生み出し、作り出してゆく「生権力」の一タイプなのである。(304ページ)

3月

21015 伊藤計劃『ハーモニー』(ハヤカワ文庫JA、2010)

 「健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて」書かれた小説。必要ない=ハーモニーという結論に至りはするが、それが逆説的には自由意志の確固たる存在という前提を保持したままにしている。エピローグの仕掛けは気持ちがいい。ところどころ、いかにもな典型的SFの台詞回しや物語の展開があるのが気になる。当然ながらフーコーを想起しながら読んでいたが、物語の終盤でそのまま引用が出てきて、直接的過ぎる気がして少し冷めた。

21016 リービ英雄星条旗の聞こえない部屋』(講談社学芸文庫、2004)

 連作3篇であるが、表題作が最も印象に残った。「ヤンキーゴーホーム」と言われてもその「ホーム」すら存在しないベン・アイザック。一文一文の切実さに目眩がする。本作品の舞台は1960年代末であるが、今でもなお過去の話としては読めない作品だと思う。

21017 東浩紀存在論的、郵便論的』(1998、新潮社)

 「思考不可能なもの」を単数的に捉える否定神学システムと、非世界的存在を複数的に捉える郵便=誤配システム。

21018 『新潮 2020年 12月号』

 舞城王太郎『檄』が非常に素晴らしかった。前半の家族/兄弟の話から一転、三島由紀夫を登場させる唐突さは今回の舞城においては成功しているように思えた。最高密度にポリティカルな三島の「檄」を、極端なまでに内面の葛藤に回収させたのは賛否分かれるところかもしれないが、個人的には舞城なりの主題をもって三島へのオマージュを果たしたということで、非常に良かったと思う。オチはやや勧善懲悪的過ぎる大立ち回りという感じだが、環ちゃんという結節点を通じて少なくとも父と母との関係性において救いがみられたのはよかった。
 話は前半部に戻るが、それにしても舞城は、兄との距離感や、家族と話してる時の埒があかない感じとか、今まさに向き合って話してるつもりなのに家族はこれまでの蓄積としか自分を見てくれないことへの苛立ちとか、ほんとうに書くのが上手い。舞城って兄弟とかいるんだろうか、もしいないとしたらあの感じを生々しく書けるのは凄い。でも奈津川サーガも含めて考えると、やっぱり実際にいそうな気がする。

21019 小川糸『たそがれビール』(幻冬舎文庫、2015)

21020 國分功一郎・熊谷晋一郎『<責任>の生成ー中動態と当事者研究』(新曜社、2020)

 対談本だからある程度は仕方がないのかもしれないが、本人たちが書内で語っているほどには『中動態の世界』から議論が進展しているようには思えなかった。特に「責任」概念が気になっているが、以前から各媒体で語っていることにそれほど大差なく、当事者運動の知見を味付け程度に足したくらい。各授業終わりに質問をしていた糖尿病内科医(もしかしてあの批評家?)が、(ある程度知識や考えを共有している)ふたりとは異なる角度で非常に切れ味が良かったので、医療者でありかつ違う背景を持つこの人が議論に参加していればな、とも思った。 
 國分の言う「自分が応答すべきである何かに出会ったとき、人は責任感を感じ、応答する」という責任は、確かに格好いいのだけれど、「一人ひとりの生命は有限だけど、悠久の大義のために死ねば、永遠に生きることができる」ということを言った田辺元とか、(國分が何度もハイデガーを参照しているが)ハイデガーナチスの関連とか、どうしてもそういう全体主義的なものとの関連を頭に浮かべてしまう危うさを感じる。というのが本書を読んだ発見。

21021 浅田彰『構造と力』(勁草書房、1983)

 コード化=原始共同体から、重畳したコードを超越的な頂点によって包摂・規制する超コード化(古代専制国家)、異づけられた質的な位置の体型として整序されていた社会が、バラバラに解体され同質化されて量的な流れの運動の中に投じられる脱コード化(近代資本制)。

21022 阪大哲学研究会 希哲会『希哲 第四号 「しらふ」』

4月

21023 石井美保『環世界の人類学』(京都大学学術出版会、2017)

 存在論的人類学の流れを受けて、さらに一つその先の話をしているという印象。

 それ[神霊]は人々の生活世界であるジョーガの領域につながりつつ、人間にとっては不可知のマーヤの領域を満たす力であり、それらのあいだにおいて刹那的にのみ現勢化される=「いまだ—ない」と「すでに—ない」のあいだに束の間顕在化する偶有的な様態である(465ページ)。

 

21024 『くりぃむしちゅーのオールナイトニッポン 番組オフィシャルブック』(総合法令出版、2021)

 私のラジオの原体験が、時を超えてこのようなファンブックが出るとは、感無量です。

21025 矢野晴美『絶対わかる抗菌薬はじめの一歩』(羊土社、2010)

 抗菌薬のとっかかりの勉強として読みました。

21026 『N:ナラティヴとケア 第12号──メディカル・ヒューマニティとナラティブ・メディスン』(遠見書房、2021)

 ある種の説教臭さ・教条主義的な側面と、学問としての側面と、そして実践されるものとしての側面と、ナラティヴ・メディスンがそのあいだを今なお揺らぎ続けるありさまを、ここに集められた11の論考がそれぞれに体現しているような印象を受けて面白かった。宮本の論考で指摘されていた医学教育における人文学の「上滑り」には大いに共感するところがあったのでおもしろく読んだ。医学概論がメディカル・ヒューマニティの文脈にこう配置されるのかという興味深さもある。
 金城の論考は、「共同著作」をキーワードに、ナラティヴと医療の関係性(敢えてナラティヴ・メディスンとは書かないが)についてよくまとめられていて、今後も参照することがあるだろう。個人的には、実際の医療現場における医師の"Shared decision making"の受容のされ方と比較しながらの視点があればより面白いと思った。医療現場でかなりふつうに聞く言葉であるにも関わらず、その解釈は個々人の実践に大きく委ねられている概念であると個人的には感じている。

21027 大曲貴夫『感染症診療のロジック』(南山堂、2010)

 前半は抗菌薬治療の基本的な考え方、後半は救急外来のセッティングで「感染症っぽい」人が来たときの思考経路、と前後半でふたつのテーマがある本だったが、本書を通じてエビデンスに基づいたロジカルな臨床推論のいろはを教えたいという筆者のスタンスが通底していて、読みやすいし勉強になった。

5月

21028 伊藤亜紗『どもる体』(医学書院、2018)

 まずは単純に、連発・難発・言い換えなど、吃音をもつ方がどのようなことを経験しているのかを詳細に知ることができてよかった。議論としては、レヴィナスの、能動と受動が混じり合う状態のなかでの「自己から匿名状態への移行」を引用していたあたりが面白かった。 素の状態で喋るというのは自分の喋りをゼロから自分で構築することだが、「リズム」や「演技」では、自分の運動の主導権が自分でないものに一部明け渡されている。つまり自分の運動を構築するという仕事を、部分的に「パターン」にアウトソーシングしているのだと。それに関連して言い換えを警戒する派と、言い換えを肯定する派にわかれ、「わたし」というアイデンティティをいかように捉えるか、という話に発展していくのは、非常に普遍的な部分につながっていておもしろく読めた。
 ゴフマンの引用も適切であると感じた。ゴフマン的な意味での「演技」は、(完全にではないにしても)本人の意図によって行われる人格の制御であるが、吃音当事者が行う「演技」の場合には、社会的な印象が、運動上の工夫の副産物として生じることになり、自分では制御できないところで自分の印象が形づくられる。これも吃音というテーマで話しているが、私も自分の「演技」をすべて統御できている感覚はなく、その場その場で何が最適かという試行を繰り返して否応なく「その場における私」という「演技」ができあがっていく感覚があって、それを事後的に否定的に評価したり、あるいはそれも自分だと肯定したり、そういう引き裂かれのなかに自分があるなと思って、そういう意味で私は吃音的に生きているのかもしれないという感想を抱いた。

21029 松原知康・吉野俊平『動きながら考える!内科救急診療のロジック』 (南山堂、2016)

 ERにおけるプロブレムのlist up、prioritization("ENTer"と"3C"に基づく優先順位づけ)、grouping(鑑別疾患の統合と分類)の流れを具体的な症例に基づいてイメージしやすく解説する本。網羅的に「この症候ではこれ」に詳しくなれるわけではなくて、あくまでそのERでの思考の過程を可視化することが目的なので、前者を目的として救急の本を探している人は注意。あとは苦手になりがちな系統だった血ガスの読み方の解説がよかった。

21030 岡本裕一郎『フランス現代思想史』(中公新書、2015)

 レヴィ=ストロースラカン、バルト、アルチュセールフーコードゥルーズ=ガタリデリダに至るまでのフランス現代思想の流れを、この薄さで正確さを犠牲にすることなく記述した本。ある程度の事前知識を前提として、一般に混同されやすいポイントを強調して書いてくれるのが大変ありがたい。個人的な感想としては、デリダがやはり難解でいまだ咀嚼しきれていない。

21031 『レジデントノート 2018年8月 Vol.20 No.7 エコーを聴診器のように使おう! POCUS〜ここまでできれば大丈夫! ベッドサイドのエコー検査』(羊土社、2018)

Point-of-Care Ultrasound [POCUS]のなかでも、FOCUS(focused cardiac ultrasound)、肺エコー、腹部エコーあたりが詳しくて勉強になった。ただ全体としてみたときに、初期研修医が救外で即戦力的に必要されるエコーについて必要十分な内容かというと、詳し過ぎたり足りなかったりするので、エコーを勉強する一冊目の本ではなかったかなと思った。

21032 北村紗衣『お砂糖とスパイスと爆発的な何か』(書肆侃侃房、2019)

 目の覚めるようなピンクの見返しが素敵な本。フェミニスト批評入門であり、フェミニズム入門でもあるこの本は、映画や文学の間に浸透している男性中心主義的・女性差別的な価値観を鋭く切り出す。(陰謀論、男性性への渇望、既存の体制や社会秩序に対する疑い、暴力の美化、強くてカリスマ的なリーダーであるタイラー・ダーデンなど)オルタナ右翼の白人男性が支持する『ファイト・クラブ』を、女を排除し、暴力を男らしいものとして美化する傾向が実は幸せをもたらさないということを皮肉る作品として読み替える論考がおもしろかった。

21033 増井伸高『骨折ハンター レントゲン×非整形外科医』(中外医学社、2019)

 救急外来でとにかくよく骨折・外傷が来るので読んだ。「非整形外科医が骨折について知っておくべきこと」というコンセプトで大変読みやすいし実践的である。骨折の分類を分類のためでなく、骨折線のイメージのために使おう、というのは目から鱗だった。巻末に整復や固定のやり方も書いてあるのが有難い。

21034 石井遊佳『象牛』(新潮社、2020)

 この小説を例えば親子の相剋、あるいはひとりの女性の恋路の物語として読むことはできるが、そういう要素還元的な解釈を拒む存在として物語に位置するのが象牛である。ニヤニヤしながらわれわれを弄ぶ象牛はたしかに人生の何事かを暗喩しているように思えるが、しかしそれを抽象的な何かに解釈しようとした瞬間に、そこにあったはずの非現実的なリアリティは消え去っていく。象牛(とリンガ茸)を媒介しなければ思考できない世界がある。めくるめく主人公の回想とヴァーラーナシーの場面が絡み合うなかに、わたしの世界も否応なく撹拌されていく。

21035 山﨑道夫『レジデントのための腹部画像教室』(日本医事新報社、2017)

 網羅的ではあるが、タイトルに「レジデントのための」とあるようにレジデントにとって必要十分な内容量かというと微妙だなと思った。総論部分は勉強になったが、特に各論部分は詳しくはあるが救急対応における画像の見方を助けてくれるような内容ではなかった。画像は豊富なので、疾患別の実際のCT所見のイメージを一度つけるのにはよいかもしれない。

21036 飯田淳子・錦織宏 編 『医師・医学生のための人類学・社会学』(ナカニシヤ出版、2021)

 こちらに感想を書きました。 

satzdachs.hatenablog.com

21037 佐藤健太『「型」が身につくカルテの書き方』(医学書院、2015)

 カルテを書くくらいさすがにできると思っていたが、読んでみると自分がどれだけできていないかを思い知らされる良書。さっそく明日からカルテを改善してみようと思う。

21038 伊藤亜紗『目の見えない人は世界をどうみているのか』(光文社新書、2015)

 目の見えない人には「視点がない」話が印象に残った。それゆえに自分の立っている位置を離れて土地を俯瞰することができたり、月を実際にそうであるとおりに球形の天体として思い浮かべたり、表/裏の区別なく太陽の塔の三つの顔をすべて等価に「見る」ことができる。

21039 讃岐美智義『やさしくわかる! 麻酔科研修』(秀潤社、2015)

 麻酔科のローテが始まるということで読んだ。読み比べをしていないのでわからないが、基本的な知っておくべき事項を平易に書いた良い入門書であると思う。しばしばある権威主義的な部分に食傷気味になるのと、文章が読みにくいところがあるが、これは好みの範疇だと思う。

21040 島村一平『ヒップホップ・モンゴリア 韻がつむぐ人類学』(青土社、2021)

  めちゃくちゃ面白かった! そもそも目に触れる機会すらなかったモンゴルのヒップホップ事情について、その歴史から一冊で詳しくなれる。「モンゴルには文化がない」というコンプレックスから、「発展」=「西洋化」への欲望と、外来の文化を飼い慣らしたい=「モンゴル化」の駆け引きのさなかにある状況を、ヒップホップシーンが象徴的に表している。シャーマニズムの身体技法としての「韻」を、ヒップホップのミュージシャンが「フリースタイル」と呼ぶ即興で韻を踏みながら歌詞を生み出していく手法と重ねて論じる部分も面白かった。
 ポスト社会主義におけるモードの「記号的意味のタイムラグ」の話も面白い。90年代-ゼロ年代初頭のモンゴルにおいて、西側の文化や商品が急激に押し寄せるなかで、ヒップホップ系のファッションスタイルに記号的意味は「自由と豊かさの象徴」=「欧米の高い文化/高価な商品」=「ハイカルチャー」。その結果、サブカルチャーが輸入されても、欧米で持つ記号的意味(黒人にとっての「抵抗のスタイル」)が理解されるまで時間差があったのだという。

遊牧から都市定住化へ。文明レベルの大転換によって引き起こされる軋み。ゲル地区派と都会派のラッパーたちは、お互いがかつての/これからの自分の自画像であるということを薄々知っていながら、対立をする。(393ページ)

 Mrs Mの"Bang"が、リリックはもちろん、トラックとラップの技術も含めていちばんのお気に入り。Zoomgalsが台頭する今の日本でも流行りそうなフェミニズム・ヒップホップ。

youtu.be

21041 田中竜馬『Dr.竜馬の病態で考える人工呼吸管理』(羊土社、2014) 

 麻酔科のローテ中に、人工呼吸器を扱ってるけど何も仕組みわかってない!となって読んだ。説明が呼吸生理・病態に則していて、なおかつ平易な文体で読みやすい。「要はこういうこと」の言い換えがたくさんあるのが個人的にはとても好み。後半のケーススタディは、病棟管理で実際に使用する場合に改めて読もうと思った。

21042 伊藤亜紗『手の倫理』(講談社選書メチエ、2020)

 序章の、「『まなざしの倫理』は、身体接触=介助を必要としない、健常者の身体を基準にした倫理」(33ページ)というセンテンスが目から鱗だった。「部分の積み重ね」であり「時間がかかる感覚」である触覚について、双方向的で、生成的な(あらかじめ用意された意図のとおりにはコミュニケーションは進まない)やりとりという観点から分析する。
 看護師が体を「さわった」ときに患者に蹴られ、その患者が「暴力的」として扱われた出来事をとりあげて、「自分の体に突然さわる看護師のほうがよっぽど暴力的」としていたくだりは、この本においてはたしかに正論なのだが、「さわる/ふれる」ことの多い看護師の仕事と、そのとき蹴られた当人の気持ちを考えると、(医療者側として)そこまで割り切って「よっぽど暴力的」と批判することはできないなと思う。 

21043 讃岐美智義『麻酔科研修チェックノート 改訂第6版(羊土社、2018)

 麻酔科ローテ中の暇な時間にちまちまと読んでいた本。タイトル通り、研修するうえで必要な知識はすべて揃っていると思う。ポケットサイズで持ち運びもしやすい。

業績集

1. 学術論文(査読有り)

外山尚吾,青木杏奈,藤崎和彦,錦織宏.「医学とは何か」を問う教育の実態調査:中川米造の医学概論の観点から.医学教育.2020;51(4):379-388.

https://www.jstage.jst.go.jp/article/mededjapan/51/4/51_379/_pdf/-char/ja

Toyama, S., Poudyal, H. Prevalence of kodokushi (solitary deaths) in the Tokyo metropolitan area. SN Soc Sci 1, 163 (2021).

link.springer.com

2. 著書

外山尚吾(2019),「言葉」をめぐる考察―医療における熟慮と選択.In 荘子万能・小泉俊三(編),私にとっての“Choosing Wisely” 医学生・研修医・若手医師の“モヤモヤ”から,金芳堂,京都.ESSAY 9(pp. 92-95).

www.kinpodo-pub.co.jp

3. 翻訳書

木村正博,木原雅子(監訳)(2017),グローバルヘルス 世界の健康と対処戦略の最新動向,メディカルサイエンスインターナショナル,東京.
外山尚吾(共訳・立山由紀子),非感染性疾患.第13章(pp.341-374).
Richard Skolnik(2015),Global Health 101(Essential Public Health) ,Jones & Bartlett Learning,Massachusetts.

www.medsi.co.jp

松田亮三,小泉昭夫(監訳)(2020),社会的弱者への診療と支援 格差社会アメリカでの臨床実践指針,金芳堂,東京.
外山尚吾,サービスが十分に行き届いていない患者の倫理的ケアにおける原則.第3章(pp.25-37).
外山尚吾,十分なサービスを受けられていない患者のためのメディカルホームをつくる.第8章(pp.87-96).
外山尚吾,ケアの環境としての家族.第15章(pp.169-179).
T.E.King,Jr., M.B.Wheeler & A.B.Bindman(2016),Medical Management of Vulnerable & Underserved Patients,McGraw-Hill Education,New York .

www.kinpodo-pub.co.jp

4. その他の研究報告等

外山尚吾.医学教育への学生参与の現状およびこれからへの提言.新しい医学教育の流れ.2018;17(4):349-351.

外山尚吾,池尻達紀,小林充.地域医療を再定義する―「地域医療のコアを考える会」の取り組み.日本プライマリ・ケア連合学会誌.2018;41(4):191-193.
https://www.jstage.jst.go.jp/article/generalist/41/4/41_191/_pdf/-char/ja

外山尚吾.コロナ禍における学生の教育参画―そもそも論から考える.医学教育.2020;51(3):358-359.
https://www.jstage.jst.go.jp/article/mededjapan/51/3/51_358/_pdf/-char/ja

外山尚吾,宮脇里奈,種村文孝.”そもそも論”から議論する学生の教育参画―「学生と教員の懇談会」の試み.医学教育.2020;51(6):691-695.

5. 学会発表等

池尻達紀,外山尚吾,荘子万能,柴原真知子,羽野卓三,小野富三人,鈴木富雄.「きょういくDIY~「明日の医師」とつくる、これからの医学教育」.第48回医学教育学会大会.大阪.2016年7月30日.(学生×教員対話セッション)

荘子万能,池尻逹紀,寺田悠里子,草場英太,箱山昂汰,相庭昌之,外山尚吾,柴原真知子,大滝純司.医学教育の「当たり前」を問い直す:当事者間の協働に向けて.第49回医学教育学会大会.北海道.2017年8月19日.(学生×教員対話セッション)

井口真紀子,木村武司,外山尚吾,孫大輔,錦織宏,密山要用,宮地純一郎,宮地由佳,森下真理子.旅するプライマリケア①人文社会科学に魅せられてー他者理解・対話・スピリチュアリティー.第11回日本プライマリ・ケア連合学会学術大会.広島.2020年5月31日.(インタレストグループ)

外山尚吾.臨床実習の経験をフィールドノートに書くということ.第52回日本医学教育学会大会論文抄録集,24,2020年8月.(シンポジウム企画「地域医療教育における文化人類学の可能性」)

外山尚吾,宮脇里奈,種村文孝.“そもそも論”から議論する学生の教育参画──「学生と教員の懇談会」の試み.第52回日本医学教育学会大会論文抄録集,81,2020年8月.(ポスター発表)

外山尚吾,青木杏奈,藤崎和彦,錦織宏.「医学とは何か」を問う教育の実態調査:中川米造の医学概論の観点から.第52回日本医学教育学会大会論文抄録集,96,2020年8月.(口頭発表)

外山尚吾,ほか.上気道閉塞に伴う陰圧性肺水腫を認めた一例.第124回日本呼吸器学会北海道支部学術集会,17.2022年9月.(口頭発表)

外山尚吾,ほか.心不全発症にて診断に至った高安動脈炎を病因とする重症大動脈弁閉鎖不全症の一例.第296回北海道地方会.2022年11月.(口頭発表)

外山尚吾,ほか.両肺多発結節で発病し外科的肺生検で診断した古典的Hodgkinリンパ腫の一例.第102回日本呼吸器学会近畿支部学術集会抄録集,77.2024年1月.(口頭発表)

6. その他

・医療倫理に関する対話型フィールド学習の開発 -京都大学チャレンジコンテスト2017(2017)

www.kikin.kyoto-u.ac.jp

・医学教育の展望:学生と読むTomorrow’s Doctors -DOCTOR-ASE(2017)
DOCTOR-ASE:医学生がこれからの医療を考えるための情報誌

医学生よ、声をあげよ 医学教育への学生の参画を考える ―第5回医学生日本医師会役員交流会― -DOCTOR-ASE(2017)
DOCTOR-ASE:医学生がこれからの医療を考えるための情報誌

・SANDBOX Session.1-1:風邪に抗菌薬 -LINK-J(2017)

www.link-j.org

・タイ東北部の田舎地域で気付いた「価値観」 -INOSHIRU(2018)

inoshiru.com

・AI/IoT時代の医療プロフェッショナル像~君は、生き延びることができるか?~ -Antaa Media(2019)

med.antaa.jp

日本医師会後援映画 「山中静夫氏の尊厳死」 -DOCTOR-ASE(2020)
DOCTOR-ASE:医学生がこれからの医療を考えるための情報誌

 ・FACE to FACE:重堂 多恵×外山 尚吾 -DOCTOR-ASE(2021)

DOCTOR-ASE:医学生がこれからの医療を考えるための情報誌

飯田淳子・錦織宏 編 『医師・医学生のための人類学・社会学』(ナカニシヤ出版、2021)

 「あの人、せいほだから」

 それは、医療現場でしばしば聞く言葉である。想像に難くないように「せいほ」とは「生活保護(受給者)」のことであり、しばしばその隠語には差別的なニュアンスが含まれている。幾度となくトラブルを巻き起こす患者が「せいほ」だと明らかになると、医療者たちは納得した表情を浮かべ、「せいほ」だという噂はさざ波のように伝わっていく。あるいは、「害のない」「ふつうの」患者だとしても、「せいほ」だということは眉を顰めてヒソヒソ声で語られる情報として受け止められる。
 臨床実習中にも、医師として過ごしたまだごく僅かな間にも、同様の場面には何度も遭遇してきた。そのような態度の根底には、明示的に言われることがない(本人も自覚していない)にしても、「せいほ」は怠惰であるとか、ずるいとか、まともに取り合う価値のない相手であるとかいった偏見が多かれ少なかれ存在している。私はそのたび、体の芯が熱くなるような怒りを感じる。社会のセーフティネットをどう捉えるかということについての私の信念・信条があり、上述のような振る舞いは社会正義に反していると強く思うのである*1

 誤解を招く導入かもしれないので、以下、いくつかの点について注釈を加えておく。
 もちろんいわゆるDifficult Patientのすべてが「せいほ」ではないし、「せいほ」のすべてがDifficult Patientではない。医療者とトラブルになることと、「せいほ」であることにはたして相関があるのかどうか、寡聞にしてわからない*2。だから以降の議論では、「『せいほ』の人がトラブルを起こしたときの、医療者の向き合い方」という風に場面を明確に設定して話を進めていこうと思う。
 同様にして、医療者の皆が皆「せいほ」の人たちに対してネガティヴな態度をとるわけではないというのも事実であろう。ここで、医療者に対する偏見という点にも牽制を加えておく必要がある。ネガティヴな感情を持つ人からそうでない人までグラデーションであるし、そのネガティヴな感情の中身もそれぞれ多様だと思う。
 また、病院でトラブルが起こるとき、医療者が身体的な危害を加えられる場合もあり、それはどんな事情があろうと言語道断である。そこまでいかないにしても、暴言を投げかけられた医療者の精神的ダメージや、円滑な業務遂行を阻害されることの不利益についても考慮するのがフェアだろう。

 ただ、以上の点を留保しておくとしても、である。片足の爪先だけ医療の世界に突っ込んだ身として、病院でトラブルが起こっていて、目の前の患者が「せいほ」だとわかった瞬間に流れるあの何とも微妙な——感覚的な表現が許されるならば「うわっ」という空気、あれだけはいつも肌で生ぬるく感じる。そのたびに私は憤りを覚える。

人道主義への絶望

 しかし私は沈黙する。他職種、上司はもちろん、同じ立場であるはずの研修医に対してもその憤りを表明できない。他人との衝突を恐れる私のひ弱な精神性もまた、原因のひとつである。
 また、ただでさえ忙しい医療者たちにとって、トラブルによる陰性感情のやり場を「せいほ」という属性に求めるという思考回路について理解できないわけでもないし、それを頭ごなしに否定することはできない。私は一介の研修医であり、本当の意味で当事者性を持ってこの問題に直面したことはいまだない。

 だがそれ以上に、私の沈黙の理由には、こういう局面で人道主義的な反論の仕方をすることへの絶望がある。もし「人道的な」医師であれば、「せいほ」を上述のような仕方でネガティヴに表現することを咎め、問題を起こす患者に「共感的態度」で接することを勧めるだろうか。
 この、「患者さんを思いやり、共感しよう」というようなたぶんにmoralな色合いを纏った標語(クリシェと言っていいかもしれない)は、届く人には届くし、届かない人には届かない。「共感」は卒前医学教育のなかで、「ああいつものあれね」とでもいうような説教くさいワードとして、半笑いで茶化しながら受ける道徳の授業のような受け止められ方をしている(と、私は思う)。あるいはOSCEという試験をくぐり抜けるためのあくまで技術的な要素の一つに成り下がっている(と、私は思う)。

 それではいったい、どのような仕方で歩み寄りを求めるべきなのだろうか? 私は、「せいほ」に対する偏見に満ちたふるまいに対して、「生活保護受給者という他者を理解する」という切り口に希望を見出したい。むろん「共感的態度」の重要性そのものを否定するわけではないのだが、人道主義的な半笑いワードと誤解されやすいそれよりは、いたってリアリスティックで、私たちがやるべきことを明示してくれるこの言葉のほうが好ましいと私は思う。

他者を理解する

 ここで紹介したいのが、4月に出版されたばかりの『医師・医学生のための人類学・社会学―臨床症例/事例で学ぶ』の第4章、人類学者の浜田明範の短い論考である。ここでは、「月毎に入退院を繰り返す」生活保護受給者のCさんが、医療費が無料になるからそのようにしているのではないかという疑われ医療者たちから否定的な感情を向けられる、という事例が冒頭に紹介されている。まさに「『せいほ』の人がトラブルを起こしたときの、医療者の向き合い方」である。

www.nakanishiya.co.jp

 浜田はその事例に対して、前提として「Cさんの行為が、Cさん自身の戦略とともに、生活保護に関する細やかな仕組みによっても方向づけられている」とする。まずこれは非常に重要な考え方である。「せいほ」が怠惰であるとかずるいとか思われるとき、その人の行動はすべて彼/彼女の管理下にあり、その行為の責任は当人にすべて帰されるという前提に立っている。そうではないというのが上の一文であり、これは社会科学の基本的な考えである。
 そのうえで、「Cさんの行為を理解するためには、単純に彼女は病人役割*3から逸脱しているのでけしからんと理解して済ませるのではなく、彼女が病人以外のどのような役割をもっており、そこではどのような行為が期待されているのか、また、彼女の行為がどのような制度的・技術的な前提によって支えられ、導かれているのかを検討する必要がある」と書いている。
 それはまさに、医療現場における「せいほ」をめぐる問題系について風穴を空ける考え方であると思う。私が卒前医学教育において「共感」ではなく「他者理解」という表現を使うべきだと考る理由は、「他者理解」はそうしようとする態度さえあれば、いくばくかの知識(Cさんの事例ならば生活保護制度をめぐる諸々)を身につけることにより少なくとも試みることができるということである*4
 この「いくばくかの知識」というのが大事で、それは決して、文学的想像力といった(そういった分野に関心がない人にとっては)曖昧模糊としたものに頼るわけでも、その人の倫理観に情動的に訴えかけるわけでもない。生活保護受給者の行為が「どのような制度的・技術的な前提によって支えられ、導かれているのか」を「知る」という、いたってシンプルで、ソリッドな過程である。

 以下の浜田の一節は、ここだけでもすべての医師・医学生に読んでもらいたいと思わせられる、素晴らしい文章だ。

……医療社会学や医療人類学では、Cさんの行為を道徳的に批判するよりも、Cさんの行為を可能にする条件に目を向けることに価値があると考える。問題を個人の性格や資質に還元するよりも、個人にそのような行為をおこなわせる条件を再検討するほうがより根本的で、広範に適用可能な解決につながると考えるからである(40ページ)。

 なお、以上は私が勝手に行った文脈づけであり、本来の著者の意図とは少なからず逸脱している可能性があることを、本節の最後に一応つけ加えておく。

「社会」について

 「共感」や「想像力」と同じような文脈で登場する言葉として、「傾聴」がある。いかにも、「傾聴」することは「他者理解」においても同様に重要である。しかし医学教育の場に輸入されるにあたって、その言葉はしばしば、患者の心の中・内面を掘り下げることを意味して、そういう「パーソナルな(個人的な)」領域を詳らかにすることが「他者を理解する」ことだと受け取られる節がある。それはまったく間違っているというわけではないが、いくらか訂正が必要である。
 前掲書の第2章、「社会科学と医療」で星野晋は、社会の「マクロ的側面」と「ミクロ的側面」という言葉を用いて以下のように論じている。

 ……医療専門職が社会科学から学ぶべきことは、社会の状況や動向を把握しその文脈で保健・医療を理解するマクロ的な視点と方法、そこで得られる知見を関連づけつつ、多様で変化しつづける臨床現場の具体的ケースを読み解くミクロな視点と方法ということになる。そして社会のマクロ的側面とミクロ的側面は常に連動している以上、両者を同時並行してあるいは関連づけながら学ぶことが肝要である。

 医療はそれぞれの国や地域において、法・制度・政策・経済などに規定される社会の仕組みの一部をなしている(=社会のマクロ的側面)。一方で、医療の対象とする患者や医療福祉サービスの利用者は、家族・近所・職場などの人間関係を生きる社会的存在である(=社会のミクロ的側面)。この両方の視点があってこそ、人類学を人類学たらしめるのである。
 ごく一部の人類学に関心のある読者によってクラインマンが読まれているというのは、非常に喜ばしい事態である。しかしその「説明モデル」や「病いの語り」といった概念が独り歩きすると、そういう社会科学の広い視座が失われてしまう危険性もある*5。これは「微小民族誌」がしばしば批判の的になるのと似たような背景である。

 前節の「せいほ」のCさんの話も、とどのつまりは「社会のマクロ的側面」と「社会のミクロ的側面」から理解せよということである。それが異質馴化(Making the strange familiar)であり、そのことが自分の当たり前の前提を疑うことにつながる、すなわち馴質異化(Making the familiar strange)である。

『医師・医学生のための人類学・社会学』についての覚え書き

 これまで医師・医学生が人類学を学びたいと思ったときには、人文系の学生向けの書籍を読むか、ごく限られた文脈での書籍(精神医学という文脈のなかで、クラインマン・グッドの解釈人類学の流れを理解する*6)を読むしかなかった。そんな私自身の昔のことを考えれば、このような、実際に医師・医学生にとって場面を想起しやすい事例をベースに人類学・社会学の概念を学べる書籍が出たのは、間違いなくマイルストーンな出来事である。
 本を読むのが億劫だという人、そういうブンケイの話は興味ないよという人も、最初の数十ページだけでも読むことを何としてもオススメしたい。それだけこの本は、「現場の医師・医学生にどうすれば還元できるか」について考え抜かれて書かれている。

 以下、蛇足ではあるが、そのほか本書について良いと思った点と悪いと思った点をそれぞれふたつずつ挙げて、締めと代えさせていただく。

・提示されている症例が、家庭医・精神科医というかねてから人文系との相性が良い診療科だけではなくて、呼吸器内科医や神経内科医、ひいては救急医によるものが混ぜられているのが素晴らしい。人文社会科学は一部のマニアックな人たちが学ぶためだけのものではなくて、すべての医師・医学生にとって有用になり得る可能性を秘めている(と、私は思う)。

・この本の構造自体が、おそらく敢えて(無機質で人文系の学問とは相性の悪そうな)コアカリの構造に則っているのがユニークである。卒前医学教育の枠組みでこれができるのだという編者らの気概を感じる。

・紙幅の限界もあり、ひとつひとつが総論的な域を出ていないのが残念である。パーソンズの役割論はたしかに頻出の重要概念であるが、こう何度も重複して出てくるとさすがに飽きてくる。一方でたとえば補完代替医療は医療と社会科学の接点で考えるのに非常に有用なテーマであると思うが、不完全燃焼のまま原稿が終わった感がある。もう少し事例数を減らして、ひとつあたりの原稿枚数を増やしてもよかったのではないかと思う。

飯田淳子は巻末で「それで結局、臨床現場ではどうすればよいのか」という問いについて触れているが、本書では到底まだ答え切れていないと思う(もちろん、答える必要があるのか、というところから問いを立てることもできる)。しかしそれは本書の次に出る書籍の役割であろう。

*1:そもそもそういうのをシニカルに言えるのが医師なのだ、みたいなノリも、煙草吸う中学生のそれとほとんど同じでダサい。

*2:何となく多そうな気がする、という私の所感それ自体も、無意識の偏見に根ざしているのかもしれない。

*3:医療社会学におけるパーソンズの有名な概念であるが、その紹介は紙幅に収まらないため今回は断念する。

*4:あくまで「できる」ではなく「試みることができる」である。ほんとうはここに書いたほど容易ではないし、そのような他者理解の不可能性に向き合ってきた学問こそ人類学である。

*5:ただもちろん、そのようなリスクよりも、クラインマンが医師に読まれることのメリットのほうがはるかに大きい。

*6:江口重幸『病いは物語であるー文化精神医学という問い』(金剛出版、2019)。むろんこれは良書である。

ハンバーグと剰余

 今日は丸一日休みだったので、ハンバーグをこねて焼いていた。
 まずはみじん切りした玉ねぎ1/4個をバターで炒め、小麦粉を混ぜてから冷ましておく。合い挽き肉180gに塩胡椒をふってから2分ほどよく練り、それに生卵1/2個、パン粉10g、そして先ほどの玉ねぎを混ぜる。それからまた力をこめて練る。最初は合い挽き肉のボソボソした感触だったのが、徐々にぬるぬると弾力が増してくるのが手のひらで感じられる。ちぎって糸をひくくらい粘りが出るまでになったら、手にサラダ油を塗り、両手で投げ合うように往復させて、中の空気を抜きながら徐々にハンバーグの形に近づけていく。厚さを均等にして、真ん中にくぼみをつくる。そしたらフライパンにサラダ油を引いて中火で両面を1分半ずつ焼く。あっという間に焼き色がつくが、その健康的な肉汁の香りとは裏腹に、まだその中身には赤がぐにゅぐにゅしたまま眠っている。だから蓋をして蒸らすようにしながら、今度は弱火で5分間焼く。これでようやく完成だ。

 私はお腹が空いたので、ごはんをつくった。何をつくってもよかったが、特に必然性のない選択として、ハンバーグを選んだ。お腹を満たすためにハンバーグをつくった。それと同時に、ハンバーグをつくるためにハンバーグをつくってもいた。ハンバーグの自己目的化。自己目的化は常に私の目指すところであり、憧れであり、叶わぬ望みである。
 このようなことはこれまでにも書いてきたことと思う。しかしさらに大事なことは、私が今日ハンバーグをつくるという経験において、「ハンバーグの自己目的化」では説明し尽くされない剰余が存在しているということだ。それは何も、センテンスがひとつだから起こったことではない。冒頭のハンバーグの調理過程を詳述した文章でもなお、そこには描き切れない剰余が顔をみせる。

 ハンバーグをこねて焼くという経験の「総体」をテクストとして書く、というのはそもそも無謀な試みである。つねに何かを書き損ねながら私は文字を綴らなければならない。帯広の自宅で2021年18時30分からハンバーグをこねて焼いたという一回性の経験は、数多の剰余を抱えながら足早に逃げていく。
 しかし剰余は逃すばかりではない。それはやってくることもある。私がハンバーグについて書いた経験を、あなたが読んだときだ。あなたは、私が思ってもみなかったところに目を引かれ、問いかける。あるいは誤読をして、私の経験を脱臼する。あるいは、私が書いていない、あなたの経験を現前させる。それらはすべて、読むという行為を通じてなされる。
 Aというものを書こうとしてAを書く、ということにはすでに飽き飽きしてしまっている。というより実は、気づいていなかっただけで、それをできたことはかつて一度もなかったのだ。経験をテクストにおこすとき、つねにそこには剰余がある。その剰余がおもしろくて、毎日闇雲に筆を走らせている。一回性のハンバーグの経験は常に捉え損ねられながら、しかし留保され、剰余を産み出し続けるのだ。

 こねくり回したような文章を書いてしまった、というオチを書くかどうかで20分迷って、結果、迷ったという事実を最後に記しておくことにする。いかにもこれは余計だった。

国試にインストールされた思考

*2021年3月15日、大幅に改稿しましたが、いまだ編集途中です。随時、加筆・修正されていく予定です。
*2021年3月20日、第3稿へと更新しました。

0. はじめに

 国試の問題というのは、基本的には5択である。すなわち国試勉強とは、5つある選択肢の中から1つ正しいものを選ぶ、という作業を何百、何千、何万回と繰り返すことである。
 5択において正答するための最も効果的な方法は、もちろん適切な医学知識を習得することだ。ただ、予備校において教えられるような、キーワード的な解き方のできる問題というのは多く存在する。それとは別に自分で国試の過去問を解いているだけでも、「これを見たらこう」というような反射的な思考が知らぬ間に身に付いていることにあるとき気が付く。それが国試の問題を解くうえでの単なるテクニック、あるいは臨床上でも役に立つような思考であるならばよいのだが、そういった「事実」には得てして「価値」が織り込まれている。
 本稿では、過去問演習のなかでほとんど無意識にインストールされたと考えられる思考のうち2つを取り上げ、医師国家試験の根底にある価値を問う。ただ自分でも書いていてよくわからないところも多いので、あくまで試論として読んでいただだけると幸いである。

1. 「自己決定」信奉

104B14 インフォームドコンセントで最も重要なのはどれか.

a 文書による説明
b 医師による説明
c 患者による意思決定
d 医療従事者のサポート
e 医事訴訟での責任回避

正解:c

 姿形を変えながらではあるが、「自己決定の尊重」が答えになる問題はほとんど毎年出る。医療がパターナリズムに支配されていた時代、引いては人体実験の凄惨な歴史を鑑みるに、もちろん「患者による意思決定」が守られない医療というのはあってはならない。医師として必ず知っておくべき問題である必修ブロックで出題されるのも頷ける話である。
 しかしながら、そうやって自己決定権に対する問題を繰り返していくうちに、「患者の自己決定が最優先」という思考がインストールされていくのは、何とも気持ちの悪いものでもあった。「患者の意志を尊重」=「正解」という回路——むろんそれは国試の問題としての「正解」であるが——に抵抗感を覚えるその理由は、まずもって私が最近流行しつつある中動態の議論にかぶれていることだろう。

 中動態の詳しい議論については私の過去のブログを見て欲しい*1が、國分功一郎は、私たちが自明視している<能動態―受動態>の対立のある言語をして「尋問する言語」と呼ぶ。例えば中動態であれば単にファイノマイ=私が現れていると表現されていたのを、現代の言語ではI appear(能動態)なのかI am shown(受動態)のどちらかに訳さなければならない。ここで、自発的に来たのか、それとも誰かに言われて仕方なく来たのか、を何としてでも区別する必要がある。すなわち「自発的に来たのか? それとも誰かに言われて仕方なく来たのか?」という尋問に答えを出さなければならない。
 ここにおいて問われているのは、意志(will)の概念の有無だ。自分の意志で現れたのか、それとも自分の意志ではなかったのか。

 意志という概念がもつ機能について、ジョルジョ・アガンベン(1942-)というイタリアの哲学者が、『身体の使用』という書籍において「意志は、西洋文化においては、諸々の行動や所有している技術をある主体に従属させるのを可能にしている装置である」と書いている。つまり、意志という概念を使うと、行為をある人に所属させることができるのだという。
 例えば、ある病気で入院している患者(Aさん)が、自分の治療方針について決定したとする。それがAさんの「意志」によるうものだとしたら、その「決定」という行為はAさんに帰属する。これが何を意味するかというと、「自分の意志で決めたから、自分の責任だ」ということで、その行為の責任をその人自身が負うということである。すなわち意志は行為の帰属を可能にし、行為の帰属は責任を問うことを可能にする。

 確かにAさんは自分の治療方針を決定した。しかしながらそれには、医師に言われた説明が影響していることだろう。家族に言われた言葉があったのかもしれない。そしてその家族は、本で読んだ同じ病気の患者のストーリーに感化されたのかもしれない。その本は、家族の友人によって薦められたものだったのかもしれない。
 このように行為の原因というのは、いくらでも、過去と周囲とに遡っていくことができる。人というのは、自らの人生の歴史をもっていて、そして今まさに周りの人々・環境とつながって生きている。その全てから孤立した条件下での行為など存在しない。ところが、意志という概念を使うと、その遡っていく線を切断することができる。「君の意志がこの行為の出発点になっている」と言える。

 『中動態の世界』を読んだ当初の印象とは違い、その後さまざまな文献を読むに中動態とは簡単に/単純に「免責」できる、と主張しているわけでもないようである。例えば國分功一郎・熊谷晋一郎『<責任>の生成ー中動態と当事者研究』(新曜社、2020)では、「自分が応答すべきである何かに出会ったとき、人は責任感を感じ、応答respondする」のがresponsibilityであると説くが、ここはイマイチ納得のいかない部分である。私の理解力が悪いのかもしれないが、國分らの言う「責任」概念がいまだに十分に書き下されていないように感じる。
 よって、国試の所詮5択に対してナイーヴに「患者の自己決定がすべてではない!」と主張するつもりはなく、問題としては充分適切であると考えている。ただ一方で、「患者に決めさせればそれで万事OK」という思考を無意識にインストールし、それを無条件で信じる医学生が毎年たくさん生み出されているのならば、それはそれでやはり悲しい、とも思う。

2. 「同性愛者ときたらHIV/AIDS」

106A22 39歳の男性。同性愛者。頭痛を主訴に来院した。2週前から微熱と全身倦怠感とを自覚していた。2日前から頭重感を伴うようになった。昨日から持続的な頭痛が加わり、次第に増悪してきたため受診した。これまでの経過で嘔吐したことはないという。意識レベルはJCS I-1。体温37.6℃。脈拍 92/分、整。血圧162/70mmHg。呼吸数21/分。SpO2 96%(room air)。口腔内に白苔を認める。Kernig徴候は陽性である。血液所見:赤血球400万、Hb 13.2g/dL、Ht 41%、白血球6,200、血小板11万。免疫学所見:CRP 8.2mg/dL。HIV抗体陽性。脳脊髄液所見:外観は水様、初圧200mmH2O(基準70~170)、細胞数42/mm3(すべて単核球:基準0~2)、蛋白55mg/dL(基準15~45)、糖40mg/dL(基準50~75)。脳脊髄液の墨汁染色標本を別に示す。 診断として考えられるのはどれか。

※画像と選択肢は省略。正解はクリプトコッカス髄膜炎である。

 厚生労働省の発表によると*2、令和元年新規報告を感染経路別にみると、HIV 感染者、AIDS 患者のいずれにおいても、同性間性的接触が半数以上を占め、HIV 感染者ではその割合はさらに高い。

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令和元年エイズ発生動向年報(1月1日~12月31日)より

 本問において、「同性愛者」というのはHIV感染者/AIDS患者の事前確率が高い」という意味を持つ情報として入れているのだろうし、それ自体が不適切であるということはない。ただ、先述したように国試対策をするというのは何度も何度も5択で演習を繰り返すということであり、そのうちに問題文中に「同性愛者」という文字列があればすぐさま「HIV/AIDS」を連想するように習慣づけられていく。
 次の年の、同じテーマを含む他の問題を見てみよう。

107D18 病歴と疾患の組合せで正しいのはどれか。

a 同性愛 - ニューモシスチス肺炎

b 温泉旅行 - クラミジア肺炎

c 鳥類の飼育 - マイコプラズマ肺炎

d アルコール依存 - レジオネラ肺炎

e 産褥期のネコとの接触 - Q熱

※正解はa,e。

 「病歴と疾患の組合せ」というしばしば出題される形式は、非常に曖昧な問いかけであり、ともすればキーワード的なつながりのみを求める問題としても解釈できる。ただ先ほどと同様に「同性愛者であればHIV感染者/AIDS患者の事前確率が高い」という知識を問う設問として解釈するのならば、繰り返しになるがその意味では全く問題はない。
 ただこのような問題の形式では、よりあからさまに、受験生は「同性愛」→「HIV/AIDS」→「易感染性」→「ニューモシスチス肺炎」という反射的な連想ゲームを要求される。そのように問題演習するうえでパターン認識*3されたものとして頭の中につくった(あるいは、つくられた)「同性愛者」→「HIV/AIDS」という回路と、「同性愛者イコールAIDS」というようなステレオタイプ(決めつけ)の近接に、私は気持ち悪さを感じていた。

 今日ではよく知られているように、同性愛者の方々には、偏見(ネガティブな決めつけ)・差別(偏見に基づいた行動)*4と戦ってきた歴史がある。HIVが主に性交によって感染すること、そして同性愛者の社会で最初のHIV感染者が発見されたことから、「異性愛規範から外れた人々はHIV/AIDSに感染している」という偏見が強固に存在している*5
 
国試において「同性愛者」というキーワードが出てきた場合は、確実にHIV感染者/AIDS患者の問題である*6。「確実に」と書いたが、自分の記憶する限りでは「同性愛者」というワードが出てきてHIV感染者/AIDS患者の問題がなかった、というだけなので、実際には詳細な国家試験の過去問の検討を要する*7
 いずれにせよ、結局は、「(国試において)同性愛者であればすべてHIV感染者/AIDS患者」という思考を身につけていくわけだが、国試演習に没入しその反射神経を鍛えるあまり、その(国試において)の括弧が取れてしまいかねないことへの気持ち悪さがあったということだろうか。106A22の冒頭の「同性愛者。」というにべもない一言や、予備校で「同性愛者ときたらHIV/AIDS」と何度も教え込まれる経験——それらが相まって、同性愛者の方々に対する差別的行動を生み出すことへの恐怖を生み出していたのだと思う。

 しかし国試の問題演習をしていた頃に抱いていた違和感を今言語化して冷静に考えてみると、「国試はステレオタイプの形成に加担している可能性がある」とは簡単には主張できないと思い直している。「同性愛者」→「HIV/AIDS」という短絡的なキーワード連想がたとえ頭の中につくられたとしても、やはり(先ほどから強調しているように)「同性愛者がHIV感染者/AIDS患者の高リスク群である」という前提をわかったうえなのであれば、それは問題ないということになるのかもしれない。同性愛者イコールAIDS』というようなステレオタイプ」は「同性愛者はみなAIDSだ」というテーゼに書き下したほうがよりクリアだが、こう書いてみると、HIV/AIDSへの理解が進みつつある今、生物医学的な知識をつけたうえでこれ自体に同意する医学生はまさかほとんどいないと言っていいだろうと思う(残念ながら適切な根拠はない)。
 考えてみれば、ある病歴がある疾患の高リスク群であるということを記憶するのは、端的にはキーワード連想として頭の中に収納することである。例えば「ビールの多飲は痛風のリスク*8である」という知識があって、「ビール→痛風」というキーワード連想ができあがったとしても、ビールを飲んでいる人を見ていつも必ず「この人は痛風だ」と確信するわけでもない。

 結論、「同性愛者であればHIV感染者/AIDS患者の事前確率が高い」ということは大前提わかったうえで、「正しい知識」と「価値判断」の越境可能性について自覚的であるならば、生物医学的に診断するうえで「同性愛者→HIV/AIDS」という思考回路を利用することは批判され得ない、ということなのだろうか。このようにステレオタイプ/偏見と結びつきかねない医学知識というのは、他にも多く存在する*9。とすれば次の問い*10の一つは、そのように医師が自らの認知を反省的に検討するプロセスは、どれだけ可能か/どのように行われているか、ということになるだろう*11

*1:

satzdachs.hatenablog.com

*2:api-net.jfap.or.jp

*3:このようなパターン認識の刷り込みは、臨床推論の教育と非常に相性が良い。 

*4:本稿におけるステレオタイプ、偏見、差別の使い分けは以下の文献に基づいている。

https://opentextbc.ca/socialpsychology/part/chapter-12-stereotypes-prejudice-and-discrimination/

*5:Weeks, J. 1981. Sex, Politics and Society: The Regulation of Sexuality since 1800. New York: Longman

*6:国試において、性的指向のような繊細な情報をどういう理由で・どう聴取したのか、という過程までが問題に含まれることは決してない。

*7:もし「同性愛者」という単語が出てきてHIV感染者/AIDS患者の問題でないならば、どうして事前確率を高めるわけでもない「同性愛者」という情報を問題文に記載する必要があったのか、という問いが生じるかもしれない。これの肯定側の意見と否定側の意見をそれぞれ検討してみよう。
Pros:この主張は「文中には問題を解くうえで必要な情報だけを記載する」という前提のもとに成立するものであり、実際の国試では、最近ではより顕著に(∵キーワード的に解くことを防ぎ、難易度を上げるため?)問題に直接関係ない情報も記載される。よってそれ自体が不自然なことではない。むしろ、関係のない情報を載せることが、過度に関連づけないというメッセージを伝えることにも寄与すると考えることもできる。
Consアウティングの問題などを鑑みるに、疑う疾患に直接関係ない場合に、性的指向についてわざわざ言及することは避けるべきであり、「同性愛者という情報が不要だ」と主張することは一定の妥当性を持つ。

*8:このリスクという言葉も、因果の連鎖が遠くなればなるほど、不思議な言葉である。すなわち同性愛者が「リスク」という言葉に対して私は強烈な違和感を抱いている。あくまで同性愛者→unsafeなセックス→HIV/AIDS という道のりなのであって、同性愛者であるということそれ自体がAIDS患者になる原因である、というわけでは(もちろん)ない。

*9:例えば「キティちゃんサンダルを履いてくる親御さんが怪我した子供を連れてきた場合には虐待を疑え」という比較的有名な文言がある(らしい)。キティサンダル=ヤンキー出身→虐待リスクという思考回路だが、これも本論と同様の意味で差別的認知を含み得る。さらにはアルコール多飲や精神疾患を持っている人の主訴への向き合い方も同様の問題系を含む。

*10:むろん本稿は国試に対しての以下のような問いとして捉えることもできる。すなわち、国試が臨床に近づけて考えるのか、もしくは国試という仮想の場を共通理解として続けていくのか。

*11:研究室でディスカッションした際は、二つの論点が挙げられた。一つ目は、「患者の経験からどう見えているのか」を省察することを促す家庭医療学との関連。特に文化人類学・精神力動から影響を受けた部分だという。二つ目は、患者から「怒られる/「感謝される」経験。特に前者について、このような省察を導き得るものである一方で、、単純にトラブルを避けるために「うまくやる」(より浅い層でのプロフェッショナリズム)ことの可能性についても語られた。