ハンバーグと剰余

 今日は丸一日休みだったので、ハンバーグをこねて焼いていた。
 まずはみじん切りした玉ねぎ1/4個をバターで炒め、小麦粉を混ぜてから冷ましておく。合い挽き肉180gに塩胡椒をふってから2分ほどよく練り、それに生卵1/2個、パン粉10g、そして先ほどの玉ねぎを混ぜる。それからまた力をこめて練る。最初は合い挽き肉のボソボソした感触だったのが、徐々にぬるぬると弾力が増してくるのが手のひらで感じられる。ちぎって糸をひくくらい粘りが出るまでになったら、手にサラダ油を塗り、両手で投げ合うように往復させて、中の空気を抜きながら徐々にハンバーグの形に近づけていく。厚さを均等にして、真ん中にくぼみをつくる。そしたらフライパンにサラダ油を引いて中火で両面を1分半ずつ焼く。あっという間に焼き色がつくが、その健康的な肉汁の香りとは裏腹に、まだその中身には赤がぐにゅぐにゅしたまま眠っている。だから蓋をして蒸らすようにしながら、今度は弱火で5分間焼く。これでようやく完成だ。

 私はお腹が空いたので、ごはんをつくった。何をつくってもよかったが、特に必然性のない選択として、ハンバーグを選んだ。お腹を満たすためにハンバーグをつくった。それと同時に、ハンバーグをつくるためにハンバーグをつくってもいた。ハンバーグの自己目的化。自己目的化は常に私の目指すところであり、憧れであり、叶わぬ望みである。
 このようなことはこれまでにも書いてきたことと思う。しかしさらに大事なことは、私が今日ハンバーグをつくるという経験において、「ハンバーグの自己目的化」では説明し尽くされない剰余が存在しているということだ。それは何も、センテンスがひとつだから起こったことではない。冒頭のハンバーグの調理過程を詳述した文章でもなお、そこには描き切れない剰余が顔をみせる。

 ハンバーグをこねて焼くという経験の「総体」をテクストとして書く、というのはそもそも無謀な試みである。つねに何かを書き損ねながら私は文字を綴らなければならない。帯広の自宅で2021年18時30分からハンバーグをこねて焼いたという一回性の経験は、数多の剰余を抱えながら足早に逃げていく。
 しかし剰余は逃すばかりではない。それはやってくることもある。私がハンバーグについて書いた経験を、あなたが読んだときだ。あなたは、私が思ってもみなかったところに目を引かれ、問いかける。あるいは誤読をして、私の経験を脱臼する。あるいは、私が書いていない、あなたの経験を現前させる。それらはすべて、読むという行為を通じてなされる。
 Aというものを書こうとしてAを書く、ということにはすでに飽き飽きしてしまっている。というより実は、気づいていなかっただけで、それをできたことはかつて一度もなかったのだ。経験をテクストにおこすとき、つねにそこには剰余がある。その剰余がおもしろくて、毎日闇雲に筆を走らせている。一回性のハンバーグの経験は常に捉え損ねられながら、しかし留保され、剰余を産み出し続けるのだ。

 こねくり回したような文章を書いてしまった、というオチを書くかどうかで20分迷って、結果、迷ったという事実を最後に記しておくことにする。いかにもこれは余計だった。