平成31年4月7日 第8回 過剰な相対主義

 ハタチになったあたりから、なるべく、「自分が絶対に正しい」と思いこまないように気をつけています。相対主義的な立場と言ってもいいと思います。自分と違う意見を持つひとがいたら、反射的に反論する前に(あるいはしてしまったあとに、後悔しながら)、「そう考える理由が何かあるはずだ」と考えてみると、たいていは「その人のなかの論理においては、その人は『正しい』ことを言っている」と気付くことができます。他人の考えを頭ごなしに否定するひともいるこの世の中で、時には腹が立ったり悲しくなったりすることもありますが、少なくとも自分はまず立ち止まって考えられる人でありたい、そう思っています。

 「対話」の定義は、学術的なものから誰かが勝手に言ってるものまで色々ありますが、孫大輔『対話する医療』で紹介されていた、「対話が『ポリフォニー(多声性)』を目指して、お互いの『声』に応答しあう中で、新しい意味を見つけ出していく」というバフチンの対話主義(Dialogism)の考え方が好きです。私が余計分かりにくくしても意味がないので、孫先生の説明をそのまま引用させていただきます。

つまり、相手の「声」を受けて自分の中に反射した何かを「声」として返します。元から自分の中で固まっている意見ではなく、相手の「声」を受けて感じたり考えたりした何かを丁寧に返していくのです。対話では、複数の「声」がこのような形で響き合うことが重要であり、この偶発性に満ちたプロセスの中で、全体として新しい意味が生まれてきます。

  対話という概念についてある程度理解しているつもりですし、その可能性について信じてもいます。しかし分かるということと、できるということとの間には大きな隔たりがあります。私はこれまでの人生で、対話によって何か「新しい意味」が生まれるのを感じられた経験はほんのわずかで、ほとんどは失敗に終わってきました。おそらく何かコツのようなものを知るか、あるいは実践経験をもっと積むべきなのでしょう。
 どのような失敗が多いのかというと、自分の意見に凝り固まって相手を打ち負かそうとしてしまったとかではなく、むしろその逆で、「過剰な相対主義」に陥ってしまうのです。私が言うところの「過剰な相対主義」とは、「みんな違ってみんないい、色んな意見があるよね、うんうん」となるあまり、結局何も実のあることは言っていないじゃないか、というような状態です。
 過剰な相対主義が支配する場では、「対話」というきれいな言葉のもとで、すべての人が許容可能なきれいな言葉だけが宙に浮かぶことになります。
 そのようなとき、私たちは、核心から遠く離れたところでぐるぐるまわるだけです。

 つくづく自分は、何か一つの立場を支持することを恐れているなと思います。一つの側に完全に立つことで、他方の側に立ったら見えていたかもしれない景色が見えなくなってしまうのが嫌なのです。
 こういうことは自大学での医学教育系の活動のときにいちばん思います。他大学で医学教育に取り組んでいる学生の話や、あるいは、自大学の先生方がこちらに求めていることとの間に常に何かズレを感じていたのですが、それは結局、「自分には主張がない」ということに集約されることに気が付きました。自分が××××××(××××××××××××××××)なんていう名のもとで学生と教員の懇談会・教員インタビュー・新入生セミナーといった七面倒な活動を続けているのは、ひとえに、教育についてぐだぐだ考えることそれ自体に価値を見出しているからです。「自分は何者になるのか?」「自分は何を勉強すべきか?」という問いが関心の中心を占めています。
 しかし、それはともすれば議論の場での「過剰な相対主義」的態度につながり、毒にも薬にもならない凡庸な意見しか言えないときが私にはままあります。それは<多声性>ではなく、相手の神経を逆撫でしないように、自分が誰かに何かをつきつけ求めていると受け止められないように、可能な限り小声で意見を言う<小声性>です。

 この話を親友のNにすると、私の大学の伝統ある寮で過激な主張をしている人たちが、「相手が相対主義の立場を取るのであれば、『私はあなたと議論できません』と言うしかない」と言っていた、ということを教えてくれました。その論理には確かに筋は通っています。彼らもまた<多声性>とは遠く、徹頭徹尾自分の声をがなり上げて相手の声をかき消す<単声性>ですが、<小声性>な私よりは少なくともマシなんじゃないかなと思います。

 結局、過剰な相対主義からの脱出方法はよく分かりません。人類学における文化相対主義の顛末などは参考になりそうだなと思ってはいるのですが、まだ十分に勉強し切れていないのが現状です。

1944文字
(計17120文字)