平成31年4月18日 第19回 お望みのジュースを出してあげる

人は自販機ではない。

  先日、親友のNがふとした拍子にぽろっと吐いていたこの言葉が、とても印象に残っています。
 コミュニケーションにおける「自販機」という言葉を「ラインナップの中から押したボタンのリアクションが出てくる状態になること」として最初に使ったのは、水野しずという異色の地下アイドルです。つまり、自販機であることを求められるというのは、「相手の言葉に対して、相手が返して欲しい言葉・リアクションを察知し、それを相手の期待通りに自分が返してあげる」ことを意味します。
 Nは、とある他大学の学生に「医学部? すご〜い、天才なんですね!」と言われ、謙遜しか想定されていないその言葉に対して、「人の思い通りになってたまるか」という嫌悪感とプライドの表現として「人は自販機ではない」と思ったのでした。

 コミュニケーションというのは、決まった数値を決まった関数に入れて決まった値を出すことによって円滑に進む側面があるのは事実だと思います。それが例えば「調子どう?」「元気!」というような定型文だったらまだ大丈夫なのですが、もう少し意味のある会話において、相手が想定している答えを返すのを期待されていることを察知したとき、天邪鬼な気持ちが湧いてくるのは私もよく分かります。それが自分の価値観・ポリシーに反しているならなおさらです。
 「天才だね!」的なノリで私は困りこそすれ腹立ちはしませんが、それは私が寛大だというわけではなく、単に自分の信念がどこにあるのかが違うのだと思います。私の場合は、これまでの家族との言い争いの多くが、これが原因でした。詳細を述べることはできませんが、「こう返しておけばいい」というのが明らかにあるのにも関わらず、自分のこだわりの部分を曲げることができず、「相手側がつくりあげたそのストーリーに加担してたまるか!」と反発し逆のことを言うことがよくありました。

 しかし最近は、少し変わりました。今俺は自販機になることを求められているなと察したときに、「まあ、別にお望み通りのジュースを出してあげてもいいか」と思うようになったのです。
 内容のない会話で変な天邪鬼な気持ちを起こすことも減ったし、仮にポリシーに反していることがあったときでも、(差別的発言とか、もしそれでほかの誰かが傷つくなら立ち上がらなければないけど)自分がもやっとするのを解消したいだけならもういいか、ということです。
 「出してあげる」という上から目線の言い方がまだまだ子供っぽいのは自覚していますが、そう思えたのは少し大人になれたことの証左なのではないかと思っています。でも、いつまでも「俺は自販機じゃない!」というスタンスを崩さない「大人」も、それはそれで好きですけど。私にはその根性はなかった。

 こう思うようになったのも、何というきっかけがあったわけではないのですが、【第8回 過剰な相対主義】で述べた「自分が絶対に正しいと思わないようにしようとした」時期と重なっているとは思います。

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