若林正恭『ナナメの夕暮れ』(文藝春秋、2018)

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 この件に対して「時代遅れの、サブカル系「斜め見」カルチャーを未だにやり続けているのかもしれない」というTwitterのコメントを見て、的を射た意見だと思うと同時に、この本を思い出しました。

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 「斜め見」カルチャーのルーツはサブカル系だけでなくお笑いにもあって、平成の始まりとともに現れたダウンタウンがその象徴的存在だと思います。ダウンタウンは、世の中のあらゆる事象を「斜め見」し、世間に「サブい」という評価軸を持ち込みました。さらにダウンタウンは世間だけでなく、お笑いの手法それ自体も「斜め見」し、変な顔や大きな動きで笑いをとるのは古い芸人のやることだ、という価値観を強く植え付けました(あの明るいキャラで人気のアンタッチャブルの山崎さんが、昔は、多くは喋らずボソッと切れ味鋭い面白いことを言うスカした芸風を目指していたのは有名な話です)。このように、ダウンタウンによって「斜め見」する芸人像がつくられた30年が平成という時代だったと言うこともできると思います。

 それで、その平成の終わりに若林さんが「ナナメの夕暮れ」という本を出したのは、とても意義深いことだと私は思っています。このエッセイでは、ネガティブ・人見知りという性格故に、斜に構え、そのせいで生き辛さを抱えていた若林さんが、(自分の本質は変えられないことに葛藤しながらも)「斜め見」することから少しずつ脱却していく様を綴ったものです。だからタイトルが「夕暮れ」なわけですね。サブカル系の「斜め見」カルチャーがもう古いと言われていたように、お笑いの世界でも徐々に、ダウンタウンがかけた「斜め見」の呪縛が解け始めていると思います。それはこの本だけでなく、様々なお笑いにまつわる言説の端々で感じます*1。言わば「斜め見」を「斜め見」するところまで、世界は進んできているのではないかと。

 と、ネガティブ・人見知りで、ダウンタウンがきっかけでお笑いを好きになってその文化にどっぷり浸かった自分にとっては、他人事として読むことはできなかった本でした。高校生や大学生の始めのころは無駄に尖りまくっていたのですが、この一年くらいでそんな自分にどうも違和感を抱き始めていたところだったので、とても共感しながら読みました。
 「斜め見」を「斜め見」しているうちにいつの間にか真っすぐ前を見てることだってあると思うんですよね、っていうことがいちばん本記事で言いたいことです。じゃあその次に見えてくる世界ってどんな風なんでしょうか。

*1:「斜め見」を「斜め見」する例として、例えば、数年前まで「ハロウィンではしゃぐ奴はダサい」という言説で深夜お笑いラジオ界隈が占められていたのが、今では「テンプレで『ハロウィンではしゃぐ奴ダサい』って言う奴のほうがダサい、楽しいならいいじゃない」というほうに傾いてきました。もちろん世間に迷惑かけるのはずーっと変わらず言語同断ですけど。