お笑いを批評すること、楽しむこと

 本稿では、お笑いを「批評する」ということと「楽しむ」ということについて、現時点で考えていることをつらつらと書いておこうかなと思います。

***

 以前書いた以下の文章で、お笑いの知識をつけ、分析をし、「批評」していくなかで「何も考えず、純粋にお笑いを楽しむ私」が失われてしまうことへの恐怖の念を述べました。その中心にあるのは、お笑いのことが好きでどんどん深掘りした結果、「自分は果たして以前よりも幸せなのだろうか?」という問いです。

satzdachs.hatenablog.com

 しかしよく考えてみると、こうも問うことができます。本当にそんな「何も考えず、純粋にお笑いを楽しむ私」はかつて存在したことがあったのでしょうか? あるいは、私のように「お笑い批評」をしたことない他者は皆、「何も考えず、純粋にお笑いを楽し」んでいるというのでしょうか?

 ここに私は、「純粋にお笑いを楽しむ私」の偶像化を見出します。誰しも皆、多かれ少なかれ、「これはこういうお笑いだな」とか「これは斬新だな」と思いながらお笑いを観ているのではないでしょうか? それがどこまで深く洞察されているのか、あるいはどこまで言語化されているのかという程度問題であって、人は過去に観たお笑いの蓄積と常に比較しながら目の前のお笑いを鑑賞する。すなわち本当の意味で「何も考えず」「純粋に」楽しむことなんて、ほんとうに生まれて初めてお笑いを観る人以外はあり得ないのかもしれません。
 そんな透明人間なんていないということは、ポストモダンも言ってます(雑)。

***

 昔から、お笑いの批評を嫌う芸人さんの話はよく聞きます。その理由の1つは恐らく、「お笑いは何も考えず、気軽に観て欲しい」という願望がある芸人の皆さんにとって、お笑いを批評するという行為が「何も考えず、純粋にお笑いを楽しむ私」の喪失を意味するように思えるからであると思います。
 しかしこれまで見てきたように、そもそも多かれ少なかれ「純粋に」楽しむということはありません。お笑いオタクであればあるほど、これまで観てきたネタが多ければ多いほど、ネタを観ながら「考える」要素は増えてきます。これはもう、私だけでなく多くのファンを見ていて思うことですし、逃れ難いジレンマなのです。
 それに全く違う角度の話として、映画批評や文芸批評が一定の価値を持つものとされているのに対して、同じ表現形式の一つであるお笑いのみが批評を全く受け付けない、というのはいささか排他的・独善的な態度であるようにも思えます。これは前に書いた話ですが、誰にでも批評の自由がありますし、表現一般というのは(その中の人か外の人かに関わらず)批評の眼に晒され続けることで発展してきた歴史があります。
 ただしもちろん、的外れな批評を素人にされたら腹が立つというのは、全く別種の問題としてありますし、それはその通りです。そういう意味では批評する側も何でも言ったもん勝ちというわけではなくて、どれだけ芯を食ったことを言えているのかが試されていると思います(むしろお笑いの世界にないのは、こういう批評する側への意識なような気もします)。

 少し話が逸れました。その質が問われるという緊張感はあるものの、批評すること自体は許容されるべきであるという前提は確認したとして、問題は、「批評をするとその批評家自身がお笑いを楽しめないのでは?」というところでした。

***

 M-1 2019決勝の2週間ほど前、ミルクボーイの「コーンフレーク」と「最中」が劇場で一笑いもなかったのを観た、という話を前回書きました。笑えるかどうかというのが、それだけこちらの構えに依存しているかが分かる話です。それと逆の話として、お笑いオタクであるという「構え」がむしろポジティヴに転化する可能性があるのではないか、ということをここで主張したいです。
 知識を増やすということは、お笑いにおける様々な文脈を身につけるということです。それによってもちろん、様々な文脈の乗った「玄人向けの」お笑いを楽しめるようになるわけです。
 では一方で自分はそれ以外のお笑いを楽しめていないかというと、こちらの構えさえ間違えなければ、劇場での漫才も吉本新喜劇も一般向けのバラエティ番組も関西の番組のゆるいロケも、何でも楽しめるということに気がつき始めました。それはさながら、自分のなかに色々なチャンネルに合わせることができるチューナーがあって、そのつまみを観るものに合わせて回しているイメージです。別の言い方をすれば、そのお笑いを観るのに必要な文脈をつけたり外したりする。だんだんそれが自分は上手くなってきているように思います。

 もちろん、お笑いオタクの誰しもが同じような「構え」をする必要はないと思います。尖りに尖った最先端のものしか認めない・笑わない、というのであれば、それを止める権利は誰にもないでしょう。
 しかし私は、なるべくどんな種類のお笑いでも楽しめるという道を選びたいので、そうやってチューナーのつまみを回せられるようになってきた今の自分が良い傾向だと思っています。そうやってみると意外と、いかにもお笑いファン向けではない、一般層向けのバラエティ番組であっても、何だかんだ面白くて楽しく笑えることに気が付きます。

***

 最後に少しだけ違う話をします。これまで話してきた通り、「何を面白いと思うか」というのは、その人がどのような文脈を知っているのか、そしてどういう「構え」でいるのか、ということに大きく依存しています。それは裏返せば、自分と異なる文脈の人が「面白い」と言っているのが、自分にとっては全く信じられない、ということは往々にして起こります。
 Twitter等の各種SNSを見ていると、「あれは滑ってる」とか「何が面白いのか全然わからない」とか言って、終わりなきマウンティングの取り合いが行われている様子が至るところで見られます。しかし私は、基本的には「そこにはそこの面白さがある」というスタンスでありたいです。結果的に自分が笑うかどうかは別にしても、そういう態度を備えておくことで他の人が面白いと思うものに寛容になることができるのではないでしょうか(もちろん、ポリコレ的に反するものは別です)。