平成31年3月31日 第1回 「余白」について

 突然ですが、今日から毎日、Facebookで文章を更新していこうと思います。自分の身にあったこと、最近思っていること、考えていること、感じていること、分野問わずとにかく何でも書き連ねていきます。
 始めた理由も特にないので、いつまで続けるのか難しいですが、とりあえず、一か月を区切りとしてやってみようと思います。

注意
 ヱヴァンゲリヲンについてのネタバレを含みます。結末を知りたくない方はご注意ください。

 先日、今更ながらヱヴァンゲリヲンを初めて観ました。TV版、旧劇場版、そして新劇場版のQまで、3日ほどで一気見をしました。無知な私はロボットアニメ的なものだと思っていたのですが、ヱヴァンゲリヲンというのは、碇シンジの、どこまでも自己言及的な物語なのだということを知りました。何かあるとすぐにごめんと謝ってしまう碇シンジ。でもそれは相手のことを思ってではなくて、自分が傷つきたくないから、という自己防衛でしかないのです。その意味でどこまでも自己中で、自分のことしか考えていなくて、人に嫌われるのが怖くて、自意識が強くて、甘えていて、他者からの無条件の存在肯定に常に飢えている。自分に重ね合わさずにはいられませんでした。というか、たぶんそういう人が多いからこれほどまでに絶大な人気を誇っているのでしょう。

 いや、こういう、中学生までに終わらせておけよみたいな、なよなよした自己認識の話がしたいわけではないのです。私がお話したいのは、物語の「余白」についてです。

 旧劇場版のラストがたまらなく好きなんです。LCLになって、どんな「他者」とも関わらなくていい、優しい世界にいけば「楽」なことは分かっているのに、それでもこの世界に帰ってくる。最後、アスカに「気持ち悪い」と言われて、やっぱり人と関わることの苦しさとか辛さとかをまた思い出すんだけど、でも、これが他者とともに生きるということなのか、ということを強く実感する。映画中で多くは説明されていませんが、私はこう受け取りました。
 こうやっていろいろ考えられる「余白」が本当に絶妙で素晴らしいと思うんですよね。多くを語り過ぎず、でもメッセージは明確に伝わってくる。そしてここからが本題なのですが、そうやって余韻に浸っているうちに、自然と思い出したことがありました。

 私は中高時代、文藝同好会に所属して小説を書いていました。十数本の小説を書いてきて、そのほとんどは目も当てられない思春期の感傷の塊のような文章でしたが、高校生活最後に書いた『出来損ないの小説家』という作品だけは、自分としてそれなりに上手く書けたんじゃないかと思っていました。ある程度の人に褒めてもらったのですが、でも、何人かに言われた感想がひどく胸に刺さりました。
 それは、「書き過ぎだ」というものでした。言いたいメッセージとか、物語として扱いたいテーマとかを、直接的に言い過ぎていたのです。もっと隠せ、「余白」をつくれ、と。
 実はそれは、その作品を書くときに考えなかったことではなく、むしろとても悩んだところでした。もうちょい直接的に書かない道も考えたのですが、「隠す」という行為それ自体に疚しさとか、ダサさを感じてしまったんです。隠そうと思って隠したメッセージに、つくろうと思ってつくった余白に、何の魅力があるのかと思ってしまいました。自意識が強くて、「いい感じにメッセージを隠していい感じに『余白』をつくろうとしている自分」みたいなものを客観的に見てしまったところもあったかもしれません。それで、そんなことするくらいなら直接書いてしまおうと思って、結果そういう書き方になったのでした。

 裏返すと、「余白」のある良い作品というのは、あざとさを感じさせないものなのだと思います。ヱヴァンゲリヲンの話のときに「こういう風に受け取りました」と書きましたが、それは積極的に解釈しようと「努力した」わけではないんですよね。作品を楽しむことそのものが、自然とそういうメッセージを受け取ることだったというか。
 ヱヴァンゲリヲンには徹底的に作品を分析する解釈本・サイトがあまた存在します。正直僕はそういうのは嫌いです。1つの物語として、作品としてまとまった形としてあることに意味があるのに、それを徹底的にバラバラにしてぜんぶ材料に戻しちゃうのって、節操がないじゃないですか。仮にそれが正しく「分解」できていたとしても。私も確かに「解釈」はしてますし、どこまでがそのちょうどいいラインなのかなんてことは完全に恣意的で、自分に都合の良いように設定しているのは事実ですけど。
 そういう分析欲を刺激するところがオタクに受けているんだという(そもそもヱヴァを私に勧めてくれた)親友の言葉も分かるんですけど、私はやっぱり、作品が解釈によってあられもない姿になってしまうことに嫌悪感を抱きます。でもだとしたら文芸評論って何なのでしょうかね。
 
 ともかく、そんなこんなで、「余白」をもった作品がどうやって生まれるのか分からないし、自分には才能がないんだなと感じて、小説を書くのは金輪際やめようと思って今日に至ります。書きたいと思うときが正直ないわけではないですが、勇気が湧かないというのが現状です。
 それに比べて、「人に分かりやすく伝える」という目的だけを考えて書いてればいい文章って、そういうプレッシャーがなくて本当に楽なんですよね。だから、僕が将来小説家になる確率はほぼ0%ですが、何かしらの形で、文章を書くことそれ自体は続けていけたらいいなあ、と思っています。

追記
 書いているうちにやっぱり気が変わったので、最後にもう一度だけ、なよなよした自己認識の話に触れておくと、他者からの無条件の存在肯定を仮に得られたとしても、それは根本的な解決にはなっていなくて、誰かに甘えて依存しているだけでは、結局自分は弱い人間のままなんですよね。だから、強くならないといけない、と思います。自分で自分を肯定しないと。それができない人って、最終的にどこかやっぱり、人間としての魅力が足りないんじゃないかなって、今は思っています。

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