「変人」な京大生――「役割距離」から考える

 「京大変人講座」というのがある。

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 HPを見ると「京大では『変人』はホメ言葉です」という文面がサブタイトルとして掲げられているのだが、要は、京大の「変人性」こそがイノベーションの源であるとして、「変人」たる京大の教員や学生が連続講義を行う企画で、書籍も発売されるくらい人気らしい。
 これが山極総長肝いりの企画であるというのがミソで、最近、京都大学は「変人」や「おもろい」という言葉を自らのプロモーションに多用し始めている。現に、2019年度の京大公式パンフレットの表紙にでかでかと書かれたキャッチコピーは、「京大は、おもろい」である。
 これを厳しく批判した一人が人間・環境学研究科の松本卓也で、吉田寮立ち退き問題についての声明文のなかで、「かつての『おもろい』『変人』といった言葉がもっていた境界的な性質――それは、さまざまな雑多なもの、怪しげなもの、狂いに満ちたものとのあいだに生まれ、ときにはさざまな格闘の末に得られた文化である――は、この文化盗用によって見るも無残に脱色されてしまい、『ソフィスティケート』された商品になりはててしまった」と書いている。この批判はHPでぜひ全文を読んで欲しいのだが、「変人」性を全面に押し出すことの気持ち悪さがあまりに見事に言語化されていて、私がここに付け足すべきものは何もない。

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「変人」性を誇ることへの違和感

 さて、上記の話は前置きである。そのような大きな組織としてやることに目を向けるまでもなく、京大生たる私は、自らを「変人」と称する学生、あるいは、「世間一般」から見ると「変人」的であるとされる行為を積極的に行う学生、を目にする機会は少なくない。その「変人」的行為を具体的に描写することは避けるが、SNSなどを見ていても、そのような「変人」な学生を面白がり、称揚する、という空気が肌感覚としてある。つまり、「変人講座」のように公共の場に晒されるかどうかとは関係なしに、一定数の京大生が自大学の文化の特色の一つに「変人」性を置き、それを誇っている、というのは事実として言っていいと思う。
 私の出身の高校にも「変なこと」をする奴はうじゃうじゃいた。個人が特定されてしまうのでまたしても行為の具体的描写は避けるが、いかに学業とは関係のないところで「変人」であるかを競う空気すらあったように思う。卒業から4年半経った今でも、母校の「変なところ」に思いを馳せ、ノスタルジックに語る奴もいる。
正直に白状すると、自分もそういう節のある人間だったと思う。ただ思い切ったことをする勇気がなかっただけで、「変人」性への憧憬の念は確かにあった。

 しかしながらここ何年か、客観的に見て偏差値が高いとされる中学・高校・大学に通う人たちが、自らが「変人」であることを称揚する空気に、何となく違和感を覚えるようになった。いや、違和感というより、嫌悪感と言ってしまったほうがいいだろう。
 その嫌悪感の正体を言語化できるようなできないような、そんなモヤモヤの中にいたところに、大澤真幸社会学史』を読んでいて一つ面白い概念を知り、筆をとった次第である。その概念は、アメリカの社会学者ゴフマン(Goffman: 1922~1982)のドラマツルギーdramaturgyという考え方のなかにある。本稿では、私の浅い理解の範囲内になってしまうが、ドラマツルギーdramaturgyについて重要な点をかいつまんで説明したのち、最後に「変人」な京大生たちに戻って論じてみようと思う。

ゴフマンのドラマツルギー概念

"All the world's a stage,
And all the men and women merely players:
They have their exits and their entrances;
And one man in his time plays many parts,"*1
「すべてこの世は舞台であり、
男も女もみな役者である。
人びとは舞台に登場してはまた退場していく。
一生のうち幾つも役を演じるさだめである」

 我々は、日常生活という舞台で、何らかの役割roleを演じながら生きている。この「役割」というのは、置かれた状況に応じて様々に異なる。私自身を例にとれば、臨床実習に参加しているときは「医学生」として、所属する部活で指導するときは「先輩」として、家庭教師のバイトをするときは「先生」として、家族の中では「三人兄弟の末っ子」としての役割がある。これらの日常生活の各場面において、我々は観客audienceたる他者の視線を意識しながら、それぞれの舞台に相応しい演技performanceをしている。
 このように、我々の相互行為を一種の役割演技として描き出したのがドラマツルギーという考え方である*2

 しかしながら、「この基本的な着想はごく凡庸」と大澤真幸は書いていて、彼はそのなかに含まれている「きわめて重要な洞察」のほうに目を向けている。私が本稿で注目したいところでもあるその概念は、役割距離 role distanceと呼ばれる。ここでゴフマン自身の役割距離の定義をそのまま引用しても非常に分かりにくいだけなので、そちらは注に逃がして*3、最も理解のしやすい仕方で追っていくことにする。
役割距離という概念を最も簡潔に定義したものとして、Robert Stebbinsによる説明の一部を抜粋する。

Role distance, which is part of a person’s interpretation of these expectations, reflects a desire to dissociate himself from them, the reason for this being traceable to their threat to his self-conception.*4

 この、役割期待role expectationsから離れたい欲求desire to dissociate というのが役割距離のキモである。

 ゴフマンの挙げた役割距離の例の一つで、よく引き合いに出されるのが「外科医のジョーク」*5である。これから長時間にわたる大変な手術をするというときに、若い外科医が手術と全く関係のないジョークを言う。その切迫した状況下において一見不適切なだけに思えるが、この外科医は「このぐらいの手術は何でもないから、自分はこんなジョークも言える」と、自分に余裕があることを見せているのである。つまり、演じている役割からの「軽蔑的離脱」によって、「自分の演じる役割によって自分の全てが定義されるわけではない」という自己呈示self-presentationをしてみせるのだ。
 この若い外科医の役割距離の例には、ある種の優越感のようなものを感じる*6。その優越感は、「期待通りの役割を疑いなく演じる奴と違って、役割から距離を置ける自分は特別だ」という形で表出している。

 ちなみに、このように、その場において期待されている役割を演じないという《行為および態度》のことを、役割《距離》という言葉で表現しようとしているから、ゴフマンの定義も分かりにくいものになっている*7

役割距離を実行する京大生

 さて、賢明な読者ならば、「『世間一般』から見ると『変人』的であるとされる行為を積極的に行う学生」について私の言いたいことは既にお分かりだと思う。すなわち、これも若い外科医のジョークと同じく、役割距離を用いて説明することができる。
 彼らにおける「役割」とは、ずばり「京大生」であろう。より詳細に言うと、「偏差値が高く、勉強のできる頭の良い京大生」である。ドラマツルギーに沿って考えると、「変人」的行為によってその役割から軽蔑的離脱し、「『偏差値が高く、勉強のできる頭の良い京大生』で自分の全てが定義されるわけではない」という自己呈示をしているということになる。こんな変なこともできちゃうんだよ自分、と余裕を見せたいのだ。
 端的に言うと、変人であることを称揚する(=役割距離を実行する)京大生に私が時として嫌悪感を抱くのは、「偏差値が高く、勉強のできる頭の良い京大生」というそもそもの役割が逆説的に暗黙の前提になっていて、そこにプライドの高さを嗅ぎとるようになったからだと思う*8。こう書くと、何ともひねくれた見方である。このような嫌悪感を抱き始めたのが、中高時代に深夜ラジオでこじらせた青春を送っているところに、大学に入って「『自分を見ている自分』を見ている自分」と自意識をもう一段階こじらせた頃とパラレルになっているのも頷ける。

 少し意地の悪い書き方になり過ぎたが、京大の「かつての『おもろい』『変人』文化」全体に嫌悪感があるわけではなく、最初に書いたようにむしろ「変人」への憧れが私にはあったし、そして今もある。役割距離としての「変人」ではなくて、自然体で変てこな人になってみたいが、私はどこまでいっても凡庸な人間だし、何をするにも自意識が邪魔をする。
 自分を見るまなざしは、そのまま他者を見るまなざしに投影される。もしかしたら、私が役割距離だと思っているあの「変人」も、ナチュラル「変人」なのかもしれないし、私こそが一番「偏差値が高く、勉強のできる頭の良い京大生」へのプライドを高く持っているのかもしれない。自分では、そういうのは馬鹿らしいって思っているうもりなのだが。

次回へ向けて

 私が本当に書くモチベがあるのは「変人」京大生の話なんかではなくて、「バラエティ番組はいじめを助長するか」問題についてである。それを調べる過程で最初に出会ったのがドラマツルギーで、これを用いて「バラエティ番組はいじめを助長するか」を論じられるかと思っていたが、挫折した(が、そうしているうちに全然関係ない「変人」の話を思い出して、書いた)。

 それからめげずに調べものを続けていると、私にとってeye-openingな別の概念に出会った。それが、(分析哲学から派生した)分析美学を専門とするウォルトンWalton: 1939~)の「ごっこMake-believe」という概念である。さらに驚くべきことに、それが私の勝手に考えた概念である「虚構のリアル」と感動的なまでに一致していたのである! メンデルの法則の再発見をしたような気分である。残念ながら、時系列的に私は第一発見者にはなり得ないが。

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 ともかく、次回の備忘録はウォルトンの1978年の論文「虚構を怖がる Fearing Fictions」の内容を紹介しながら、彼の思想(と、私の思想の類似性)に迫る。

 

*1:Shakespeare, William. As you like it. Cambridge University Press, 2009.

*2:どうでもいい注釈だが、この考えは、「『他者にとってのじぶん』が他者の数だけ存在する」とかつて書いた私と親和性が高い。

*3:「個人とのその個人が担っていると想定される役割との間のこの『効果的に』表現されている鋭い乖離のことを役割距離role distanceと呼ぶ」――『ゴッフマンの社会学2 出会い:相互行為の社会学』(E・ゴッフマン/誠信書房)P115

*4:Stebbins, Robert A. "Role-Distance, Activity Distance, and the Dramaturgic Metaphor." The Drama of Social Life: A Dramaturgical Handbook (2016): 123.

*5:臨床実習のフィールドノーツでも、医師のジョークについては関心のある部分である。

*6:便宜上、この若い外科医の例だけに絞って書いたが、もしジョークを言うのがベテランの主任外科医であった場合は、その役割距離の目的は手術を一緒に行う仲間に余裕を与える「不安管理」であり、このような「優越感」とは無縁である。

*7:実はドラマツルギーについて学ぶ以前からゴフマンのことは知っていて、それは医療社会学の本を読んでいると必ず出てくる概念「全制的施設total institution」を通じてである。
 『アサイラム』(1961年)という精神病院における民族誌的研究において、全制的施設は、「多数の類似の境遇にある個々人が、一緒に、相当期間にわたって包括社会から遮断されて、閉鎖的で形式的に管理された日常生活を送る居住と仕事の場所」と定義された。例としては刑務所や精神病院などが挙げられる。
 かつて日常生活という舞台において様々な役割を演じていた彼ら/彼女らは、施設に入った途端、「囚人」や「患者」というたった一つの役割に回収されてしまう。それは、社会的な更正よりも、職員が「囚人」や「患者」を管理し施設を維持するために必要なものである。そしてその「役割」は、彼ら/彼女らはその施設に入る前までの「自己」を否定し、最終的に剥奪するのだ。
 このように、私にとって既知だと思っていた「全制的施設」という概念について、今回学んだ「役割」概念との関連からさらに理解が深まったのは一つの収穫である。

*8:お笑い好きなら分かると思うが、こういった感覚を端的に表す言葉が「やってんなぁ」である。