<旧版・お笑いと社会> バラエティ番組の「いじり」は「いじめ」なのか――ごっこ理論をヒントに考える

 必ず「虚構を怖がる Fearing Fictions」を読んでから本稿をお読みください。

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 本稿は、平成31年4月29日に書いた記事「バラエティ番組はいじめを助長するか」を全面的に改稿しました。最初に自分の立場だけ明らかにしておくと、私は小さい頃からテレビ・ラジオにどっぷり浸かって育った大のお笑い好きです。

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1. いじめはなぜ「笑える」のか

 絶対に許されないことというのは大前提として、いじめの現場を想像してみます。いじめっ子はいじめられっ子の靴を隠して、ニヤニヤ笑っている。いじめっ子はいじめられっ子の身体的特徴を罵って、今度はケラケラ笑っている。「嘲笑う」という言葉もありますが、いじめというのは得てして笑いを伴います。彼らは何を面白いと思って、何を笑っているのでしょうか?
 こういう問い自体が不快ですし理解したくもありませんが、答えのヒントとなる概念が哲学者のホッブズ(1588-1679)によって提唱されています。ホッブズは笑いを「他人の弱点、あるいは以前の自分自身の弱点に対して、自分の中に不意に優越感を覚えたときに生じる突然の勝利」として定義しました。
 ホッブズはそれで「人はなぜ笑うのか」の全てを説明できると考えていたようですが、そこまで大風呂敷を広げてよいのかの判断はここでは留保しておいて、ひとまず「いじめはなぜ『笑える』か」の説明として採用しておきます。つまり、いじめっ子はいじめられっ子の負け顔、やられ姿に優越感a feeling of superiorityを抱いて、笑っている。

2. バラエティ番組のいじりはいじめと何が違うのか

 日本という文化圏特有の概念だと思うのですが、「いじり」という言葉があります。今では一般人の日常会話でもこの言葉を聞くようになりましたが、ひとまず本稿ではバラエティ番組における芸人どうしのいじりを想定します。
 そのいじり方は様々ですが、例えば体重が100kgを超えていて「お前はデブだ」といじられている芸人Aを考えてみましょう。周りの芸人が、直接的な表現か暗示的な表現かはさておき、太っていることを嘲るようなことを言う。芸人Aは怒ってそれに言い返す。また周りの芸人が別の言葉を返す。今度は芸人Aはしゅんとして、悲しそうな顔をする。
 そしてその光景を観て、テレビの前の視聴者が笑う。

 このような「いじり」の場面は、今日の日本のバラエティ番組を観ていればよく出会います。しかし上述の文字面だけ追っていると、「これの何がいじめと違うのか?」という疑問が湧いてきますね。相手の欠点を貶め、弱者の烙印を押す。それは一見、いじめの構図そのままです。
 この問いに対する答え方は様々でしょうが、私ならば簡潔に「バラエティ番組に出ている芸人たちは演技をしているのだ」と答えます。「芸人はプロフェッショナルである」という言説は非常によく聞きますが、これも結局は同じことを言おうとしているのだと思います。彼らは同意の上で、芸人という職業として罵り/罵られている。
 すなわち、バラエティ番組で繰り広げられる芸人どうしのやりとりはフィクション(虚構世界の話)なのです。その点でいじめとは全く違う。

3. バラエティ番組のいじりで笑うことは、ごっこ遊びと同じ

 あなたがバラエティ番組の一視聴者だとして考えましょう。太っている芸人Aがいて、周りの芸人が「デブだ」と貶める。これがもしドキュメンタリー(現実世界の話)だとしたら、これはただのいじめであり、Aに優越感を感じ笑うというのは、いじめに加担しているということです。
しかし上述のように、バラエティ番組での芸人のやりとりはフィクションです。テレビの向こう側の話です。それは全くの虚構の世界ですから、あなたが倫理的に許容されない存在になることは回避されます。

 しかしながら、「ただの演技」と思う(=虚構世界を外から見る)だけでは、優越感は生まれません。よって笑いも起きません。
 だから一方であなたは、バラエティ番組をという「虚構世界の中では」という条件付きではありますが、「太っている芸人Aが、周りの芸人に『デブだ』と貶められ、Aが傷ついている」ということが真だと思わなければなりません。つまりあなたが虚構に降りて、虚構的真理を信じるということです。

 芸人どうしのやりとりは「本当」だけど「本当」じゃない、この奇妙なバランスの二つの視点を同時に持ち合わせるということがバラエティ番組のいじりで笑うということで、これはすなわち「ごっこ遊びに参加する」ということです。このときあなたが芸人Aに抱く優越感は、「ごっこ上の」優越感であり、それは準優越感a quasi-feeling of superiorityと名付けられるべきものでしょう。

4. バラエティ番組において何が真理で、何が虚構的真理なのか?

 バラエティ番組への批判を詳細に見る前に、先ほど「バラエティ番組での芸人のやりとりはフィクション」だと大雑把に言いましたが、これをもう少し丁寧に考えてみましょう。
 例えば同じお笑いでも、(ごく一部の例外を除いて)芸人が何らかの役を演じるということが明示的に分かるコント作品は明らかに虚構の世界ですし、観客側も皆そのことを承知しています。そこに出演する人、描かれるもの、そのすべてが虚構的真理です。

 一方で、バラエティ番組は、基本的にリアルな、現実世界に存在する人間が出演しているという前提に立っています。AならばAという人間として出演をします。これは注釈なしの真理です。
 さらに「Aが太っている」というのもまた真です。客観的指標として体重あるいはBMIによって「太っている」ということは示されますし、そもそもAの姿をパッと見ればそれはすぐに分かることでしょう。
 それでは何が虚構的真理なのか。分かりやすいように箇条書きにして書くと、以下の2点になります。

①周りの芸人がAをデブだと悪意をもって貶す。
②Aがそれを言われて怒る/悲しむ。

 このように、「悪意をもって」と「怒る/悲しむ」という、外部の人間が見て判断できない部分が虚構的真理になっています。逆に言うとそれ以外は全部「本当のこと」なのです。ハッキリ言ってしまうと、フィクションがフィクションとして丸ごと提示されているコント作品に対して、非常に分かりにくい。バラエティ番組は、現実世界がほとんどを占めているなかに、虚構にスライドする部分が存在する。しかもそれがなかなかに微妙なスライドなのです。

5. 「バラエティ番組のいじりは、いじめである」と批判する人は、何をどう見ているのか

 さて、そんなバラエティ番組でのやりとりを観た人が、「Aに対してやっていることはいじめだ!」と批判したとします。その人はバラエティ番組の抱える虚構性を鑑みず、バラエティ番組をドキュメンタリーとして見ています。つまり、(Aと周りの人間関係・やりとり・外に表現している感情を含めた)番組の全てを「本当のこと」として捉える。
 これは「<シリーズ①>虚構を怖がる Fearing Fictions」で触れた、ごっこ遊びから離脱する方法の一つ、「虚構世界にとらわれる」にあたりますね。ごっこ遊びに参加していない*1がゆえに、「現実世界」に起こっている「いじめ」を目の当たりにして、彼らは批判をするわけです。そして「それに(準優越感ではなく)優越感を抱いて笑っている視聴者」をも批判する。

 お笑い好きはそのたびに憤慨するわけですが、しかし考えてみると、こういう批判が出てくることはある意味当然であるとも言えます。なぜなら先ほど触れたように、明らかに虚構であるコント作品などと比べて、バラエティ番組における虚構へのスライドは極めて微妙*2なものなのです。バラエティ番組にfamiliarでない人が、Aが現実世界に存在するAという人間として出演しているのを観て、それを「あの人はある部分で演じている」とはつゆとも思わないのは仕方がないですよね。

6. 「バラエティ番組のいじりは、いじめではない!」と反論するのはなぜ難しいか

 「Aに対してやっていることはいじめだ!」という批判に対して、バラエティ番組を擁護する術はあるのでしょうか?
 真っ先に思いつくのは「バラエティ番組の芸人どうしのやりとりは虚構だ、だからいじめではない」と言うことですが、実は、バラエティ番組を今後も楽しみたいのであれば、これをするわけにはいかないのです。
 なぜなら、虚構性に明示的に言及し、暴露することは、虚構に降りていた視聴者すべてを現実世界に引き戻し、「虚構の中において」という接頭句付きで真だったもの(=虚構的真理)が真でなくなることを意味します。そして「虚構を外から見ている」あなただけが後に残され、バラエティ番組のいじりで笑うというごっこ遊びからは離脱を余儀なくされます。準優越感を抱き、笑うことはできなくなってしまいます。
 つまり、ごっこ遊びを守ろうとしたまさにその行動が、ごっこ遊びを成立させなくしてしまうのです。だから誰も「あれはフィクションなんだ」とはっきりと言えず、批判に対して口ごもるのです。

 逆に言うと、その批判があるまでバラエティ番組がバラエティ番組として成り立っていたという事実は、暗黙のうちにimplicitly「バラエティ番組の芸人どうしのやりとりが虚構である」ということが共有されていたということを示します*3
 その時代に戻るための画期的な解決法は、残念ですが今の私には全く思いつきません。「意図的に」「暗黙的な」状態に移行するというのは、無理問答のようなものですね。

7. 次回以降に向けて:バラエティ番組のいじりへのもう一つの批判

 仮に奇跡的に良い方法が見つかって、「バラエティ番組の芸人どうしのやりとりが虚構である」という前提が暗黙のうちに全ての人に共有されている世の中になったとします。そうなればオールオッケー万々歳かというと、実は違います。そうであったとしてもまだ生き残る、バラエティ番組のいじりに関する(本稿では意識的に触れてこなかった)もう一つの問題があります。
 それは、「バラエティ番組のいじりは、日常生活におけるいじめを助長している」という批判です。それを考える前に、次回ではまず、(またしても以前書いた文章をベースにしながら)一般人の日常生活において繰り広げられる「いじり」と「いじめ」について論じたいと思います。

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*1:「なぜテレビと視聴者のごっこ遊びが成立しなくなったのか?」「なぜ内輪は切断されたのか?」という問いは、また別で考えたいと思います。

*2:この「虚構へのスライドが微妙」であるという点について、昔書いた文章の脚注で書いていたこを再掲しておきます。「虚構のリアル」理論が生煮えだったのと同様に、この議論もまた生煮えですが、ここで論じていることと問題意識は本質的に同じだと思います。

【注】リアルとして捉えることが容易であるという点に、虚構のリアルという概念が本質的に内在する脆さが現れていると考えています。虚構のリアルの成立要件は
(a)もともと虚構であるものが、「リアルなもの」として提示されている
(b)本当にリアルだと信じこんでいるわけでなくても、受け手側もそれを「リアルなもの」として引き受けている
だという話はすでにしました。
 この(a)において、どんな虚構も「リアルなもの」として提示できるかというと決してそうではありません。虚構が、「リアルなもの」として提示されるには、そもそもの虚構にある程度の「リアルさ」が必要です。
 つまり、虚構とリアルがはっきり分かれているように言いましたが、実際にはその輪郭は溶け合っていて、容易にどちらとも解釈することができます。このあたり、まだまだ概念と用語の整理が必要ですね……

*3:テレビができたばかりの頃はもちろん、例えばひょうきん族の時代と比べて、「テレビは画面の向こう側の世界」という意識は今、薄れつつあります。この、テレビが現実世界と地続きであるという感覚に寄与する最も大きなものの一つはSNSの急速な発達です。