<旧版・お笑いと社会> 日常世界における「いじり」と「いじめ」

 前回まで、バラエティ番組における「いじり」と「いじめ」の関係について、ごっこ理論をヒントに考えてきました。

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 今回は、日常生活でも頻繁にみられる「いじり」と「いじめ」の関係について考えていきたいと思います。

1. 「いじり」における虚構的真理とは

 「いじる」という言葉は、松本人志に端を発して、平成の30年間で市民権を得てきました。私たちの日常世界でも、「いじる」「いじられる」の関係はよく見られます。例えば私なら昔、よく滑舌の悪さについていじられていました。特にい段が苦手で、「き」「し」「ち」が言えず、「キッチン」や「チキン」「敷地」を発音させられて周りに笑われる、そして私が怒る、というやりとりをよくやったものです。
 それに私が嫌な思いをしていたかというと、そんなことはなく、仲の良い友達との一種の「お決まりの下り」として理解していました。改めて「ごっこ理論」の復習をすると、ここにおいて、「私の滑舌が悪い」ということ自体は真なのですが、

①周りの友達が私の滑舌の悪さを悪意をもって貶す。
②私がそれを言われて怒る/悲しむ。

 という「悪意をもって」と「怒る/悲しむ」の部分が虚構的真理です。周りの友達は「本当に」悪意をもって私のことを貶していないし、私も「本当に」怒っているわけではない。それが虚構であると暗黙のうちに分かったうえで、それでも、「本当に」貶された私が「本当に」怒っているものとして表面上のコミュニケーションがとり行われるのです。

2. 「いじり」は冗談関係の変奏である

 バラエティ番組では、それを観る視聴者がいて、彼ら/彼女らに準優越感を感じて笑わせるために「いじり」というものが存在するのでした。それでは、日常世界における「いじり」は何のために存在するのでしょうか?
 もちろん、私と友達Aのやりとりを見ている友達B,C,D……がいて、その人たちを笑わせるらため、もしくは私も友達Aも自己再帰的に自分たちのやりとりを見て笑うため、という風にバラエティ番組と同様に「観客」を立てて考察することもできるでしょう。しかしそれ以上に大事なことは、「いじり」を通じてお互いに仲の良さを確認し合うという役割があることです。

 文化人類学に、冗談関係 joking relationshipという概念があります。これを提唱したのはイギリスの社会人類学ラドクリフ・ブラウンで、彼は構造機能主義(ある制度や慣習を、その社会における機能という観点から考察すべきである)という立場にありました。
 ブラウンは、いくつかの部族社会をフィールド調査するなかで、既婚男性とその配偶者の母親との間で相手に無礼な文言を含む冗談が交わされることに気が付きました。そして彼はそれを、「夫と妻がそれぞれ持つ家族関係の衝突を未然に防ぐための、からかいや無礼なふるまいをお互いに許しあう親密な関係の形成」という機能を有する制度だと解釈しました*1
  ブラウンによる冗談関係の正確な定義は、「他の人をひやかしたり、からかったりし、そのからかわれ方は、それに対して何ら立腹してはならないという二者間の関係であり、それは習慣によって容認され、またある場合には強要されている」*2です。このように人類学の文脈においては、単に個人的に親しいという理由ではなく、あくまで制度的にこのような行為が容認される場合に用いられてきた*3単語です。しかし「からかいや無礼なふるまいをお互いに許しあう関係」が「良好な関係」を意味するという点では、現代日本社会における「いじり」と共通の発想を持つと考えられます。

 表面上は貶しているが「本当は」悪意があるわけではない、受け手も表面上は応答するが「本当は」怒っていない……「いじり」というごっこ遊びに内在する虚構性を暗黙のうちに共有し合っている、という事実がすなわち相手との良好な関係を意味するのです。そして「いじる」「いじられる」の日々の繰り返しが、その関係の強化につながります。

3. ハリセンボン近藤さんの事例

 つまり、すべての「いじり」は親しさを確認し合う機能のあるごっこ遊びであり、それは「いじめ」とは本質的に異なる……のでしょうか? ここからは、「いじり」の持ち得る加害性について考えていきたいと思います。
 2018年、芸人のハリセンボン近藤さんがバラエティ番組に出演し、自分が芸人となった原体験について話していました。

 近藤は小学生時代、「ブタ」と呼ばれていた。それに「シュン」と萎縮してしまうとクラス中が悲しい雰囲気になる。そこで、「ブタって何よ!」と傷ついていないかのように言い返すと笑いが起き、その場が明るくなった。その体験から、イジられても「変な空気にならずに笑いになることが一番平和」だということを感じ、芸人となった今も「ふってくれることに対しては絶対応えたいという気持ちでいる」。

 ざっと、彼女の発言を要約すると上述のようになります。Kとしては、「いじめ」もこちらの受け取り方によっては「いじり」に転化され、お互いにとって幸福な関係を築くことができるということを伝えたかったのだと思います。さて私は、この番組の後に、以下のようなツイートを見つけました。

 "ボクらの時代。ハリセンボンの近藤春菜が「小学生の頃、ブタ!と呼ばれたときに傷ついていないように見せかけてリアクションしたら笑いが起こった。それが自分の原点」という内容の話をしてて辛かった。他者の容姿を嘲るという小学生の教室と同レベルの笑いを大人たちがTVで繰り広げている異常さ。
「ブタと呼ばれたことで自分がシュンとなったらクラス中が悲しい雰囲気になる。変な空気にならずに笑いになることが一番平和というか」
 侮蔑的な言葉を投げかけられた小学生の女の子が自分の気持ちよりも周りの空気を優先させる。誰も傷ついていないという見せかけの平和の為に自分が犠牲になる。辛い"

 非常に重要な指摘です。このツイートの批判の矛先は、近藤さんの事例における「いじり」は勿論のこと、親しさを確認し合うコミュニケーションとしての「いじり」の多くにも向けられていると解釈できます。となると、冒頭で挙げた私の「いじり」の例も批判の対象になる可能性も十分にあります。
  さて、近藤さんの「いじり」の原体験は、一体何が問題だったのでしょうか? 以下、その問題点を大きく3つに分けて考えていきます。なお、この議論は以前書いた記事を下敷きにしながら、全面的に改稿して論点を整理し直しています。

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4-1. 問題点① 遡及的な「虚構的真理」への転化

 まず最も大きな問題点は、近藤さんとその周りの同級生たちは(彼女の発言から判断するに)事前に良好な関係を築いていなかったということです。つまり同級生は「本当に」悪意をもって、ブタという言葉を本人を嘲笑する/傷つける意図で言おうとしていた。そして近藤さんは「本当に」悲しんでいた。これは虚構などではなく、れっきとした真実です。
 その後、近藤さんのリアクションによって教室は笑いに包まれ、彼女と同級生たちは「良好な関係」になりました。この「良好な関係」はすなわち「ごっこ遊び」の成立のことであり、「ブタ!」という言葉には「本当に」悪意があるわけではない、という解釈が付与されるということです。また同時に、近藤さんも「本当に」悲しんでいるわけではなかった。ここに虚構的真理ができあがる。
 しかしながら、ここでいくら強調してもし足りないことは、その虚構的真理への転化はあくまで遡及的retrospectiveであるということです。上に述べたように、同級生の近藤さんに対する態度は、最初はれっきとした「いじめ」でした。それが彼女の応答によって「あれはいじりだった」と遡及的に意味が変質してしまったのです。それに伴い同級生たちも「始めからこれは『いじり』でしたよ」という顔をすることが可能になり、彼ら/彼女らの罪悪感も軽くなったのではないでしょうか。

 ここに、「いじり」と「いじめ」問題についての最も難しい点の一つを見ることができます。今回は近藤さんのリアクションがありきの話ですが、仮にそういう反応が受け手側からなされなかったとしても、「あれは『本当に』悪意を持っていたわけではなかった」と遡及的に説明を与えることによって、「だから『いじめ』じゃなくて、『いじり』(のつもり)だった」という弁明が可能になってしまうわけです。これは、前回も書いた通り、「いじり」における虚構的真理は外部の人間が見て判断できない部分であるために起こることです。

4-2. 問題点② 近藤さんの「純粋な自由意志」なのか?

 話を近藤さんの事例に戻しましょう。先に引用したツイートは、以下のように続きます。

 "自分さえ耐えればその場の「平和」は保たれる。傷ついたこと、辛かったこと、意に反していたことを告発すれば厄介者扱いされる。被害を受けた側が自分を押し殺す。社会の至る所で見かける歪な構造。その再生産にTVが加担しているのは間違いないと思う"

 「再生産」については後で論じますが、ここで注目したいのは「意に反していた」という点です。つまりこのツイート主は、近藤さんは自ら望んでごっこ遊びに「した」わけではなく、無理やり共犯関係に「させられていた」という解釈なわけです。
 この意見に対し反論する人が一定数いるだろう、ということは容易に想像ができます。近藤さんが望んで「いじる」「いじられる」の関係をつくったのだ、現に、本人が番組で美談として話しているのがその証拠じゃないか、と。

 この、「近藤さんの純粋な自由意志だったのか?」という論点については、私が以前書いた記事の中の議論を紹介しながら考えていきましょう。

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 例えばAさんがある病気で入院し、自分の治療方針を決定したという場面を想定します。その場合、医師に言われた説明が影響していることでしょう。家族に言われた言葉があったのかもしれません。そしてその家族は、本で読んだ同じ病気の患者のストーリーに感化されたのかもしれません。その本は、家族の友人によって薦められたものだったのかもしれません……この例から分かることは、行為の原因というのは、いくらでも、過去と周囲とに遡っていくことができるということです。
 ところが、意志という概念を使うと、その遡っていく線を切断することができます。「君の意志がこの行為の出発点になっている」と言えるわけです。Aさんが「自分で」治療方針を決めた。言い換えれば、意志は行為の因果関係の連関を切断することにより、見せかけの「純粋なゼロからの自発性」を生み出します。

 記事では、ここから「する―される」という対立の限界、そして「中動態」というかつてあった概念の紹介になるのですが、本稿ではそこまで深くには触れず、「純粋な自由意志」を想定した議論そのものに困難があるという指摘に留めておきましょう。そう考えると、近藤さんが自分の「純粋な自由意志」でごっこ遊びに転化させたのかどうか、という論じ方にはあまり意味がありません。
 そうではなく、ここで問題なのは彼女にそれ以外の選択肢がなかったことだと私は考えます。同級生たちに「ブタ!」と言われること、「シュン」とした空気になること、自分自身が傷つくこと……そんな苦しい状況の中で、その全てを解決する手段は、「いじりとして処理すること」だけだったのです。彼女の見ている世界では、現状を変えるにはそれしかなかった。「いじり」にすれば、同級生の反応は変わり、空気は明るくなり、自分も傷つかなくなる……その問題点は既に指摘した通りですが、しかし、彼女にとってその変化は救いだったのでしょう。
 敢えて「能動―受動」のパラダイムのままで表現するならば、近藤さんは自分で望んで「した」とも言えるし、「させられた」とも言えるのです。意志の在り処が曖昧になる「せざるを得ない」という表現が最も近いのかもしれません。近藤さんのその帰結を責めることはできませんが、しかし、「本人が『自分の意志で』リアクションしたと思って/語っていた」からと言ってただちに「いじめではない」と判断できない、ということがこれらの分析から分かります。

4-3. 問題点③ ルッキズムの再生産への加担

 ルッキズムLookismとは、容姿が魅力的でないと考えられる人々に対する差別的取り扱いのことです。同級生が「本当に」悪意をもって、ブタという言葉で近藤さんを嘲笑していたのは、明確にルッキズムです。
 しかしそれが遡及的に「いじり」へと転化され、「ブタ!」と言っていた同級生たちが免罪されることによって、「別に、ああいうことを言っても良かったんだ」とルッキズム的な価値観が正当化されてしまうのです。そして彼ら/彼女らは、悪びれることなく、また別の場面でも同じような言動を繰り返す。そして言われた側は、「いじり」にして「面白く」返すことを(暗黙のうちに、時には明示的なルールとして)求められる。
 このようにして、近藤さんのような「いじり」を許容することによって、ルッキズムが強化・再生産されてしまうのです。

5. 「いじり」の暫定的3条件

 以上、近藤さんの事例の問題点を大きく3つに分けて分析してきまいた。さてここからは、以上の議論を踏まえて、許される「いじり」が存在するとすれば、それはどのような条件を満たすべきなのか、を論じてみたいと思います。この部分に関しては私もまだまだ考えている途中なので、これはあくまで暫定的な案ですが、条件を3つに分けて書いてみました。

「いじり」の3条件
①「いじり」が発生する前に、お互いが十分に良好な関係を築いている
②相手の本当に嫌なことは言わない
③相手が嫌かどうかに関わらず、社会的に容認できない価値観は採用しない

 一つ目の条件で「前に」と書いたのは、遡及的に「ごっこ遊び」が成立されてしまうことを防ぐためです。二つ目は、虚構的真理が守られるために当然必要な条件です。そして最後が難しいところです。「以前から良好な関係であるAさんとBさんしかいないクローズドな場で、『ブタ!』と言うことが社会的に容認できない価値観であり、他の場面で適用されないということは分かった上で、お互いに完全に同意のもとでAさんがBさんを『ブタ!』といじる」ことは許されるかどうか、というのが争点です。悩みましたが、

・いくら「他の場面で適用されないということは分かった上で」とは言っても、このようなやりとりを日常で例外的に認めることによって、「社会的に容認できない価値観」を内面化そして再生産する潜在的なリスクを否定し切ることはできない。
・上述の「純粋な自由意志」の議論から、「完全に同意」があったとしても、受け手側がその「社会的に容認できない価値観」への抵抗感がある可能性を排除し切れない。

 という理由から、「相手が嫌かどうかに関わらず、社会的に容認できない価値観は採用しない」という記述にしました。

 こう書いてみると、当り前のようでいて、穴だらけな「3条件」であることが分かります。「十分に」とは何か、「良好な関係を築いている」という判断は誰がどのように担保するのか、「本当に嫌なこと」と言うときの「本当に」はゼロサムの表現だがそのように明確なラインはあるのか、同じく「本当に」の判断は誰がどのように担保するのか、「社会的に容認できない価値観」と言うが一体それは何を指しているのか、など、無限に問題があることが分かります(特に最後のやつはヘヴィです)。ですが紙幅の都合から、これらについてはまた別の機会で詳細に論じて固めることとして、ひとまずこの「3条件」を議論の下地としてここに置いておきたいと思います。

6. 終わりに

 これまで、バラエティ番組の「いじり」について、そして日常世界における「いじり」と「いじめ」について、それぞれ考えてきました。次回は、最終的に目指す議論である「バラエティ番組はいじめを助長するか」の前に、「バラエティ番組と内輪」について考えてみたいと思います。
 なお、「バラエティ番組」と書きましたが、本稿で取り上げた近藤さんが「いじり」について語っている(真面目な)トーク番組もまた、その議論の範疇に含めるべき対象であると考えています。

 ※以下、<お笑いと社会>についての連載を改稿して新しく始めています。

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7. 【追記】それでも、と思うことが私にはある

 本稿を締めてしまう前に、少しだけ、書いておきたい話があります。かなり個人的な話を含みますし、本稿の論旨とは少しずれもするので、読み飛ばしていただいても構いません。
 本稿の「4-2. 問題点② 近藤さんの「純粋な自由意志」なのか?」の節に、近藤さんにとって「いじりとして処理すること」が「救いだった」という記述があります。私は、それを並々ならぬ思いを抱きながら書きました。
 私もかつて、過度に貶めるような言葉を投げかけられたり、バッグを隠されたり、その他大っぴらには書けないような酷い仕打ちを恒常的にされ続けて苦しんでいた時期がありました。そしてあるとき、それを全て「笑いで返す」=「遡及的にいじりにする」ことによって抜け出そうと決心し、何とか地獄の日々から脱出した、という経験を持っています。その意味で、私は全く他人事には思えないのです。
 確かに「『いじり』にする」ことは本稿で論じたように問題だらけですが――それでも、と私は思います。苦境を解決する方法が「それしかない」ように見えている人に、「お前は悪しき価値観の再生産に加担している」と言うのはあまりに酷です。ましてや、「それを選ぶな」とは口が裂けても言えません(もちろん、本人がそう「せざるを得ない」社会構造を変えなければいけない、ということは改めて強く主張しておきます)。

 そんな風に悩んでいるときに、私は一つの記事に出会いました。それは、かつていじめを受けていたものの、文化祭でやるコントの脚本を書いたのをきっかけに一躍クラスの人気者になった、という経験を持つ霜降り明星せいやさんのインタビューです。

 このエピソードもともすれば、「いじめを笑いによってはね返した」という美談として語ることはできそうです。しかしせいやさんは一貫してそれを拒否します。

――高校生のせいやさんは、コントが書ける力を持っていたからこそ、あの状況をくぐり抜けることができたとも言える。一方で、多くの10代は、せいやさんと同じようないじめを受けたとき、ギブアップしてしまう人がほとんどだと思います。つらい思いをしている「普通」の10代に今、せいやさんが伝えられるメッセージを聞かせてください。

 これが一番言いたいんですよね、結局。僕は別に、自分の経験談を押し付けたいわけじゃないので。
 やっぱりね、逃げた方がいいですよ。立ち向かわなくていいです。僕は別に闘ってないんですよ。笑いではね返したっていう言い方をすることもありますけど、笑いに逃げただけ。僕には笑いっていう逃げ場所があったから。笑いって対人やから、向かっていったみたいになってますけど。
 音楽に逃げる。ゲームに逃げる。睡眠に逃げる。何でもええです。とにかく、そんなやつらに、人生終わらされてたまるかっていう気持ちを持ってほしいですね。そんなやつらに合わせる必要もないし、そんな環境に合わせる必要も全くない。自分の好きなことを、本当にチャンスやと思って見つけてほしいですね。

 せいやさんは一貫して、苦しい状況にあるときに「『いじり』にするしかない」「笑いに転化するしかない」なんてことはない、ということを強く主張しています。確かにお笑いは「助けて」くれる。でも他に選択肢はいくらでもある。逃げればいい。「あいつら」に合わせる必要はない。
 あの時期にこの記事があって、私が読むことができていれば、なんてことを考えてしまわないわけではないです。しかしそんな意味のない反実仮想よりも、今私が願うのは、もし今いじめに苦しんでいる人がいるならば、何かの検索で引っかかってこのせいやさんの記事にたどり着いて、ちょっとでも救われたらいいな、ということです。

 

 

 

*1:井上順孝『宗教社会学がよ~くわかる本』(2007年、秀和システム

*2:A・ラドクリフ=ブラウン『未開社会における構造と機能』(1975年青柳まちこ訳[1952年]、新泉社)

*3:今村仁司現代思想を読む事典』(1988年、講談社現代新書