2019年7月〜12月に読んだ本

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19054 W3 1巻・第2(手塚治虫/手塚治虫文庫全集)

  以前紹介しました。

satzdachs.hatenablog.com

19055 現代思想 4520

 岸政彦と國分功一朗の対談がとにかく面白かったです。特に「抽象」と「一般化」について社会学者と哲学者がそのスタンスの違いを語るところが興味深い。

(岸) 計量系の人は例えば「確率」という概念を媒介にして標本から母集団を推測します。私たちにとってディティールとは、計量で言う確立概念と同じ帰納を持っているものなのではないでしょうか。要するに、ディティールを書くことによって実は何かを「一般化」しているのではないかと思うのです。それが何かはよく分かりませんが、とりあえず「人間の理論」とでも言いましょうか。
(國分) ドゥールーズという人は「特異性」ということを言います。それはつまり一つひとつの小石のことなんです。小石をシンギュラーだと言うのだから抽象的なのですが、ただドゥールーズが面白いと思うのは、概念を小説の登場人物のようなものだと言うところです。私たちは小説を読んでいるとき、登場人物のことを「こんなやつかな?」とか「こいつ絶対こういうことするよな。ほらやっぱりした!」とか、想像しながら読みますよね。そしてだんだん読み手のなかに登場人物が生きてくる。ドゥールーズは同じことを概念に対してもしなくてはならないと考えているのです。ある種の生き物や登場人物のようなものとして概念を扱い、抽象的だけれどある種具体的なものとしてそれを心のなかに感じられるようになることが大事であるわけです。エスノグラフィにおいてディティールから母集団から見えてくるのと同じように、概念という抽象的なものの演出を通じて、概念の具体的な状況みたいなものを創造させる。そう考えると、岸さんたちとは真逆なことをやっているのだけれど、向いている方向は近いかもしれません。
(岸) 概念を友達のように語る。
(國分) ポストコロニアル論:他者に配慮するのであれば、一般化を避けなければならないというのがその大筋だったと思います。でも、その立場で行くと個別事例を論じる以外にやることはないという話になってしまう。さらに一歩進めると、個別事例を解釈することすらおかしいということになってしまう。岸さんがおっしゃった、ディティールを通じて母集団が見えてくるという話はこのジレンマに対する応答ですよね。個別を何個か集めて一般化するのではなくて、個別を通じて普遍に至るというか。
(岸) でも、ベタな感じで「一般化するぞ!」と思って書くと、それはできないんです。

 初期研修医になってもオート・エスノグラフィーの研究は続けたいと思っていて、どんな病院ならそれは「一般的」なエスノグラフィーになるのだろう?と考えていたのですが、その問いの立て方自体が適切ではないのかもしれない、と今は思っています。

19056 いのちの初夜 (北條民雄/角川文庫)

 癩文学として最も著名な作品の一つです。後書きに北條民雄の煩悶が記されていて、それは「癩文学」という呼称そのものについて私たちに再考を促します。

北條の本当の仕事はまだこれからだったと思う。今まで書いたものは皆彼には嫌悪と不満のまつわるものだったらしい。「『いのちの初夜』など、絶版にしてしまいたいくらいだ」と言ったこともあった。そしてまた彼は、療養所の中で文学していくことの絶望に最後までつきまとわれていた。生きた社会の流れから絶たれ、新鮮な感受性を喪ってゆくことは、彼には病気そのものよりも苦痛だった。癩作家と呼ばれ、癩文学と称されることをどんなに彼が苦々しく聞いたことか。それは彼の自尊のせいではない。癩というものを社会と文化のまっただ中に据えて、その存在権を追求せずにはおれなかったのだ。しかもその答えは、マテリアリストの彼には否定的でしかなかったのだ。しかも彼は、癩を描き続けた。それには彼には文学の一つの「場合」であったにすぎない。彼には癩文学などはなく、ただ一つ「文学」があるだけだったのだ。晩年の彼の精神の視野はすでに癩を超え、広大な人間社会に題材したいくつかの長編を脳裡に持っていたらしい。(253ページ)

 私たちが「癩文学」という呼称を使用するとき、「癩<だから>素晴らしい文学」、あるいは「癩<なのに>素晴らしい文学」という意味がこめられています。でも、そういう注釈付きの称賛が著者を悩ませ、苛立たせていたわけです。

19057 スティル・ライフ (池澤夏樹/中公文庫)

19058 精神看護 221

 中動態について初歩的なところから学びたいなら、まずはこの一冊です。めちゃくちゃ簡潔にまとまっている。

19059 医療者が語る答えなき世界 ーー「いのちの守り人」の人類学 (磯野真穂/ちくま新書)

 医療者を文化人類学者がインタビューした一冊です。ところどころ素朴な一言が鋭利で良いです。

毎日すごく追われている感じ。でも実際は誰も追ってないんですよね。(入院しているお年寄りは)どこにもいかないし、何の用もないのにどうしてこんなに忙しいのって。(29ページ)

 漢方についても私が思っている疑問がそのまま書いていました。

なぜそもそも漢方医たちは、自分たちの医学が科学的であることを懸命に証明しようとするのだろう。もともとの理論が違い、また漢方に助けられた人々もあまた存在するのであれば、「ただ違う」というだけでよいのではないだろうか。漢方医が科学にこだわる理由はいったい何なのだろう。(113ページ)

 以下のような、医療者のあるべき姿を論じた箇所は説教じみていて、少し空を切っているような印象があります。

そこで重要になるのは、医学を目の前の患者にインストールすることではなく、標準化が不可能なそれぞれの患者の人生の文脈に、医学という知をどう混ぜ合わせていくか、医療者の持つ専門知と患者の人生の間にどのような再現性のない知を立ち上げ、実践し続けていくかである。(163ページ)

19060 疾風怒濤 精神分析入門 (片岡一竹/誠信書房)

 ラカンを勉強しようと読むも、全然ピンと来ず……

19061 断片的なものの社会学 (岸政彦/朝日出版社)

 「ここに何かが書いてあった」というのは読み終わったあとも全然言えなくて、ぼんやりしていて、何となく感傷的で、そういうとりとめのなさを楽しむ本なのだと思います。

相手の心や意思を尊重すること、相手の領域に踏み込まないことという規範は、ほんとうに強く私たちの行動を規制している。電車のなかで困っているひとを咄嗟に助けられるか、という話をしているときでも、いちばん多いのが「下手に手を出して相手に迷惑をかけたらいけないので、まずは黙って様子をみる」という意見だ。これも、目の前にいるひとに介入しない、という規範のバリエーションのひとつだと思う。(203ページ)

19062 女ぎらい (上野千鶴子/朝日文庫)

 フェミニズムの良い入門書、とどこかに書いてあったのですが、全く良い入門書ではないと思います。徹頭徹尾、あくまで上野千鶴子の言いたいことを、彼女の言い方で書いている本です。同じ内容を伝えるのに色んな書き方があるとして、彼女はその中で最も相手の感情を逆撫でる表現を意図的に選んで書いている感じがあります。それは活動家としての彼女がこれまで獲得してきた身のこなし方なんでしょうけど……

19063 暇と退屈の倫理学(國分功一朗/太田出版

 本筋とはあまり関係ないですが、環世界Umweltが小さい頃から自分が考えていたことと一致していてとても嬉しかったです。
 あと、「分かる」ということについて書かれた後書き部分もここに残しておきたいです。

 スピノザ:人は何かが分かったとき、自分にとって分かるとはどういうことかを理解する。「これが分かるということなのか……」という実感を得る。人はそれぞれ物事を理解する順序や速度が違う。同じことを同じように説明しても、だれしもが同じことを同じように理解できるわけではない。だから人は、さまざまなものを理解していくために、自分なりの理解の仕方を見つけていかなければならない。
 どうやってそれを見つけていけばよいか? 特別な作業は必要ではない。実際に何かを理解する経験を繰り返すことで、人は次第に自分の知性の性質や本性を発見していくのである。なぜなら、「分かった」という実感は、自分にとって分かるとはどういうことなのかをその人に教えるからである。スピノザは理解という行為のこのような側面を指して「反省的認識」と読んだ。認識が対象だけでなく、自分自身にも向かっている(反省的)からである。(352ページ)

だから大切なのは理解する過程である。そうした過程が人に、理解する術を、ひいては生きる術を獲得させるのだ。逆に、こうした過程の重要性を無視ししたとき、人は与えられた情報の単なる奴隷になってしまう。こうしなければならないからこうするということになってしまう。(略)そうなると、「分かった!」という感覚をいつまでたっても獲得できない。(353ページ)

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19064 82年生まれ、キム・ジヨン(チョ・ナムジュ/筑摩書房

 純粋に、小説として綺麗なオチだなと思いました。

19065 社会学 (大澤真幸/講談社現代新書)

 社会学史をとりあえずざくっと掴むのには良い本なのではないでしょうか。分厚い割に割と読みやすいです。

19066 ハヅキさんのこと (川上弘美/講談社文庫)

19067 アメリカの夜 (阿部和重/講談社文庫)

コンピューターがどうだとか、麻薬がどうしたとか、ダンス・ミュージックはこうだとか、自然保護がなんだとか、ホモやレズやSやMはどうだとか、アート的な、ーーもちろんそれは風俗的といってもよいのだがーーそんなことの「最新情報」を、「真剣さ」ということに嫌悪でも抱いているように適度な「だらしなさ」を装いながら、時間という概念をまるで欠いているかのようにいつまでも話しているのだ。(81ページ)

19068 言い訳 (塙宣之/集英社新書)

 漫才の緻密な技術論でもあり、M-1に青春をかけた男のモノローグでもあります。

19069 学問の生命 (中川米造/佼成出版社)

9

19070 パトロネ (藤野可織/集英社文庫

19071 質的研究のための理論入門 (プシュカラ・プラサド/カニシヤ出版)

 訳が悪いのか、私の前提知識量が少ないのか、とにかく読みにくかった……

19072 僕は猟師になった (千松信也/新潮文庫)

19073 現代エスノグラフィー (藤田結子・北村文/新曜社)

 文化人類学をやる人なら常識(らしい)の『文化を書く』(1986年)の内容をまとめておきます。

1986年歴史学者ジェイムズ・クリフォード『文化を書く』
①書き手は意図的に取捨選択している
②記述自体がレトリックの制約を受けている
③調査する側と調査される側の間に非対称な権力関係が存在する
文化人類学という学問は「西洋」の権威を前提に成り立っている
民族誌は、書き手が誰であり、どのような制約下にいるのかに影響される
民族誌の真実とは、本質的に「部分的真実」である(25ページ)

19074 英語スピーキング学習論 E.S.S.スピーチ実践の歴史的考察ー (三熊祥文/三修社)

 「E.S.Sスピーチ競技」とは何なのかを歴史的・教育学的観点から俯瞰で見るような内容です。

 ①「E.S.Sスピーチ競技が社会的インターフェイス装置である」(=場として社会に対して開かれていてる)というテーゼは、「目の前の観客だけをオーディエンスとして想定するのではなくて、社会に対して言いたいことがあって、それを言う場として大会があり、その場にいる観客はそれをたまたま聴いている」ということを端的に表した表現としてとても良いと思いました。
 ②「E.S.Sスピーチ競技が『正統的周辺参加』である」というのも面白い。E.S.Sスピーチが(誰でも参加できる第一歩目としての)「正統的周辺参加」なのだとすれば、「十全参加(full participation)」は何なのでしょうか? 本書ではExtemporaneous speechだということになっていましたが……
 ③昔のスピーチのタイトル一覧を見ていると、speech to persuade / actuate だけでなく、speech to inform / entertain もあったのが興味深いです。
 ④「内容中心主義」「迫真主義」という言葉それ自体がおもしろいし、そういう状態に陥ることが古今東西において普遍的であることもおもしろい。

19075 死の人類学 (内堀基光・山下晋司/講談社学術文庫)

19076 全国マン・チン分布考 (松本修/インターナショナル新書)

19077 居るのはつらいよ: ケアとセラピーについての覚書 (東畑開人/医学書)

 この人の本を読んでいると、これは「学問」なのかと問いたくなって、そこからさらに(私が何かよく分からないまま無意識のうちに信奉している)「学問する」とは何かについて考えます。

19078日本ファシズムと医療ハンセン病をめぐる実証的研究 (藤野豊/岩波書店)

 「遺伝病ではなく、感染症だ」ということを啓蒙したかったはずの光田健輔は、なぜ断種政策をやめなかったのか? そのヒントとなる記述がいくつかありました。

 光田は、母親の胎内での感染や父親の精子からの感染、あるいは妊娠による母親の病勢の進行、乳児への母親からの感染を恐れてこうした処置をおこなったというが、このような認識に基づけば、ハンセン病自体は遺伝病ではないにしても、それに類似した形で、母子、もしくは父子感染していく危険性を内在させているとみなされるわけであり、ハンセン病は優生主義の対象に組み込まれうるのである。さらに、ハンセン病に感染しやすい体質は遺伝するという学説も存在していた。
 したがって、優生運動の中心人物の一人である後藤龍吉は、避けるべき結婚の条件の一つに遺伝病・遺伝素質の保有をあげ、「遺伝病や遺伝素質の有無を注意して頂きたい、結核癩病、黴毒、精神病、低格者などは最も恐ろしいもので御座います。この場合には直属並に親族の祖父にまでさかのぼって頂きたいものです」とまで述べている。後藤は、結核ハンセン病・梅毒という慢性伝染病をも明確に優生主義の対象としていたのである。同じく、池田林儀も、「肺結核の如き、梅毒の如き、癩病の如き」は「遺伝らしく見えて、遺伝でない」としながらも、「君子危うきに近寄らずで、そうゆう悪疾を持ったものとの結婚を避けることは悪いことではない」と、ハンセン病患者との結婚忌避を認めている。(34ページ

 予防課長高野六郎は、ハンセン病は伝染病であり「遺伝ハナイ」と明言したうえで、親子間の感染の機会が多いので断種手術は予防上適切であると答弁した。これを受けて、鈴木は「日本ノ民族即チ種族ト云フモノヲ永久ニ保存スルト云フ点カラ考ヘテ見マシテモ、亦其産業上ノ能率或ハ能力ノ発達ト云フ点カラ考ヘテ見マシテモ」、ハンセン病結核をはじめとする伝染病と遺伝病の患者の調査をするべきであると述べて質問を締めくくった。
 また、医師でもある田中養達(立憲民主党)が、鈴木の質問をめぐる高野の答弁に対し、伝染病であるハンセン病の患者に遺伝病に対するような断種手術を施すことは矛盾するのではないかと追及すると、高野は「遺伝ガ絶対二無イカト御尋ネヲ受ケマスルト、私共絶対ニサウ云フ事ハ無イトハ申上ゲ兼ネルト存ジマス」と言をあいまいにしてしまった。内務省としても、確固たる認識がないまま、既成事実としてハンセン病患者への断種手術を容認していたわけである。(36ページ)

19079 はじめての構造主義(橋爪大三郎/講談社新書) 

 「ポスト構造主義」という言葉があることによって、「構造主義は、乗り越えられた昔の思想」ということを無意識のうちに思いこんでしまったいたのですが、そこに再考を促すこの本は構造主義入門書のなかでも一番アツかったです。

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19080 〈癒し〉のまなざし(中川米造/福村出版)  

19081 方法としてのフィールドノート (ロバート・エマーソン/新曜社)

 いっぱしのフィールドワーカーとして、半年ほど経験を積んだうえで読むと、「まさにそれ気になってた!」と思う記述がたくさん。

現場に継続して身を置いていると、それまでなじみがなかった生活様式にはじめてふれたときには働いていた直感がだんだん働かなくなってしまうからである。長いあいだ現場に参加していると、最初の頃、つまり、どういうことが他者にとって意味があるのかという点について模索し、それに適応していこうとしていた頃には見えていたことが目につかなくなってくる。長く関わっていると、はじめの頃にはもっていた、微妙なパターンや潜在的な緊張関係に関する感受性が鈍くなってしまうのである。要するに、フィールドワーカーは他者の関心や意味を一度にすべて学ぶわけではなく、以前に得た洞察や理解の上に新しい洞察や理解を積み重ねていくような連続的で継続的なプロセスを通して学習していくのである。調査者は、このような時々刻々の学習のプロセスや段階を記録にとどめていくべきなのであって、学習過程がもつ意味や重要性に関する何らかの最終的で決定的な解釈にもとづいて、後の段階でそれを再構成すべきではないのである。(48ページ)

フィールドノーツにおける物語を語る時には、こうした二つの矛盾する欲求のあいだの折り合いをつけなければならない。つまり、ごくささいな周辺的な行為であっても書き込んでおくべきか、それとも「起こったこと」について何らかの進行の順番を想定し構成しそれに沿って物語を語っていくべきかという二つの欲求である。もし実際に「すべてのこと」を書いたとしたら、ページ上にはわけの分からない記録が残されるのが落ちだろう。しかしながら、もし物語の中の関連性を過度に強調しすぎたら、今度は他の解釈の可能性を閉ざすことになるだろう。このようなディレンマに直面した時には、もっとゆるやかな構造をもったフィールドノーツにおける物語を書くことを勧めておきたい。このような物語はエピソード的なものになるだろう。というのも、そういう物語は出来事の最中に起きた一見筋からは外れているように見える行為について記述するからである。こうした物語の場合は、エピソードとエピソードのあいだに断裂があり、見たところある一組の行為から次の一組の行為を導く関連性は存在しなくなる。また、この種の物語は既に進行中の行為の最中に始まり、必ずしもある結末や解決に到達することなく終わることもしばしばある。(215ページ)

19082 東大医学部 医者はこうしてつくられる(安川佳美/中央公論新社)
 本書にはこの記事の中で触れました。

satzdachs.hatenablog.com

19083 医療科学 原点から問い直す(西村昭男編/医療文化社)

19084 十代に共感する奴はみんな嘘つき (最果タヒ/文春文庫)

いじめなんていうのはくだらないからこの学校では怒らないっていうのが保護者の認識で、生徒の認識で、っていうか生徒は多分彼女をハブろうなんて思ってなくてただ掃除をさぼったら、彼女だけがさぼらなかったっていうそれだけなんだろうけれど、彼女はいじめられていると思って私にもろくに話しかけずにヘッドフォンをつけて、音楽だけが友達と思っていて、私と同じミュージシャンのファンだったとしたらきっと彼女はそのミュージシャンに救われたと言って、この人がいなくなったら生きていけないとか簡単に言えて、私はいや生きるしって思う。(19ページ)

19085 「差別はいけない」とみんないうけれど。(錦野恵太/平凡社)

 まさしくこのタイトルと同じことを思っていたので買ってしまいました。最近嫌というほど聞く「ポリコレ」の歴史から学べました。

19086 医療的認識の探求 (中川米造/医療図書出版社)

19087 仕事のスピード・質が劇的に上がる すごいメモ。(西利/かんき出版)

 「余暇時間の取り合い」とか、自分とは違う文化圏では盛んに使われているであろう言葉に溢れていて、逆に新鮮でした。「仕事の効率をいかに挙げるか」が至上命題になるのって、いやもちろん大切なことなんでしょうけど、それが目的化すると窮屈そうだなって。終始、筆者の成功体験に溢れている(かつ、それに本人が無自覚である)というのも、肌に合わなさ過ぎて吐きそうでした。

19088 もっと笑うためのユーモア学入門(森下伸也/新曜社)

 今までどうしてこれを読んでいなかったのかと恥ずかしくなるくらい、「人はなぜ笑うのか」の入門書として最も最良の本。近いうちに紹介する文章を書きます。

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19089 隔離-故郷を追われたハンセン病者たち (徳永進/岩波現代文庫

19090 急に具合が悪くなる (宮野真生子・磯野真穂/晶文社)

19091 ダイエット幻想 (磯野真穂/ちくまプリマ新書)

 上の二冊を読んでのこれですね。

satzdachs.hatenablog.com

19092 ラピスラズリ (山尾悠子/ちくま文庫)

19093 AI vs 教科書が読めない子供たち (新井紀子/東洋経済)

19094 仮病の見抜きかた(國松淳和/金原出版株式会社)

 本書の各エピソードには、本書の性格上、医師や医療従事者たちが患者の裏で自らの気持ちを語っているようにも受け取られる描写が少なからずあります。(略)ただ繰り返しますが「エピソード」や「エピローグ」の部分は、フィクションであることご理解いただきたいのです。もし不快に思われた際には、フィクション(筆者の表現)であることをご理解いただき、どうにかご海容いただければと思います。(7ページ)

 冒頭に上記のようにと書いてあって、その逃げ方はどうなんだろうって思いました。むしろ、(匿名化はしていますが)これが医療現場のリアルで、医療者たちはこのようなことを考えるんだ、とするほうが、どちらにとってもよっぽど良い気がします。

19095 脳を通って私が生まれるとき (兼本浩祐/日本評論社)

19096 日常臨床に潜むhidden curriculum -pofessionalsimは学習可能か?(徳田安春・編/カイ書林)

19097 疫学と人類学 (James A. Trostle / メディカル・サイエンス・インターナショナル)

 疫学と人類学ってどんな組み合わせなんだ、と思いましたが、読んでみると確かに二つの扱うテーマと言うのは被り得るのだなというのがよく分かりました。そして交わるのは難しそう、ということも。

Murphy(精神疾患の疫学者)は、人類学者たちに、「信念beliefに基づく文化の違いが一目で分かるような地図を作って欲しい」と強く希望しましたが(1994)、Goodは「それぞれの地域の社会的、文化的環境の理解に力を入れるべきだ」と主張しました。つまり、Murphyが人類学者に、文化集団間に明確な地理的境界を引いて、疫学計算の分母となる集団を特定できるようにすることを求めたのに対し、Goodは、文化とは地理的な境界を持つものではなく、「多様性、力と富の階層性、考え方の対立」から形成されるものだと考えていたのです。文化という概念に関するこうした違いによって、人類学者の間では、文化を単純に一つの「リスクファクター」とみなす疫学者の考えに対する批判が高まっていきました。(55ページ)

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19098 逝かない身体 (川口有美子/医学書)

19099 N:ナラティヴとケア 10 医療人類学ーいのちをめぐる冒険

 北中の淳子、医療人類学者としての昨今の"ナラティヴ研究"批判がとても簡潔で的を射ている。

安易な共感に懐疑的で、人道主義の矛盾に敏感であり、他者の共訳不可能性と格闘してきた人類学の問題意識やその歴史性が、ほとんど感じられない論文も少なくない。さらに、個人の語りはどうしても、常識心理学的な個人の葛藤等のミクロ・レベルで分析されてしまいがちだ。(略)医療においてドグマ化されていくナラティヴ研究は、単なるヒューマニズム喚起の道具になり果ててしまいかねない。(11ページ)

 また、東畑開人のモノローグが非常に良かった。『野の医者は笑う』とか『居るのはつらいよ』はちょっと文体が合わなかったので、このくらいの温度が私は一番好き。

よき臨床とは、心理療法の価値観とクライエントの生活世界の価値観が交渉し、そこに両者の妥協がなされることに他ならない。したがって、妥協や交渉ということを肯定して、その結果生じる布陣で混淆した治癒像を臨床的に理解する枠組みが必要であった。それを私は「ありふれた心理療法」と表現した。(51ページ) 

19100 フーコーの系譜学―フランス哲学「覇権」の変遷 (桑田礼彰/講談社選書メチエ)