NBA

 何となく、文章を書いていないと落ち着かないので、不定期にnoteは更新しようと思う。特に誰かに向けてではなく、自分のために書くつもりだ。

 この頃はずっと勉強をしている。一応受験生なので仕方がない。なんだかんだこの数ヶ月がいちばん医学生らしいことをしていると思う。勉強の合間の時間はひたすら好きなテレビ・ラジオ番組を鑑賞しているのだが、ふとしたきっかけでNBAのプレイ集もYouTubeで観るようになった。と言っても、最新のものというよりは、どうしても自分がよくチェックしていた頃のNBAの動画が懐かしくなって観てしまう。私がバスケ部に所属していた中高時代、つまり2010年前後のものである。
 するとかなり鮮明に、リアルタイムで観ていた選手たちのことを思い出す。ノヴィツキーのこのタッパで片足フェイダウェイはチートだよなとか、ダンカンのバンクショットはマジで渋いとか、デュラントはどっからでも得点できるなとか、当時思ってた感情がそのまま蘇る。わりと楽しい。
 そのまま気になって選手のその後を調べてみると、けっこう引退していたり、第一線の選手ではなくなっていたりして、少し悲しくなる。逆に、スパーズの一選手というイメージだったレナードがめちゃくちゃスター選手になってたりもする。あるいはローズをめぐるドラマを知る。そしてそんな中でも全く変わらないゴリゴリマッチョプレイでスター選手であり続けるレブロン・ジェームズの強靭さに驚く。

 私にとってのレブロンといえば、ウェイドとボッシュとともに「ビッグ3」を結成しマイマミ・ヒートで活躍していたイメージが最も強い。そしてその頃のヒートのことを考えると、当時チームに所属していたマリオ・チャルマーズという選手のことも同時に思い出す。私はいつもチャルマーズのプレイをハラハラしながら観ていた。
 というのも、チャルマーズは悪くない選手ではあったが、上述の「ビッグ3」、特にレブロンなどと比較すると見劣りするレベルであったため、あんなチームでプレイするのはさぞかしプレッシャーが大きくて大変だろうと、私は勝手に不憫に思っていたのだ。チャルマーズがターンオーバー(ミスによりボールを失うこと)したり、大事なところで得点を決められなかったりする場面を観るたびに、「彼は今どんな気持ちなんだろう」と表情を注視していた。
 実際、チャルマーズがレブロンから叱責を受ける様子が画面に映ることもあって、そのたびになぜか私は自分のことのように胸がキュッと苦しくなっていた。

 たぶん私は、チャルマーズの姿を、バスケ部のキャプテンのくせにちっとも上手くならない自分と重ね合わせていたのだろう。もちろん次元が違うし、余計なお世話ったらありゃしないのだが。当時のうちの部は弱小も弱小の、さらに私はその部員のなかでも弱いほうの選手だった。それなのになぜキャプテンだったのかというと答えは明瞭で、同じ学年に私と部員があともう一人しかおらず、そいつが実にちゃらんぽらんだったからだ(一応付け加えておくと、彼とは今でも住む場所は違えど仲良しである)。
 最近私はよく考える。NBAの関連動画から飛んで、バスケが上手くなるための方法とか、色んな戦術の解説動画を観ていると、もっと上手くなるためにやりようがあったなと。バスケが大して上手くなくて、公式試合のたびに辛い思いをしていたくせに、私は練習メニューを一切改善しようとしなかったのだ。それは先輩が大した練習をしていなかった(なのに県大会に行くくらい強かった)のが大きな原因なのだが、今から考えると、チームメイト(主に後輩)に申し訳ないことをしていたなと思う。
 当時は人間関係も辛いことが多くて、(楽しいことがないわけではなかったが)体育館に行くのが嫌で嫌でたまらないことも多々あったのに、それでもバスケ部を辞めなかったのは、周りに諦めたと思われるのが悔しかったという、負けず嫌いから来るただその理由のみである。何とも馬鹿馬鹿しいし痛々しい。繰り返しになるが、だったらもっとやりようあったろと思う。

 そんなこんなで、最近はちょっとバスケ熱が復活して、遊び半分でボールを弄るくらいできたらいいなと思っている。しかしバスケットゴールがある公園というのはなかなか存在しない。だからNBAの動画を観て溜飲を下げるしかないのだが、それもあってか、この頃たまに自分が試合に出ている夢を見るようになった。実に単純な脳構造をしていると我ながら思う。
 夢は、公式試合があるときの体育館のざわざわしたあの感じとか、ベンチで顧問のA先生が怒鳴りつけている様子とか、結構リアルだ。私はオフェンスでボールが回ってきてシュートを打つが、ボールは空を切る。あるいはターンオーバーをして、相手チームに速攻を決められる。
 そこでパッと目が覚める。寝ていたときの緊張がまだ残っていて、心臓の鼓動が速くなっているのがわかる。そして思う。別に、夢のなかくらいスター選手になってたって良いのに。結局ターンオーバーばっかりしている。

2020年1月〜6月に読んだ本

1月

20001 教養のためのセクシュアリティスタディーズ (風間孝ほか/法律文化社)
20002 医学概論とは(澤瀉久敬/誠信書房
20003 医療・合理性・経験(バイロン・グッド/みすず書房
20004 Dr.ヤンデルの病院選び(市原真/丸善出版
20005 100分de名著 スピノザ エチカ(國分功一朗/NHK出版)

2月

20006 多としての身体(アネマリー・モル/水声社)
20007 隠岐さや香 著『文系と理系はなぜ分かれたのか』(星海社新書, 2018)
20008 コンビニ人間 (村田沙耶香/文春文庫)

3月

20009 生を治める術としての近代医療―フーコー『監獄の誕生』を読み直す(美馬達哉/現代書館
20010 人間そっくり(安部公房新潮文庫
20011 ボディ&ソウル―ある社会学者のボクシング・エスノグラフィー(ロイック・ヴァカン/新曜社
20012 嗤う日本のナショナリズム北田暁大NHK出版)
20013 読んでない本について堂々と語る方法(ピエール・バイヤール/筑摩書房
20014 大阪大学医学部最終講義(1989/03/30)『病と癒し』(中川米造/月間『ライフサイエンス』vol.16 No.5/No.6)
20015 J.レイヴ&E.ウェンガー 著『状況に埋め込まれた学習』(産業図書, 1993)
20016 医学とはどのような学問か(杉岡良彦/春秋社)
20017 医学概論(川喜田愛郎/ちくま学芸文庫)
20018 精神科医が読み解く名作の中の病(岩波明/新潮社)

4月

20019 アナ・チン『マツタケ』(みすず書房, 2019)
20020 熊野純彦 著『レヴィナス入門』 (ちくま新書、1999)
20021 よくわかるコミュニケーション学(板場良久ほか編/ミネルヴァ書房
20022 レヴィナス 何のために生きるのか(小林義之/NHK出版)
20023 省察的実践者の教育(ドナルド・A・ショーン/鳳書房
20024 当事者研究をはじめよう (熊谷晋一郎・編/金剛出版)
20025 コロナの時代の僕ら(パオロ・ジョルダーノ/早川書房
20026 漫才作者 秋田實富岡多恵子/筑摩書房
20027 病の文化史(上)(下)(マルセル・サンドライユ他/リブロポート)
20028 現代思想 第47巻6号 43のキーワード(青土社
20029 千葉雅也 著『勉強の哲学』(文春文庫, 2017)
20030 体の贈り物(レベッカ・ブラウン新潮文庫
20031 フィルカル vol.1 no.1 (株式会社ミュー)
20032 流感世界(フレデリック・ケック/水声社
20033 医の倫理(中川米造/玉川選書)
20034 神谷美恵子日記(神谷美恵子/角川文庫)
20035 医者の告白(ウェレサーエフ/三一書房
20036 パリ・ロンドン放浪記(ジョージ・オーウェル岩波文庫
20037 戸田山和久『科学哲学の冒険』(NHKブックス, 2005)
20038 折口信夫死者の書』(角川ソフィア文庫, 2017)
20039 根井雅弘『経済学の歴史』(講談社学術文庫, 2005)
20040 『現代思想 第44巻23号 九鬼周造 偶然・いき・時間』(青土社, 2017)

5月

20041 トム・A・ハッチンソン『新たな全人的ケア: 医療と教育のパラダイムシフト』(青海社, 2016)
20042 ロバート・バックマン『真実を伝える』(診断と治療社, 2000)
20043 人気ラジオ番組完全ガイド ラジオ番組最強ランキング 2020(晋遊舎, 2020)
20044 ローラン・ドゴース 著『なぜエラーは医療事故を減らすのか』(NTT出版, 2015)
20045 ジョン・T・カシオポ/ウィリアム・パトリック 著『孤独の科学』(河出文庫, 2018)
20046 マイケル・マーモット 著『健康格差:不平等な世界への挑戦』(日本評論社2017, 原著2016)
20047 現代思想 第44巻第5号 人類学のゆくえ(青土社
20048 渥美一弥『「共感」へのアプローチ: 文化人類学の第一歩』(春風社, 2016)
20049 『現代思想 第48巻7号 感染/パンデミック』(青土社, 2020)
20050 『新潮 第117巻第6号 コロナ禍の時代の表現』
20051 ピーター・バーク 著『歴史学と社会理論 第二版』(慶應義塾大学出版社、2009)
20052岸政彦ほか 著『社会学はどこから来てどこへ行くのか』(有斐閣、2018)
20053 『思想としてのコロナ禍』(河出書房、2020)

6月

20054 ジョルジョ・アガンベン 著『ホモ・サケル』(以文社、2003)
20055 片岡一竹『新疾風怒濤精神分析用語辞典』(戸山フロイト研究会、2015)
20056 松本卓也『狂気と創造の歴史』(講談社選書メチエ、2019)
20057 赤林朗・児玉聡(編)『入門・倫理学』(勁草書房、2018)
20058 酒井シズ『病が語る日本史』(講談社学術文庫、2008)
20059 髙橋昌一郎『理性の限界』(講談社現代新書、2008)
20060 高橋昌一郎『知性の限界』(講談社現代新書、2010)
20061 髙橋昌一郎『感性の限界』(講談社現代新書、2012)
20062 松本啓二朗戸田剛文(編)『哲学するのになぜ哲学史を学ぶのか』(京都大学学術出版会、2012)
20063 本田創造『アメリカ黒人の歴史』(岩波新書、1991)
20064 五十嵐 武士・福井 憲彦『世界の歴史〈21〉アメリカとフランスの革命』(中公文庫、2008)

最近は全然コロナについて考えていない。

 3日前、ふと思った。最近、コロナについて全然考えていないなと。

***

 LINEを検索してみると、私が初めて「コロナ」という文字列を打ち込んだのは2/27(木)のことである。それはちょうど、COVID-19の影響を受けて大規模イベント等が次々と中止・延期になっていた頃だった。私は、権威ある漫才の大会が中止になること、また一方で独り芸の全国的なお笑いコンテストが無観客で行われることを知り、知人にニュースのリンクを送った。

 NHK上方漫才コンテストっていう、権威ある漫才コンテストも延期……

 しかしこの頃はまだ、「自分の好きなエンタメが奪われる」という程度の認識しかなくて、まさかこんなにも時代を変えるほどに大きな影響を持つとは予想だにしていなかった。

***

 私はがCOVID-19関連の記事・文献・書籍を——特に人文系を中心に——可能な限り追うことに決めたのは、4月のはじめ頃である。それ以降、見つけたものは友人とslcakで共有しさらに考えたことを文章におこして投稿して、ということをずっと続けてきている。おかげで、こういうときにそれぞれの学問領域の専門家がどのような概念を持って何を言うのか、ということについての見晴らしがだいぶんつくようになった。またそのsclackのチャンネル自体が、将来的に貴重なアーカイヴになると思っている。
 ただ始めた直後と比較すれば、slcakで記事をあげる頻度はやや減っているように思う。ひとつ事実としてあるのは、能動的にCOVID-19の記事を探すということについて少し息切れしつつあるということだ。ずっとCOVID-19のことについて考え続けるというのは、色々な意味で消耗するし疲れる。それと私自身の今の環境のいろいろが重なり合って、冒頭のようなことを考えたのかもしれない。
 でもカレンダーを見てよくよく考えてみれば、COVID-19に関する思考から自由な日など一日もなかった。5日前は緊急事態宣言の解除について家庭教師先のお母さんと話し合っていた。4日前はこの状況における臨床実習について先生や学生たちと話し合っていた。3日前など、いつものようにslcakにCOVIDー19に関する論考をアップし、それについて考えを述べていた。そのあとに私は「最近は全然コロナについて考えていない」と「ふと思った」のである。

***

 思うに、COVID-19というものが、私の思考の前提に深く侵入し過ぎたせいで、その存在を意識しないまでに至ってしまっているのだと思う。当初のように「能動的に」について考えることをしなくても、すでに私はCOVID-19について「考えている」のだ。それは今の私の生活のあらゆる細部を支配している。
 それは単純に(臨床実習がなく、ほとんどの時間を実家で過ごしているという)今の私の生活を規定しているという意味でもあるし、思考の様式を侵しているという意味でもあるし、また私の身体そのものに介入してきているという意味でもある。ここまで、外を歩いていて、自分あるいは他者の鼻や口、指、唾に神経を尖らせながら生きたことはなかった。しかしそこにおいて「COVID-19のために」という文言はワンテンポ遅れてやってくる。触らないために触らないし、近づかないために近づかないのだ。
 だから私は、「最近は全然コロナについて考えていない」と思った自分にゾッとした。そうやって「新たな日常」を受容してしまうのがすごく怖い。受容することそれ自体より、そこの無自覚さに恐怖を覚える。これから自分の思考あるいは身体がどう変化しようと、それに意識的であることに踏ん張り続けるにはどうすれば良いのか。

* * *

 ついでに日記めいたものをここに書いておく。このところ、私はずっと一階の和室に机を置いて時間を過ごしている。今日の18時頃、窓を開け放って作業をしていると、リビングから、そして隣の家から、安倍首相の緊急事態宣言の解除の記者会見が聞こえてきた。今まで知らなかったのだが、同じテレビと言っても微妙な時間差があるのか、安倍首相の声がダブって聞こえてくるのが非常に気持ちが悪かった。別にどうでもいい場面なのだが、なんかこれはこの期間における記憶の一つとして当分忘れないだろうなという確信が私に訪れた。
 単純に、そもそも自分ひとりの部屋がないからそうなっているのだが、来る日も来る日も、和室という同じ空間で毎日を過ごしている。そうしていると、日々がだんだんと溶け合っていって、なんだかひとつのぼんやりとした大きな塊になっていくような感覚がある。要するに、時間の遠近感覚が極限までに鈍っていくのだ*1。昨日も今日も明日も同じ一日である。
 だから頻繁に不安になって、カレンダーを見ながら、「何日前に何をした」という「特異的な」思い出を見つけ出そうとする。すると五日前の出来事がちゃんと五日分くらい前の出来事のように感じるので、とてもホッとする。
 一方で、この生活が始まった二ヶ月くらい前を思い出してみると、もう随分前のように思える。この間、かなりたくさん本を読み、かなりたくさん文章を書き、かなりやるべきことを消化できた。正直、こうならなければ生まれ得なかった生産性だと思う。そういう意味で充実しているのは有り難いが、このまま溶け合うような日常がこれからも過ぎていく可能性について考えると、頭がおかしくなりそうになる。
 ぼんやりとした大きな塊からいかに抜け出すか。気を抜くと飲み込まれて、抜け出せないループを永遠に繰り返してしまうような気持ちにもなる。自分は何が楽しくて生きていたのかもよくわからなくなる。でもたぶん、いや確実に、朝起きたらまたこの和室に私はいる。

「他者」についての覚え書き

satzdachs.hatenablog.com

 この記事を書いてからもずっと、レヴィナスのことが気になっている。その理由の一つは、彼が「他者」について語った哲学者であったということだと思う。他者をどう捉えるかというのは私にとってずっと切実な主題であり続けている。また、(「グローバル社会」のような言葉を持ち出すまでもなく)人とモノとが密接に繋がり絡み合ったこの社会において、その矛盾が今回のCOVID-19の「感染」(=それは「他者」によって起こる)によって露呈させられている姿を見るにつけ、やはり「他者」は重要なテーマである。
 しかし正直なところ、レヴィナ は手強く、まだ私が気軽に扱えるような相手ではない。そこで本記事では、熊野純彦 著『レヴィナス入門』 (ちくま新書、1999)を読みながら、「他者」についての覚え書きをここに記しておき、いつか必要になったときのための準備としておく。先に断っておくが、結論は特にない。

* * *

 前の記事にも書いたが、ハイデッガーによれば、存在者との関係は「了解」に帰着する。 例えば、手元にあるハンマーを手に取り、その手ごろさを発見することが、存在者を存在者として存在させることである。
 では、他者との関係はどうだろうか。レヴィナスはここにおいて、彼はハイデッガーの「了解」という概念を批判する。
 つまり彼は、他者との関係を、了解をはみ出て溢れ出していくものとして捉えるのだ。そして、他者を了解するとはむしろ、他者が私の知の一切から逃れでる存在であることを理解することである。そうした了解=包摂の対象とはなり得ないもの、それゆえに優れて「対話」の相手となるものをこそ、ひとは「他者」と呼ぶのではないか、と彼は問いかける。

* * *

 レヴィナスはまた、フッサールをも批判する。
 周知の通りフッサールは、世界に関するすべての常識的判断を保留する「現象学的エポケー」として、「自分は、客観的に実在する世界の中に存在している心身である」という信念を遮断し、そのような遮断の後も疑えないものとして残る「純粋意識」の構造を分析した。意識に現れている対象にではなく、意識への現れそのものに関心を引き戻すことを目指したわけだが、それでも現象学独我論に陥らないのは、「自分の意識に現れているものは、他人の意識にも同じように現れている」という前提を引き受けているからである。フッサール流には、この「間主観性」と呼ばれるあり方こそが、互いを他者として認めながら一つの世界のうちに存在することである。
 しかしレヴィナスはこれを、 私が<私>であるという同一性=<同>の内部に、世界の外部性=<他>が回収される営みとして捉える。そしてそこにおいて、自己投入を介して到達される他者は、<私>にとっての対象である他者と成り果ててしまっている、と言ってフッサールを批判するのだ。つまり構成された他者は、既に私によって飼い慣らされ、その他性を予め喪失している他者なのである。

 レヴィナスにしてみれば、他者をその他性において構成することはできない。とすれば、他者は、超越論的領野の外部から(世界の外部)から到来すると語る以外にないのではないか。そう彼は考える。

* * *

 レヴィナスにおいて重要な概念は、「顔」である。以下少し長いが、レヴィナスの言葉を引用する*1

「顔」には意味作用があるが、そこに文脈はない。私が言いたいのは、「他者」という観念において、あるがままの「顔」そのものには、社会的特性はないということだ。通常、人間には固有の特性がある。ソルボンヌ大学の教授、国務院の次長、何某の息子……パスポートや服装、その着こなし方を見れば、さまざまなことがわかる。そして、あらゆる意味や定義は、一般的観点からいえば、それぞれの文脈と関係している。何かの意味は、他の何かとの関係の上に成り立っている。
一方「顔」には、「顔」そのものに意味がある。あなたはあなたなのだ。その意味でいえば、「顔」は“見られる”ものではないと言えるだろう。それは、自らの思考の中でしか捉えられないものでありながら、内容となることを拒む。飽くことなくさらなる場所へあなたを導くのだ。

 世界内の他者たちは、「なにか」である。教師であり警官であり、男であり女性である。しかし他者の他性は、他者を私から区別する何らかの性質に依存しているのではない。むしろ逆に、そうした種類の区別は我々の間でまさに類が共通していることを含意しており、その共通性は他性を無化するものであるのだ。
 大事なことは、「なにか?」ではなく「誰か?」という問いである。そして「なにか?」への問いをすべて剥ぎ取り、「誰か?」の問いを突きつめた先にあるのが、レヴィナスの言う「顔」である。正確な表現ではないかもしれないが、「顔」とは、「その人そのもの」と言い換えてもよいのかもしれない。「顔」は、内容となることを拒否することにおいて現前する。そして他者が他者であることが、顔において現れる。

* * *

 レヴィナスにとって「顔」とは殺人を不可能にするものであり、そしてそこに倫理の現れを見る。以下、先ほどの文章の続きを引用する。

しかしながら「顔」によってもたらされる関係性の本質は、倫理である。「顔」は人を殺すことを不可能にする。「汝、殺すなかれ」と発しているのだ。殺人はありふれた現実であり、人は他人を殺すことができるし、倫理観は存在論的な必然ではない。殺人が禁じられたところで、現実的にそれを不可能にすることはできず、たとえ権力によって罰則が科されたところで、邪悪な悪意、卑劣な悪がなくなることはない。

 フッサールの項において述べたような、<他>を解消し続ける<同>の論理の中では、殺人を禁止するものはない。そこではひともまた資材であり、資材である以上は消費し抹消することが可能であるからだ。
 しかしながら「顔」において現れている<他>が、殺人を不可能にする。なぜならその「顔」は、我々に共通のものでありうる世界と手を切っているからだ。他者の他性が、世界の組成に絶えず亀裂を生じさせる。このように、「他者の現前」そのものが、「他者を私に還元することができないということ」が、倫理として現成するのだ。

 そして殺さない以上(=他者を<他>として<同>に還元不能なものとする以上)、私は呼応し続ける他ない。応答し続けるという、この債務には際限がない。他者が無限である限り、呼応には終わりがあり得ないからである。
 この「責め(ルスポンサビリテ)」において、私が<私>として構成される。レヴィナスのいうルスポンサビリテは、いっさいの受動性よりも受動的な「受動性(パッシヴィテ)」である。

* * *

 なんだかわかるようなわからないような、という感じである。そもそも私がレヴィナスを好きになったのは、「握手」と「愛撫」に関する彼の記述が、自分の素朴な所感に一致していたからだった。それについて触れながら、ここで一度、要点だけまとめておく。

 「握手」という営みについて、例えばメルロ=ポンティならば、諸身体を縫い合わせる原初的な次元=「間身体性」を認めるようとするだろう。しかし私は長らくこれが気に食わなかった。
 それに比して私の気に入ったのは、「握手は『差異』の中にある」とするレヴィナスの考え方だった。その埋めようもない差異を越えようとする切なさ、独特な切迫が、握手にはあるのだ。「〜ではない」という否定形の形で辛うじて友情は伝えられるのみである。
 愛撫もそうだ。愛撫において、他者をとらえようとして、決してとらえることができない。身体のこれ以上ないほどの接近にあってもなお、(むしろ接近したがゆえに)他者との隔たりは増大していく。ここで、裸形においてこのうえなく剥き出しになっているかに思えて、結局手の届かないかなた、「存在するもののかなた」へ逃されるものが、他者なのである——これは、私がまさに切に感じたことだった。

 このように、他者とは私との無限の差異である(ディファレンス)。他者に対して無関心であるとは、差異のうちにとどまっていることである(アン-ディファレンス)。にもかかわらず、他者との関係は不可避であり、私はつねに・すでに他者との関係を抱え込んでしまっている。だから、私は他者に対して「無関心では―ありえない(ノン-アンディフェランス)」のだ。
 このことがまさに、およそ<倫理>が可能であるための最下の条件なのではないか、とレヴィナスは問いかけている。

<お笑いと社会 第1回> 「いじり」とは「ごっこ遊びすること」である

 このシリーズは、「バラエティ番組の『いじり』は日常生活の『いじめ』を助長するのか?」という問いに答えるため、一年弱かけて不定期に連載してきました。今回、また記事を書くにあたって読み返してみると、長期間にわたって書いてきたために議論が混乱してしまい、改めて話を整理したほうが良いのではないかという思いが沸いてきました。しかし遡って書き直すというのも不誠実なような気がします。そこで今回から、これまでの内容を基本的には踏襲しながら、三回分を再編集した新版として前後半に分けて書いていきたいと思います。前半は、以下の二記事を下敷きに、ごっこ遊びの定義と日常世界における「いじり」について考えます。

satzdachs.hatenablog.com

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第Ⅰ部 ごっこ遊びとは何か

1-1. ウォルトン「虚構を怖がる」の議論から

 はじめに、分析哲学ウォルトン(K. Walton: 1939-)の「ごっこ遊び(a game of make-believe)」という概念について紹介したいと思います。
 例えば怪獣ごっこ遊びなら、父親が怪獣になりきって、「グオー」と呻きながら恐い顔をして子供を追いかける。子供は、「キャー!」と叫びながら逃げまわる。
 さて、この怪獣ごっこを楽しむ子供は、「本当に」怪獣がその場にいると「思っている」のでしょうか? 答えはノーでしょう。そうやって走り回れるくらいの子供は、父親は人間であって怪獣ではないということは理解できているはずです。しかし一方で子供は、「うわ、なんか36歳会社員の男が呻きながらこっちに寄ってくるわ、とりあえず叫んどくか」と冷めた目で父親を見ているだけでもないのです。子供は怪獣ごっこに熱中しているからこそ、「キャー!」と叫びながら逃げまわり、その瞬間を楽しんでいます。
 怪獣がその場にいると「思っている」けど「思っていない」、このアンヴィヴァレントな状態がごっこ遊びの核心です。ここで「思っている」というのは、ウォルトン流には「虚構的真理を信じている」という表現になります。「虚構的真理」とは、「怪獣が存在する」というようなテーゼも「虚構の世界の中では」という注釈をつければ真であるとみなす考え方のことです。また「思っていない」とは、「虚構が虚構であると分かっている」ということを指します。

1-2. ごっこ遊びが終わるとき

 ごっこ遊びから離脱する方法には大きく分けて二つあって、一つ目は「虚構性に明示的に言及する」ことです。
 例えば怪獣ごっこの途中に、子供がふと「お父さん、怪獣のマネ上手いね」と話しかけたとします。そんなことを言われてしまった暁には、父親は先程までのテンションで「グオー」と喚くことはできませんね。同時に、そう言った後の子供がまた「キャー」と叫びながら逃げまわるのもおかしな話でしょう。
 つまり、ごっこ遊びの最中に、自分(たち)が「ごっこ遊びをしている」という事実に明示的に言及することによって、虚構性が暴露されています。それによって(虚構に降りていた)あなたは現実世界に引き戻されてしまい、「虚構の中において」という接頭句付きで真だったもの(=虚構的真理)は真ではなくなります。そして「虚構を外から見ている」あなただけが後に残されてしまうのです。

 二つ目は、「虚構が真実だと誤解する」ことです。これは例えば怪獣ごっこなら、子供が「本当に」怪獣がその場にいると思ってしまう状態のことです。ごっこ遊びの二つの成立要件から見てみると、「思っている」と「思っていない」のうち後者、すなわち「虚構を外から見ている」視点が失われてしまっているわけですね。

第Ⅱ部 「いじり」とは何か

2-1. 「いじり」は「ごっこ遊びすること」である

 私は昔、よく滑舌の悪さについていじられていました。特にい段が苦手で、「き」「し」「ち」が言えず、「キッチン」や「チキン」「敷地」を発音させられて周りに笑われる、そして私が怒る、というやりとりをよくやったものです。しかしそれに私が嫌な思いをしていたかというと、そんなことはなく、仲の良い友達との一種の「お決まりの下り」として理解していました。
 この「いじり」の事例について、「ごっこ遊びすること」と重ね合わせて考えてみましょう。ここにおいて、「私の滑舌が悪い」ということ自体は(注釈抜きの)真理です。しかしながら、以下のやりとりの

①友達が、私の滑舌の悪さに悪意をもって(相手を傷つけようとして)言及する。
②私が、それを言われて気分を害する(怒る/悲しむ)。

という「悪意をもって」と「気分を害する」の部分が虚構的真理です。周りの友達は「本当に」傷つけようとして私のことを貶していないし、私も「本当に」怒っているわけではない。それが虚構であると暗黙のうちに分かったうえで、それでも、「本当に」貶された私が「本当に」怒っているものとして表面上のコミュニケーションがとり行われるのです。
 このように「いじり」は、虚構が虚構であると分かっていながら虚構的真理を信じる営みであり、その意味で紛れもなくごっこ遊びの一亜型であると考えることができます。

2-2. 「いじり」が成立しなくなるとき

 先ほどのごっこ遊びの議論に即して、「いじり」が成立しなくなる条件について考えてみましょう。一つ目の「虚構性に明示的に言及する」は、「ま、これはいじりだから、本気で言ってるわけでも、本気で怒ってるわけでもないんだけどね」宣言してしまうことです。
 二つ目の「虚構を真実だと誤解する」は、例えば友達が「本当に」私の滑舌の悪さに悪意をもって言及したわけではないのに、私がその悪意を「本当のものとして」受け取って気分を害する、ということになると思います。

第Ⅲ部 日常生活における「いじり」と「いじめ」

3-1. 「いじめ」とは何か 

 さて、ここからは「いじり」と「いじめ」の問題について考えたいと思います。周知の通り、「いじり」と称して行われていたことが実質的には「いじめ」であった、として批判されることは世の中にままあります。それではいったい、こう言うときの「いじり」と「いじめ」は何が違うのでしょうか。ごっこ遊びとしての「いじり」を踏まえて考えるならば、以下の条件を満たした場合にそれは「いじめ」になると考えられます。

①Aが、Bに関する何かしらについて「本当に」悪意をもって(相手を傷つけようとして)言及する。
and/or
②Bが、それを言われて「本当に」気分を害する(怒る/悲しむ)。

 「and/or」と書いているのは、①②両方の場合はもちろんですが、その片方だけでも満たした瞬間にそれは「いじり」ではなく「いじめ」になるという意味です。 私の例に即して言うのならば、友達が私の滑舌について「馬鹿にして攻撃してやろう」と思って言及した場合には、私がどう感じようと(気にしていなくても)それは「いじめ」です。また、友達側は傷つけるつもりはなく「いじり」と思って私の滑舌に言及したとしても、私がそれで気分を害すればそれは「いじめ」です。

3-2. 「いじり」は容易に「いじめ」へとスライドする

 賢明な読者の方ならお気づきかと思いますが、この「いじめ」になる例のうち後者(②Bが、それを言われて「本当に」気分を害する)は、そのまま第Ⅱ部の「いじりが成立しなくなるとき」で「虚構が真実だと誤解する」として挙げた例と一致しています。このように両者の境界は非常に曖昧であり、「誤解」によって容易に「いじり」が「いじめ」へとスライドしてしまうことになります。
 つまり、表面上は全く同じやりとりでも、相手の受け取られ方によってはその意味が大きく変わることになるのです。

3-3. 「いじめ」を遡及的に「いじり」に変換できる

 もう少し、「いじり」と「いじめ」の境界の曖昧さについて考えてみましょう。ここで、一つのエピソードを紹介します。2018年、女性芸人のXさんがとあるテレビ番組に出演し、自分が芸人となった原体験について話していました。

 Xは小学生時代、「ブタ」と呼ばれていた。それに「シュン」と萎縮してしまうとクラス中が悲しい雰囲気になる。そこで、「ブタって何よ!」と傷ついていないかのように言い返すと笑いが起き、その場が明るくなった。その体験から、イジられても「変な空気にならずに笑いになることが一番平和」だということを感じ、芸人となった今も「ふってくれることに対しては絶対応えたいという気持ちでいる」。

 ざっと、彼女の発言を要約すると上述のようになります。一見、まるで美談であるかのように語られていますが、しかしここには大きな問題があります。
 それは、Xさんとその周りの同級生たちは(彼女の発言から判断するに)事前に良好な関係を築いていなかったということです。つまり同級生は「本当に」悪意をもって、ブタという言葉を本人を嘲笑する/傷つける意図で言おうとしていた。そしてXさんは「本当に」悲しんでいた。これは虚構などではなく、れっきとした真実です。
 その後、Xさんのリアクションによって教室は笑いに包まれ、彼女と同級生たちは「良好な関係」になりました。この「良好な関係」はすなわち「ごっこ遊び」の成立のことであり、「ブタ!」という言葉には「本当に」悪意があるわけではない、という解釈が付与されるということです。また同時に、Xさんも「本当に」悲しんでいるわけではなかった。ここに虚構的真理ができあがる。
 しかしながら、ここでいくら強調してもし足りないことは、その虚構的真理への転化はあくまで遡及的retrospectiveであるということです。上に述べたように、同級生のXさんに対する態度は、最初はれっきとした「いじめ」でした。それが彼女の応答によって「あれはいじりだった」と遡及的に意味が変質してしまったのです。それに伴い同級生たちも「始めからこれは『いじり』でしたよ」という顔をすることが可能になり、彼ら/彼女らの罪悪感も軽くなったのではないでしょうか。これは、「いじり」における虚構的真理は外部の人間が見て判断できない内面の部分であるために起こることです。

3-4. 「『いじり』は暗黙の了解のうちに始まる」という前提

 今回はXさんのリアクションありきの話ですが、仮にそういう反応が受け手側からなされなかったとしても、「あれは『本当に』悪意を持っていたわけではなかった」と遡及的に説明を与えることによって、「だから『いじめ』じゃなくて、『いじり』(のつもり)だった」という弁明が可能になります。
 重要なのは、この弁明には、「いじりはそもそも互いの暗黙の了解のうちに始まる」ということが前提にあることです。ここに、「いじり」と「いじめ」問題についての最も難しい点の一つを見ることができます。
 第Ⅱ部において、「いじり」というごっこ遊びを成立させなくする方法の一つに、「虚構性に明示的に言及する」ことを挙げました。つまり、「今からするやりとりは『いじり』です」と明言してしまうと、それはもう「いじり」として成立しなくなってしまう。一方は「本当に」傷つけようとしているわけではないし、もう一方も「本当に」悲しんでいるわけではない、ということを暗黙のうちに、共通了解としてはじめに持っている必要があるのです。逆に言えば、その前提を悪用し他のが、「共通了解の『つもり』だった(=ごっこ遊びが成立していると『思い込んで』いた)」という、遡及的な事実の改竄による言い訳なのです。

第Ⅳ部 たとえそれが「いじり」であったとしても

 Xさんのエピソードにおいて、遡及的な「いじめ」の「いじり」への転化が問題であることはわかりました。それでは、「いじり」として成立して以後のやりとりは全て何の問題もないと言えるのでしょうか? 私はそうは思いません。以下、二つの問題点を提示します。

4-1. 「マジになるなよ〜w」の圧力—ごっこ遊び「せざるを得ない」

 はじめに論じたいのは、「いじり」を継続するのはXさんの「意に反していた」のかどうか、という点です。つまり、Xさんは自ら望んでごっこ遊びを継続「していた」のか、あるいは無理やり「させられていた」のか。
 この意見に対して反論する人が一定数いることは容易に想像ができます。Xさんが望んで「いじる」「いじられる」の関係をつくったのだ、現に、本人が番組で美談として話しているのがその証拠じゃないか、と。

 しかし注目したいのは、Xさんの元々の発言で「変な空気にならずに」という表現があったことです。ここで「変な空気になる」ことは、Xさんが友達の言葉に「シュン」とする、すなわち「本当に」怒る/悲しむことによって引き起こされます。
 これは、「いじり」というごっこ遊びが成立しなくなるもう一つの方法、「虚構を真実だと『誤解』する」にあたります。「誤解」にかぎかっこを付けたのは、それは決して「誤解」などではなく、当然Xさんには友達の言葉に「本当に」傷つき、そしてその怒り/悲しみを主張する権利があるからです。しかしそれは、周りの「マジになるなよ〜w」というレスポンス、あるいはそういう返しが来るだろうというXさんの先回りの予見によって、抑圧されてしまうのです。
 そんな状況下で、Xさんが取ることのできる行動は、「いじり」という関係を維持し続けることしかなかったのです。ここで重要なのは、それ以外の選択肢がなかったことだと私は考えます。同級生たちに「ブタ!」と言われること、「シュン」とした空気になること、自分自身が傷つくこと……そんな苦しい状況の中で、その全てを解決する手段は、「いじりとして処理すること」だけだったのです。彼女の見ている世界では、現状を変えるにはそれしかなかった。「いじり」にすれば、同級生の反応は変わり、空気は明るくなり、自分も傷つかなくなる……その問題点は既に指摘した通りですが、しかし、彼女にとってその変化は救いだったのでしょう*1*2

 ここにおいて、「能動―受動」のパラダイムのままで表現するならば、Xさんは自分で望んで「していた」とも言えるし、「させられた」とも言える。意志の在り処が曖昧になる「せざるを得ない」という表現が最も近いのかもしれません。近藤さんのその帰結を責めることはできませんが、しかし、「本人が『自分の意志で』リアクションしたと思って/語っていた」からと言ってただちに「いじめではない」と判断できない、ということがこれらの分析から分かります。

4-2. ルッキズム的価値観の再生産への加担

 それでは、取りうる選択肢が豊富にあり、お互いが了解の上での「いじり」ならそれは全てオッケーなのでしょうか? 私は、「ルッキズム的価値観の再生産への加担」という観点から、そうは言えないと考えます。
 ルッキズムLookismとは、容姿が魅力的でないと考えられる人々に対する差別的取り扱いのことです。同級生が「本当に」悪意をもって、ブタという言葉で近藤さんを嘲笑していたのは、明確にルッキズムです。
 しかしそれが遡及的に「いじり」へと転化され、「ブタ!」と言っていた同級生たちが免罪されることによって、「別に、ああいうことを言っても良かったんだ」とルッキズム的な価値観が正当化されてしまうのです。そして彼ら/彼女らは、悪びれることなく、また別の場面でも同じような言動を繰り返す。そして言われた側は、「いじり」にして「面白く」返すことを(暗黙のうちに、時には明示的なルールとして)求められる。
 このようにして、Xさんのような「いじり」を許容することによって、ルッキズムが強化・再生産されてしまうのです。

第Ⅴ部 どのような「いじり」なら許されるのか

5-1. いじりの3条件

 以上、Xさんの事例を見ながら、「いじり」に付随する問題について考えてきました。さてここからは、以上の議論を踏まえて、許される「いじり」が存在するとすれば、それはどのような条件を満たすべきなのか、を論じてみたいと思います。この部分に関しては私もまだまだ考えている途中なので、これはあくまで暫定的な案ですが、条件を3つに分けて書いてみました。

「いじり」の3条件
①「いじり」が発生する前に、お互いが十分に良好な関係を築いている(そしてそのことをはっきりと双方が共通理解として持っている)
②相手の本当に嫌なことは言わない
③相手が嫌かどうかに関わらず、社会的に容認できない価値観は採用しない

 一つ目の条件で「前に」と書いたのは、遡及的に「ごっこ遊び」が成立されてしまうことを防ぐためです。二つ目は、虚構的真理が守られるために当然必要な条件です。そして最後が難しいところです。「以前から良好な関係であるAとBしかいないクローズドな場で、『ブタ!』と言うことが社会的に容認できない価値観であり、他の場面で適用されないということは分かった上で、お互いに完全に同意のもとでAがBを『ブタ!』といじる」ことは許されるかどうか、というのが争点です。悩みましたが、
・いくら「他の場面で適用されないということは分かった上で」とは言っても、このようなやりとりを日常で例外的に認めることによって、「社会的に容認できない価値観」を内面化そして再生産する潜在的なリスクを否定し切ることはできない。
・上述の「せざるを得ない」の議論から、表面上「完全に同意」があったとしても、受け手側がその「社会的に容認できない価値観」への抵抗感がある可能性を排除し切れない。
 という理由から、「相手が嫌かどうかに関わらず、社会的に容認できない価値観は採用しない」という記述にしました。

5-2. 「内輪」という信頼関係

 ともかく、AとBが「いじりの3条件」を満たせているのだとすれば、それは相当な信頼関係の上に成り立っていると考えてよいと思います。ここで、次回以降の議論のために、「いじり」というごっこ遊びを行うことのできる信頼関係のことを、「内輪」と名付けたいと思います。

5-3. いじりとは本来的に非対称な関係である

 しかし改めて見てみると、当り前のようでいて穴だらけな「3条件」であることが分かります。「十分に」とは何か、「良好な関係を築いている」という判断は誰がどのように担保するのか、「本当に嫌なこと」と言うときの「本当に」はゼロサムの表現だがそのように明確なラインはあるのか、同じく「本当に」の判断は誰がどのように担保するのか、「社会的に容認できない価値観」と言うが一体それは何を指しているのか、など、無限に問題があることが分かります(特に最後のやつはヘヴィです)。ですが紙幅の都合から、これらについてはまた別の機会で詳細に論じて固めることとします。
 ただ一つだけ言えることがあるとすれば、「いじり」とは、「いじる側」と「いじられる側」が存在する、本来的に非対称な関係であるということです。ここが、「する側」と「される側」の存在しない「ごっこ遊び」と最も異なる点であると思います。かくして「いじる側」と「いじられる側」は、権力勾配のある緊張を常に孕んでいる。それはどこまで言っても「十分に」「良好な関係」と言えるのか? この問いに関しては、いずれ必ず答えなければならないでしょう。

結語

 本稿では、ウォルトンごっこ遊びの概念を用いて「いじり」という営みを記述し、またそれに付随して起こる問題について論じてきました。最後に「内輪」という言葉を登場させましたが、これはバラエティ番組における「いじり」を考えるにあたって次回以降のキーワードになっていく予定です。

satzdachs.hatenablog.com

 

 

*1:私もかつて、過度に貶めるような言葉を投げかけられたり、バッグを隠されたり、その他大っぴらには書けないような酷い仕打ちを恒常的にされ続けて苦しんでいた時期がありました。そしてあるとき、それを全て「笑いで返す」=「遡及的にいじりにする」ことによって抜け出そうと決心し、何とか地獄の日々から脱出した、という経験を持っています。その意味で、私は全く他人事には思えないのです。
 確かに「『いじり』にする」ことは本稿で論じたように問題だらけですが――それでも、と私は思います。苦境を解決する方法が「それしかない」ように見えている人に、「お前は悪しき価値観の再生産に加担している」と言うのはあまりに酷です。ましてや、「それを選ぶな」とは口が裂けても言えません(もちろん、本人がそう「せざるを得ない」社会構造を変えなければいけない、ということは改めて強く主張しておきます)。

 そんな風に悩んでいるときに、私は一つの記事に出会いました。それは、かつていじめを受けていたものの、文化祭でやるコントの脚本を書いたのをきっかけに一躍クラスの人気者になった、という経験を持つ霜降り明星せいやさんのインタビューです。

 このエピソードもともすれば、「いじめを笑いによってはね返した」という美談として語ることはできそうです。しかしせいやさんは一貫してそれを拒否します。

――高校生のせいやさんは、コントが書ける力を持っていたからこそ、あの状況をくぐり抜けることができたとも言える。一方で、多くの10代は、せいやさんと同じようないじめを受けたとき、ギブアップしてしまう人がほとんどだと思います。つらい思いをしている「普通」の10代に今、せいやさんが伝えられるメッセージを聞かせてください。

 これが一番言いたいんですよね、結局。僕は別に、自分の経験談を押し付けたいわけじゃないので。
 やっぱりね、逃げた方がいいですよ。立ち向かわなくていいです。僕は別に闘ってないんですよ。笑いではね返したっていう言い方をすることもありますけど、笑いに逃げただけ。僕には笑いっていう逃げ場所があったから。笑いって対人やから、向かっていったみたいになってますけど。
 音楽に逃げる。ゲームに逃げる。睡眠に逃げる。何でもええです。とにかく、そんなやつらに、人生終わらされてたまるかっていう気持ちを持ってほしいですね。そんなやつらに合わせる必要もないし、そんな環境に合わせる必要も全くない。自分の好きなことを、本当にチャンスやと思って見つけてほしいですね。

 せいやさんは一貫して、苦しい状況にあるときに「『いじり』にするしかない」「笑いに転化するしかない」なんてことはない、ということを強く主張しています。確かにお笑いは「助けて」くれる。でも他に選択肢はいくらでもある。逃げればいい。「あいつら」に合わせる必要はない。
 あの時期にこの記事があって、私が読むことができていれば、なんてことを考えてしまわないわけではないです。しかしそんな意味のない反実仮想よりも、今私が願うのは、もし今いじめに苦しんでいる人がいるならば、何かの検索で引っかかってこのせいやさんの記事にたどり着いて、ちょっとでも救われたらいいな、ということです。

*2:もう一つ、お笑いコンビレギュラーのこの記事もずっと気になっています。

r25.jp

 彼らは今、老人ホームの「余暇時間」でネタを披露するという活動に力を入れています。そこで認知症を「いじる」ことについて、こう言います。

 「介護の現場では、かわいそうだから笑ってはいけない」というのは、間違っていると思うんです。

 たしかに身体が不自由な人や認知症の人たちは、間違うことや、おかしなことを言ってしまうこともあります。

 でも、決して「かわいそう」ではない。本人たちは普通に言っているのに、まわりが「これはかわいそうなことなんや」と決めつけて、隠そうとするほうがかわいそうやと思うんですよね。

 ルッキズムの話と同等に考えるのならば、認知症について「いじる」ことも許容されません。ただ、彼らの言うように、そうやって自分のネガティヴな笑い飛ばすことが本人にとって活力になるのであれば、それを外野から批判することはできるのでしょうか?

わが街を歩く

 家からほとんど出ない生活が始まってから、一ヶ月以上が経とうとしている。ストレスの溜まっている友人たちも多いように見受けられるが、私は根っからの引きこもり体質であるから、実を言うとそこまで苦ではない。むしろ、家にこもることが積極的に推奨されるこの世の中において、何の後ろめたさもなく一日中ひたすら読書できる生活を満喫してさえいる。
 私は特に運動が好きなわけでもないので、永遠に家から出ないまま日々を過ごしていても、別にそれはそれでいい。しかし一応はやはり健康のことを考えて、二日か三日に一回くらいは散歩に出かけることにしている。もちろん遠出はできないので、家から徒歩圏内の場所を歩きまわるわけだが、普通に散歩しても面白くないので、ひとつ自分にルールを課すことにした。それは、「知らない場所」を探すことだ。

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こんな階段あったんだ。

 すると、徒歩30分、いや15分圏内においてさえも、意外と「知らない場所」が多くあることに驚く。出不精な性格と、あとは中学から府外の私立校に通っていた影響もあるのかもしれないが、自分の住んでいる街にここまで行ったことない場所があるとは思わなかった。幼稚園や小学校への通学路、あるいはバス停やスーパーに至る道など、よく通った/通るところしか私は見えていなかったのだ。いずれにせよ、私は毎回プチ探検隊のような新鮮な気持ちで、わが街を歩くのを楽しんでいる。

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この溝、めちゃくちゃ見たことある。

 一方で、「忘れていたが、知っている場所」に唐突に出会うこともある。写真はある公園と隣の家の間にある溝(と言っていいのか分からないが、ともかくそれに類するスペース)なのだが、先日これを見た瞬間、「子供の頃、ここをよく走ってたわ」と鮮烈に思い出した。完全に記憶の彼方に消えていたが、しかしここは確かに自分の「知っている場所」だった。それ以降、私が隊長であり全メンバーである探検隊は、未知の場所の探究に加え、忘れさられた「かの地」の捜索も使命となった。

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昔ここの地面に散らばっていた黄色いBB弾は、もうなかった。

 今まで全く習慣ではなかった散歩のおかげで、私は、わが街(仮に××町としよう)について一ヶ月前よりも知っている。しかしそれは同時に、以前の私は××町について知らないことがたくさんあったことを意味する。ということは私は、これまで××町については知っているようで何も知らなかったというのだろうか? いやそれを言ってしまえば、探検を進めている今でさえも、××町について「知っている」と果たして言えるのだろうか?
 少し話を整理しよう。わが街には、私の「知っている場所」「忘れていたが、知っている場所」「知らない場所」がある。××町はそこまで広くないとは言っても、「知らない場所」の全てを自分の足でめぐるのは相当骨の折れる作業であるし、また同じ理由で「忘れていたが、知っている場所」もどこかに存在し続けるであろう。つまり、「すべて」を「知っている場所」にできないなかで、××町を「知っている」と言うにはどれだけの条件が揃えばよいのだろうか、というのがここで提起されている問題である。

 結論を言ってしまうと私は、一ヶ月前の自分も××町について「知っていた」し、今の自分も××町について「知っている」と言い切ってしまってよいと考えている。その理由は、ある学問を「知っている」とは果たしてどういうことなのか、という問いに対する答えと発想を同じにする。
 学問を「学ぶ」こと、ある分野を「知る」ことについて、一冊の本に基づいて考えていく備忘録を、いつか書こうと思っている。

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何の?

つづく。

コロナ禍の卒前医学教育を、学生と教員で考える——今こそ「そもそも論」を

 私は、医学部医学科6年の学生です。このような状況下で、今後の実習がどうなるか、あるいはマッチングや国試も通常通り行われるのか、同級生たちのなかで日々不安が高まっているのを感じます。

1. 「学生の教育参画」とは

 このような有事には、大学において教員側からのトップダウンで物事が決定していくことが多々あります。世間の状況や病院の方針がある中で、「これ以外にあり得ない」という選択が存在するのは確かですし、また、情報の統制という意味でもそうした方が効果的な場面があるのも理解しています。
 しかし一方で、教育を受ける主体はあくまで学生です。その学生の意見が取り入れられることなしに「全てが」進んでいくというのは、適切な状況であるとは到底言えません。平時からも繰り返し言及されていた「学生の教育参画」*1ですが、このコロナ禍にあって、その重要性がより一層増していると私は考えます。
 ところで、「学生と教員とが協働して」と言うのは簡単ですが、それはどのようにして達成されるのでしょうか? 「学生の声を取り入れる」というのは、アンケートをとればそれで大丈夫なのでしょうか? これまで、教員が「上手くコミュニケーションをとれない」と感じたり、学生が「自分たちの意見が十分に反映されていない」という不満を持ったり、あるいは教員と学生の溝がかえって深まってしまったり……という経験はないでしょうか?
 本稿では、いかにして学生と教員の相互方向のコミュニケーション を築き上げ、このコロナ禍における卒前医学教育で最善を尽くすことができるのか、弊大学における学生有志の団体(仮に「A」とします)がかねてから行っている「学生と教員の懇談会」の知見をもとに論じたいと思います。

2. 今必要なのは「そもそも論」である

 先述したように、新型コロナウイルスの感染拡大の煽りを受け、全国医学部における授業・実習が、オンラインに移行もしくは中止になっています。2020年4月27日現在、緊急事態宣言が出ているのは5月初頭までですが、その頃には全てが収束しているという楽観的な見込みを抱いている人はもはやほとんどいないでしょう。少なくとも今年中は、あらゆることをこれまで通りに(十全に)行うことはできないという前提で話を進めなければならないと思います。
 そうなると必然的に、「最低限残さなければならないもの」が何なのかということが議論になります。多くの部分を断念しその残りもオンラインに移行せざるを得ないにしても、「それでも絶対にやらなければならないこと」とは何か。
 これはすなわち、一言で言うと「そもそも論」の重要性を指し示しています。臨床実習を行なってきたけれども、その目的とはそもそも何だったのか。教員はそもそも実習で何を学んでほしいと思っていて、そして学生はそもそも何を学びたいと思っているのか。コロナによってこれまでの手段のほとんど全ての変更を余儀なくされた今、学生と教員が「そもそも論」から話し始めなければならないときです。

3. 「学生と教員の懇談会」の概要

 Aでは、このような状況になる前から、「そもそも論」から卒前医学教育を考える試みとして、「学生と教員の懇談会」を開催してきました。元々は、以前行なっていた、医学部教授が一堂に会するFDワークショップにおける「学生アンケートの報告」という形式での教育参画への反省から、この取り組みは生まれました。その報告においては、学生が自らの学習効果の改善のために、授業あるいはカリキュラムの問題点について多数決方式で意見を募り、「こうすべきだ」という要望は学生のなかで既に決まったものとして提示されていました。
 しかしながら学生が「個々人の学習理解」の向上しか考えていないと視野狭窄に陥り、教員の意図や、大学の構造的制約について無知なまま、自分の見えている範囲だけで発言することになります。 また、「目標の固定化」によって学生の不満や要求の一方的な突きつけになり、教員との対立構造を生み、教員・大学からのフィードバックに対する柔軟さを失います*2。 さらにそれが、教員からの学生に対する説教(=これもまた、一方的なメッセージ)を惹起することもありました。 
 このような反省を踏まえて、Aは学生アンケートの報告という参画の仕方を改め、2016年から「学生と教員の懇談会」という取り組みを探索的に始めました。
 「学生と教員の懇談会」の基本コンセプトは、学生数名と教員数名が集まって「そもそも論から議論する」ことです。どのテーマにも共通する主要な問いは、以下の3つです。

(ア)学生自身は、「そもそも」教育に何を望んでいるのか
(イ)教員自身は、「そもそも」何を目指して教育をしているのか
(ウ)「そもそも」大学および社会における構造的制約とは何なのか

 これを学生と教員とで議論することになるのですが、Aのこれまでの経験上、ただ場を設定すれば自然とそのような議論が可能になるわけではありません。様々な前準備が必要であったり、また「懇談会」本番において工夫しなければならない点・気を付けなければならない点が多々あります。
 それを全て実現しようとすると多大な労力がいるため、実現可能性も考慮した上で「学生と教員の懇談会」を今実施するならこうすべきなのではないか、という案をまとめました。その概要および各段階で注意する点は以下の通りです。

(1) 学生全体向けのアンケート(オンライン講義やコロナ下での臨床実習の方向性等について)を実施する
 ①「何%か」の数字をとりたい箇所と、「なぜそう思うのか」を問いたい箇所を、意識して分ける
 ②後者について、なるべく自由記述欄を増やす
(2) 「懇談会」に参加する学生のみで議論する
 ①アンケート結果を眺めながら、フォーカスしたいテーマを設定する
 ②自分の意見の理由(ア)や、予想され得る反論(イ)、あり得る構造的制約(ウ)等について、学生だけで可能な分はこの段階で議論しておく
(3)学生数名と教員数名で「学生と教員の懇談会」を行う
 ①「そもそも論」から考える——同じ立場から医学教育を俯瞰する
 ②参加する学生に「代表性」を求めない
 ③議論し尽くされた後の最後の手段が「多数決」である

 

4. 「学生と教員の懇談会」の詳細

 以下、先にあげた概要について補足説明をしていきます。

(1) 学生全体向けのアンケート(オンライン講義やコロナ下での臨床実習の方向性等について)を実施する

 こちらでやはり重要なのは、「自由記述欄」です。オープン・クエスチョンにすることによって、アンケートを書く全ての学生を、「一個人の意見」としてこれ以降の段階においても尊重することができます。これらは全てカットあるいは編集することなく、教員にすべて渡すべき資料です。リーダビリティを考えると、ある程度は同じような意見をグルーピングするのもよいかもしれませんが、あまりやり過ぎると意見の多様性がかき消される可能性があることには留意しておいてください。
 また、数字をとりたいところも、あくまで全体像を把握するためであり、この時点で「賛成か/反対か」を直ちに迫るような(あるいはこの「投票」によって物事が決定されると思わせるような)構成にならない方が良いかと思います。後に書きますが、「多数決」は議論が醸成した上で最後にとるべき選択肢です。
 もちろん、テーマや緊急性によってはこれは当てはまりません。

(2) 「懇談会」に参加する学生のみで議論する

 これは、もし学生に意欲があって、かつ負担になり過ぎなければですが、前日に一時間だけ喋るという形式でも行ったほうがよいと考えています。理由は、学生と教員がスケジュールを合わせて話し合いの場を持つというだけで大変ですし、限られた時間の中で最大限建設的な議論をするためにも、学生だけで考えられる部分は事前にやっておいたほうが良いと考えるためです。
 ここで強調しておかなければならないことは、話したいテーマを抽出した上で、あくまで以下の問いに照らし合わせて考えるということです。つまりここにおいて、学生たちが共通の意見(common vision*3)にまとまる必要はなく、「学生と教員の懇談会」での「そもそも論」への助走というイメージです。ここには「代表性」の問題が関わってくるのですが、これについても後で書きます。

(ア)学生自身は、「そもそも」教育に何を望んでいるのか
(イ)教員自身は、「そもそも」何を目指して教育をしているのか
(ウ)「そもそも」大学および社会における構造的制約とは何なのか

 学生側だけに事前の議論が必要で、じゃあ教員側は事前に十分な議論をし尽くしているのか、という点については、学生の私からの提言に含めるべき内容ではないので、言及していません。が、基本的に医学教育に携わっている教員の方々は、今は特に毎日のように講義・実習をどうすべきかという点について議論されていることと想像します。私が付け加えることが何かあるとすれば、(1)の段階でとったアンケートを見ながら、教員の方々だけで同様に事前に議論する場を作っておいてくれると、とても嬉しいです。

(3)学生数名と教員数名で「学生と教員の懇談会」を行う

 繰り返しになってしまうのでもう何度も書きませんが、大事なのは「学生vs教員」の対立構造を無闇に作らず、「そもそも論」から考えることです。

"そもそも臨床実習って何のためにあるものなのだろうか?"

 そのような問いに始まり、同じ立場から医学教育を俯瞰して、どうしたら学生・教員・大学にとって良い方向に進んでいくのかをともに考える。そういうスタンスが、誰しもが「十全な」条件でできない今の状況で、最も大切なことではないかと考えます。
 さらに大事なこととして、参加する学生に「代表性」を求め(過ぎ)ないことです。「代表性」を求めることには、二つの弊害があります。一つ目は、参加する学生にとって重いプレッシャーになることです。特に今、自分の意見によってカリキュラムが決定的に変わるとなると、そのような責任を負いたくないという気持ちが働いて、教育について意見をするのを躊躇ってしまうでしょう。
 二つ目は、懇談会に出る(実際に意見してくれる)わずか数名の学生に「代表性」を求めることは、互いに微妙に異なって様々な背景があるはずの「学生たち」を、一つの集団として均質化させてしまうことに繋がるからです。「そもそも論」を積み上げていく上で、一つ一つの意見はそれ自体として検討されるべき価値を持っています。よって、<自らの意見の一般化には限界があることを理解しつつ><代表性から自由な個々の人間として><カリキュラム、コミュニティを俯瞰して教育のあり方を考える>フィロソフィーを学生と教員とで最初に互いに確認してから、会を始めるべきでしょう。
 そして、例えば臨床実習をどうするかについてなら、そもそもそれは何のためにあるのか、学生は何を望んでいるのか、教員は何を教えるべきと考えているか、大学および社会全体における構造的制約は何か、それぞれについて充分に検討し、そして全学生に周知した上でようやくとられるべき方法が、多数決になるでしょう。

5. おわりに

 以上が、私の提案する「学生と教員の懇談会」のコンセプトです。今は誰しも大変な状況ですが、私が何か力になれることはないかと思い、本稿を書かせていただきました。少しでも多くの医学生あるいは医学教育者の方々に読んでいただけますと幸いです。
 また、本ブログ記事を踏まえた論文が、『医学教育』誌から公開されました。

www.jstage.jst.go.jp

6.付録

 以下、「臨床実習」について「そもそも論」でから議論するにあたってどのような点を考慮すべきか、試論を置いておこうと思います。

(1)「オンライン講義&レポート提出」という代替案

 このような状況ですから、まずは敢えて構造的制約を出発点にして考えてみようと思います。このまま医学生が病院に立ち入ることができないという状況が継続し、かつ臨床実習を「完全に中止」にしないのであれば、「臨床実習がオンラインへ移行する」というのがあり得る帰結の一つでしょう。となると一番最初に思いつくのは、「①これまで臨床実習中に行われていた講義をオンラインで行う」ことと、「②(担当患者を割り振るかどうかはさておき)当該科に関する内容でレポートを書いて提出する」ことです。
 これによって、臨床実習が通常通りに行われれば教授されるはずだった「医学的知識」に対しては、ある程度補うことができるでしょう。しかし一方で、(ビデオを視聴するなどして一定のレベルの学習を行うことはできるかもしれませんが)「実際にその場にいて、やる」ことが必要不可欠である身体診察や臨床手技の教育については、十分に行うことができないかもしれません。そしてコミュニケーション教育については、患者と接することができない以上、かなり厳しいと言わざるを得ないでしょう。

(2) 医学的知識と身体診察・臨床手技とコミュニケーション能力と……あとは?

 ところで、この「医学的知識」と「身体診察・臨床手技」と「コミュニケーション能力」以外に、臨床実習の意義は存在しないのでしょうか? アンケートをとっているわけではないのでもちろん確証はありませんが、少なくない人がノーと答えるのではないでしょうか。ある人は、「病院や診療科の雰囲気を知る」ことや「医師の仕事がどういうものか学ぶ」ことが大事だと言うかもしれません。またある人は、「医師としてのプロフェッショナリズムを習得する上で必要不可欠な過程だ」と主張するかもしれません。またある人は、「実習を通じてなんとなく『医師』になっていったなあ」という素朴な実感を話すかもしれません。
 あくまで私の肌感覚ですが、臨床実習には、「皆がハッキリ言語化できるわけではないけど、医師になる上で何か重要なこと」が存在している(かつ、その存在を少なくない人が認識している)ように思います。臨床実習という場で、医学生が「医師になる」上で重要な「何事か」が起こっている。その、「何事か」とは何か?

(3) 医学教育モデル・コア・カリキュラムにおける臨床実習

 ここで、臨床実習の意義を考える素材として、「医学教育モデル・コア・カリキュラム」を見てみましょう。その概要は以下の通りです*4

 モデル・コア・カリキュラムは、各大学が策定する「カリキュラム」のうち、全大学で共通して取り組むべき「コア」の部分を抽出し、「モデル」として体系的に整理したものである。このため、従来どおり、各大学における具体的な医学教育は、学修時間数の3分の2程度を目安にモデル・コア・カリキュラムを参考とし、授業科目等の設定、教育手法や履修順序等残りの3分の1程度の内容は各大学が自主的に編成するものとする。

 「学修時間数の3分の2」を占めるわけですから、このモデル・コア・カリキュラムを参照することは、「臨床実習はそもそも何のためにあるのか?」という問いを考えるにあたって重要なことだと思います。莫大な量の記述があるのでその仔細な検討は難しいですが、どんなことが書かれているのかをざっと見てみましょう。
 「G 臨床実習」の章は、「G-1 診療の基本」「G-2 臨床推論」「G-3 基本的臨床手技」「G-4診療科臨床実習」の4つのセクションに分かれています。「G-2 臨床推論」と「G-3 基本的臨床手技」はタイトルから内容が大体推測できるとして、他の2つをこれから見ていきます。
 「G-1 診療の基本」は、さらに3つのセクションに分かれていて、それぞれ「G-1(1) 医師として求められる基本的な資質・能力」「G-1(2) 診療の基本」「G-1(3) 学生を信頼し任せられる役割」です。「G-1(1) 医師として求められる基本的な資質・能力」は別の章である「A 医師として求められる基本的な資質・能力」に基づいていて、そこに書かれているのは以下の通りです。先ほどの「プロフェッショナリズム」についてもきちんと明言されているわけですね。

1. プロフェッショナリズム
2. 医学知識と問題対応能力
3. 診療技能と患者ケア
4. コミュニケーション能力
5. チーム医療の実践
6. 医療の質と安全の管理
7. 社会における医療の実践
8. 科学的探究
9. 生涯にわたって共に学ぶ姿勢

 「G-1(2) 診療の基本」も別の章である「F 診療の基本」の内容を基盤としていて、それはには「症候・病態からのアプローチ」「基本的診療知識」「基本的診療技能」が含まれています。
 「G-1(3) 学生を信頼し任せられる役割」は面白い項目の名前ですが、「それぞれの診療科で『臨床実習で学生にどのような業務を信頼して任せることができ るか』『初期臨床研修の初日にできなければならない業務は何か』について考慮」するとあり、以下のようなかなり具体的かつ基本的な「医師の仕事」ができるようになることを求めています。

1. 病歴を聴取して身体診察を行う。
2. 鑑別診断を想定する。
3. 基本的な検査の結果を解釈する。
4. 処方を計画する。
5. 診療録(カルテ)を記載する。
6. 患者の状況について口頭でプレゼンテーションする。
7. 臨床上の問題を明確にしてエビデンスを収集する。
8. 患者さんの申し送りを行う・受け取る。
9. 多職種のチームで協働する。
10. 緊急性の高い患者さんの初期対応を行う。
11. インフォームド・コンセントを得る。
12. 基本的臨床手技を実施する。
13. 組織上の問題の同定と改善を通して医療安全に貢献する。

 「G-4 診療科臨床実習」は、まず「G-4(1) 必ず経験すべき診療科」と「G-4(2) それ以外の診療科」が挙げられているのですが、いずれの場合も「ねらい」として

1. 将来、該当診療科の医師にならない場合にも必要な該当診療科領域の診療能力について学ぶ。
2. 該当診療科の医師のイメージを獲得する。

 が書かれています。(私の個人的感想として)意外にも、「科のイメージを掴む」というような抽象的なことにまで言及されています。そして「G-4(3) 地域医療実習」「G-4(4) シミュレーション教育」と続きます。

(5) コアカリは「そもそも論」にどこまで有用か

 さて、話が錯綜としてきました。これでもかなり抜粋して書いたのですが、モデル・コア・カリキュラムは非常に情報量が多く、項目を追っていくだけで疲れました。それなりに臨床実習における様々な側面について目配りができているし、網羅性という意味では一定以上役に立つかもしれませんが、「臨床実習で何を教えるか」を議論するにあたって、この項目の全てを一つ一つ学生と教員で検討していく……というのはいささか現実的ではないでしょう。
 また、この「モデル・コア・カリキュラムに基づいて検討していく」という方法は、別の意味でも問題があると私は考えます。それは、「教えられること(教員が教えようと意図していること)」と「実際に学生が学ぶこと」は、全く違うとは言いませんが、必ずしも同じものとして考えられないからです。「コアカリを見れば教育の全てを考えられる」という思考からは、学生の実際の経験という観点がご反りと抜け落ちています。
 「そもそも論」における議論を今一度思い出すと、「そもそも教員は、どういうことを意図して教えているのか」、「そもそも学生が、臨床実習で何を学ぶことを望んでいるのか」という問いが重要です。それにあたってコアカリを傍らに置いておくのは有用かもしれませんが、教員の思い・学生の思い・大学および社会全体の構造的制約の3つが交わるなかで「結局学生は、臨床実習で実際に何を学んでいる/いたのか」を各大学の文脈で考えるには、話を整理するための何か他の軸(それもシンプルなもの)が必要であるように思えます。

(6) レイヴ&ヴェンガーにおける「アイデンティティ」概念

 先ほど、「何を教えているか」と「何を学んでいるか」は違うと書きました。それと同じことを主張している文献は既に存在して、それはレイヴ&ヴェンガー『状況に埋め込まれた学習』(産業図書, 1993)です。彼/彼女らは、学習を教育とは独立した営みであるとして、「学習は、本人が『学ぶという営みをどういう実践と捉えているか』に大部分が依存している」と主張しました。
 さらにレイヴ&ヴェンガーの議論の面白いのは、「学習者が何を学ぶのか」を追究した結果、学習が「職業アイデンティティ形成(professional identity formation)」の過程を成していると説いた点です。上に挙げた文献に於いて解説の福島真人は、ブルデューハビトゥスの概念を念頭に置きながら、以下のように論じます。

 社会実践をこうした実践の共同体内に定位することで、実践というものが、緩やかに変化する環境(それは実践共同体内での地位変化に対応するが)の中での、継続的な学習の過程であるという重要な帰結がここで得られることになる。ブルデュー流に言えば、暗黙の内に学習する能力を持つ社会的身体が、この緩やかな螺旋運動の中で、その親方に具体的に代表されている認知・判断・行為の全体的マトリクスを、その共同体に参加するという行為によって、自然と身体化していくという事なのである。それゆえ、ブルデューにおいて抽象的にハビトゥスと語られてきたものは、ここでは熟練のアイデンティティと呼ばれている。これが全人格的な「アイデンティティ」と呼ばれるのは、まさにそれが社会的身体の全領域を含んだ体得であり、決して単にある特殊技能の習得だけではないからである。しかもハビトゥス形成の過程がより具体的・視覚的に表現されている。(157ページ)

 ここでハビトゥスについて簡単に説明を加えておくと、しばしばそれは「構造化された構造であると同時に構造化する構造」であると言われます。呪文のような言葉なので少しずつ紐解いていくと、「構造化された構造」というのは、暗黙のうちに学びとられ、当事者の主観世界をいわば背後から基礎づける身体的な傾向性の基盤のことです。また、既に学習した身体が生み出す行動様式(=プラティック)は、全くの自由な実践(=プラクシス)ではなく、反省的思考によっては容易に変えられない緩やかな傾向性の制限の中で行動を再生産していく、という意味で、「構造化する構造」でもあります。
 また少し話が込み入ってしまいました。要は何が言いたかったのかというと、「何を学んでいるのか」を考えていった際にそこに「意図していないが、暗黙のうちに学んでいるもの」がある、ということがまず一つです。そして別の話として、「知識」と「技能」の他に、「アイデンティティ」形成のような、平たく言えば「医師らしさ」を獲得するような過程がある、というのがもう一つの話です。

(7) 私たちは、臨床実習で学んでいるのだろうか

 以上を話を全て踏まえて、「医学生が臨床実習で学んでいるもの」を整理する際に、以下の(A),(B)の2軸で考えることを提案します。

(A)
公式に学ぶだろうと期待されていること
非公式に、しかし意図的に学ぶだろうと期待されていること
意図していないが、しかし暗黙のうちに学んでいること

(B)
知識
技能
アイデンティティ(医師としてのハビトゥス

  この、3×3=9のマトリックスに応じて「臨床実習を学んでいくか」を考えていけば、整理された議論をすることが可能なのではないでしょうか。複雑過ぎず簡単過ぎず、必要十分な内容を目指したつもりです。これに加えて、コアカリ、そして各大学独自のシラバスを眺めながら議論していく、という形を想定しています。

(8) おわりに

 最初は現在の構造的制約から考え始めたはずが、最終的にはそれとはずいぶん飛躍した位置に着地しました。もともとこの文章を書くに至ったのは、このコロナ禍で「そもそも臨床実習は何のためにあるのか」という議論をしていくにあたって、「皆が皆きちんと言語化していないけど大事なもの」がこぼれ落ちていってしまうのを防ぎたくて、「いったい私たちは臨床実習で何を学んでいるのか」について言語化を目指した、というわけです。本稿で書いたような内容は、今の状況に限らず、今後も臨床実習を考えていく上で重要ではないかと考えます。何かご意見などありましたらコメント頂けますと幸いです。

*1:「医学教育分野別評価基準日本版 世界医学教育連盟(WFME)グローバルスタンダード 2015年版準拠」には、「カリキュラムの計画、運営、評価、および他の学生関連事項への学生の参画についての方針を持たなければならない」という記載があります。

http://ttps://www.jacme.or.jp/accreditation/wfmf.php (accessed 25 April, 2020

*2:学生エンゲージメントをどのように理解すればいいのか、ターミノロジーは基本的に以下の文献に拠っています。
Ashwin P, McVitty D. The meanings of student engagement: implications for policies and practices. The European higher education area. Springer, Cham, 2015, 343-59.

*3:例えば以下の文献でも、学生の教育参画についての論文は、「学生が『common vision』を持つべきだ」というような指摘が多く、それは一見もっともらしく聞こえますが、私は上述の理由でそれに対して疑問を抱いています。
Dhaese SAM, Van de Caveye I, Bussche PV, Bogaert S, De Maeseneer J. Student participation: To the benefit of both the student and the faculty. Education for Health 2015;28:79.

*4:医学教育モデル・コア・カリキュラム(平成28年度改訂版)
https://www.mext.go.jp/component/b_menu/shingi/toushin/__icsFiles/afieldfile/2017/06/28/1383961_01.pdf