お笑いを批評すること、楽しむこと

 本稿では、お笑いを「批評する」ということと「楽しむ」ということについて、現時点で考えていることをつらつらと書いておこうかなと思います。

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 以前書いた以下の文章で、お笑いの知識をつけ、分析をし、「批評」していくなかで「何も考えず、純粋にお笑いを楽しむ私」が失われてしまうことへの恐怖の念を述べました。その中心にあるのは、お笑いのことが好きでどんどん深掘りした結果、「自分は果たして以前よりも幸せなのだろうか?」という問いです。

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 しかしよく考えてみると、こうも問うことができます。本当にそんな「何も考えず、純粋にお笑いを楽しむ私」はかつて存在したことがあったのでしょうか? あるいは、私のように「お笑い批評」をしたことない他者は皆、「何も考えず、純粋にお笑いを楽し」んでいるというのでしょうか?

 ここに私は、「純粋にお笑いを楽しむ私」の偶像化を見出します。誰しも皆、多かれ少なかれ、「これはこういうお笑いだな」とか「これは斬新だな」と思いながらお笑いを観ているのではないでしょうか? それがどこまで深く洞察されているのか、あるいはどこまで言語化されているのかという程度問題であって、人は過去に観たお笑いの蓄積と常に比較しながら目の前のお笑いを鑑賞する。すなわち本当の意味で「何も考えず」「純粋に」楽しむことなんて、ほんとうに生まれて初めてお笑いを観る人以外はあり得ないのかもしれません。
 そんな透明人間なんていないということは、ポストモダンも言ってます(雑)。

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 昔から、お笑いの批評を嫌う芸人さんの話はよく聞きます。その理由の1つは恐らく、「お笑いは何も考えず、気軽に観て欲しい」という願望がある芸人の皆さんにとって、お笑いを批評するという行為が「何も考えず、純粋にお笑いを楽しむ私」の喪失を意味するように思えるからであると思います。
 しかしこれまで見てきたように、そもそも多かれ少なかれ「純粋に」楽しむということはありません。お笑いオタクであればあるほど、これまで観てきたネタが多ければ多いほど、ネタを観ながら「考える」要素は増えてきます。これはもう、私だけでなく多くのファンを見ていて思うことですし、逃れ難いジレンマなのです。
 それに全く違う角度の話として、映画批評や文芸批評が一定の価値を持つものとされているのに対して、同じ表現形式の一つであるお笑いのみが批評を全く受け付けない、というのはいささか排他的・独善的な態度であるようにも思えます。これは前に書いた話ですが、誰にでも批評の自由がありますし、表現一般というのは(その中の人か外の人かに関わらず)批評の眼に晒され続けることで発展してきた歴史があります。
 ただしもちろん、的外れな批評を素人にされたら腹が立つというのは、全く別種の問題としてありますし、それはその通りです。そういう意味では批評する側も何でも言ったもん勝ちというわけではなくて、どれだけ芯を食ったことを言えているのかが試されていると思います(むしろお笑いの世界にないのは、こういう批評する側への意識なような気もします)。

 少し話が逸れました。その質が問われるという緊張感はあるものの、批評すること自体は許容されるべきであるという前提は確認したとして、問題は、「批評をするとその批評家自身がお笑いを楽しめないのでは?」というところでした。

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 M-1 2019決勝の2週間ほど前、ミルクボーイの「コーンフレーク」と「最中」が劇場で一笑いもなかったのを観た、という話を前回書きました。笑えるかどうかというのが、それだけこちらの構えに依存しているかが分かる話です。それと逆の話として、お笑いオタクであるという「構え」がむしろポジティヴに転化する可能性があるのではないか、ということをここで主張したいです。
 知識を増やすということは、お笑いにおける様々な文脈を身につけるということです。それによってもちろん、様々な文脈の乗った「玄人向けの」お笑いを楽しめるようになるわけです。
 では一方で自分はそれ以外のお笑いを楽しめていないかというと、こちらの構えさえ間違えなければ、劇場での漫才も吉本新喜劇も一般向けのバラエティ番組も関西の番組のゆるいロケも、何でも楽しめるということに気がつき始めました。それはさながら、自分のなかに色々なチャンネルに合わせることができるチューナーがあって、そのつまみを観るものに合わせて回しているイメージです。別の言い方をすれば、そのお笑いを観るのに必要な文脈をつけたり外したりする。だんだんそれが自分は上手くなってきているように思います。

 もちろん、お笑いオタクの誰しもが同じような「構え」をする必要はないと思います。尖りに尖った最先端のものしか認めない・笑わない、というのであれば、それを止める権利は誰にもないでしょう。
 しかし私は、なるべくどんな種類のお笑いでも楽しめるという道を選びたいので、そうやってチューナーのつまみを回せられるようになってきた今の自分が良い傾向だと思っています。そうやってみると意外と、いかにもお笑いファン向けではない、一般層向けのバラエティ番組であっても、何だかんだ面白くて楽しく笑えることに気が付きます。

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 最後に少しだけ違う話をします。これまで話してきた通り、「何を面白いと思うか」というのは、その人がどのような文脈を知っているのか、そしてどういう「構え」でいるのか、ということに大きく依存しています。それは裏返せば、自分と異なる文脈の人が「面白い」と言っているのが、自分にとっては全く信じられない、ということは往々にして起こります。
 Twitter等の各種SNSを見ていると、「あれは滑ってる」とか「何が面白いのか全然わからない」とか言って、終わりなきマウンティングの取り合いが行われている様子が至るところで見られます。しかし私は、基本的には「そこにはそこの面白さがある」というスタンスでありたいです。結果的に自分が笑うかどうかは別にしても、そういう態度を備えておくことで他の人が面白いと思うものに寛容になることができるのではないでしょうか(もちろん、ポリコレ的に反するものは別です)。

<お笑いと構造 第10回> 現代ツッコミ論考

 前回は、「既存のお笑い体系からの脱出法」と題して、メタとシュール、そしてぺこぱをテーマに解説をしました。

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 今回は、漫才の進化が顕著に分かる別の題材として、「ツッコミ」に焦点をあてたいと思います。ただ、「現代ツッコミ論考」という大それたタイトルをつけましが、分類を目的にはせず、ツッコミが多種多様になってきていることさえわかってもらえれば幸いです。

1. ツッコミの基本

 以前論じたように、ツッコミとは一般的に「相方(ボケ)を注意し正す役割」とです。例えば「川に溺れている子供を助ける」というコント漫才を考えます。「大変だ、177に電話しなきゃ!」というボケに対して「なんで天気予報やねん!」とツッコんで笑いが起きたとしたら、それは指摘された「正しいこと(共通認識)」に対して観客が「確かにそうだよね」と納得していることになります。この「納得感」によって笑いを起こすのがツッコミの最も基本的な形態です。
 なお、ボケ部分が長く、「ツッコミはいつこれを指摘するんだろう」という気持ちが観客に生まれ始めたら、それは期待感も煽られていると言えるでしょう。

2. たとえツッコミ、スマートツッコミ

 ツッコミが進化してきた先駆けであり、かつ今でも第一線のお笑いの現場で使われているものは、何といっても「たとえツッコミ」でしょう。理解しやすいように、たとえツッコミが代名詞であるくりぃむしちゅ~の上田さんの例を挙げてみましょう。彼は、”似て非なるもの”に対して、以下のようなたとえツッコミをします。

全然違うわ! 阿藤快加藤あいぐらい違うよ。

 ここにおいて、「共通認識を提示する」というツッコミ本来の役割は一文目の「全然違うわ!」で終えています。そのあとの「阿藤快加藤あいぐらい違う」というのは、もはや(狭義の)ツッコミではなく、「全然違う」という概念を一見全く関係のない「阿藤快加藤あい」に結びつけた意外性という意味で、ボケに近いと考えることができます。

 これをさらに発展させたのは、フットボールアワー後藤輝基さんの「スマートツッコミ」です。これはとあるテレビ番組で使われ始めた表現で、実は明確な定義はないのですが、同じように「(狭義の)ツッコミかどうか」という観点からみると、その何たるかに近づくことができます。
 「スマートツッコミ」の最も代表的な例として、「2つの比較対象に差があるとき」に使う以下のフレーズがあります。

高低差ありすぎて耳キーンなるわ!

 先ほどのたとえツッコミと比較するとよく分かるのですが、ここにおいて、もはや「誤りを正そう」という意図は感じられません。つまりスマートツッコミとは、ある対象/相手に向けて指摘する口調で話すという形式だけを借りながら、むしろ、その与えられたセッティングを踏まえて積極的に「ボケ」ることなのです。

 ただ、このツッコミという形式に乗じてボケるというのは、そのぶん納得感の笑いを捨てていることになりますから、いわば諸刃の剣です。漫才のパターンが指数関数的に増加している現状、他のコンビと何とか差異化を図ろうとして、ツッコミが特定のフレーズを繰り返したり、あるいは独特な言い方をしたりという漫才が年々増えてきていますが、それは結局「変なツッコミの漫才」の域を出ておらず、ある一定以上の評価を得るには限界があるように思えます。これはあくまで私見ですが、よっぽどオリジナルなスタイルを確立しない限り、まずは納得感のあるツッコミを基本にするのがよいと考えています。

3. 霜降り明星:ツッコミで初めてボケが完結する

 次は、2018年のM-1グランプリ王者の霜降り明星について触れたいです。
 霜降り明星におけるボケというのは、従来と比較して一ひねりも二ひねりもしてあるため、それ単体ではやや分かりにくいのが特徴です。例えば、M-1の一本目で披露した「豪華客船」のネタのなかで、ボケのせいやさんが、ハンドルを時計回りと反時計回りの交互に回す動作をしながら、「こっから明日~こっから今日~」と言うくだりがあります。それを二度繰り返すのを待ってから、満を持して粗品さんが

日付変更線で遊ぶな!

 と言います。これも、相手に指摘する口調という「ツッコミ」の形式だけとってはいますが、実質的には、せいやさんの動きと粗品さんの言葉の2つが揃って初めて、一つのボケとして完結すると解釈する方が自然です。間違いなくこれが、現代のお笑い界の(広義の)「ツッコミ」の最先端であると言えると思います。

 ボケ単体ではわかりにくく、ツッコミのフレーズによって完結するという意味では、東京ホテイソンも挙げられるでしょう。ショーゴさんのマイムに対して時間が長めにとられて、満を持してたけるさんが備中神楽の囃子ことばにアレンジを加えた調子でツッコむのが基本スタイルです。
 これは一つの発明ですし、ナイツ塙さんが言うところの強力な「ハード」を作り出したことになるのですが、まだ一度もM-1の決勝に行けていないのが現状です。しかしそれでも彼らは進化を続け、「回文」、そして「英語」のネタは、これまでのフォーマットを生かしながらさらにその一歩先をいく革新的な要素があり、衝撃を受けました。紙幅の都合で今回は説明しきれませんが、何やら今年もさらに進化しているという噂を聞いたので、また彼らの今後に注目です。

4. カミナリ:伏線回収

 上述した霜降り明星東京ホテイソンは、書き下すと「(明らかに目の前でおかしなことが行われているが)何か分からなかったけど、すっきり言語化された」ということになると思います。それに対して、これから紹介するカミナリは、「今まで(おかしなところがあることすら)全く気が付かなかったけど、言われてみればそうだ」というツッコミを得意とします。

 例えば、M-1 2016の決勝で披露された「川柳」という漫才では、ボケのまなぶさんが「実はね、うちの社交的なじいちゃんが川柳めちゃめちゃ得意で」という導入から始まります。この「社交的な」という部分には冒頭で触れないままに漫才は進んでいくのですが、後半、以下のようなくだりによってその伏線が回収されます。

たくみ:さっきから俺のことはめようとしてるな。俺が川柳で来ちゃったら立場ないから。だから変なテーマばっかやってくんだべ。
まなぶ:うっせえ。
たくみ:ちがう、うっせえじゃなくて。俺をはめようとして変なテーマばっかやってるんでしょ?
まなぶ:ああもう、うっせえうっせえうっせえうっせえ。あっちいけ。
たくみ:社交的なじいちゃんの孫とは思えねえな。

 このやりとりが始まった当初では、このやりとりの意図が何なのか、そもそもボケなのかも分かりません。しかしそれがたくみさんの最後の一言によって、一気に冒頭のやりとりを観客が思い出し、笑いとなるのです。つまり、ステルスにされていたおかしな部分の指摘による意外感から、その後に遡及的に納得感が訪れる構図になっています。これを一言で端的に言うと、「伏線回収」ですね。

 ここでは最も分かりやすい例をひきましたが、カミナリの漫才には大小様々な伏線とその回収が複雑に絡み合っていて、今の漫才師のなかでも指折りのギミックの精密さがあります。それが方言によっていやらしくなさ過ぎなくなるというか、狙っている感じが薄まるというのも何ともよくできているなと思います。ちなみに、M-1 2017での「一番強い生物」はさらに台本が洗練され、後半に怒涛の伏線回収が待っています。

5. スリムクラブ:スロー漫才の頂点

 ここまで、ツッコミの基本形、たとえツッコミ・スマートツッコミ、霜降り明星、カミナリと話してきましたが、この並びにも意図はあって、この順にボケからツッコミまでの間がだんだんと長くなっています。「間が命」としばしば言われるように、基本的なツッコミの場合なら間髪入れずに誤りを正すことが大切になってくるわけですが、例えば伏線回収をするならば間をとって溜めに溜めたすえに放出する、ということになってくるわけです(前節で書き漏らしましたが、その「間」を不自然に見せないための、たくみさんがまなぶさんの頭をはたいてじっと見合うという演出があり、あれも一つの発明だと思います)。

 それではさらにその限界すらも超えて間をとるコンビは誰かといえば、M-1 2010の決勝で世間に衝撃を与えたスリムクラブです。彼らは、適切なツッコミの間を逃してこそ、その奇怪な世界観をより効果的に演出することに成功しているのです。

真栄田:間違ってたら、失礼ですけど、あなた以前、私と一緒に、生活してましたよね?
内間 :………………………………………してません。

 街で出会った見知らぬ人に声をかけられるというネタにおける一幕。この「………………………………………」がどのくらいの間なのかは実際の映像を観てもらうほかないですが、当然、即座に「してないよ!」と言う間は逃しています。そこから間をとってたとえツッコミをしたり、さらにそれから上述したような他のギミックを使う間すらも逃します。そして、観客がみな頭のなかにあらゆるツッコミのパターン浮かべては捨て去り、果たして何を言うんだという思いが最高潮に高まったところで、「してません」という一周まわって一番普通のツッコミがくるのです。これには当時、ほんとうに痺れました。
 極限まで漫才のテンポを落として初めてこれは可能になったことで、その前年まではキングコングトータルテンボスNON STYLEパンクブーブー、ナイツなど、ある面でいかにボケ数を詰めこむかという競争になっていた賞レースの世界の常識を根底から覆したのです。

内間 :なんとかならんかねえ?
真栄田:民主党ですか?
内間 :………………………………………この状況でね、民主党のこと考えるの、民主党にもいませんよ!

 そして私が特に好きなのは決勝の二本目のネタで、知らない人の葬式に真栄田さんが行くという設定の漫才のこのくだりです。先ほどと同様に、「………………………………………」の間で観客の頭に様々な考えが去来し、間髪入れないツッコミのフレーズがなくとも笑いが訪れるわけですが、そこから内間さんが普通の返しをすると思いきや、「この状況で民主党のことを考えるのは民主党にもいない」という全く予想外の、しかし非常に説得力のあるフレーズがくるのです。この言葉は、「………………………………………」の間で誰も想像できなかったはずです。だからこそ、意外感の破壊力が通常のそれとは比べものにならないものになる。こちらも極限までテンポをスローにし、そして一本目のネタでスタイルを観客に知ってもらえたことによって可能になったくだりです。

6. 終わりに

 以上、「ツッコミ」という一言で括られるなかにも色々なバリエーションがあるということを、比較的最近の漫才師を例にとりながら説明してきた。触れられなかったネタも当然たくさんあるので、それについてはまた別の機会に触れたいと思います。
 実はこれで、<お笑いと構造>という連載を始めたときにとりあえず出そうと思っていた10本を書き終わったことになります。というわけで次回どんな記事を書くのかは未定ですが、また紹介したいものがあれば更新しようと思います。なお、現代お笑い概論の他の連載は引き続き書いていくので、そちらもよろしくお願いします。

私たちはぺこぱの何を笑っているのか——相対主義の限界と可能性

<第Ⅰ部> 相対主義の可能性

1-1. ぺこぱは「お笑いの末期」なのか

 ぺこぱの「プロポーズ」という漫才の冒頭部分に、以下のような下りがある。

松陰寺:じゃあ俺が女をやってやろう。「ねえ、大事な話があるって何?」
シュウペイ:「私あなたのこと愛してるの!」
松陰寺:えっ?
シュウペイ:「結婚しておくんなまし~!」
松陰寺:いや女どうしが結婚したって別にいいじゃないか!

 このネタはメディアで披露される機会も多かったので、ご覧になったことのある方も少なくないと思う。「プロポーズ」というお題において、女性役の松陰寺に対してシュウペイも女性役を演じたことにツッコむのかと思いきや、そのまま言葉をつなげて最終的に相方の発言を許容する。これが彼らの彼らの基本フォーマットであり、ダウンタウン松本は「ノリツッコまないボケ」と名付けた。
 さて、「多様性を認める漫才」とも呼ばれる彼らのネタを私たちが観るとき、いったいその実何を面白いと思って笑っているのだろうか? その一つの回答として、半年ほど前に少しバズった以下の記事がある。

anond.hatelabo.jp

 お笑いとは、「既存の常識レールからズレたモノを、常識レールに当てはまることで『非常識』を際立たせ、そのギャップを笑って受け入れる」という性質を持っている。

 この記事の著者は、お笑いをこのように定義したうえで、ぺこぱについて以下のように述べている。

 ぺこぱはどうだろうか。正直これを「多様性の尊重」と称賛する人は多いが、皆はこれを見て何を笑ってるのだろうか。
「変な事をしている人間(多様性)」という常識レールに、「多様性を受け入れる変な人間」という非常識を置いて、それを笑っている。
 皆受け入れてはいるが、尊重はしてないのだ。多様性を受け入れる社会、つまりポリコレを笑ってるのだ。ギャップを顕在化させてる突っ込み役は観客である。突っ込む責任は観客も分担する。
 ただ「笑い」と「納得」の境界を曖昧にしてるので、受け入れられない部分は笑って、受け入れる部分は頷く。

 著者の議論を整理すると、私たちは、ぺこぱの漫才を観たときの反応として二つの可能性があり得る。

(A)シュウペイの体現する「多様性」が聴衆にとって受け入れられるものであった場合には、その「多様性」を受け入れる松陰寺にただ「納得」して頷くのみ(そこに笑いはない)。
(B)シュウペイの体現する「多様性」を聴衆が受け入れられない場合は、その「多様性」を受け入れる松陰寺を「変な人間」として、笑う。

 特に後者(B)が著者にとって批判したい点で、私たちは決して「多様性を認める」ことなどなく、むしろ自分の許容できない「多様性」を笑う(嗤う)のだという。常識と非常識、正常と異常を峻別する装置たるお笑いが、ポリティカルコレクトネスそれ自体を「非常識」「異常」として笑いの対象にする。つまり「優しい漫才」としてのぺこぱは全くの幻想であり、それどころか彼ら自身の手によって多様性に満ちた社会への可能性は閉ざされる——確かにそれが真実ならば、まさに「お笑いの末期」だろう。

1-2. 「変」を笑うだけがお笑いではない

 しかし、本当にそうなのだろうか? 本節では、ブログ記事の議論を検討していくにあたって、まずはそもそも「笑い」とはどのようにして生まれるのかを考えていく。
 私は、これまで書いた記事で論じてきたように、笑いの構造を分析するにあたって、意外感・納得感・期待感の3つのタームで説明可能だと考えている。最後の「期待感」についてはややこしくなるので今回は触れないが、「意外感」と「納得感」について簡単に解説しておく。
 「意外感」という概念は、いわゆる「ボケ」という言葉を聞いたときにすぐに想像できるものである。変な顔、変な言葉、変な行動――普通ではあり得ないことが起こったり、誰かがおかしなことを言ったとき、人はその「ズレ」を笑う。とてもシンプルな構図であり、あのブログの著者が「お笑いとは〜」という記述で定義していたのと一致する。

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 しかしよく知られているように、漫才というのはボケとツッコミから成り立つ。ツッコミとは「相方(ボケ)を注意し正す役割」である。漫才において聴衆はボケの部分だけで笑っているのかというと、そんなことはなくて、むしろツッコミの部分で笑いが大きくなっていることに気付く。
 それではツッコミに笑いを起こす力があるのだとして、「良いツッコミ」とは何なのだろうか。それは端的には、ツッコミの指摘した「正しいこと(共通認識)」に対して観客が「確かにそうだよね」と納得できるかどうか、にかかっている。つまり「納得感」があることが、笑いを支える構造の一部となっている。
 もう一つ例を重ねるとすれば、いわゆる毒舌のお笑いについて、ただ相手を貶せばよいのではなく、「確かにその指摘はもっともだ」と思わせるような本質を突く部分がなければ笑いにならないことは、(例の「あだ名芸」を思い起こすまでもなく)理解してもらえると思う。

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 便宜上、「意外感の笑い」と「納得感の笑い」がそれぞれ独立に存在するかのような書き方をしたが、大事なことは、一つの笑いのなかにこれらの要素が影響しあいながら混在していることである。例えばあるあるや大喜利とは、端的に、「言われるまでは思いつかなかった(意外感)が、確かに言われてみればそうだ(納得感)」という場所を見つける営みである。

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1-3. 「女どうしが結婚したって別にいいじゃないか!」

 少し前置きが長くなった。つまり私の指摘したかったのは、あのブログの著者が「笑い」と「納得」を二項対立的に(両立しないものとして)書いていたことの誤りである。しかしむしろ、「納得」は「笑い」を下支えするものとして機能するのだ。
 したがって「女どうしが結婚したって別にいい」ということに「納得」していたとしても、いやというより、「納得」していたからこそ、あの部分で聴衆は笑うのである。決して、「女どうしが結婚したって別にいい」という主張が「異常」であるから笑っていたわけではない。
 ここにおいて、聴衆は多様性を受け入れているし尊重している。

1-4. 松陰寺の何が「変」なのか

 それでは、ぺこぱの漫才は「納得感」だけなのかというと、決してそんなことはない。彼らの漫才、もとい、松陰寺には十分に「変」な要素がある。先述したように、「意外感」と「納得感」は単一の笑いに同時に存在し得る。

 結論から言うと、ぺこぱの漫才の「意外感」は、漫才の構造そのものに由来する。「ツッコミとは、『相方(ボケ)を注意し正す役割』だ」という共通認識を踏まえて、ツッコミをせずにそのまま言葉をつなげて最終的に相方の発言を許容することによって、「漫才はこう進むだろう」という聴衆の想定を裏切るのだ。
 むろんこのとき、漫才にツッコミは存在しない。松陰寺は既存の漫才の構造をフリにしていわばボケているわけであり、観客個々人はそのおかしさを見出して笑う。そう考えると、あのブログで「ツッコミ役は観客」としていたのはある意味ではあたっているが、しかしその内実が違ったわけだ。

 まとめると、「ツッコミをせずに肯定する」という構造には聴衆は意外感を抱くが、その主張自体(女どうしが結婚したっていい)には納得感を抱く。この二つが両立して存在し、相乗効果を生み出す。ここにぺこぱの漫才の新しさがあったわけだ。

<第Ⅱ部> 相対主義の限界

2-1. 文化相対主義の限界

 それでは、"ぺこぱ=多様性を認める優しい漫才"なのだろうか。残念ながら、必ずしもこの等号が成立するとは限らない。本節ではまず、ぺこぱの漫才について考える前に、相対主義的と言える立場のなかでも「文化相対主義」という考え方が辿った運命を簡単に見てみよう*1

 文化相対主義とは、都市の発展しているような"進んだ"国の文化にも、ジャングルの奥地にあるような"遅れた"国の文化にも優劣は存在せず、それぞれに平等に価値があるとする立場である。背景には19世紀までに支配的であった近代西洋中心主義への反省があり、これを機に「異質な他者に対して敬意を払うべきだ」という考えが浸透していった。例えば1946年にアメリカ人類学会が国連人権委員会に対して提出した「人権声明」には、以下のような記述がある。

 基準や価値は文化に相対的である。一つの文化[西洋文化]の信条や倫理にもとづく思考からは、全人類に当てはまる人権宣言は生まれない。

 非常にもっともらしく見える文章だが、しかし半世紀後の1999年、アメリカ人類学会が採択した「人類学と人権に関する宣言」ではこうした無条件の文化差の尊重は影を潜めることになる。そこでは代わりに「差異の主張が基本的人権の否定のうえになされるとき、学会は容認しない」という方針が打ち出された。
 上述の変化は明らかに、過去半世紀の間に起きた国際情勢のなかで、文化相対主義が「どんなに反社会的で倫理的に問題のある行為でも、相対主義御旗のもとに正当化されてしまう」として批判されてきたことを反映している。つまり、一つの価値体系が支配的な世界においては相対主義的態度は一定の意味を持つが、しかしそれは同時に、社会通念上許容されない主張さえも「みんな違ってみんないい」的な考えのもとに認められてしまうリスクがあるということである。
 ここに文化相対主義、ひいては相対主義の限界がある。

2-2. ぺこぱの漫才に見る相対主義の限界

 少し話が壮大になってしまったが、翻ってぺこぱの漫才をもう一度考えてみよう。松陰寺が「悪くないだろう」と言って許容するのは、それが社会的に認められるべき価値観だと判断してのことでは決してない。許容する理由はただ一つ、「ツッコミと見せかけて最終的に相方の発言を許容する」という漫才の構造上、シュウペイが何を言おうとそれを肯定せざるを得ないからだ。相対主義的立場によってそうすることを強いられていると言っても良いだろう。
 つまり、ぺこぱの漫才において最終的にどのようなメッセージが(明示的か非明示的かに関わらず)発せられるのかは、ひとえにシュウペイが何を言うかにかかっている。
 それが「女どうしが結婚したっていい」というような、リベラルな価値観のもとに今後認められていくべき主張ならば、私が第Ⅰ部で示したように「多様性を認める漫才」として歓迎される。しかしもし例えば、同じくプロポーズのネタにおいて、男役のシュウペイが相手の女性を蔑ろにするような「ボケ」をした場合にも、松陰寺はそれに何らかの理由をつけて肯定することを宿命づけられている*2。このとき、ぺこぱの漫才は男—女の権力関係を容認し、その再生産に加担してしまうのだ。これでは断じて「優しい漫才」にはならない(敢えて言うならそれはただ「シュウペイに優しい漫才」である)。

 これと同じ点についてあのブログの著者も指摘していて、雑巾の例を実際にぺこぱがネタで取り上げたわけではないと思うが、そういう危険性については私も一定以上賛同する。ただ、必ずしも「『常識を語る人』がボケになる」未来が待っているとは限らないと思う(次節で述べるように、それは回避可能である)。

 ぺこぱは「いじめにならない」という人は多いが、違う。ツッコミ役は割と理不尽な目に会う。
 首に雑巾巻かたり、叩かれたり。「雑巾が綺麗なのは部屋がきれいにしてるって事」「痛いというのは生きている事」みたいな事を「言わされる」いじめは容易に想像できる。
 「何が正しいか、何を選ぶかは全て自分自身」の価値観も、結局「選ばさせられる」という事は容易に想像できる。暴力もまた多様性の一つだ。
 僕たちはそれを見て笑うのだ。そしていつか「多様性を強いられてる人」が常識レールになり「常識を語る人」がボケになる。

 いずれにせよ、相対主義的態度の限界は、ぺこぱの漫才にも同様に見出すことができる。

2-3. 避けられるべき「ボケ」

 ここで今一度、ぺこぱの漫才の構造を整理する。彼らのネタの肝は、以下のような構造にあった。この①にどのような言明が代入されるかによって、この漫才の持つ意味合いは大きく変わる。

①シュウペイの「ボケ」
②松陰寺がツッコむと見せかけて、最終的に相方の発言を許容する

 もし①が、「今まではお笑いの世界で『変』とされてツッコミの対象であったが、リベラルな思想では今後認められていくべき価値観*3」ならば、②において、構造からの逸脱の「意外感」と主張それ自体への「納得感」の複合の笑いが生み出されることになる。このように書き下してみてわかるのは、「今まではお笑いの世界で『変』とされてツッコミの対象であった」という前提がなければ、「松陰寺がツッコむと見せかけて」の部分が成立せず、笑いにならないということだ。逆に言うと、このパターンにおいては必然的に(期せずとも)お笑いの世界で常識とされていた旧来の価値観を更新するような形になる。これがぺこぱが「新時代の笑い」として持て囃されるところの所以であると思う。

 一方、最も避けるべきなのは①が「許容すべきでない価値観」になる場合だ。そのとき松陰寺はただ、シュウペイの主張の「異常さ」をそのまま無条件に肯定する構図になってしまう。
 ここで留意しておきたいのは、①には、特に価値観の含まれないニュートラルなボケも代入され得るということだ。実際、ぺこぱの漫才が常に「女どうしが結婚したっていい」のような主張だけで埋め尽くされることはなく(彼らは何らかの政治的主張をするために漫才をしているわけではない)、そのようなボケもたくさんある。そこでの笑いは、ただ②において既存の漫才の構造から逸脱すること(あるいはその仕方)による意外感のそれのみだが、もちろんそれでも十分に良いし面白い。しかし漫才における「普通のボケ」と思っていたものが得てして、「許容すべきでない価値観」を内包していることが往々にしてある。彼らはそこに十分過ぎるほどに注意を払わなければならない。

<第Ⅲ部> ぺこぱの可能性

3-1. 既存の漫才体系からの脱出

 最後に少し趣向を変えて、相対主義というワードに縛られることなく、ぺこぱの漫才の(より開かれた)可能性について考えてみたいと思う。

 前節で「今まではお笑いの世界で『変』とされてツッコミの対象であったが、リベラルな思想では今後認められていくべき価値観」とサラッと書いたが、この「お笑いの世界で」というのはとても重要な点だ。ぺこぱの漫才は既存の漫才体系をフリにしているのだから、「一般社会において」ではなくあくまで「お笑いの世界で」なのである*4。松陰寺は「多様性を認める漫才をつくろう」と思っていたわけではなく、「M-1で勝てる何か新しいものを」と探求した結果行き着いた漫才なのだから、当然といえば当然である。
 さて、これまでは便宜上、ぺこぱの漫才には「ツッコむと見せかけて最終的に相方の発言を許容する」パターンしかないかのように書いてきた。しかしながら、既存の漫才体系をフリにしたうえでそこからどう逸脱するのかという問題について、何も「肯定する」だけがその答えではない。
 例えば、M-1グランプリ2019最終決戦のネタに以下のようなフレーズがある。

松陰寺:漫画みたいなボケって言うけどその漫画って何!

 このくだりは、「漫画みたいなボケするな!」というよく漫才で使われがちなフレーズに対する、非常に批評性の高い言葉になっている。言ってみれば、これは(既存の)ツッコミに対するツッコミであり、お笑いの枠組み自体に言及しているという点でメタ的な意味合いを備えている。そして非常に納得感がある。
 また、以下のくだりも印象的であった。

シュウペイ:今ボケのたたみかけ中ですけど、みなさんどうですか?
松陰寺:いや聞かなくていい!……けど、実際のところどうですか?

 これも「たたみかけ」という賞レース漫才用語をネタ中に出すという点では、メタの範疇に含まれる。しかし先ほどの漫画の下りがツッコミに対するツッコミによる納得感の笑いだったのに対して、こちらは「既存のお笑いで頻出する進行からの逸脱による、意外感の笑い」である。

 以上見てきたように、ぺこぱの漫才は既存のお笑い体系をフリにしながら、その脱出方法が一通りでなく、あらゆる類型がマージされている。ここがまさに、私が(勝手に)ぺこぱの漫才に希望を託しているところだ。つまり、「ツッコむと見せかけて〜」の「〜」で何をするかというのは、無限の可能性に開かれているである。彼らの漫才はまだ二段階も三段階も進化するだけの余力を有している。
 ただ「肯定する」だけではない、この複雑な多重性を備えたぺこぱの漫才は、ここ数年の漫才界で最も大きな発明だと言ってもよいのではないか。

結語

 もともとこの記事を書こうと思ったきっかけは、ぺこぱを「お笑いの末期」と断じる記事を見て、それは彼らの漫才を一面的にしか捉えていないと憤慨したことだった。ここ数年は特に、特定の芸人やネタについて、お笑いのことを十分に知らない人に適当な社会批評のダシにされるということがままある。
 それが嫌だったので、あのブログの主張に一部は同意しながら反論しつつ、相対主義というワードを通してぺこぱについて考えられることをフェアに書いてきたつもりだ。この文章もまた、ぺこぱを「適当な社会批評のダシ」にしているのではないかと言われるとなかなか返す言葉がないのだが、これをきっかけに少しでも、お笑い好きと非お笑い好き、その双方の理解が深まることを願う。

*1:桑山敬己 編『詳論 文化人類学:基本と最新のトピックを深く学ぶ(ミネルヴァ書房, 2018)

*2:確か実際にネタパレで観たときにそう感じた下りがあったのだが、詳細は覚えていない。もしかしたらプロポーズのネタでもないかもしれないが、男女関係についてのやりとりで違和感を覚えたのは確かである。

*3:むろん、果たしてそれは何なのかというのは、全く別の問題としてある。

*4:もちろんそれが一致することは多い。あくまで漫才の構造上という話だ。

今の俺を見てくれ

 大学生になった頃の私は、LINEでスタンプを使う男が嫌いだった。特にかわいいスタンプを使っている奴に対しては、「自分の顔見て出直して来いよ」と思っていた。我ながらほんとうに酷い話だ。
 そういう考えの根源にあったのは、男子校6年間の生活で鍛え上げた卑屈な精神だ。私は自分の顔のあらゆるパーツが心底嫌いで、そしてそんな気持ちの悪い人間が絶対かわいいスタンプなんか使っちゃいけないと思っていた。その自意識が、他者に対する攻撃性として表れていた。
 それから時は流れ、今の私は、そこそこの種類のかわいいスタンプを愛用している。そうなったのには色々理由がある。まずもって自己否定感との向き合い方を徹底的に考えてきたこと、コミュニケーションのツールとして何を使おうがそれは人の自由だと思い直したこと、ましてやそれを人の容姿と結びつけることがいかに偏狭な考えなのかに気が付いたこと。特に自己否定感云々の話は散々書いてきたので今さら触れないが、ともかく私は、あの頃とは考えを変えた。

 大学生活の終わりも近付く今考えてみると、高校卒業したての自分とはかなり違う人間になっていると思う。それは、自分の人間性という意味でもそうだし、社会におけるあらゆる事象についての考え方という意味でもそうだ。
 自分の良くなかったところ、至らなかった点、未熟な考え方、不適当な思いこみ——というのは、たいてい現在進行形では分からない。少し経って、あるいは何年もかかって、他人に勝つことを至上の価値とする生き方でどうするよとか、自分を否定するばかりじゃなくてもっと愛してあげもいいとか、あのときあの人のことを何も分かってあげてやれていなかったなとか、まるで世の中にはマイノリティが存在しないかのような発言をしてしまっていたとか、自分の持つ権力性に無自覚だったなとか、相対主義的態度で解決しないことは山ほどあるなとか、自分が今いる環境はすべて自分の努力で勝ち取ったというのは浅はかな思い上がりだとか、自分が生きていない世界への想像力があるつもりで全然なかったとか、そういうことにはたと気づく。良いように言えば内省的、悪いように言えば些細なことについてグチグチと考え続けることをやめられない性格がそうさせている(そしてそういうところだけはずっと変わってない)。
 そうやって次から修正できることならいいが、気づいた時点ですでに取り返しのつかない状態になっていることも多々ある。特に最近、相変わらずの生活でつらつらと考える時間がたくさんあるせいで、過去に戻って自分の行動・発言を訂正したい気持ちにたびたび苛まれている。しかしタイムマシンは未だ存在しないし、そもそも訂正したいというのはこちらのエゴでしかないので、ひとり自室で頭を抱えて反省するのみである。

 とにかく、フィードバックをかけて自分を更新し続けることだけはやめてはいけないと思っている。もちろん根本のところではそう簡単に変われないのかもしれないが、ちょっとずつ、日々違う私に生まれ変わって生きていきたい。
 しかし本人はそのつもりでも、周りにそれが簡単に伝わるかというと全然そんなことはない。誰かと話しているときに、「あ、これ多分、ちょっと昔の俺のイメージのまま喋ってるなこの人」と思うことがしばしばある。そういうときは悔しいしやるせないし、「今の俺を見てくれ」と叫びたくなる。でもさっきも書いたように、それはこちらのエゴだ。「過去はそうだったかもしれないけど、訂正させてくれ、昔の良くなかった自分は忘れて、今だけを自分の印象にして欲しい」というのは、あまりに身勝手な話だ。人は過去の堆積物として現在を見る。私は過去の私をそう簡単には脱ぎ捨てられない。
 だからそういうことがあったときは、唾を飛ばし早口で反論したくなる気持ちをぐっと堪えて、とにかく丁寧に、今の自分の考えを相手に伝える努力をしている。自分のこれからの言葉・行動で、「今の私」をちょっとずつ分かっていってもらうしかない。こう書くとあまりに綺麗な話だが、自分はできた人間でもないので不貞腐れたり対話を諦めたりしてしまうこともままある。またそれを反省し、次はうまくやろうと決意を新たにする日々である。

 かくして、マスクの下、もとい、心の中で「今の俺を見てくれ」と思うことの多い私だが、最近それについて思うことがもう一つだけある。それは、そうなっているのは何も私だけではなくて、世の中のどれだけの人が「今の自分を見てくれ」と叫んでいるかという話だ。自分のことについては偉そうに言っておきながら、私だって、誰かを「この人はこういう人」というイメージを固めて接してしまうことは多い。確かにそのほうが圧倒的に楽だし、先に書いたように人の根本というのはそうそう変わらないわけだが、それでも、これまで私が相手から変化の可能性を奪ったことがなかったかというと自信がない。
 だからここに誓いたいのは、今後誰かと接するときに、常に「今までのその人と違う人間に更新されている可能性」に開かれた態度であろうということである。昔はああいう人だったけど、今は違うかもしれない。前はあんなこと言ってたけど、考えがそのあと変わってるかもしれない。そうやって接するのは恐らく負荷のかかることだが、他者を理解することとか、他者に寛容であることにおいて、大事なことであるような気がする。

 本稿を締める前に、最後に一つだけ訂正しておきたい。前回の備忘録で「特に誰かに向けてではなく、自分のために書くつもりだ」と書いたのだが、一人でも読んでくれる人がいるのならば、やっぱりこれは自分だけではなくその人のための文章でもあるなと、今は思っている。

NBA

 何となく、文章を書いていないと落ち着かないので、不定期にnoteは更新しようと思う。特に誰かに向けてではなく、自分のために書くつもりだ。

 この頃はずっと勉強をしている。一応受験生なので仕方がない。なんだかんだこの数ヶ月がいちばん医学生らしいことをしていると思う。勉強の合間の時間はひたすら好きなテレビ・ラジオ番組を鑑賞しているのだが、ふとしたきっかけでNBAのプレイ集もYouTubeで観るようになった。と言っても、最新のものというよりは、どうしても自分がよくチェックしていた頃のNBAの動画が懐かしくなって観てしまう。私がバスケ部に所属していた中高時代、つまり2010年前後のものである。
 するとかなり鮮明に、リアルタイムで観ていた選手たちのことを思い出す。ノヴィツキーのこのタッパで片足フェイダウェイはチートだよなとか、ダンカンのバンクショットはマジで渋いとか、デュラントはどっからでも得点できるなとか、当時思ってた感情がそのまま蘇る。わりと楽しい。
 そのまま気になって選手のその後を調べてみると、けっこう引退していたり、第一線の選手ではなくなっていたりして、少し悲しくなる。逆に、スパーズの一選手というイメージだったレナードがめちゃくちゃスター選手になってたりもする。あるいはローズをめぐるドラマを知る。そしてそんな中でも全く変わらないゴリゴリマッチョプレイでスター選手であり続けるレブロン・ジェームズの強靭さに驚く。

 私にとってのレブロンといえば、ウェイドとボッシュとともに「ビッグ3」を結成しマイマミ・ヒートで活躍していたイメージが最も強い。そしてその頃のヒートのことを考えると、当時チームに所属していたマリオ・チャルマーズという選手のことも同時に思い出す。私はいつもチャルマーズのプレイをハラハラしながら観ていた。
 というのも、チャルマーズは悪くない選手ではあったが、上述の「ビッグ3」、特にレブロンなどと比較すると見劣りするレベルであったため、あんなチームでプレイするのはさぞかしプレッシャーが大きくて大変だろうと、私は勝手に不憫に思っていたのだ。チャルマーズがターンオーバー(ミスによりボールを失うこと)したり、大事なところで得点を決められなかったりする場面を観るたびに、「彼は今どんな気持ちなんだろう」と表情を注視していた。
 実際、チャルマーズがレブロンから叱責を受ける様子が画面に映ることもあって、そのたびになぜか私は自分のことのように胸がキュッと苦しくなっていた。

 たぶん私は、チャルマーズの姿を、バスケ部のキャプテンのくせにちっとも上手くならない自分と重ね合わせていたのだろう。もちろん次元が違うし、余計なお世話ったらありゃしないのだが。当時のうちの部は弱小も弱小の、さらに私はその部員のなかでも弱いほうの選手だった。それなのになぜキャプテンだったのかというと答えは明瞭で、同じ学年に私と部員があともう一人しかおらず、そいつが実にちゃらんぽらんだったからだ(一応付け加えておくと、彼とは今でも住む場所は違えど仲良しである)。
 最近私はよく考える。NBAの関連動画から飛んで、バスケが上手くなるための方法とか、色んな戦術の解説動画を観ていると、もっと上手くなるためにやりようがあったなと。バスケが大して上手くなくて、公式試合のたびに辛い思いをしていたくせに、私は練習メニューを一切改善しようとしなかったのだ。それは先輩が大した練習をしていなかった(なのに県大会に行くくらい強かった)のが大きな原因なのだが、今から考えると、チームメイト(主に後輩)に申し訳ないことをしていたなと思う。
 当時は人間関係も辛いことが多くて、(楽しいことがないわけではなかったが)体育館に行くのが嫌で嫌でたまらないことも多々あったのに、それでもバスケ部を辞めなかったのは、周りに諦めたと思われるのが悔しかったという、負けず嫌いから来るただその理由のみである。何とも馬鹿馬鹿しいし痛々しい。繰り返しになるが、だったらもっとやりようあったろと思う。

 そんなこんなで、最近はちょっとバスケ熱が復活して、遊び半分でボールを弄るくらいできたらいいなと思っている。しかしバスケットゴールがある公園というのはなかなか存在しない。だからNBAの動画を観て溜飲を下げるしかないのだが、それもあってか、この頃たまに自分が試合に出ている夢を見るようになった。実に単純な脳構造をしていると我ながら思う。
 夢は、公式試合があるときの体育館のざわざわしたあの感じとか、ベンチで顧問のA先生が怒鳴りつけている様子とか、結構リアルだ。私はオフェンスでボールが回ってきてシュートを打つが、ボールは空を切る。あるいはターンオーバーをして、相手チームに速攻を決められる。
 そこでパッと目が覚める。寝ていたときの緊張がまだ残っていて、心臓の鼓動が速くなっているのがわかる。そして思う。別に、夢のなかくらいスター選手になってたって良いのに。結局ターンオーバーばっかりしている。

2020年1月〜6月に読んだ本

1月

20001 教養のためのセクシュアリティスタディーズ (風間孝ほか/法律文化社)
20002 医学概論とは(澤瀉久敬/誠信書房
20003 医療・合理性・経験(バイロン・グッド/みすず書房
20004 Dr.ヤンデルの病院選び(市原真/丸善出版
20005 100分de名著 スピノザ エチカ(國分功一朗/NHK出版)

2月

20006 多としての身体(アネマリー・モル/水声社)
20007 隠岐さや香 著『文系と理系はなぜ分かれたのか』(星海社新書, 2018)
20008 コンビニ人間 (村田沙耶香/文春文庫)

3月

20009 生を治める術としての近代医療―フーコー『監獄の誕生』を読み直す(美馬達哉/現代書館
20010 人間そっくり(安部公房新潮文庫
20011 ボディ&ソウル―ある社会学者のボクシング・エスノグラフィー(ロイック・ヴァカン/新曜社
20012 嗤う日本のナショナリズム北田暁大NHK出版)
20013 読んでない本について堂々と語る方法(ピエール・バイヤール/筑摩書房
20014 大阪大学医学部最終講義(1989/03/30)『病と癒し』(中川米造/月間『ライフサイエンス』vol.16 No.5/No.6)
20015 J.レイヴ&E.ウェンガー 著『状況に埋め込まれた学習』(産業図書, 1993)
20016 医学とはどのような学問か(杉岡良彦/春秋社)
20017 医学概論(川喜田愛郎/ちくま学芸文庫)
20018 精神科医が読み解く名作の中の病(岩波明/新潮社)

4月

20019 アナ・チン『マツタケ』(みすず書房, 2019)
20020 熊野純彦 著『レヴィナス入門』 (ちくま新書、1999)
20021 よくわかるコミュニケーション学(板場良久ほか編/ミネルヴァ書房
20022 レヴィナス 何のために生きるのか(小林義之/NHK出版)
20023 省察的実践者の教育(ドナルド・A・ショーン/鳳書房
20024 当事者研究をはじめよう (熊谷晋一郎・編/金剛出版)
20025 コロナの時代の僕ら(パオロ・ジョルダーノ/早川書房
20026 漫才作者 秋田實富岡多恵子/筑摩書房
20027 病の文化史(上)(下)(マルセル・サンドライユ他/リブロポート)
20028 現代思想 第47巻6号 43のキーワード(青土社
20029 千葉雅也 著『勉強の哲学』(文春文庫, 2017)
20030 体の贈り物(レベッカ・ブラウン新潮文庫
20031 フィルカル vol.1 no.1 (株式会社ミュー)
20032 流感世界(フレデリック・ケック/水声社
20033 医の倫理(中川米造/玉川選書)
20034 神谷美恵子日記(神谷美恵子/角川文庫)
20035 医者の告白(ウェレサーエフ/三一書房
20036 パリ・ロンドン放浪記(ジョージ・オーウェル岩波文庫
20037 戸田山和久『科学哲学の冒険』(NHKブックス, 2005)
20038 折口信夫死者の書』(角川ソフィア文庫, 2017)
20039 根井雅弘『経済学の歴史』(講談社学術文庫, 2005)
20040 『現代思想 第44巻23号 九鬼周造 偶然・いき・時間』(青土社, 2017)

5月

20041 トム・A・ハッチンソン『新たな全人的ケア: 医療と教育のパラダイムシフト』(青海社, 2016)
20042 ロバート・バックマン『真実を伝える』(診断と治療社, 2000)
20043 人気ラジオ番組完全ガイド ラジオ番組最強ランキング 2020(晋遊舎, 2020)
20044 ローラン・ドゴース 著『なぜエラーは医療事故を減らすのか』(NTT出版, 2015)
20045 ジョン・T・カシオポ/ウィリアム・パトリック 著『孤独の科学』(河出文庫, 2018)
20046 マイケル・マーモット 著『健康格差:不平等な世界への挑戦』(日本評論社2017, 原著2016)
20047 現代思想 第44巻第5号 人類学のゆくえ(青土社
20048 渥美一弥『「共感」へのアプローチ: 文化人類学の第一歩』(春風社, 2016)
20049 『現代思想 第48巻7号 感染/パンデミック』(青土社, 2020)
20050 『新潮 第117巻第6号 コロナ禍の時代の表現』
20051 ピーター・バーク 著『歴史学と社会理論 第二版』(慶應義塾大学出版社、2009)
20052岸政彦ほか 著『社会学はどこから来てどこへ行くのか』(有斐閣、2018)
20053 『思想としてのコロナ禍』(河出書房、2020)

6月

20054 ジョルジョ・アガンベン 著『ホモ・サケル』(以文社、2003)
20055 片岡一竹『新疾風怒濤精神分析用語辞典』(戸山フロイト研究会、2015)
20056 松本卓也『狂気と創造の歴史』(講談社選書メチエ、2019)
20057 赤林朗・児玉聡(編)『入門・倫理学』(勁草書房、2018)
20058 酒井シズ『病が語る日本史』(講談社学術文庫、2008)
20059 髙橋昌一郎『理性の限界』(講談社現代新書、2008)
20060 高橋昌一郎『知性の限界』(講談社現代新書、2010)
20061 髙橋昌一郎『感性の限界』(講談社現代新書、2012)
20062 松本啓二朗戸田剛文(編)『哲学するのになぜ哲学史を学ぶのか』(京都大学学術出版会、2012)
20063 本田創造『アメリカ黒人の歴史』(岩波新書、1991)
20064 五十嵐 武士・福井 憲彦『世界の歴史〈21〉アメリカとフランスの革命』(中公文庫、2008)

最近は全然コロナについて考えていない。

 3日前、ふと思った。最近、コロナについて全然考えていないなと。

***

 LINEを検索してみると、私が初めて「コロナ」という文字列を打ち込んだのは2/27(木)のことである。それはちょうど、COVID-19の影響を受けて大規模イベント等が次々と中止・延期になっていた頃だった。私は、権威ある漫才の大会が中止になること、また一方で独り芸の全国的なお笑いコンテストが無観客で行われることを知り、知人にニュースのリンクを送った。

 NHK上方漫才コンテストっていう、権威ある漫才コンテストも延期……

 しかしこの頃はまだ、「自分の好きなエンタメが奪われる」という程度の認識しかなくて、まさかこんなにも時代を変えるほどに大きな影響を持つとは予想だにしていなかった。

***

 私はがCOVID-19関連の記事・文献・書籍を——特に人文系を中心に——可能な限り追うことに決めたのは、4月のはじめ頃である。それ以降、見つけたものは友人とslcakで共有しさらに考えたことを文章におこして投稿して、ということをずっと続けてきている。おかげで、こういうときにそれぞれの学問領域の専門家がどのような概念を持って何を言うのか、ということについての見晴らしがだいぶんつくようになった。またそのsclackのチャンネル自体が、将来的に貴重なアーカイヴになると思っている。
 ただ始めた直後と比較すれば、slcakで記事をあげる頻度はやや減っているように思う。ひとつ事実としてあるのは、能動的にCOVID-19の記事を探すということについて少し息切れしつつあるということだ。ずっとCOVID-19のことについて考え続けるというのは、色々な意味で消耗するし疲れる。それと私自身の今の環境のいろいろが重なり合って、冒頭のようなことを考えたのかもしれない。
 でもカレンダーを見てよくよく考えてみれば、COVID-19に関する思考から自由な日など一日もなかった。5日前は緊急事態宣言の解除について家庭教師先のお母さんと話し合っていた。4日前はこの状況における臨床実習について先生や学生たちと話し合っていた。3日前など、いつものようにslcakにCOVIDー19に関する論考をアップし、それについて考えを述べていた。そのあとに私は「最近は全然コロナについて考えていない」と「ふと思った」のである。

***

 思うに、COVID-19というものが、私の思考の前提に深く侵入し過ぎたせいで、その存在を意識しないまでに至ってしまっているのだと思う。当初のように「能動的に」について考えることをしなくても、すでに私はCOVID-19について「考えている」のだ。それは今の私の生活のあらゆる細部を支配している。
 それは単純に(臨床実習がなく、ほとんどの時間を実家で過ごしているという)今の私の生活を規定しているという意味でもあるし、思考の様式を侵しているという意味でもあるし、また私の身体そのものに介入してきているという意味でもある。ここまで、外を歩いていて、自分あるいは他者の鼻や口、指、唾に神経を尖らせながら生きたことはなかった。しかしそこにおいて「COVID-19のために」という文言はワンテンポ遅れてやってくる。触らないために触らないし、近づかないために近づかないのだ。
 だから私は、「最近は全然コロナについて考えていない」と思った自分にゾッとした。そうやって「新たな日常」を受容してしまうのがすごく怖い。受容することそれ自体より、そこの無自覚さに恐怖を覚える。これから自分の思考あるいは身体がどう変化しようと、それに意識的であることに踏ん張り続けるにはどうすれば良いのか。

* * *

 ついでに日記めいたものをここに書いておく。このところ、私はずっと一階の和室に机を置いて時間を過ごしている。今日の18時頃、窓を開け放って作業をしていると、リビングから、そして隣の家から、安倍首相の緊急事態宣言の解除の記者会見が聞こえてきた。今まで知らなかったのだが、同じテレビと言っても微妙な時間差があるのか、安倍首相の声がダブって聞こえてくるのが非常に気持ちが悪かった。別にどうでもいい場面なのだが、なんかこれはこの期間における記憶の一つとして当分忘れないだろうなという確信が私に訪れた。
 単純に、そもそも自分ひとりの部屋がないからそうなっているのだが、来る日も来る日も、和室という同じ空間で毎日を過ごしている。そうしていると、日々がだんだんと溶け合っていって、なんだかひとつのぼんやりとした大きな塊になっていくような感覚がある。要するに、時間の遠近感覚が極限までに鈍っていくのだ*1。昨日も今日も明日も同じ一日である。
 だから頻繁に不安になって、カレンダーを見ながら、「何日前に何をした」という「特異的な」思い出を見つけ出そうとする。すると五日前の出来事がちゃんと五日分くらい前の出来事のように感じるので、とてもホッとする。
 一方で、この生活が始まった二ヶ月くらい前を思い出してみると、もう随分前のように思える。この間、かなりたくさん本を読み、かなりたくさん文章を書き、かなりやるべきことを消化できた。正直、こうならなければ生まれ得なかった生産性だと思う。そういう意味で充実しているのは有り難いが、このまま溶け合うような日常がこれからも過ぎていく可能性について考えると、頭がおかしくなりそうになる。
 ぼんやりとした大きな塊からいかに抜け出すか。気を抜くと飲み込まれて、抜け出せないループを永遠に繰り返してしまうような気持ちにもなる。自分は何が楽しくて生きていたのかもよくわからなくなる。でもたぶん、いや確実に、朝起きたらまたこの和室に私はいる。