M-1グランプリ2020感想

マヂカルラブリーは漫才でいいのかあかんのか問題

漫才でいい:99票

阪急電車に一礼をしない:1票

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素晴らしい漫才でしたね。

0. 「マヂカルラブリーは漫才か」

 普段、漫才を見ているときに「これは漫才なのかどうか」という視点をほとんど意識していないので、放送が終わったあとにそのようなことが議論になっていたこと自体驚きでした。思いのほか、視聴者の皆さんが審査員的な目線で漫才を観ているということなのでしょうか。
 この「漫才かどうか」論は、お笑いファン的には10年、いやそのもっと前から散々されてきた話なので、今さらイチから漫才の定義を考えるというのは周回遅れ感があるように思います。そしてこの話は限りなく不毛なこともわかっています。私はてっきり、去年のすゑひろがりずがこの辺りの議論に終止符を打ってくれていたんだと思い込んでいました……

 なのであまり気の進まない話題ではあるのですが、改めて私のスタンスを示すとすれば、それは「サンパチマイクの前で2人以上によって演じられるものはすべて漫才」でよいと思っています*1。わざわざ「これは漫才ではない」とシャットアウトして漫才の可能性を閉ざしてしまうのはお笑いファンとして全く本意ではないですし、そもそも「漫才とは何か」より「良い漫才とは何か」という問いのほうが意義あると考えているからです*2
 ただ、その観点から考えると、巨人師匠を筆頭に上方漫才のベテランが漫才における会話(かけ合い)を重視している、ということ自体はひとつの尊重しなければならない意見だと思っています。巨人師匠は一貫してかけ合わない漫才に対してシビアな評価をしていましたね*3。だからスタンスの問題ではあるのですが、ただそれでも巨人師匠も「これは漫才ではない」っていう言い方は絶対しないと思います。

 さらに考えてみたときに、私がマヂラブがこういう議論になっていることを新鮮に感じたのにはもう一つ理由があって、というのも、ちょっと前に「漫才ではない」と言われるような漫才といえばTHE MANZAI 2012のアルコ&ピースの「忍者になって巻物を取りにいきたい」というようなネタだったはずだからです。つまり、「生身の人間、その人そのものとして出てくる」という漫才の(暗黙の)前提を破って、出てきたときからすでに「〇〇な人」を演じている(上述のアルピーなら「相方の言葉をネタではなくて真に受けてしまう人」)場合に「これはコントだ」と言われるのがお決まりでした。それで言うとマヂラブは、最初は野田クリさん自信として出てきて、「見てて」と言ってコントインしていたわけですから、この点では漫才のお作法には則っているように思えるからです。
 それに沿って言うと、嶋佐さんが「軽犯罪をする人」という設定のニューヨーク、山名さんが「好きな人が今度楽屋に来るけどそれを隠す人」と言う設定のアキナのほうがよっぽどコントぽいことをしています。だから私にとって、マヂラブのほうが「漫才ではない」と言われたのは二重の意味で意外でした。

 ところで、トークライブでとある方*4がおっしゃっていたのですが、「漫才ではない」論の人たちは、NGKで15分間名を名乗り続けるザ・ぼんちとかを観たらどう思うのでしょうか。

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平子さんもこう言ってたので、この話はこれで終わりです。

1. はじめに

 毎年、なんだかんだM-1については文章を書いているのですが、いつもどういうスタンスで書こうか迷いながらやっています。今年は個人的理由で忙しくやめておこうと思っていたんですが、結局アウトプットしないとずっと頭の中でぐるぐるしていて邪魔なので、記事を書くことにしました。よって今年のスタンスは、「言語化しないと気持ち悪いので外に出します、なのであくまで自分用ですが興味ある方はどうぞ」でお願いします。
 そういう背景がありますので、ときおり、特に非お笑いファンの方々にはわからない固有名をいきなり使ったりする部分もあるのでご了承ください。また、自分の独自視点の批評で誰かにかまそうとかも考えていない*5ので、大して新しい知見とかはありません。ネガティヴな意見はキングオブう大のように対案を出せない限りは意味を持たないと思うので、基本的には書きません。あと気を付けてはいますが、筆が滑って偉そうになってしまうこともあるかもしれませんがそれはすみません。

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期待していた方には申し訳ないですが、本稿で「ケツ、おしまい説」には触れません。

2. 『吊り革』のグルーヴ感

  さて、私は今年の準決勝は配信で観させていただいたのですが、そこでマヂカルラブリーの『吊り革』のネタを観てからずっと、これは優勝できるネタだぞと思ってドキドキしていたので、ようやくこの話ができるようになって嬉しいんです。
 まず先ほどの話に戻るのですが、そもそもどうして(単に伝統であるということ以上に)かけ合いが大事なんでしょうか。これはプロの方々に今いちばん聞きたい質問でもあるのですが、さしあたり自分のできる範囲で考えた結果、その理由のひとつは、コンビが互いにけしかけあうことで盛り上がりを作っていくことができるからではないでしょうか。最もわかりやすい例は「4分の使い方抜群」でお馴染みのブラックマヨネーズで、2005年優勝時のネタのグルーヴ感といったら今でも全く色褪せない凄みがあります。
 そういう言わば漫才のゴールデンスタンダートに対して、『吊り革』は、完全にかけ合いのない非対称な関係でグルーヴ感をつくり出したのが革命的です。抽象的な言語で書きますが、間断なく動き続ける野田クリさんがひとりで中心になって竜巻を起こしている。そしてそれを横から村上さんが横から焚き付けて倍増させる感じです。
 だから最終投票は、その「ボケ役とツッコミ役の関係性で笑いを増幅させる」という漫才のお作法を使わない点を厳しく見るのか、あえてそれをやってみせた新しさを買うのか、で評価が分かれていたように見えました。あの票の分かれ方を見て、改めて現状のM-1審査員は恐ろしくバランスが良いメンバーだと思いました……

 「かけ合い」についてもう少し踏み込んで考えてみたいです。相方がひとりでやっていることに対してナレーション的にツッコむ形式を「実況型の漫才」*6と呼ぶとして、「実況型の漫才」はマヂラブだけの専売特許なのかというとそうではなくて、むしろ最近の賞レースのトレンドの一つですらあると考えています。程度の差こそあれ、明らかに10年前と比して増えています。例えば霜降り明星も、実はよくみると優勝時のネタにかけ合いはほとんどなく、舞台を動き回るせいやさんの実況を粗品さんが担当していると解釈することができます。スーパーマラドーナもそのような構成を得意にしてましたね*7
 この「実況型漫才」はある問題を抱えています。それは、ボケ役とツッコミ役の会話が間断なく続く漫才と比べ、個々のボケの間でどうしても時間が空いてしまいます。また、ふたりの関係性のなかで話を展開していくということを潔く諦めなければなりません。
 ただ、その限界を超えたコンビが霜降り明星で、後半にボケ数を詰め込んで畳み掛ける、というゼロ年代後半の「手数論」全盛期の時代にも使われた手法で盛り上がりをつくっていました。せいやさんの類稀なる運動量で間断のない展開を可能にしたのです。
 一方でマヂラブ『吊り革』は、ベースで「ずっとちょっとおもしろい」(「電車」というシチュエーションで話が進み続けている)というのがあって、最初に出したスピードをそのまま維持しつつ、それに上乗せする形で最後まで走り切る感じを見て受けました。会話なしに、野田クリさんひとりの身体のみで、コンマ一秒の隙のない時間を演出してみせたのです。それが斬新だし格好いい。「ボケ役とツッコミ役で話が進んでいく」ような展開性もクソもなくて、結局話の中身は何もないところがまた最高でした。そして大事なのは、村上さんが観客の気持ちを過不足なく代弁してくれて気持ちいので、ストレスなくグルーヴ感に身を任せることができる。

 最後に、話が逸れるかもしれませんが少しだけ、霜降り明星マヂカルラブリーの比較をしておきたいです。霜降りは、せいやさんの動きだけでは何のことがわからなくて、粗品さんの言葉があって初めてボケとして完結する構成になっています*8。つまりツッコミが、すでに観客に可視化されているおかしな部分を指摘するという役割よりむしろ、複雑なボケを完結させる一部となる点が彼らは斬新でした。近年、ボケ役とツッコミ役がグラデーションな存在になってきていますが*9霜降りはその一つの完成形と言って間違いないでしょう。

 一方でマヂラブは、野田クリさんのマイムのまずパッと見て何をやってるかわかる視覚的な面白さがまずあって、その線を濃くなぞり直すような働きとして村上さんがいる構成になっています。志らくさんが「喜劇的」と評したのもこのような辺りのことだと思っています。こう比較すると、同じ「実況型」でもやっていることが全然違うことがわかります。それにしても、このようにボケ役とツッコミ役が明確なことから見ても、マヂラブのネタは「漫才的」ですよね。

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『フレンチ』の初速もえぐかったですね。

 3. おいでやす小田の叫び

  M-1あとの打ち上げ配信で、1本目に『フレンチ』をやるのか『吊り革』をやるのかは直前まで決まっていなかったが、おいでやすこがさんの漫才のあとにCMを挟んだことで野田クリさんは『フレンチ』でいく決断をした、という話が印象的でした。つまり、CMを挟まなければマヂラブの1本目は『吊り革』なっていたということで、それくらいおいでやすこがが今大会の空気を一変させたわけです。しかし一方で同時に、おいでやすこがのおかげで今大会は超パワー系がウケる空気になった節もあるので、結果的にはマヂラブへの追い風だったのだと思います。その辺りも順番の妙ですから、今年も笑神籤のまにまに……ですね。

 準決勝でもおいでやすこがは一、二を争うくらいのウケ量でしたが、私は決勝の会場で彼らがどのように受け入れられるのかということはずっと気になっていました。というのも、準決の会場のお客さんはお笑いが好きな方が多く、最初からおいでやす小田さんのキャラクターやR-1に出られなくなったという経緯を知っているため、その分で笑いが大きくなっている可能性があると思っていたからです。
 しかし、おいでやすこがの漫才が始まり、一つ目のツッコミで会場が爆発したまさにあのとき、その考えが杞憂だということがわかりました。かく言う私*10も、配信を初めて観たときと同じ温度で、涙が出るくらい笑いました。そこには「R-1がなくなったことの悲哀」とかは一切なかったと思いますし、そう解釈するのは失礼なことだったと反省しました。
 となると、小田さんのツッコミはどうしてあんなにも面白いんだろう、というのが気になってきます。「ただ、盛り上がるか〜!」のタイミングなど、確かに賞レース用に緻密に調整されてはいるのですが、言ってしまえば「オススメする曲が全部聞いたことがない」というシンプルなネタです。めちゃくちゃ新しい発想というわけでもありません。ここからはもしかしたら書き過ぎかもしれませんが、なんかもう私は、小田さんが叫ぶ、というより音を発してるだけで面白いんですよね。DCGで酒井さんも言ってましたが、ツッコミのキーもめちゃくちゃちょうど良い。頭で考えるより先に、身体反応としての笑いが自分に発生している、というような感覚を抱いています。だから何回観ても笑えるのだと思います。M-1終わってからも10回くらい観ましたが、まだ新鮮に面白いです。

 とまあこのような抽象的な言葉を並べていても仕方がないので、ひとつだけ考えを書いておくと、「一個目のツッコミの強さ」がこの漫才における特異点であり、新規性であると思います。いわゆるあそこは(広義の)「ネタばらし」の部分で、この漫才はこういう話ですよ、ということが最初にわかる部分です。よくあるパターンで考えると、そこからボケ役がエスカレートしていって後半にかけて盛り上がっていくわけですから、0の状態からまず30くらいのツッコミで入って、そこから40、50と上がっていって、ラスト数十秒で100のツッコミに至る。あるいは、最初70くらいで強めに入って、40-50くらいを保って、最後は同じく100。みたいなテンション配分になると思うんですよね。
 それを、おいでやす小田さんは、0の状態から、瞬間的に100まで引き上げるんですよね。レバーをいきなりガーーン!ってMAXまでやっちゃう感じです。相方が話の流れのなかでどういう感情になって、というのを丁寧に表現しようとする漫才なら、普通こんなことはしないと思います。だから割と賭けでもあったと思うのですが、ただそれが小田さんのキャラであり、ピン芸人として培ってきた部分で、今回はその力技がものすごく良いほうに転がったのだと思います。
 事前のインタビューで「漫才師ぽくやらない」ということに言及しておられた*11のですが、それはまさにそういう部分だと思いました。力のあるピン芸人ピン芸人が手を組むと、「漫才師ぽい」振る舞い方では生まれ得なかったこんなにも強大なエネルギーを生むのかと……末恐ろしい気持ちになりました。

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最終決戦、「0の状態」の小田さん。

4. 賞レース漫才における「伏線回収」

 そしてもちろん見取り図にも触れなければいけません。彼らはほんとうにすごいです(偉そうで恐縮ですが)。決勝に来るの3年目で、手の内もかなりバレてるのに、毎年新しいフォーマットで出続けてるのは並大抵のことではなく、素人の想像にも及ばないような努力が裏にあると思います。大阪vs和気の地元対決というクラシックな(漫才の王道的な)対立構造が軸にありながら、「ドアノブカバー」「便座カバー」の繰り返しで面白くなるくだり、「ドラキュラ」「モハメドアリ」というワードセンス、加えて「あとマロハ島ってどこ?」という伏線回収が最後に来る、という4分の賞レース漫才のお手本みたいな構成だと思いました。あそこまで仕上げて勝てないのはつらいです。
 ただ、和牛やかまいたちスーパーマラドーナなど伏線回収を含んだ賞レース漫才のここ数年のM-1での発展は凄まじく*12、そのように急激に高められた分野でちょっとやそっとでは審査員も驚かなくなってるのは一因かなと思いました。もちろん、「伏線回収」という雑な言葉でまとめ切れないほどそれぞれ個々に違った魅力があるのですが、ああいう方面で我々は物凄いものを見過ぎてきたような気がします。ほんと難しい……

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YouTubeで、リリーさんがマヂラブを評して言った言葉が印象的でした。

5. 「自己紹介」するということ

 今大会私は、もちろん皆さん大好きなのは大前提として、かねてから決勝に上がって欲しいと願っていたという意味で錦鯉、東京ホテイソンウエストランド*13を応援していました。特に東京ホテイソンは、ショーゴさんのマイムに対してたけるさんが備中神楽の囃子ことばの調子でツッコむ、という強力な(ナイツ塙さんが言うところの)「ハード」を発明したのにもかかわらず決勝に進出できず、それでもなお独自のガラパゴス的な進化を遂げ、「回文」、そして「英語」という画期的なネタをつくり出してもやはり準決勝に留まる、という経緯がありました。

 そのようにしてあの「ハード」に対して高度に発展したネタが『謎解き』で、あの場で初めて東京ホテイソンを観るという人たちには少し難しかっただろうと推察します*14。彼らは確実に(既に多くの人が指摘しているように)もう少し早く決勝に上がっておくべき人たちだったのですが、でも、一ファンとしては、こういう人たちだという自己紹介を今年で終えたという意味でポジティヴに捉えたいと思っています。今後は、あの備中神楽のツッコミがあった上で、何をするのかというところを見てもらえるようになると思うので。もしかしたら数年以内に、東京ホテイソンが2本目に『回文』のネタをもってきて優勝する、なんていう未来もあるのではないのでしょうか。

 漫才師はよく「ニン(人柄)」が大事だと言われているのですが、そういう芸術的な領域は素人には計り知れないところはあるので、こういうネタの考察を書くときは基本的にネタの構成という明らかに見て判断できる部分に言及するように気をつけています。
 ただ、錦鯉だけは、ニンを語らざるを得ないんですね。何よりまさのりさんが、ほんとに明るくて素敵で愛さずにはいられない方。ラジオも聴いていますが、ネタ中通りのお人柄です。今大会はまさのりさんの自己紹介ができただけでも万々歳、と思っています(もちろんご本人たちは悔しいでしょうが)。
 今後、テレビ出演などが増えて
まさのりさんのキャラがもっと周知されれば、彼らはどんどん強くなっていくことでしょう。錦鯉を好きになったきっかけは去年の敗者復活の「まさのり数え歌」なのですが、今はどこにもアップロードされていないので、また観られる機会があることを願っています。

 この「自己紹介できた」というのはウエストランドも同じこと*15で、彼らにもぜひ同じスタイルを貫いて欲しいです。Creepy nutsオールナイトニッポン0を聴いていたらウエストランドのネタをDJ松永さんがいたく気に入ったみたいで、刺さるべきところに刺さってるなと嬉しくなりました。

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日曜日からずっと、このメロディーが頭から離れないです。

6. M-1の「ストーリー」

 ただ彼ら3組と比べて、オズワルドだけは、次どうしたらいいのかマジでわからない評され方をしていて、来年が大変だな……と思いました。ご本人も「死ぬほど難しい宿題」とおっしゃっていましたが、松本さんから「静かでよかった」、巨人師匠から「最初から元気に入るべき」という一見逆のコメントをもらったのです。おそらくそれはもともとロートーンで話を展開する去年までのスタイルが残像として残っているせいで、今年はどっちつかずに見えてしまったのかなと思いました。
 これまで書いてきたように、今年のM-1のテーマのひとつは「かけ合い」になりましたが、そういう意味でオズワルドは、「改名をする」というテーマからあそこまで話を発展させ、しかもそれが全てロジカルに筋が通っている、という飛び抜けて凄いことをしていたと思います。もともと「シュール」と評されることも多く亜流な芸風とされていましたが、一周回ってド正統な関東のしゃべくり漫才師になってるなと思いました(偉そうな書き方になってしまいました)。改名したいという畠中さんの飄々した感じに、それを阻止したい伊藤さんに感情移入して「かけ合い」を見られるし、後半の盛り上がりどころ(「お前ずっと口空いてる」)やキラーフレーズ(「雑魚寿司」)もあって、4分間の一つのテーマでの会話として完璧だなと思いました。
 今回はおいでやすこが、マヂカルラブリーによってパワー系の大会になったので、もうほんとに順番の妙だと思います。ただ、会話する漫才を既にネクストレベルでやってるオズワルドが絶対に評価されるときは来ると思います。ベースはあのままでも、単純にウケ量が変われば「成長した」とか言われるのだろうか……

 そう考えると、オズワルドは確実に来年以降もこれまでの比較として審査されますよね。その日、その場での審査とは言いつつ、M-1は確実にそれまでのストーリーが大きく影響していると思います。もちろん漫才は人間あってのことなので良い悪いではないですが、それでも審査員のコメントを聴いていて「ストーリーって昔もこんなに大事だったっけ?」って考えていました。まあ、もしかしたら、10年前はここまで深く賞レースを予選から追ってなかったので、単に自分の観方が変わったというのもあるとは思います。
 実はその辺の理由で、(決勝の結果だけは何がどう転ぶかわからないからGYAO3連単の予想はやらないと言いつつ)今年優勝の可能性が高いのはニューヨークだと思っていました。去年M-1で結果を残せず、からの、今年バラエティ番組で活躍して、からの、キングオブコントで準優勝し、からの、「多少の軽犯罪を良しとする人」を揶揄するという彼らの得意な皮肉の効いたネタ、だったので、布石はすべて揃っているように思っていました。ですがやっぱりM-1は読めないですね……
 それはともかく、ニューヨークの
嶋佐さんがちょうどそういうことを言いそうな風貌で、かつそういうトーンで話すのが上手いですよね。それを腐す屋敷さんも含めて、おふたりにぴったりの漫才だと思います。本稿のはじめでコントインの話をしましたが、ほんとうに演技力が高い。

 さて「ストーリー」についてもう少し考えてみると、そもそもマヂラブも上沼さんとの因縁があったことがツカミになっていて、場を受け入れ態勢にするのに有利に働いてましたね。それを考えると、やはりSNSの発達が大きな一因になっているように思います。さらに和牛の3年連続準優勝というインパクトもあると思います。特別ファンでない人も含めて世間全体が「和牛のM-1挑戦物語」を共有していたような空気感でした。あとは「M-1アナザーストーリー」のようなドキュメンタリー番組、そして多くの芸人さんがGERAをはじめとするネットラジオYouTubeトークをする機会に恵まれている現状、があるのでしょうか。 

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敗者復活で大活躍だった国崎さんは、来年以降のストーリーに繋がっている気がします。

7. 台本の存在

 敗者復活はインディアンスがいちばん笑いました(ので投票もしました)。ああやってアドリブで脱線していく感じが観ていて楽しかったです。
 インディアンスはいつも、丁々発止のやりとりで稽古量が伝わってきて、でもそれゆえに台本ぽいなあと思う瞬間が時々ありました。あのネタも何回か観たことがあるのですが、きむさんが言い間違えて揚げ足とる箇所で「わざと間違えたんでしょ?」みたいなちょっと冷めた目で見てしまう自分がいました。先日ラジオでナイツの塙さんは、きむさんが言い間違えるのではなくて、普通に喋ってるのを田渕さんが揚げ足をとったほうがいいというコメントをしていて、その辺もそういう「あざとさ」あるいは「台本が見える」ことへの指摘なのかなと思って聞いていました。
 それがあれだけアドリブがたくさん入ると、台本とアドリブの境目がなくなってきて彼らふたりそのものとして見れるようになるというか、だから(見たことあるネタでも)あざとさみたいなのが全然気にならなくて驚きました。結局、しゃべくり漫才でも、コント漫才でも、初めから設定に入ってる漫才でも、そのほかジャンルレスな漫才でも、「台本の存在」というのは常に問題ですね。そういう意味でも、最初の話に戻りますが「ここから先は漫才ではない」という明確な線を引くことはできないと思います。
 ともかくインディアンスについては、田渕さんは去年の決勝でネタを飛ばしたことをずっと気にしておられたので、それが今年のM-1後の配信では憑き物が取れたようにスッキリした顔で「楽しかった」と言ってて、ほんと何よりだなと思いました。来年がめちゃくちゃ楽しみです。

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インディアンスもまた、「ネオベタ」ですよね。

8. 最後に

  M-1が終わったあと、お笑いファンでない人のなかでもここまで話題になるというのは、漫才をここまで愛してくれる人がいるということなので、とても嬉しいことです。ただ、確かにM-1は最高最強の大会ですが、一方で、M-1、まして決勝大会その日だけがお笑いの全てではない、ということは肝に銘じておくべきことかと思います。M-1グランプリ決勝の10組のネタだけで「2020年の漫才全体」あるいは「お笑い全体」は語れませんし、それを利用した社会批評もさすがにガバガバ過ぎます。また、あの場でウケなかったからといってそれがその芸人さんのすべてではありません。
 なので、M-1M-1としてスポーツのような競技大会として楽むのはいいとして、その日が終われば、漫才含めお笑いに対して審査員的に振る舞うのはちょっと違うかなと思います。もちろん、料理だったらぐるなび、映画だったらfilmarksがあるように、ある作品に対して評価的態度をとるというのは個々の自由なので別に良いですし、私もこんな風に普段から考察してしまいがちです。ですがあまりにお笑いを腐すことに意識がやられ過ぎて、面白いものを面白いと素直に思えなくなるのは勿体ない*16なという話です。
 だから、毎年書いてから自戒の念に駆られるのですが、こういうのはほどほどに、ですね……

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結局今年も長々と書いてしまいました。でも自覚があっても自我が勝つから!

9. おまけ

 最後に、今年のM-1の自分的ハイライトとして、準々決勝で大ウケだったものの、惜しくも決勝で観ることは叶わなかったラストイヤーのDr.ハインリッヒを置いておきます。

www.youtube.com

 

*1:これまで「サンパチマイクの前で2人以上が立っていれば」という言い方をしていたのですが、今年のマヂラブを見てこっそりマイナーチェンジしました。

*2:定義はそもそも恣意的なものですし、「〜とは何か」という問いの立て方からして前期ウィトゲンシュタインに怒られそうですね。

*3:一方で、そういうところに同様にシビアなイメージのあった礼二さんがマヂラブに96点をつけていたのはびっくりしました。めちゃくちゃ嬉しかったです。

*4:有料だったので名前を伏せます。

*5:過去の自分への反省です。

*6:「実況型の漫才」という言葉を自分で書いたときに一番最初に思い出したのが麒麟で、彼らはどうだったかなとネタを思い返してたところ、「実況型」と言えどもかけ合いはしてたなという結論に至りました。麒麟というとM-1最初期から活躍しているコンビで、この辺りからも私の文章は歴史の認識とかがガバガバであることがわかると思うので、話半分で読んでもらえると嬉しいです。しかしそろそろ「かけ合い」がゲシュタルト崩壊しそうです。「かけ合い」とは何なのか。

*7:もちろんこれは一つのまとめ方でしかなくて、だからといって彼らがすべて同じだいう暴論は成り立ちません。

*8:先に粗品さんがオールザッツで評価されていたこともあって、「せいや粗品のフリップだ」と言われていた時代もありました。彼らがM-1優勝という結果を残して「漫才」として認められてからは、そんなことを言う人もいなくなりましたが。

*9:新しい「ツッコミ像」についてはこの記事に詳しく書いています。satzdachs.hatenablog.com

*10:遡ってみたら、過去3年のR-1で毎回小田さんの応援ツイートをしてました。

*11:こちらの記事です。

natalie.mu

*12:もはや3回戦レベルから伏線回収は当たり前になりましたね。

*13:ウエストランドに至っては、彼らのネットラジオを8年以上毎週聴き続けているので、万感の思いがありました。

*14:しかしそんななかで、サンドウィッチマンの富澤さんはホテイソンの歴史も含めて褒めるコメントをしていたので、さすが事務所(グレープカンパニー)の先輩!と思いました。

*15:奇しくもぶちラジ!の最新回で、井口さんが「錦鯉、ホテイソンと自分たちは知ってもらうことありきだ」という話をしていました。

*16:もちろん、政治的公正に反するものは話が別です。

2012年-2020年に観たお笑いライブ

2020年(配信ライブ)

12日24日 Dr.ハインリッヒトークライブ「ディアロークハインリッヒ15」

 Dr.ハインリッヒ

12月22日 terauchi寄席

  黒帯、黒木すず、金属バット、デルマパンゲDr.ハインリッヒ 

12月5日ニューヨークと愉快な仲間達in祇園花月

 ニューヨーク、黒帯、ニッポンの社長ビスケットブラザーズマユリカ

12月2日 M-1グランプリ2020 準決勝

 ラランド、タイムキーパー、金属バット、ウエストランドニッポンの社長、ランジャタイ、祇園マヂカルラブリーからし蓮根、カベポスター、ゆにばーす、キュウ、アキナ、おいでやすこが、オズワルド、ロングコートダディ、インディアンス、東京ホテイソンコウテイ、学天即、ダイタク、見取り図、ぺこぱ、滝音、ニューヨーク、錦鯉

11月28日 裏勇者ああああ~ゲームあんまり関係ない悪ふざけだけで90分弱やってみます~

 アルコ&ピース 、ななまがり、ハリウッドザコシショウガリットチュウ 福島、赤もみじ、怪奇!YesどんぐりRPGオジンオズボーン 篠宮、ひろせひろせ

11月23日 バ吾A・しずる村上トークライブ~限定ライブ配信~「空気階段かたまりに聞く」

 バッファロー吾郎A、しずる 村上/空気階段 水川かたまり

11月22日 【DAY1】K-PROライブフェスティバル クラウンヒットパレード2020

 アルコ&ピース(ソロライブ)/青色1号、赤もみじ、銀兵衛、さすらいラビー、Gパンパンダ、ジャンク、新作のハーモニカ真空ジェシカ、ストレッチーズ、大仰天、トキヨアキイ、春とヒコーキ、ひつじねいり、ファイヤーサンダー、まんじゅう大帝国、モンローズ、リンダカラー、令和ロマン/トンツカタン(ソロライブ)/ラブレターズ(ソロライブ)/ハマカーン、磁石、三拍子、モグライダー、ねじ、ヤーレンズわらふぢなるおウエストランドルシファー吉岡、ドドん、スタンダップコーギー、TAIGA、エルシャラカーニ/Aマッソ(ソロライブ)

10月17日 押見トランスLIVE〜改名〜

  押見トランス/マンボウやしろ、しずる 村上

10月15日 第1回もう中学生大会4

 もう中学生/COWCOW野性爆弾 ロッシー、おいでやす小田、しずる、鬼越トマホーク、ぼる塾

10月9日 Dr.ハインリッヒトークライブ「ディアロークハインリッヒ14」

 Dr.ハインリッヒ天竺鼠 川原

9月21日 ハライチライブ けもの道

 ハライチ/オードリー

9月6日 押見トランスLIVE ニューヨーク!カモンカモンカモン!お前ら俺のことなめてるだろうから1回話し合おうぜ!

 押見トランス/ニューヨーク、しずる 村上

8月27日 結局のところ

 アルコ&ピース 平子、麒麟 川島/平成ノブシコブシ 吉村、オードリー 春日、かが屋 賀屋

8月18日 話をする人と話を聞く人

 Dr.ハインリッヒデルマパンゲ、金属バット

8月1日 押見泰憲ライブ

 押見泰憲/しずる 村上

7月12日 Dr.ハインリッヒ単独ライブ『Dr.ハインリッヒの漫才の館』

 Dr.ハインリッヒ

7月1日 生勇者ああああ~無観客生配信って聞いたんで面白いけど地上波でボツにしてた企画、ちょっと試してもいいですかライブ~

 アルコ&ピース/ペンギンズ ノブオ、ラブレターズ、はんにゃ、フルーツポンチ、GAG、サシャナゴン、永野、古川洋平、園山真希絵、しずる、GO!皆川

2020年

10月28日 M-1グランプリ2020 2回戦 @祇園花月

 にゅ~とらる、スーパーフライデー、帝国チーズグラタン、純ウララカ、お茶の葉、ハブシセン、ハイツ友の会、プードル、特攻県警、あかね、壹番地、キングブルブリン、ラビットラ、エルフ、ノーサイン、アンビシャス、イノシカチョウ、角煮フリーランス空飛ぶリビング、シンスプリント、いつもたいしゃ、にぼしいわし、マトイ、天地コンソメトルネード、豪快キャプテン、ぎょうぶ、ピカソ空前メテオ、コンチェルト、いなかのくるまパーフェクト・ダブル・シュレッダー、武者武者、タナからイケダモンスーン、丸亀じゃんご、アルミカン、黒帯、もも、風穴あけるズタチマチ、ガーベラガーデン、ツートライブ変ホ長調からし蓮根、見取り図

8月7日 8月本公演 @NGK

 天竺鼠、川上じゅん、まるむし商店かまいたちウーマンラッシュアワー中川家小籔千豊、川端泰史、すっちー、池乃めだか

2019年

12月7日 12月本公演 @祇園花月

 西川のりお・上方よしお笑い飯、おいでやす小田、コロコロチキチキペッパーズ信濃岳夫、チャーリー浜、辻元茂雄 他

12月4日 M-1グランプリ2019 準決勝 ライブ・ビューイング @MOVIX京都

 金属バット、ダイタク、くらげ、東京ホテイソンセルライトスパマヂカルラブリーすゑひろがりずラランド、錦鯉、ロングコートダディからし蓮根、ニューヨーク、トム・ブラウン、オズワルド、カミナリ、四千頭身インディアンス、囲碁将棋、ミルクボーイ、かまいたちぺこぱ、ミキ、アインシュタイン天竺鼠見取り図、和牛

10月17日 terauchi寄席 @よしもと漫才劇場

 黒帯、黒木すず、金属バット、コウテイデルマパンゲDr.ハインリッヒ

8月29日 スーパーマラドーナNGK初単独ライブ『スタートライン』 @NGK

 スーパーマラドーナラニーノーズ山田、ロングコートダディ堂前、ダブルヒガシ大東、モンスターエンジン、見取り図

2018年

11月18日 11月本公演 @祇園花月

 西川のりお・上方よしお、松旭小天正、ロザン、藤崎マーケット霜降り明星、メンバー/すっちー、吉田ヒロ、高橋靖子、清水けんじ

10月24日 M-1グランプリ2018 3回戦 @祇園花月

 マイスイートメモリーズラングレン、とれたて力、パーフェクト・ダブル・シュレッダー、ミーハーパイソンズ、もも、バニラハンバーグ、リップグリップ、ニメートルズ、モンスターエンジン武者武者、絶対的7%、アンダーポイント、たらちね、タートルデッパ、ツートライブパーラー、マグリット鬼としみちゃむ、ありんくりん丸亀じゃんご、パンドラ、黒帯、ガーベラガーデン、ブービーバービー、センサールマン和田・平賀、なにわスワンキーズどんぐり兄弟パーティーパーティー、きみどり、カベポスター、風穴あけるズハブシセン、戦士、ドーナツ・ピーナツ、ピュアピュアズ、コウテイ、ヤング、キャタピラーズ、ミルクボーイ、金属バット

10月10日 10月本公演【平日公演】 @よしもと西梅田劇場

 パンクブーブーちゃらんぽらん冨好スーパーマラドーナアインシュタインさや香諸見里大介池乃めだか吉田ヒロ今別府直之、吉田裕、信濃岳夫金原早苗森田まりこ 他 

2017年

10月26日 M-1グランプリ2017 3回戦 @祇園花月

 カーチェイス、所ローズ、コウテイ、とり松、どんぐり兄弟、丸亀じゃんご、かまいたち、隣人、センサールマン、美たんさん、モンスターエンジン、プードル、チャイルドプリンス、風穴あけるズ、安定志向、帝国チーズグラタン、わんぱくウォリアーズ、金属バット、スーパー土瓶、ジャンゴ、雷鳴、リップグリップ、パンドラ、マグリットマユリカ、アルミカン、ミルクボーイ、Dr.ハインリッヒ、女と男、ピュアピュアズ、ツインターボキャタピラーズ、薔薇とノンフィクション、トットspan!、アキナ

7月20日 7月本公演 @祇園花月

 中田カウス・ボタン、まるむし商店桂三金吉田たち、ヒガシ逢サカ、パーティーパーティー/辻元茂雄、アキ 他

6月26日 話をする人と話を聞く人 @道頓堀ZAZA HOUSE

 Dr.ハインリッヒデルマパンゲ、金属バット

2016年

11月14日 11月本公演 @祇園花月

 Wヤングまるむし商店月亭方正藤崎マーケット、学天即/辻元茂雄、松浦景子平山昌雄、アキ、島田珠代若井みどり森田展義

11月7日 M-1グランプリ2016 準々決勝 @NGK

 タナからイケダコマンダンテコーンスターチラニーノーズシンクロック見取り図、マユリカからし蓮根、ジュリエッタプリマ旦那ミキ、デルマパンゲ吉田たちラフ次元、天竺鼠プラス・マイナス、馬鹿よ貴方は、アインシュタインとろサーモンザ・プラン9武者武者、ロングコートダディセンサールマンスーパーマラドーナてんしとあくまトットヘンダーソンセルライトスパ学天即、ボーイ、金属バット、尼神インター、モンスターエンジン和牛、大自然ネイビーズアフロ藤崎マーケット祇園ギャロップ霜降り明星かまいたちアキナ、銀シャリ

11月3日 ウエストランド第一回単独ライブ「GRIN!」 @南堀江knave

  ウエストランド

10月20日 M-1グランプリ2016 3回戦 @祇園花月

 コッペパンネイヴィベイビー、丸亀じゃんご、くのいち、もっちーず、ブラボー、オオイチョウ黒帯、ミルクボーイ、チキチキジョニーお茄子カリー、豆腐、バネ、さや香センサールマン蛙亭武者武者、自由気まま、どんぐり兄弟、ひこーき雲、ニッポンの社長天才ピアニスト、コウテイメトロクラフト、ヒラメカレイ、きみどり、マルセイユツインターボ和田・平賀、ジョニーレオポンヘンダーソンニメートルズ、ムニムニヤエバからし蓮根、バブルズマンション、プリマ旦那祇園ダブルアートspan!ネイビーズアフロボルトボルズ

9月26日 狂宴封鎖的世界メーデー」 @新宿村LIVE

 鳥居みゆきラブ守永

4月5日 POISON吉田が5人+2人と漫才 @NGK

 ブラックマヨネーズ 小杉、テンダラー 浜本、ザ・プラン9 お〜い!久馬、すっちー、ダイアン 津田、アインシュタイン 稲田、スピードワゴン 小沢

3月27日 Aマッソ第3回単独ライブ「風呂魚」 @大阪・千日前 TORII HALL

 Aマッソ 

2015年

11月19日 第17回東京03単独公演「時間に解決させないで」 @大阪・サンケイホールブリーゼ

 東京03

10月28日 M-1グランプリ2015 3回戦 @祇園花月

 きみどり、リップグリップ、ムニムニヤエバ大阪ほっと家族、ロックンロールブラザーズチキチキジョニーブラボー、イサリビももかんラッシー、スーパーマラドーナパーフェクト・ダブル・シュレッダー、センサールマンスパンキープロダクション)、どんぐり兄弟コウテイねぐらもぐら、ハチミツラジカル、シンクロックZUMA、ジョニーレオポンセルライトスパニュー梅林、十手リンジン、プリマ旦那金属バット、和田・平賀、タナからイケダ銀シャリフリータイム、span!ノルウェースウェーデンミサイルマン女と男、ヘッドライト、天竺鼠 

2013年

11月16日 日清食品 THE MANZAI 2013 本戦サーキット @祇園花月

 相席スタートアインシュタインアルコ&ピース、インディアンス、ウーマンラッシュアワーえんにち、カーニバル、学天即、キングコング銀シャリコマンダンテ、タモンズ、千鳥、天竺鼠テンダラートレンディエンジェルNON STYLE、ハライチ、モンスターエンジン、和牛

10月27日 日清食品 THE MANZAI 2013 本戦サーキット @NGK

 アインシュタインウーマンラッシュアワー、カーニバル、学天即、かまいたちキングコング銀シャリコマンダンテジャルジャルスパナペンチチーモンチョーチュウ、千鳥、テンダラー東京ダイナマイトトンファーなすなかにし2丁拳銃NON STYLEモンスターエンジン、和牛

4月14日 THE MANZAIツアー in NGK @NGK

 COWCOWテンダラー、ロザン、スーパーマラドーナ、 千鳥、銀シャリ、磁石、オジンオズボーン 

2012年

11月17日 日清食品 THE MANZAI 2012 本戦サーキット @NGK

 アインシュタイン、赤い自転車、ウーマンラッシュアワー 、学天即、さらば青春の光シャイニングスターズジャルジャルスーパーマラドーナ、千鳥、天竺鼠テンダラーDr.ハインリッヒトレンディエンジェルNON STYLE、パープーズ、ライセンス、レイザーラモン、ロザン、和牛、笑い飯

 注:マジでドイタなお笑いファンだった時代↑

<裏>と<表>の奇妙な共存——今更ながら「せっせっせいや」を考える

はじめに

 以下の動画を観た友人から、質問を受けた。せいやさんが自らの「せっせっせいや」というネタを「ブリッジが長いっていうネタ」「一個乗ってる芸」と評しているが、これはどういう意味なのかという。それで思いつくままに説明しているうちに気付いたらそこそこの分量になり、勿体ないのでまとめてブログにあげることにした。走り書きなので事実誤認や解釈が甘いところもあると思うが、その辺りはご了承いただきたい。あと別にそこまで新しいことは書いていない。

www.youtube.com

ゼロ年代テン年代のお笑い界

 まず前提として、「ネタをする→リズムに乗せたブリッジを挟む」というのは、エンタの神様やレッドカーペッドなどショートネタが流行った時代(ゼロ年代のお笑いブーム)に大量生産された形である。当時はテレビに出るならそれが一番の近道だった。代表格ですぐに浮かぶのは、オリエンタルラジオの「武勇伝」のネタだろう。
 しかしそれは、芸人あるいはお笑いのコアなファン層から「客ウケ(特に女性)だけを狙っている」として常に批判の的でもあって、ゼロ年代後半のM-1ブームと対をなす存在でもあった。すなわち、「賞レースで勝てる(=プロが本当に面白いと認める)」ネタと、「大衆迎合的で一過性に世間に消費される」ネタ。

 それからテン年代に入ってお笑いブームが翳りを見せ、そういう「分かりやすい笑いどころ+リズム感のあるブリッジ」というフォーマットは、ネタがファストフード的に消費された時代の負の遺産ともみなされるようになった。たくさんの人気があったはずの芸人の仕事がなくなり、それを自虐する「一発屋」という概念が生まれたのもテン年代前後のこと。

リズムネタの脱構築

  そしてようやく「せっせっせいや」の話になるが、この動画で「『ブリッジが長い』っていうネタ」と言っていたのは、そういう一連の流れ自体がフリになっているということだ。それまでのお笑いの歴史であったどのブリッジよりも長い尺で、「せっせっせいや」というフレーズが繰り返されているということが、一つのボケになる。つまり「せっせっせいや」というフレーズ自体が面白いのではなくて、その繰り返しているという状況自体が(これまでの既存のお笑いのフォーマットを踏まえたうえで)面白いという、「一個乗った芸」なのだ。
 以降、前者のような「フレーズ自体が面白い」事態を<表>、後者のような事態を(明示的に笑わせようとしている部分とは別の箇所で面白さが生まれているという意味で)<裏>と呼ぶことにする。

 「せっせっせいや」のネタにおいて、せいやさんは後半に迫るにつれて鬼気迫る表情で、「せっせっせいや」の繰り返しそれ自体が目的化していくかのような様相を呈していく。それに呼応するかのように、ブリッジに挟まれた(中身が伴わなければならないはずの)ネタ部分も支離滅裂になり、意味を失っていく。
 つまりここでは、ただ記号的に、ネタ→ブリッジの流れだけが反復される。そうやってリズムネタがリズムネタの内部で崩壊していく=リズムネタが脱構築されていく一連を観て、(ツッコミ側として設定された)観客が「何やってんだコイツ」と笑う、という構図になっている。この意味で「せっせっせいや」の核は<裏>にある。
  オフィシャルな方法は残されていないのであまり良くないが、可能であれば関西では年末恒例の番組「オールザッツ漫才2017」で「せっせっせいや」が披露された際の動画を観て欲しい。ここではツッコミの粗品さんがいるのでより見やすくはなっているが、執拗に繰り返される「せっせっせいや」のグルーヴ感にカタルシスさえ覚えるような時間になっている。当時、画面の前で衝撃を受けたのをよく覚えている。

<裏>と<表>の奇妙な共存

 さて、少し話がややこしいのはここからである。お笑いにおいて、<裏>を狙ったつもりが<表>になる、ということは往々にしてある。つまり「せっせっせいや」において、(本来記号的な役割を担うはずの)ネタ部分がそのままウケてしまう、ということだ。その場合はブリッジはそのままブリッジとして機能して、本来の=<表>としてのリズムネタが成立するという事態が発生する。

 「せっせっせいや」が学生に真似されるとか、(上述のようなお笑いの目線を持っていない)一般の人にとっても面白いものになる、というのはまさにそういう事態である。ここからは私の勝手な推測だが、本来モノマネを始めてとして何でも器用にこなすせいやさんであるから、出る番組によってネタ部分がそのまま<表>でウケるような作りに対応していたように思う(テレビで幾度となく「せっせっせいや」を観たが、もちろんすべてのテレビ出演をチェックしているわけではないので何とも言えないが)。

 ただ先に述べたオールザッツ漫才というのは関西の非常に伝統あるネタ番組で、観客席には大量の芸人が座し、そして観客も普段からライブに行きまくってるような人たちばかり、というセッティングである。そこでは以上のような文脈がかなりのレベルで共有されていたために、「常軌を逸したレベルで『せっせっせいや』という『ブリッジ』を繰り返す」というボケが成立したのだ。
 冒頭で挙げたYouTube動画でも、「せっせっせいや」の2回目で笑いが起きているのは、ネタ自体はあの場にいる全員が知っているはずなので、「この人『例の知っているアレ』をやってるわ」というので、ネタからブリッジに移行する際に笑っている。つまりあれはわかりやすく、完全に<裏>である。

おわりに

 少し前も『千鳥のクセがスゴいネタGP』という番組に出ていて、スタジオの千鳥はツッコミ側として<裏>になりつつも、ゲストの女性は<表>で笑う、という興味深い構図になっていた*1

 改めて「せっせっせいや」は、このように<裏>と<表>が絶妙なバランスでせめぎ合いながら同居している不思議なネタである。観るたびにどこがどのように受けるかが違っているような印象を受ける。この記事を読まれた方は、また今度「せっせっせいや」のネタを観る際は、違った目線で楽しんでいただきたい。

*1:『クセスゴGP』は、ポップの皮を被った、コアなお笑いファン層向けのネタ番組である。<裏>の笑いも多くあるのだが、<表>としての笑いも演出上担保されているので、結果的に一般層もコア層も楽しめるという稀有な番組だと思う。加えて最近で言うと、『有吉の壁』の「ブレイク芸人選手権」もそうである。本来あれは、まさしくゼロ年代のエンタ芸人のパロディであり、その文脈を理解しているお笑いファン向けの企画なのだが、それが時折まっすぐに面白いネタが生まれてくるのだから不思議である。
 このように、主目的は<裏>だがお茶の間的には<表>、という奇妙な同居を果たしている番組はある意味無敵である。個人的な話になるが、これだと家のテレビでかけていても(非-お笑いファンの)家族にも好評なのでありがたい。

1/3も伝わらない

 人と話すときに、うまく言葉が出てこないと思うことが増えた。相手の立場、考え、感情を理解することが難しいから、というのも理由として確かにある。ずっと思ってきたことだし、今なお誰かを「わかる」ことの暴力性に怯えている。

 しかしそれより、自分の頭の中にあることが、私の口から発した言葉を介して相手の頭の中で再生成されたときに、元々のそれと全く同じ形をしているのだろうか、ということが今はすごく怖い。ただそれでも、相手が目の前にいる以上はだんまりを決めこむわけにはいかない。相手の発した言葉に対して自分も何かを発さなければならない。言葉のキャッチボールとはよく言ったものだ。たとえ明後日の方向にボールが飛んでいこうとも、投げ返さなければ全くもって話にならない。

 わかっている。そもそも、自分の頭の中をそっくりそのまま相手に移植することはできない。自分が思っていたことがAだとしたら、発した言葉はA'で、相手の頭の中に入る頃にはA''くらいになっている。BとかCになっていることもあるだろう。そうやって誤解されるリスクを背負いながら、あるいは、間違ったところは修正しながら相手と関わる、それが会話だ。私たちがやっているのはテレパシーではない。

 それをわかったうえで、私は、自分の口から出てくる言葉の精度の低さに俄然としてしまう。自分の頭の中にあることの1/3も伝わらない。喋りながら自分の表現の拙さを強く自覚するし、あとでその会話を反芻していると数え切れないほど修正テープを引きたいところが出てくる。とにかく即応的な言葉のラリーが苦手なのだ。善良な相手と話しながら、自分の口からろくでもない不良品たちがぼろぼろと溢れるのを舌先で感じ続けるのは、たいへんなストレスだ(一方で、自意識過剰のナルシシズムだと言われたらそれも否定できない)。

 はじめに「増えた」と書いたが、ほんとうに増えたのかどうかはわからない。もしかしたら人と会う機会が減って、一つ一つの会話を振り返る時間が長くなったからそう思うだけなのかもしれない。いずれにせよ、この話から何か一つでも教訓を得るとすれば、それは相手もまた「1/3も伝わらない」と思っている可能性についてなのかもしれない。

毎週チェックしてるラジオ・テレビ・ネット配信

※2020年11月15日現在の記録です(随時更新)。

ラジオ

月曜日

21:00~21:30 かまいたちのヘイ!タクシー(TBS)

火曜日

23:30~24:00 エビ中☆なんやねん(MBSラジオ

24:00~25:00 アルコ&ピース D.C.GARAGE(TBS)

木曜日

24:00~25:00 ハライチのターン!(TBS)

金曜日

21:00~23:00 沈黙の金曜日(FM FUJI

26:45〜27:00 宮下草薙の15分(文化放送

土曜日

23:30〜24:00 真空ジェシカのラジオ父ちゃん(TBS)

25:00~27:00 オードリーのANN(ニッポン放送

27:30〜28:00 空気階段の踊り場(TBS)

日曜日

20:00~22:00 有吉弘行のSunday Night Dreamer(JFN

テレビ(TVerなし)

水曜日

22:00〜22:57 水曜日のダウンタウン(TBS)

木曜日

23:15〜24:15 アメトーークテレビ朝日

金曜日

23:40〜24:10 ネタパレ(フジテレビ)

土曜日

22:10〜22:53 有田P おもてなす(NHK

日曜日

23:25~23:55 ダウンタウンガキの使いやあらへんで!(日本テレビ

テレビ(TVerあり)

月曜日

24:58〜25:28 有田ジェネレーション(TBS)

26:16〜26:36 かまいガチ(テレビ朝日

火曜

23:15〜24:15 ロンドンハーツ(テレビ朝日

23:17〜24:17 相席食堂(ABCテレビ

25:56〜26:16 にゅーくりぃむ(テレビ朝日

水曜日

19:00〜19:56 有吉の壁(日本テレビ

木曜日

21:00〜21:54 千鳥のクセがスゴいネタGP(フジテレビ)

金曜日

26:40〜27:00 ももクロちゃんと!(テレビ朝日

土曜日

22:30〜23:00 勇者ああああ〜ゲーム知識ゼロでもなんとなく見られるゲーム番組〜(テレビ東京

25:45〜26:10 ゴッドタン(テレビ東京

26:10〜26:35 そろそろ にちようチャップリンテレビ東京

日曜日

21:55〜22:25 爆笑問題&霜降り明星のシンパイ賞‼︎

22:25〜22:55 テレビ千鳥

ネットラジオ

月曜

20:00〜 錦鯉の人生五十年(GERA)

木曜

20:00〜 ヒコロヒーのストロベリーワンピース(GERA)

20:00〜 ウエストランドのぶちラジ!(YouTube

土曜

20:00〜 ゲラステ(GERA)

ネット番組

月曜日

24:45〜 しくじり学園お笑い研究部(AbemaTV)

水曜日

23:00~24:00 チャンスの時間(AbemaTV)

医学・医療に関する人文書 おすすめリスト

 タイトルにある通り、「医学・医療に関する人文書」という縛りで、オススメしたいと思った書籍を紹介します。イメージは、何の前知識もない人が私のデスクにふらっと来て、「何か面白い本ないですかー?」と聞かれたときに、とりあえずの鉄板として提示する書籍たち、みたいな感じです。
 なお、面白いと思った本はどんどん追加していくので、本記事は随時更新されます(最終更新:2020/10/02)。

1. シリーズ「ケアをひらく」

 まずは分野別の括りではなく、全医学生に知って欲しいシリーズを紹介したいと思います。それは医学書院の「ケアをひらく」です。医療に関わる人文系の書籍をコンスタントに出版し続けている優れた企画で、医療者に限らない読者を獲得し続けており、2019年に、第73回毎日出版文化賞の企画部門も受賞しました。

武井麻子『感情と看護』(医学書院、2001)

 少し昔の本ですが、「感情労働」という言葉を医療界に広めた一冊です。コロナ禍の今、しばしばニュースでも聞く言葉ですし、実際に看護師の経験がある方が書かれていて読みやすいので、一度読んでみてはいかがでしょうか。

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川口有美子『逝かない身体』(医学書院、2009)

 ALSの母を介護した経験を、非常にリアリティを持った筆致で描く。”母は口では死にたいと言い、ALSを患った心身のつらさはわかってほしかったのだが、死んでいくことには同意してほしくなかったのである。(46ページ)”という一節が非常に印象に残っています。

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村上靖彦『摘便とお花見: 看護の語りの現象学』(医学書院、2013)

 看護師の語りを「現象学」という哲学の一分野の手法を用いて分析し、看護という営みの何たるかに迫る。研究書ですが、読み物としても一つ一つのストーリーが面白いです。医療と現象学に関する本については、後でも紹介します。

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國分功一郎『中動態の世界』(医学書院、2017)

 こちらは少し読むには手強いですが、医療界に留まらず大きな話題になり、そして今なお様々な文献で引用されている重要な一冊です。「意志」とは何か、「責任」とは何か、を根元から問う。中身はかなりゴリゴリの哲学書ですが、それが医療の文脈で出版されているというのが面白い。ちょっとした紹介記事を書いたことあるのでお時間あればどうぞ。

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satzdachs.hatenablog.com

東畑開人『居るのはつらいよ:ケアとセラピーについての覚書』(医学書院、2019)

 臨床心理士である著者が、精神科のデイケアでの経験をもとに、ただ「居る」とはどういうことか論じる。比較的軽い筆致でサクサク読めます。

www.igaku-shoin.co.jp

頭木弘樹『食べることと出すこと』(医学書院、2020)

 26冊紹介しているなかで、何か一冊だけ選べと言われれば、迷わずこの本を選びます。潰瘍性大腸炎の患者の体験が豊かな筆致で書かれているというだけで読む価値がありますが、それに加えて他者を「わかる」とはどういうことなのか、を考えることのできる一冊。「ためらい」を持つということ。

www.igaku-shoin.co.jp

 以上は私が読んだ本に限定した紹介でしたが、他にも面白い本がたくさんあるので興味のある方は以下をご確認ください。
医学書院/シリーズ書籍:シリーズ ケアをひらく

2. 読み物いろいろ

Danielle Ofri『医師の感情:「平静の心」がゆれるとき』(医学書院、2016)

 タイトルにある「平静の心」は、ウィリアム・オスラーの有名な書籍からのサンプリングです。医師が様々な(人間らしい)感情を抱く様を、ここまで書いていいのかというくらいに、鮮烈に描いています。読みやすいし面白いでかなりたくさんの人にこの本をおしてきました。

www.igaku-shoin.co.jp

アトゥール・ガワンデ『死すべき定め』(みすず書房、2016)

 現役外科医であると同時に、「ニューヨーカー」誌のライターでもある著者が、「死」をテーマに描く医療ノンフィクション。ガワンデが他に出している『医師は最善を尽くしているか』も面白いです。

www.msz.co.jp

孫大輔『対話する医療』(さくら舎、2018)

 「対話」というキーワードを通じて、医療実践の話から哲学の話まで、幅広く話題が及びます。家庭医療に関心のある人にオススメ。

sakurasha.com

大竹文雄・平井啓編著『医療現場の行動経済学』(東洋経済新報社、2018)

 『予想どおりに不合理』によってブームになった行動経済学の立場から、医療現場で一見「不合理」に思える行動を分析していく。これもかなり実践に近い話です。

str.toyokeizai.net

3-1. 医学哲学

杉岡良彦『哲学としての医学概論』(春秋社、2014)

 その昔、医学を哲学的に論じる学問(=『医学概論』)を創設したフランス哲学者・澤瀉久敬という人物がいたのですが、その精神を受け継ぐ著者が、現在の医療の諸問題を考察していく。疑似科学あるいは代替医療の問題にもなかなかヒリヒリする形で切り込んでいて、読み応えがあります。気軽に読める感じではないかも。

www.shunjusha.co.jp

中川米造『医療の原点』(岩波書店、1996)

 中川米造は澤瀉の弟子にあたる人物で、『医学概論』を拡大・発展させ、哲学に留まらない人文学・社会科学の視座から医学を論じました。少し古い本ですが、示唆に富む記述がたくさんあります。

www.iwanami.co.jp

行岡哲男『医療とは何か』(河出ブックス、2012)

 救急医の著者が、フッサールウィトゲンシュタインに基づいて、医療における意志決定を論じる。「納得を確かめ合う言語ゲーム」というのはかなり有用な概念だと思っているのですが、なかなか人口に膾炙しませんね。少し前の医学界新聞で取り上げられていました。
医学書院/週刊医学界新聞(第3358号 2020年02月10日)

www.kawade.co.jp

3-2. 医療と現象学

榊原哲也『医療ケアを問いなおすー患者をトータルにみることの現象学』(ちくま書房、2018)

 まさに「医療者向けの現象学入門書」といったところです。読んでいて十分に説明されていないと感じるところもありますが、一冊目に手に取る本としては悪くないと思います。

www.chikumashobo.co.jp

西村ユミ『語りかける身体』(講談社学術文庫、2018)

 植物状態の患者と日々接する看護師の語りを現象学の立場から分析しています。現象学的看護研究は今少しずつ知見が積み重なりつつある分野ですが、そのバイブル的な位置づけの一冊です。

bookclub.kodansha.co.jp

4. 医療人類学

 文化人類学というのは、「文化」という概念を中心に、参与観察と呼ばれるフィールドワーク的な研究手法を用いて、自分にとって異世界である社会を観察・記述・分析する学問です。特に医療が話題になるとき「医療人類学」と呼ばれます。私が最も関心のある分野なので、ここが一番紹介する本が多いです。

satzdachs.hatenablog.com

アーサー・クラインマン『病いの語り―慢性の病いをめぐる臨床人類学』(誠信書房、1996)

 「医療人類学」に関する書籍で最も知名度が高いのはこの本ではないでしょうか。精神科医であり人類学者である著者が、患者の「病いの語り」を分析した一冊。書籍に「臨床人類学」と冠しているように、医療人類学の中でも特に臨床現場で問題になるテーマを扱っており、説明モデルexplanatory modelを始めとする重要な諸概念が示されています。分厚いですがそれなりに読めると思います。これを読んでもっと勉強したいと思った方は、この系譜に連なる本としてバイロン・グッドの『医療・合理性・経験』があります。

www.seishinshobo.co.jp

江口重幸『病いは物語であるー文化精神医学という問い』(金剛出版、2019)

 上述の、クラインマン、グッド(+マッティングリー)あたりの、解釈学的なアプローチをとる臨床人類学についての知見が非常によくまとまっている。(論集の宿命なので仕方がないとは言え)同じ内容の繰り返しが多いのが難点だが、「「大きな物語の終焉」以降の精神医学・医療の現在」「病いは物語りである」「病いの経験を聴く」「病いの経験とエスノグラフィー」の4つくらいを読めば、上述の分野の概要を掴むのに持ってこいだと思う。

www.kongoshuppan.co.jp

ロバート・D・マーフィー『ボディ・サイレント』(平凡社ライブラリー、2006)

 脊椎に腫瘍ができ、自らの体が弱っていく過程を文化人類学的に分析した一冊です。オート・エスノグラフィーという、ややマニアックな手法を用いているのですが、非常に読みやすく、かつ、文化人類学の面白さがダイレクトに伝わる書籍ではないかと思っています。

www.heibonsha.co.jp

satzdachs.hatenablog.com

磯野真穂『医療者が語る答えなき世界 ーー「いのちの守り人」の人類学』(ちくま新書、2017)

 医療における様々な場面を文化人類学者のスコープを通して見ていく。アカデミックな本とは言い難いですが、気軽に手にとる一冊としては良いのかなと思います。

www.chikumashobo.co.jp

アネマリー・モル『多としての身体』(水声社、2016)

 動脈硬化という病気が、オランダの大学病院においてどのように「存在」しているのかを論じていきます。人類学のいわゆる「存在論的転回」という新しい流れに影響を与えている重要な一冊でありながら、ある程度とっつきやすさはあるので、興味のある方は読んでみてはいかがでしょうか。

www.suiseisha.net

アネマリー・モル『ケアのロジック』(水声社、2020)

 「自由に選択してもよい。ただしその結果についての責任はすべて患者が負うべきだ」という「選択のロジック」で議論し続けるには弊害があるとして、支配—自由という対立軸からケア—ネグレクトという対立軸を設定し直すことを目指す。これを私は傑作だと思っています。(医師がこれまで経験談的に書き散らしてきた)病院における「ケアのロジック」を丁寧に人文社会科学の言語で描く。

www.suiseisha.net

フレデリック・ケック『流感世界』(水声社、2017)

 こちらも上と同じく、水声社存在論的転回に関する書籍を出版するシリーズから出ている一冊です。インフルエンザウイルスのパンデミックを、香港・中国を中心に、日本・カンボジアを含めたアジア全域にわたって著者は追いかけていて、このコロナのパンデミック以降にわかに取り沙汰される本となりました。

www.suiseisha.net

ジョアオ・ビール『ヴィータ』(みすず書房、2019)

 こちらは鈍器レベルに分厚く、難解な箇所も多いので初心者に薦めるような本ではないのですが、余りに素晴らしい一冊なので掲載させていただきました。ブラジル南部の保護施設「ヴィータ」(行き場をなくした薬物依存症患者・精神病患者・高齢者が死を待つだけの場所)で出会ったカタリナという一人の女性の人生を追いながら、その個別的な生のリアルから、新自由主義の影響のもと格差の広がったブラジルの現実が立体的に浮き上がってくる。そして書籍のラストでは、文学的と言ってもいいような素晴らしい余韻を残します。マーガレット・ミード賞ほか数々の賞を受賞し、近年の人類学の書籍の中でも抜きんでた傑作と言われています。

www.msz.co.jp

池田光穂・奥野克巳編『医療人類学のレッスン』(学陽書房、2007)

 学問の網羅的な入門書は最初に読むと退屈なので、上にあげた書籍を読んだ上で興味を持った方はこちらをどうぞ。

www.gakuyo.co.jp

5. 医療社会学

美馬達哉『生を治める術としての近代医療―フーコー「監獄の誕生」を読み直す』(現代書館、2015)

 医療社会学の本として、本当は同じ著者の『リスク化される身体』を紹介したいのですが、そちらは積読状態なのでこちらを紹介します。この本は、ミシェル・フーコーの「監獄の誕生」の紹介でありながら、フーコーの思想全体を見渡せるようになっており、かつ医療社会学の重要テーマもいくつか論じられているとても面白い一冊になっています。ある程度の前知識がないと厳しいかもしれません。

www.gendaishokan.co.jp

ロバート・N・プロクター『健康帝国ナチス』(草思社、2015)

 これを医療社会学の本とするかは微妙ですが、生権力に関連するものとして、「どうしてナチスは国民に健康であることを強いたのか」を論じたこの本を紹介しておきます。挿絵として紹介されている当時の広告の数々が興味深いです。

www.soshisha.com

6. 医学史

グレゴワール・シャマユー『人体実験の哲学』(明石書店、2018)

 歴史学まっすぐの本というより、フーコーの再来と一部で言われている(らしい)著者が、人体実験について、歴史学・哲学・社会学など多角的な視野から論じた一冊です。分厚いですが強くオススメします。以前紹介記事を書きました。

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satzdachs.hatenablog.com

 

酒井シヅ『病が語る日本史』(講談社学術文庫、2002)

 「日本人がいかに病いと闘ってきたか」を論じる、文化史・社会史的な本です。文庫本ですが内容はかなり骨太です。

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<お笑いと社会 第2回> バラエティ番組の「いじり」は「いじめ」なのか

 前回は、ごっこ遊びの定義と日常世界における「いじり」について考えました。今回はまずその内容をおさらいしてから、バラエティ番組における「いじり」について考えてみましょう。なるべく前回を読まなくても本記事だけで内容を理解できるように書こうと思っていますが、不十分なところがあれば適宜参照してください。

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 なお、本稿は以下の記事の内容をもとに全面的に加筆・修正しております。

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第Ⅰ部 「いじり」というごっこ遊び(前回のおさらい)

1-1. 「ごっこ遊び」とは

 はじめに、分析哲学ウォルトン(K. Walton: 1939-)の「ごっこ遊び(a game of make-believe)」という概念について紹介したいと思います。怪獣ごっこをする父と子供を考えてみましょう。

>父親は「本当に」怪獣ではないが、まるで怪獣であるかのように振る舞う。
>子供は「本当に」怪獣がその場にいると思っているわけではないが、まるで怪獣が目の前にいるかのように振る舞う。
>そしてお互いの虚構性(本当は怪獣は存在しない・本当に怪獣だと思っていない)に明示的に言及しない。

 怪獣がその場にいると「思っている」けど「思っていない」、このアンヴィヴァレントな状態がごっこ遊びの核心です。ここで「思っている」というのは、ウォルトン流には「虚構的真理を信じている」という表現になります。この「虚構的真理」とは、「怪獣が存在する」というようなテーゼも「虚構の世界の中では」という注釈をつければ真であるとみなす考え方のことです。また、ここで「思っていない」とは、「虚構が虚構であると分かっている」ということを指します。
 そしてこのごっこ遊びが終わるのは、「虚構性に明示的に言及する」ときです。怪獣ごっこの途中に、子供がふと「お父さん、怪獣のマネ上手いね」と話しかけた暁には、父親は先程までのテンションで「グオー」と喚くことはできませんね。

1-2. 「いじり」と「いじめ」

 私の考えでは、「いじり」というのはごっこ遊びの一つとして理解することができます。

>Aが、「本当に」悪意を持っているわけではないが、まるで悪意を持っているかのように表面上は振る舞いながら、Bに関する何かしらについて言及する。
>Bが、それを言われて「本当に」気分を害したわけではないが、まるで気分を害したかのように振る舞う。
>そしてお互いの虚構性(本当は悪意を持っていない・気分を害していない)に明示的に言及しない。

 そしてこれを踏まえると「いじめ」は、以下の条件のうち少なくとも一つを満たすものとして理解することができます。

>Aが、Bに関する何かしらについて「本当に」悪意をもって(相手を傷つけようとして)言及する。
>Bが、それを言われて「本当に」気分を害する(怒る/悲しむ)。

1-3. 「いじめじゃなくて、いじりでした」—遡及的な事実の改竄

 「いじり」には、二つの特徴があります。

①今から行うやりとりが「いじり」であるということは、事前に共通了解として持っている必要があるが、それは「暗黙のうちに」行われるものである。
 ※なぜなら、明示的に言及すると「虚構性」が崩れてしまうから。
②「いじり」における虚構的真理は、外部の人間が見て判断できない内面の部分(「悪意を持って」や「気分を害して」)である。

 だから、もし「本当に」Aが悪意をもっていたとしても、「自分は『本当は』悪意がなかったし、Bも『本当に』気分を害しているとは思わなかった(=ごっこ遊びが成立していると思い込んでいた)」という、遡及的な事実の改竄ができてしますのです。
 あるいは、Bが「最初は嫌だったけど、反応を変えると笑いが起きるようになり、その場が明るくなった」というように、B自身がその遡及的な事実の改竄に加担さえすることもあります。そしてそれが「いじめをいじりに変えた」という美談になってしまうのは、全くもって歪んだ世界です。

1-4. 日常生活における「いじり」の本来的な問題

 それでは、B本人が「自分の意思で『いじられ』ている。『本当は』傷ついていないから大丈夫」と思っていれば、それでよいのでしょうか?
 そんなことはなく、実はいじりというごっこ遊びに参加「せざるを得ない」状況に置かれている可能性を考えなければなりません。周りの「マジになるなよ〜w」というレスポンス、あるいはそういう返しが来るだろうというBの先回りの予見によって、「本当に」傷つく権利が周りによって抑圧されてしまうのです。この「『本当は悪意を持っていない』という暗黙の前提を分かっていない奴」になってしまうことの恐怖は、「いじる側」と「いじられる側」が本来的に孕んでいる非対称性・権力関係を端的に表しています。

 さらにその「いじり」が、「デブ」や「ブス」といった容姿差別的な言明であった場合は、ルッキズム的価値観の強化・再生産に加担しているという問題も発生します。

1-5. 「いじり」の3条件

 ここまで議論したうえで、日常生活における「いじり」を擁護するのは大変難しいです。しかしもし許される「いじり」が存在するとすれば、最低限それは以下のような条件を満たすべきだと現時点で考えています。

(A) 「いじり」が発生する前に、お互いが十分に良好な関係を築いている(そしてそのことをはっきりと双方が共通理解として持っている)
(B) 相手の本当に嫌なことは言わない
(C) 相手が嫌かどうかに関わらず、社会的に容認できない価値観は採用しない
この、「いじり」という「ごっこ遊び」が成立する信頼関係のことを、「内輪」と呼ぶ。

  今後、「いじり」という「ごっこ遊び」が成立する信頼関係のことを、「内輪」と呼ぶことにしましょう。

第Ⅱ部 バラエティ番組における「いじり」

2-1. バラエティ番組は芸人どうしの「内輪」である

 例えば体重が100kgを超えていて「お前はデブだ」といじられている芸人Bを考えてみましょう。ある芸人Aが、直接的な表現か暗示的な表現かはさておき、太っていることを嘲るようなことを言う。芸人Bは怒ってそれに言い返す。また周りの芸人が別の言葉を返す。今度は芸人Bはしゅんとして、悲しそうな顔をする。
 これがもし「いじり」である限りは、そのすべてが本当であるわけではなくて、先述の議論と同様に以下のような構図が成り立ちます。

>Aが、「本当に」悪意を持っているわけではないが、まるで悪意を持っているかのように表面上は振る舞いながら、Bをデブだと言う。
>Bが、それを言われて「本当に」気分を害したわけではないが、まるで気分を害したかのように振る舞う。
>そしてお互いの虚構性(本当は悪意を持っていない・気分を害していない)に明示的に言及しない。

 よく「芸人はプロフェッショナルである」という言説は聞きますが、それはすなわち、彼らは同意の上で芸人という職業として罵り/罵られているということを意味します。芸人同士の信頼関係=「内輪」のなかで、「いじり」というごっこ遊びをしているのだと。
 しかしこのやりとりが「いじめ」なのではないか、と批判されることが増えてきたのがここ十数年です。そしてそれに対するバラエティ番組側からの反論は、お世辞にも上手くいっているとは言えません。なぜなのでしょう。

2-2. コント番組とバラエティ番組における虚構性の比較

 その理由を考えるためにまずは、議論の下地として、コント番組の虚構性とバラエティ番組のそれを比較してみましょう。
 芸人が何らかの役を演じるということが明示的に分かるコント作品では、(ごく一部の例外を除いて)そこで描かれているのは明らかに虚構の世界ですし、観客側も皆そのことを承知しています。そこに出演する人、描かれるもの、そのすべてが虚構的真理です。

 一方で、バラエティ番組は、基本的にリアルな、現実世界に存在する人間が出演しているという前提に立っています。BならばBという人間として出演をします。これは注釈なしの真理です。さらに「Bが太っている」というのもまた真です。客観的指標として体重あるいはBMIによって「太っている」ということは示されますし、そもそもBの姿をパッと見ればそれはすぐに分かることでしょう。
 そんな「本当のこと」で埋め尽くされたなかで、微妙に虚構にスライドする部分が存在します。それが、「悪意をもって」と「気分を害して」というところです。これは前回の日常生活における「いじり」の議論でも見たように、外部の人間が見て判断できない内面の部分で、非常にわかりにくいのです。

2-3. バラエティ番組で笑うということ

 それでは次に、視聴者がバラエティ番組を観て笑うときにどのようなことが起こっているのかを考えてみましょう。
 太っている芸人Bがいて、芸人Aが「デブだ」と貶める。これがもしドキュメンタリー(現実世界の話)だとしたら、これはただのいじめであり、Bに優越感を感じ笑うというのは、いじめに加担しているということです。しかし上述のように、バラエティ番組での芸人のやりとりはフィクションですから、あなたが倫理的に許容されない存在になることは回避されます。一方で、「ただの演技」と思う(=虚構世界を外から見る)だけでは笑いは起きません。
 だから視聴者は、バラエティ番組という「虚構世界の中では」という条件付きではありますが、「太っている芸人Bが、芸人Aに『デブだ』と貶められ、傷ついている」ということが真だと思わなければなりません。つまりそれは視聴者が、虚構的真理を信じるということです。この構図を整理すると以下のようになります。

>Aが、本当に悪意を持っているわけではないが、まるで悪意を持っているかのように表面上は振る舞いながら、Bに関する何かしらについて言及する。
>Bが、それを言われて本当に気分を害したわけではないが、まるで気分を害したかのように振る舞う。
>Cが、Aが本当に悪意を持っているわけでもBが本当に気分を害しているわけでもないことは知っているが、まるでAが悪意を持っていてBが気分を害したものとしてそのやりとりをみる。
>そしてA, B, Cいずれも、その虚構性(本当は悪意を持っていない・気分を害していない・本当は「悪意を持っている・気分を害している」と思ってない)に明示的に言及しない。

 つまり視聴者がテレビの中の「いじり」で笑うということは、そのごっこ遊びに新たに(「観る立場」として)参加することを意味します。演者A(いじる側)・演者B(いじられる側)の共犯関係に視聴者も加わることで、「内輪」が拡張されていくのです。
 実はこれについて似たようなことをバナナマンの設楽さんが言っていて、前回「内輪」という言葉を持ち出してきたのもその影響です。タレントどうしの「内輪ネタ」に終始するバラエティ番組は時代錯誤なのだ、と主張する宇野常寛さんに対して、設楽さんはこう返します。

設楽:要はどんだけ巻き込むかのことをやってるか、しかないんだよね、実は。クラスの仲良しグループが友だちの話してることでゲラゲラ笑ったりしてるのを、オレらは規模をどんどんデカくしてるだけなんだよね、仕事的にはね。だからその、どこまでが内輪ネタかにもよるけど、この人(=宇野)がおもしろいと思うネタが、もしかしたら内輪ネタの領域に入る可能性もあるもんね。 

 そして設楽さんのこの発言を知ったのは、飲用さんというテレビウォッチャーの方の素晴らしい論考なのですが、この記事からは他にも重要な示唆をいくつも得られるので、また本稿の最後で触れたいと思います。ひとまずは、バラエティ番組の「いじり」に対する批判についての論考に戻りましょう。

第Ⅲ部 バラエティ番組における「いじり」は「いじめ」なのか?

3-1. バラエティ番組を批判する人は、何をどう見ているのか

 さて、そんなバラエティ番組でのやりとりを観た人が、「Bに対してやっていることはいじめだ!」と批判したとします。その人はバラエティ番組の抱える虚構性を鑑みず、(Bと周りの人間関係・やりとり・外に表現している感情を含めた)番組の全てを「本当のこと」として捉えていることになります。「現実世界」に起こっている「いじめ」を目の当たりにして、彼ら/彼女らは批判をするわけです。
 このとき批判したのは、ごっこ遊びに参加していない、つまり「内輪」の外にいる人たちなのです。
 お笑い好きはそのたびに憤慨するわけですが、しかし考えてみると、こういう批判が出てくることはある意味当然であるとも言えます。なぜなら先ほど触れたように、明らかに虚構であるコント作品などと比べて、バラエティ番組における虚構へのスライドは極めて微妙なものなのです。バラエティ番組に親しみのない人が、Bが現実世界に存在するBという人間として出演しているのを観て、それを「あの人はある部分で演じている」とはつゆとも思わないのは仕方がないと思います。 

3-2. 「バラエティ番組のいじりは、いじめではない!」と反論するのはなぜ難しいか

 「Bに対してやっていることはいじめだ!」という批判に対して、バラエティ番組を擁護する術はあるのでしょうか?
 真っ先に思いつくのは「バラエティ番組の芸人どうしのやりとりは虚構だ、だからいじめではない」と言うことです。しかし前回も書いたように、「いじり」であるという前提は、事前に暗黙のうちに共通了解として持っている必要があります。このように虚構性に明示的に言及することは、虚構に降りていた視聴者すべてを現実世界に引き戻し、「虚構の中において」という接頭句付きで真だったもの(=虚構的真理)が真でなくなることを意味します。そして「虚構を外から見ている」あなただけが後に残され、バラエティ番組のいじりで笑うというごっこ遊びからは離脱を余儀なくされるのです。
 つまり、ごっこ遊びを守ろうとしたまさにその行動が、ごっこ遊びを成立させなくしてしまうのです。だから誰も「あれはフィクションなんだ」とはっきりと言えず、批判に対して口ごもるのです。

第Ⅳ部 バラエティ番組の責任

4-1. 松本人志の「名言」

  ここまで、バラエティ番組に対して擁護的に書いてきました。しかしながら、これまで論じたような問題を解決しさえすれば、バラエティ番組の「いじり」に批判されるべき点はないのかというと、そんなことはありません。
 1994年に発売され、250万部を超える大ベストセラーとなった松本人志さんの『遺書』に、以下のような一節があります。

百歩譲って、オレの番組が子どもに悪影響だったとしよう。でも、それなら親であるあなた方が、『マネしてはいけませんよ』と言えばいい。たかだか一時間の番組の、ほんの数分間の一コーナーの影響力に、あなたたち、親の影響力は劣っているのか?

 これはしばしば「名言」であるかのように紹介される一節です。私も、かつては格好いい発言だと思っていました。しかし次節の議論を見ると、簡単にこんなことは言えないのだということがわかります。

4-2. 社会的に容認できない価値観の強化・再生産

 冒頭の「いじり」の例では敢えて「デブ」という言葉を用いた例を使用しましたが、これは紛れもなくルッキズム(容姿が魅力的でないと考えられる人々に対する差別的取り扱い)です。その様子をバラエティ番組としてテレビが放映することは、例えその本人どうしが同意のもとでやっている(=「内輪」の関係にある)のだとしても、そのルッキズム的な価値観を容認するメッセージを世の中に発信することになります。テレビの前の視聴者は「別に、『いじり』なら『デブ』って言っても良いんだ」と納得し、彼ら/彼女らは日常生活で同様の言動をすることを正当化します。そして言われた側は、「いじり」にして「面白く」返すことを(暗黙のうちに、時には明示的なルールとして)求められることになるのです。
 ルッキズムの強化・再生産という問題は、前回の日常生活の個人的なやりとりでも取り上げましたが、それが何百万・何千万という人が観るメディアであればなおさら深刻であるということは、言わずもがなです。つまり松本さんのあの発言は、バラエティ番組の責任の重さをひどく軽視したものです。
 今回はルッキズムに限定して話しましたが、そのほかの問題(特にジェンダー関係)についても、お笑いという言説(ディスクール)が、権力関係のもとで再生産・強化してきた知識への反省というのは、今後、徹底的に行われなければなりません。

4-3. 「いじり」の本来的な非対称性

 それでは、社会的に容認できない価値観を含まない「いじり」なら全く問題がないのかというと、そんなことはありません。これも前回と同様の議論ですが、「いじり」には「いじる側」と「いじられる側」という本来的に非対称性な関係があります。「テレビで観たから」という理由で、本人が望んでいないにも関わらず「いじり」というごっこ遊びに参加せざるを得ない状況に置かれてしまう人が現れてしまう。
 「いじり」の3条件が非常に厳しい基準を設けているように、「内輪」の形成には十分過ぎるほどの信頼関係が必要です。それを、いくらテレビのなかのお笑い芸人たちが「プロフェッショナル」としてやっているからといって、それを観た視聴者たちのパーソナルなやりとりで同じことが言えることは全くないのです。
 これは一部の視聴者がテレビのことを「わかっていない」とかそういう話ではなくて、メディアが社会の価値形成に与える影響の大きさをもっと自覚しなければならない、ということです。

結:終わらないごっこ遊び

 本稿を終える前に、「バラエティ番組のいじりは、いじめではない!」という批判に対する反論について、もう少し考えてみましょう。
 たとえば怪獣ごっこについて、先述したようにその最中に「これはごっこ遊びですよ」って言ってしまうと、確かにそこで遊びは終わってしまいます。しかしごっこ遊びがしたい子供は、最初に「怪獣ごっこしようよ」と言いますし、終わったあとには「怪獣ごっこ楽しかったね」と言います。つまり、ごっこ遊びの外側でその虚構性に明示的に言及することは、別にその面白さを削がないのではないか、と考えることもできます。
 しかしそれでも口ごもる人が多いのは、バラエティ番組自身が、どこからどこまでが虚構かよくわからなくなり始めているからではないでしょうか。「リアルであること」を志向した結果、番組の内部はもちろん、オンエアが終わったあとも(出演者のキャラやプライベートという形で)終わらない「ごっこ遊び」が続いている。
 バラエティ番組の「外部のなさ」が顕著になってきているからこそ、ごっこ遊びの「外側」に出て虚構性に明示的に言及する試みは常に失敗し、「内側」でその面白みを決定的に削いでしまうのです。

 この「外部のなさ」は非常に危険です。なぜなら「本当に」悪意を持っていない・「本当に」気分を害していないという虚構性は、まさにその「外部」の存在によって担保されていたからです。それがなくなれば、ごっこ遊びはいつまで経っても終わらず、あとには「いじめ」という現実が残るのみです。
 だから私は、バラエティ番組の仕組みを語ることはその面白みを削がないし、むしろごっこ遊びの「外側」を守るために重要な働きであると信じて、この文章を書いています。

 さて次回は、「なぜテレビと視聴者のごっこ遊びが成立しなくなったのか?」について考えたいと思います。それには主要な論点は2つあるでしょう。1つは、つい先ほど論じたように、バラティ番組の「外部のなさ」が問題です。もう1つは、飲用さんのブログを引用しながら既に言及したように、演者A-演者B-視聴者という「内輪」が切断されつつあるという事態です。
 元々はバラエティ番組を観るのが大好きで、だからこそ「いじり」と「いじめ」の問題について論じてきたのですが、考えれば考えるほど、擁護できる部分が低くなっていくのを感じます。しかし今後も、あくまでフェアな立場からこの問題を考えていければと思っています。