わが街を歩く

 家からほとんど出ない生活が始まってから、一ヶ月以上が経とうとしている。ストレスの溜まっている友人たちも多いように見受けられるが、私は根っからの引きこもり体質であるから、実を言うとそこまで苦ではない。むしろ、家にこもることが積極的に推奨されるこの世の中において、何の後ろめたさもなく一日中ひたすら読書できる生活を満喫してさえいる。
 私は特に運動が好きなわけでもないので、永遠に家から出ないまま日々を過ごしていても、別にそれはそれでいい。しかし一応はやはり健康のことを考えて、二日か三日に一回くらいは散歩に出かけることにしている。もちろん遠出はできないので、家から徒歩圏内の場所を歩きまわるわけだが、普通に散歩しても面白くないので、ひとつ自分にルールを課すことにした。それは、「知らない場所」を探すことだ。

画像1

こんな階段あったんだ。

 すると、徒歩30分、いや15分圏内においてさえも、意外と「知らない場所」が多くあることに驚く。出不精な性格と、あとは中学から府外の私立校に通っていた影響もあるのかもしれないが、自分の住んでいる街にここまで行ったことない場所があるとは思わなかった。幼稚園や小学校への通学路、あるいはバス停やスーパーに至る道など、よく通った/通るところしか私は見えていなかったのだ。いずれにせよ、私は毎回プチ探検隊のような新鮮な気持ちで、わが街を歩くのを楽しんでいる。

画像2

この溝、めちゃくちゃ見たことある。

 一方で、「忘れていたが、知っている場所」に唐突に出会うこともある。写真はある公園と隣の家の間にある溝(と言っていいのか分からないが、ともかくそれに類するスペース)なのだが、先日これを見た瞬間、「子供の頃、ここをよく走ってたわ」と鮮烈に思い出した。完全に記憶の彼方に消えていたが、しかしここは確かに自分の「知っている場所」だった。それ以降、私が隊長であり全メンバーである探検隊は、未知の場所の探究に加え、忘れさられた「かの地」の捜索も使命となった。

画像3

昔ここの地面に散らばっていた黄色いBB弾は、もうなかった。

 今まで全く習慣ではなかった散歩のおかげで、私は、わが街(仮に××町としよう)について一ヶ月前よりも知っている。しかしそれは同時に、以前の私は××町について知らないことがたくさんあったことを意味する。ということは私は、これまで××町については知っているようで何も知らなかったというのだろうか? いやそれを言ってしまえば、探検を進めている今でさえも、××町について「知っている」と果たして言えるのだろうか?
 少し話を整理しよう。わが街には、私の「知っている場所」「忘れていたが、知っている場所」「知らない場所」がある。××町はそこまで広くないとは言っても、「知らない場所」の全てを自分の足でめぐるのは相当骨の折れる作業であるし、また同じ理由で「忘れていたが、知っている場所」もどこかに存在し続けるであろう。つまり、「すべて」を「知っている場所」にできないなかで、××町を「知っている」と言うにはどれだけの条件が揃えばよいのだろうか、というのがここで提起されている問題である。

 結論を言ってしまうと私は、一ヶ月前の自分も××町について「知っていた」し、今の自分も××町について「知っている」と言い切ってしまってよいと考えている。その理由は、ある学問を「知っている」とは果たしてどういうことなのか、という問いに対する答えと発想を同じにする。
 学問を「学ぶ」こと、ある分野を「知る」ことについて、一冊の本に基づいて考えていく備忘録を、いつか書こうと思っている。

画像4

何の?

つづく。

コロナ禍の卒前医学教育を、学生と教員で考える——今こそ「そもそも論」を

 私は、医学部医学科6年の学生です。このような状況下で、今後の実習がどうなるか、あるいはマッチングや国試も通常通り行われるのか、同級生たちのなかで日々不安が高まっているのを感じます。

1. 「学生の教育参画」とは

 このような有事には、大学において教員側からのトップダウンで物事が決定していくことが多々あります。世間の状況や病院の方針がある中で、「これ以外にあり得ない」という選択が存在するのは確かですし、また、情報の統制という意味でもそうした方が効果的な場面があるのも理解しています。
 しかし一方で、教育を受ける主体はあくまで学生です。その学生の意見が取り入れられることなしに「全てが」進んでいくというのは、適切な状況であるとは到底言えません。平時からも繰り返し言及されていた「学生の教育参画」*1ですが、このコロナ禍にあって、その重要性がより一層増していると私は考えます。
 ところで、「学生と教員とが協働して」と言うのは簡単ですが、それはどのようにして達成されるのでしょうか? 「学生の声を取り入れる」というのは、アンケートをとればそれで大丈夫なのでしょうか? これまで、教員が「上手くコミュニケーションをとれない」と感じたり、学生が「自分たちの意見が十分に反映されていない」という不満を持ったり、あるいは教員と学生の溝がかえって深まってしまったり……という経験はないでしょうか?
 本稿では、いかにして学生と教員の相互方向のコミュニケーション を築き上げ、このコロナ禍における卒前医学教育で最善を尽くすことができるのか、弊大学における学生有志の団体(仮に「A」とします)がかねてから行っている「学生と教員の懇談会」の知見をもとに論じたいと思います。

2. 今必要なのは「そもそも論」である

 先述したように、新型コロナウイルスの感染拡大の煽りを受け、全国医学部における授業・実習が、オンラインに移行もしくは中止になっています。2020年4月27日現在、緊急事態宣言が出ているのは5月初頭までですが、その頃には全てが収束しているという楽観的な見込みを抱いている人はもはやほとんどいないでしょう。少なくとも今年中は、あらゆることをこれまで通りに(十全に)行うことはできないという前提で話を進めなければならないと思います。
 そうなると必然的に、「最低限残さなければならないもの」が何なのかということが議論になります。多くの部分を断念しその残りもオンラインに移行せざるを得ないにしても、「それでも絶対にやらなければならないこと」とは何か。
 これはすなわち、一言で言うと「そもそも論」の重要性を指し示しています。臨床実習を行なってきたけれども、その目的とはそもそも何だったのか。教員はそもそも実習で何を学んでほしいと思っていて、そして学生はそもそも何を学びたいと思っているのか。コロナによってこれまでの手段のほとんど全ての変更を余儀なくされた今、学生と教員が「そもそも論」から話し始めなければならないときです。

3. 「学生と教員の懇談会」の概要

 Aでは、このような状況になる前から、「そもそも論」から卒前医学教育を考える試みとして、「学生と教員の懇談会」を開催してきました。元々は、以前行なっていた、医学部教授が一堂に会するFDワークショップにおける「学生アンケートの報告」という形式での教育参画への反省から、この取り組みは生まれました。その報告においては、学生が自らの学習効果の改善のために、授業あるいはカリキュラムの問題点について多数決方式で意見を募り、「こうすべきだ」という要望は学生のなかで既に決まったものとして提示されていました。
 しかしながら学生が「個々人の学習理解」の向上しか考えていないと視野狭窄に陥り、教員の意図や、大学の構造的制約について無知なまま、自分の見えている範囲だけで発言することになります。 また、「目標の固定化」によって学生の不満や要求の一方的な突きつけになり、教員との対立構造を生み、教員・大学からのフィードバックに対する柔軟さを失います*2。 さらにそれが、教員からの学生に対する説教(=これもまた、一方的なメッセージ)を惹起することもありました。 
 このような反省を踏まえて、Aは学生アンケートの報告という参画の仕方を改め、2016年から「学生と教員の懇談会」という取り組みを探索的に始めました。
 「学生と教員の懇談会」の基本コンセプトは、学生数名と教員数名が集まって「そもそも論から議論する」ことです。どのテーマにも共通する主要な問いは、以下の3つです。

(ア)学生自身は、「そもそも」教育に何を望んでいるのか
(イ)教員自身は、「そもそも」何を目指して教育をしているのか
(ウ)「そもそも」大学および社会における構造的制約とは何なのか

 これを学生と教員とで議論することになるのですが、Aのこれまでの経験上、ただ場を設定すれば自然とそのような議論が可能になるわけではありません。様々な前準備が必要であったり、また「懇談会」本番において工夫しなければならない点・気を付けなければならない点が多々あります。
 それを全て実現しようとすると多大な労力がいるため、実現可能性も考慮した上で「学生と教員の懇談会」を今実施するならこうすべきなのではないか、という案をまとめました。その概要および各段階で注意する点は以下の通りです。

(1) 学生全体向けのアンケート(オンライン講義やコロナ下での臨床実習の方向性等について)を実施する
 ①「何%か」の数字をとりたい箇所と、「なぜそう思うのか」を問いたい箇所を、意識して分ける
 ②後者について、なるべく自由記述欄を増やす
(2) 「懇談会」に参加する学生のみで議論する
 ①アンケート結果を眺めながら、フォーカスしたいテーマを設定する
 ②自分の意見の理由(ア)や、予想され得る反論(イ)、あり得る構造的制約(ウ)等について、学生だけで可能な分はこの段階で議論しておく
(3)学生数名と教員数名で「学生と教員の懇談会」を行う
 ①「そもそも論」から考える——同じ立場から医学教育を俯瞰する
 ②参加する学生に「代表性」を求めない
 ③議論し尽くされた後の最後の手段が「多数決」である

 

4. 「学生と教員の懇談会」の詳細

 以下、先にあげた概要について補足説明をしていきます。

(1) 学生全体向けのアンケート(オンライン講義やコロナ下での臨床実習の方向性等について)を実施する

 こちらでやはり重要なのは、「自由記述欄」です。オープン・クエスチョンにすることによって、アンケートを書く全ての学生を、「一個人の意見」としてこれ以降の段階においても尊重することができます。これらは全てカットあるいは編集することなく、教員にすべて渡すべき資料です。リーダビリティを考えると、ある程度は同じような意見をグルーピングするのもよいかもしれませんが、あまりやり過ぎると意見の多様性がかき消される可能性があることには留意しておいてください。
 また、数字をとりたいところも、あくまで全体像を把握するためであり、この時点で「賛成か/反対か」を直ちに迫るような(あるいはこの「投票」によって物事が決定されると思わせるような)構成にならない方が良いかと思います。後に書きますが、「多数決」は議論が醸成した上で最後にとるべき選択肢です。
 もちろん、テーマや緊急性によってはこれは当てはまりません。

(2) 「懇談会」に参加する学生のみで議論する

 これは、もし学生に意欲があって、かつ負担になり過ぎなければですが、前日に一時間だけ喋るという形式でも行ったほうがよいと考えています。理由は、学生と教員がスケジュールを合わせて話し合いの場を持つというだけで大変ですし、限られた時間の中で最大限建設的な議論をするためにも、学生だけで考えられる部分は事前にやっておいたほうが良いと考えるためです。
 ここで強調しておかなければならないことは、話したいテーマを抽出した上で、あくまで以下の問いに照らし合わせて考えるということです。つまりここにおいて、学生たちが共通の意見(common vision*3)にまとまる必要はなく、「学生と教員の懇談会」での「そもそも論」への助走というイメージです。ここには「代表性」の問題が関わってくるのですが、これについても後で書きます。

(ア)学生自身は、「そもそも」教育に何を望んでいるのか
(イ)教員自身は、「そもそも」何を目指して教育をしているのか
(ウ)「そもそも」大学および社会における構造的制約とは何なのか

 学生側だけに事前の議論が必要で、じゃあ教員側は事前に十分な議論をし尽くしているのか、という点については、学生の私からの提言に含めるべき内容ではないので、言及していません。が、基本的に医学教育に携わっている教員の方々は、今は特に毎日のように講義・実習をどうすべきかという点について議論されていることと想像します。私が付け加えることが何かあるとすれば、(1)の段階でとったアンケートを見ながら、教員の方々だけで同様に事前に議論する場を作っておいてくれると、とても嬉しいです。

(3)学生数名と教員数名で「学生と教員の懇談会」を行う

 繰り返しになってしまうのでもう何度も書きませんが、大事なのは「学生vs教員」の対立構造を無闇に作らず、「そもそも論」から考えることです。

"そもそも臨床実習って何のためにあるものなのだろうか?"

 そのような問いに始まり、同じ立場から医学教育を俯瞰して、どうしたら学生・教員・大学にとって良い方向に進んでいくのかをともに考える。そういうスタンスが、誰しもが「十全な」条件でできない今の状況で、最も大切なことではないかと考えます。
 さらに大事なこととして、参加する学生に「代表性」を求め(過ぎ)ないことです。「代表性」を求めることには、二つの弊害があります。一つ目は、参加する学生にとって重いプレッシャーになることです。特に今、自分の意見によってカリキュラムが決定的に変わるとなると、そのような責任を負いたくないという気持ちが働いて、教育について意見をするのを躊躇ってしまうでしょう。
 二つ目は、懇談会に出る(実際に意見してくれる)わずか数名の学生に「代表性」を求めることは、互いに微妙に異なって様々な背景があるはずの「学生たち」を、一つの集団として均質化させてしまうことに繋がるからです。「そもそも論」を積み上げていく上で、一つ一つの意見はそれ自体として検討されるべき価値を持っています。よって、<自らの意見の一般化には限界があることを理解しつつ><代表性から自由な個々の人間として><カリキュラム、コミュニティを俯瞰して教育のあり方を考える>フィロソフィーを学生と教員とで最初に互いに確認してから、会を始めるべきでしょう。
 そして、例えば臨床実習をどうするかについてなら、そもそもそれは何のためにあるのか、学生は何を望んでいるのか、教員は何を教えるべきと考えているか、大学および社会全体における構造的制約は何か、それぞれについて充分に検討し、そして全学生に周知した上でようやくとられるべき方法が、多数決になるでしょう。

5. おわりに

 以上が、私の提案する「学生と教員の懇談会」のコンセプトです。今は誰しも大変な状況ですが、私が何か力になれることはないかと思い、本稿を書かせていただきました。少しでも多くの医学生あるいは医学教育者の方々に読んでいただけますと幸いです。
 また、本ブログ記事を踏まえた論文が、『医学教育』誌から公開されました。

www.jstage.jst.go.jp

6.付録

 以下、「臨床実習」について「そもそも論」でから議論するにあたってどのような点を考慮すべきか、試論を置いておこうと思います。

(1)「オンライン講義&レポート提出」という代替案

 このような状況ですから、まずは敢えて構造的制約を出発点にして考えてみようと思います。このまま医学生が病院に立ち入ることができないという状況が継続し、かつ臨床実習を「完全に中止」にしないのであれば、「臨床実習がオンラインへ移行する」というのがあり得る帰結の一つでしょう。となると一番最初に思いつくのは、「①これまで臨床実習中に行われていた講義をオンラインで行う」ことと、「②(担当患者を割り振るかどうかはさておき)当該科に関する内容でレポートを書いて提出する」ことです。
 これによって、臨床実習が通常通りに行われれば教授されるはずだった「医学的知識」に対しては、ある程度補うことができるでしょう。しかし一方で、(ビデオを視聴するなどして一定のレベルの学習を行うことはできるかもしれませんが)「実際にその場にいて、やる」ことが必要不可欠である身体診察や臨床手技の教育については、十分に行うことができないかもしれません。そしてコミュニケーション教育については、患者と接することができない以上、かなり厳しいと言わざるを得ないでしょう。

(2) 医学的知識と身体診察・臨床手技とコミュニケーション能力と……あとは?

 ところで、この「医学的知識」と「身体診察・臨床手技」と「コミュニケーション能力」以外に、臨床実習の意義は存在しないのでしょうか? アンケートをとっているわけではないのでもちろん確証はありませんが、少なくない人がノーと答えるのではないでしょうか。ある人は、「病院や診療科の雰囲気を知る」ことや「医師の仕事がどういうものか学ぶ」ことが大事だと言うかもしれません。またある人は、「医師としてのプロフェッショナリズムを習得する上で必要不可欠な過程だ」と主張するかもしれません。またある人は、「実習を通じてなんとなく『医師』になっていったなあ」という素朴な実感を話すかもしれません。
 あくまで私の肌感覚ですが、臨床実習には、「皆がハッキリ言語化できるわけではないけど、医師になる上で何か重要なこと」が存在している(かつ、その存在を少なくない人が認識している)ように思います。臨床実習という場で、医学生が「医師になる」上で重要な「何事か」が起こっている。その、「何事か」とは何か?

(3) 医学教育モデル・コア・カリキュラムにおける臨床実習

 ここで、臨床実習の意義を考える素材として、「医学教育モデル・コア・カリキュラム」を見てみましょう。その概要は以下の通りです*4

 モデル・コア・カリキュラムは、各大学が策定する「カリキュラム」のうち、全大学で共通して取り組むべき「コア」の部分を抽出し、「モデル」として体系的に整理したものである。このため、従来どおり、各大学における具体的な医学教育は、学修時間数の3分の2程度を目安にモデル・コア・カリキュラムを参考とし、授業科目等の設定、教育手法や履修順序等残りの3分の1程度の内容は各大学が自主的に編成するものとする。

 「学修時間数の3分の2」を占めるわけですから、このモデル・コア・カリキュラムを参照することは、「臨床実習はそもそも何のためにあるのか?」という問いを考えるにあたって重要なことだと思います。莫大な量の記述があるのでその仔細な検討は難しいですが、どんなことが書かれているのかをざっと見てみましょう。
 「G 臨床実習」の章は、「G-1 診療の基本」「G-2 臨床推論」「G-3 基本的臨床手技」「G-4診療科臨床実習」の4つのセクションに分かれています。「G-2 臨床推論」と「G-3 基本的臨床手技」はタイトルから内容が大体推測できるとして、他の2つをこれから見ていきます。
 「G-1 診療の基本」は、さらに3つのセクションに分かれていて、それぞれ「G-1(1) 医師として求められる基本的な資質・能力」「G-1(2) 診療の基本」「G-1(3) 学生を信頼し任せられる役割」です。「G-1(1) 医師として求められる基本的な資質・能力」は別の章である「A 医師として求められる基本的な資質・能力」に基づいていて、そこに書かれているのは以下の通りです。先ほどの「プロフェッショナリズム」についてもきちんと明言されているわけですね。

1. プロフェッショナリズム
2. 医学知識と問題対応能力
3. 診療技能と患者ケア
4. コミュニケーション能力
5. チーム医療の実践
6. 医療の質と安全の管理
7. 社会における医療の実践
8. 科学的探究
9. 生涯にわたって共に学ぶ姿勢

 「G-1(2) 診療の基本」も別の章である「F 診療の基本」の内容を基盤としていて、それはには「症候・病態からのアプローチ」「基本的診療知識」「基本的診療技能」が含まれています。
 「G-1(3) 学生を信頼し任せられる役割」は面白い項目の名前ですが、「それぞれの診療科で『臨床実習で学生にどのような業務を信頼して任せることができ るか』『初期臨床研修の初日にできなければならない業務は何か』について考慮」するとあり、以下のようなかなり具体的かつ基本的な「医師の仕事」ができるようになることを求めています。

1. 病歴を聴取して身体診察を行う。
2. 鑑別診断を想定する。
3. 基本的な検査の結果を解釈する。
4. 処方を計画する。
5. 診療録(カルテ)を記載する。
6. 患者の状況について口頭でプレゼンテーションする。
7. 臨床上の問題を明確にしてエビデンスを収集する。
8. 患者さんの申し送りを行う・受け取る。
9. 多職種のチームで協働する。
10. 緊急性の高い患者さんの初期対応を行う。
11. インフォームド・コンセントを得る。
12. 基本的臨床手技を実施する。
13. 組織上の問題の同定と改善を通して医療安全に貢献する。

 「G-4 診療科臨床実習」は、まず「G-4(1) 必ず経験すべき診療科」と「G-4(2) それ以外の診療科」が挙げられているのですが、いずれの場合も「ねらい」として

1. 将来、該当診療科の医師にならない場合にも必要な該当診療科領域の診療能力について学ぶ。
2. 該当診療科の医師のイメージを獲得する。

 が書かれています。(私の個人的感想として)意外にも、「科のイメージを掴む」というような抽象的なことにまで言及されています。そして「G-4(3) 地域医療実習」「G-4(4) シミュレーション教育」と続きます。

(5) コアカリは「そもそも論」にどこまで有用か

 さて、話が錯綜としてきました。これでもかなり抜粋して書いたのですが、モデル・コア・カリキュラムは非常に情報量が多く、項目を追っていくだけで疲れました。それなりに臨床実習における様々な側面について目配りができているし、網羅性という意味では一定以上役に立つかもしれませんが、「臨床実習で何を教えるか」を議論するにあたって、この項目の全てを一つ一つ学生と教員で検討していく……というのはいささか現実的ではないでしょう。
 また、この「モデル・コア・カリキュラムに基づいて検討していく」という方法は、別の意味でも問題があると私は考えます。それは、「教えられること(教員が教えようと意図していること)」と「実際に学生が学ぶこと」は、全く違うとは言いませんが、必ずしも同じものとして考えられないからです。「コアカリを見れば教育の全てを考えられる」という思考からは、学生の実際の経験という観点がご反りと抜け落ちています。
 「そもそも論」における議論を今一度思い出すと、「そもそも教員は、どういうことを意図して教えているのか」、「そもそも学生が、臨床実習で何を学ぶことを望んでいるのか」という問いが重要です。それにあたってコアカリを傍らに置いておくのは有用かもしれませんが、教員の思い・学生の思い・大学および社会全体の構造的制約の3つが交わるなかで「結局学生は、臨床実習で実際に何を学んでいる/いたのか」を各大学の文脈で考えるには、話を整理するための何か他の軸(それもシンプルなもの)が必要であるように思えます。

(6) レイヴ&ヴェンガーにおける「アイデンティティ」概念

 先ほど、「何を教えているか」と「何を学んでいるか」は違うと書きました。それと同じことを主張している文献は既に存在して、それはレイヴ&ヴェンガー『状況に埋め込まれた学習』(産業図書, 1993)です。彼/彼女らは、学習を教育とは独立した営みであるとして、「学習は、本人が『学ぶという営みをどういう実践と捉えているか』に大部分が依存している」と主張しました。
 さらにレイヴ&ヴェンガーの議論の面白いのは、「学習者が何を学ぶのか」を追究した結果、学習が「職業アイデンティティ形成(professional identity formation)」の過程を成していると説いた点です。上に挙げた文献に於いて解説の福島真人は、ブルデューハビトゥスの概念を念頭に置きながら、以下のように論じます。

 社会実践をこうした実践の共同体内に定位することで、実践というものが、緩やかに変化する環境(それは実践共同体内での地位変化に対応するが)の中での、継続的な学習の過程であるという重要な帰結がここで得られることになる。ブルデュー流に言えば、暗黙の内に学習する能力を持つ社会的身体が、この緩やかな螺旋運動の中で、その親方に具体的に代表されている認知・判断・行為の全体的マトリクスを、その共同体に参加するという行為によって、自然と身体化していくという事なのである。それゆえ、ブルデューにおいて抽象的にハビトゥスと語られてきたものは、ここでは熟練のアイデンティティと呼ばれている。これが全人格的な「アイデンティティ」と呼ばれるのは、まさにそれが社会的身体の全領域を含んだ体得であり、決して単にある特殊技能の習得だけではないからである。しかもハビトゥス形成の過程がより具体的・視覚的に表現されている。(157ページ)

 ここでハビトゥスについて簡単に説明を加えておくと、しばしばそれは「構造化された構造であると同時に構造化する構造」であると言われます。呪文のような言葉なので少しずつ紐解いていくと、「構造化された構造」というのは、暗黙のうちに学びとられ、当事者の主観世界をいわば背後から基礎づける身体的な傾向性の基盤のことです。また、既に学習した身体が生み出す行動様式(=プラティック)は、全くの自由な実践(=プラクシス)ではなく、反省的思考によっては容易に変えられない緩やかな傾向性の制限の中で行動を再生産していく、という意味で、「構造化する構造」でもあります。
 また少し話が込み入ってしまいました。要は何が言いたかったのかというと、「何を学んでいるのか」を考えていった際にそこに「意図していないが、暗黙のうちに学んでいるもの」がある、ということがまず一つです。そして別の話として、「知識」と「技能」の他に、「アイデンティティ」形成のような、平たく言えば「医師らしさ」を獲得するような過程がある、というのがもう一つの話です。

(7) 私たちは、臨床実習で学んでいるのだろうか

 以上を話を全て踏まえて、「医学生が臨床実習で学んでいるもの」を整理する際に、以下の(A),(B)の2軸で考えることを提案します。

(A)
公式に学ぶだろうと期待されていること
非公式に、しかし意図的に学ぶだろうと期待されていること
意図していないが、しかし暗黙のうちに学んでいること

(B)
知識
技能
アイデンティティ(医師としてのハビトゥス

  この、3×3=9のマトリックスに応じて「臨床実習を学んでいくか」を考えていけば、整理された議論をすることが可能なのではないでしょうか。複雑過ぎず簡単過ぎず、必要十分な内容を目指したつもりです。これに加えて、コアカリ、そして各大学独自のシラバスを眺めながら議論していく、という形を想定しています。

(8) おわりに

 最初は現在の構造的制約から考え始めたはずが、最終的にはそれとはずいぶん飛躍した位置に着地しました。もともとこの文章を書くに至ったのは、このコロナ禍で「そもそも臨床実習は何のためにあるのか」という議論をしていくにあたって、「皆が皆きちんと言語化していないけど大事なもの」がこぼれ落ちていってしまうのを防ぎたくて、「いったい私たちは臨床実習で何を学んでいるのか」について言語化を目指した、というわけです。本稿で書いたような内容は、今の状況に限らず、今後も臨床実習を考えていく上で重要ではないかと考えます。何かご意見などありましたらコメント頂けますと幸いです。

*1:「医学教育分野別評価基準日本版 世界医学教育連盟(WFME)グローバルスタンダード 2015年版準拠」には、「カリキュラムの計画、運営、評価、および他の学生関連事項への学生の参画についての方針を持たなければならない」という記載があります。

http://ttps://www.jacme.or.jp/accreditation/wfmf.php (accessed 25 April, 2020

*2:学生エンゲージメントをどのように理解すればいいのか、ターミノロジーは基本的に以下の文献に拠っています。
Ashwin P, McVitty D. The meanings of student engagement: implications for policies and practices. The European higher education area. Springer, Cham, 2015, 343-59.

*3:例えば以下の文献でも、学生の教育参画についての論文は、「学生が『common vision』を持つべきだ」というような指摘が多く、それは一見もっともらしく聞こえますが、私は上述の理由でそれに対して疑問を抱いています。
Dhaese SAM, Van de Caveye I, Bussche PV, Bogaert S, De Maeseneer J. Student participation: To the benefit of both the student and the faculty. Education for Health 2015;28:79.

*4:医学教育モデル・コア・カリキュラム(平成28年度改訂版)
https://www.mext.go.jp/component/b_menu/shingi/toushin/__icsFiles/afieldfile/2017/06/28/1383961_01.pdf

人と出会うこと、そしてつながること

 本稿では、人と人のつながり、あるいは出会いにおいて、新型コロナウイルスの影響によってどのような変化が起こっているのか、思考の流れるままに追っていく。

* * *

 「オンライン飲み会」なるものが流行っている。zoomを始めとするビデオ会議システムを通じて、家にいながらにして知人たちと開催する「飲み会」のことだ。同世代の大学生の多いSNSのTLを眺めていると、頻繁に「zoom飲み」をしたという報告が流れてくる。大学での対面の授業が中止になり、外出を制限される中で、それもなお人との繋がりを希求する者たちの必然的な帰結として流行しているように思う。かく言う私も、少なくとも週に一回は親しい友人とコミュニケーションをとる時間がなければ、(実家暮らしとはいえ)対人関係に飢えてしまうだろう。
 以上の記述で想定していた「オンライン飲み会」は、コロナの騒動がなければface-to-faceで会っていたはずの人たちとのそれであり、失われた対人関係を取り戻すことを目指している。ただそのような単なる復旧だけではなく、本来会わなかったはずの人たちとの交流の場が新たに創出されるパターンもある。それは特に遠方の友人である。「いつか会おう」と話していた人が、「どうせ会えない」になり、「じゃあ今話そう」となってオンラインでの対面が実現する。私も、その思考の流れによって何人かの友人との久方ぶりの「再会」を果たした。
 この「再会」は、対面ではなくオンライン上であるからあくまで鉤かっこ付きの「再会」である。あくまで個人的な所感で恐縮だが、そこには絶対的な差異が存在する(ように感じる)。このまま友人たちと死ぬまで対面で会うことなしにオンラインで全てが事足りるのかというと、多くの人がそういうわけにはいかないというのが現状だろう。zoomで誰かと散々喋った後でもなお、私はその人に「会いたい」と思う。恐らくそれには「身体性」の議論、あるいは現状のビデオ通話における技術的問題も多分に関係していると思うが、その話題については別の機会に譲りたい。
 ともかくここで強調しておきたいのは、コロナによる外出自粛・3密回避の方針により、対人関係において決定的に喪失されたものがあるということである。

* * *

 さて、その「喪失されたもの」は私が思うに他にもある。それは<偶発的な出会い>である、と勝手にここで名付けておく。
 医学生である私にとって卑近な例で言えば、大学病院の北の端にある、学生用の更衣室前の休憩スペースになるだろう。そこでは実習前、大学に早く着いてしまった人が他の班員を待っている。あるいは実習の合間、中途半端な、家にいったん帰るほどでもない自由時間を与えられた人暇を潰している。あるいは実習終わり、その日の夕方から特に予定もなく、やるべきこともない人がダラダラしている。あるいは病院のWi-Fiでカルテを見ながらレポートを書きたい人が、イヤホンしながら作業している。
 そのような場においては、ある人がある時間にそこにいるということのほとんど全てが、意図したものではない。実習という医学生にとっての最大のタスクをこなす過程で、様々な外的要因に影響されながら、「更衣室前の休憩スペース」に寄ったり、寄らなかったりする。その結果、「休憩スペース」における出会いは純に偶発的なものとなる。
 特定の誰かに会うことを期待するわけではないが、時間があればとりあえず行ってみて、誰かいるならその人と話すし、いないならいないで少し時間を潰してから帰る。そのような<偶発的な出会い>は、実習が完全に中止になることにより失われてしまった。
 何もそれは「更衣室前の休憩スペース」にだけ存在するわけではない。私自身の他の例で言えば、「所属する部活の部室のソファー」がある。積極的に連絡をとってそこで落ち合うのではなくて、その時間にたまたま「部室のソファー」にいた人と喋る。その場にどれだけの時間いるのかということも、誰と何を話すかということも決まっていない。そこに<偶発的な出会い>がある。そして読者の皆さんも、それぞれの生活空間において<偶発的な出会い>があるのではないだろうか。
 そして次の問いは以下のようなものである。その<偶発的な出会い>の喪失は、どのような影響を私たちに与えるのだろうか?

* * *

 一つには、私が上にあげた例に限って言えばだが、Goffmanが言うところのBack stage(裏舞台)へのアクセスの制限が言えるのかもしれない。Gofmanは、「我々は、日常生活という舞台で、何らかの役割を演じながら生きている」という考え方を提示した(ドラマツルギー)。私たち医学生が、病院というFront stage(表舞台)で「実習生」という役割を演じているのだとすれば、「更衣室前の休憩スペース」は、その役割から自由になることのできるBack stageである。
 そこでは、臨床実習をするなかでの不満あるいは率直なコメント、目下最も重要である国試対策の進捗度やそれに関する所感、マッチング先の病院についての情報のやり取り、あるいは医学部コミュニティという村社会におけるゴシップ、など盛んにBack stageとしてのコミュニケーションが遂行されていた。なんとなくそれによって、積極的に求めずして、周りの学生と一定の情報、あるいは(同等に重要なこととして)感情も、共有できているような感触があった。
 しかし今やそれは全くアクセス不能であり、不可視なものになってしまった。多くの同級生とはSNSで繋がっているが、所詮そこに書かれることは(もちろんど真ん中ではないが)Front stageの延長上である。「休憩スペース」での発言の十倍希釈くらいのものしか見ることができない。このような状況にあっても連絡をとり、オンライン飲み会などの手段を通じて「わざわざ」繋がろうとはしない友人たちの存在が、一気に遠くなってしまった。
 このことは一方で、私たちのコミュニティが多分に選択的になっていることを意味する。「自分から連絡をとってオンラインでもコミュニケーションを取ろう」とする閾値がどこにあるのかは人それぞれだが、その閾値が高いにしろ低いにしろ、それは「ここからこっちの人とは『わざわざ』話す、ここからこっちの人は『わざわざ』話さない」と線引きすることである。冒頭に挙げた、「親密な友人」の場合も「遠方の友人」の場合も同じである。そこに偶然性は排除されている。否応なしに、たまたま、誰かと遭遇するという体験が失われてしまっている。
 <偶発的な出会い>は完全に失われてしまい、<意図的な出会い>のみがそこに残る。

* * *

 ここで大事なことは、<意図的な出会い>は、私たちがこれまで(対面で)つくりあげてきた紐帯によって初めて可能になる事象であるということである。(出会い系ツールなどの利用を除いて)お互いにまだ知らない人たちと、<意図的に出会う>ことは難しい。言ってみれば、コロナ以前の紐帯=過去の遺産があるからこそ、「こんなときだし/こんなときだけど、zoomで飲み会でもする?」という話が進むわけである。
 このことから、二つのことが言える。一つめは、普段から紐帯をうまく築けていなかった人にとって、今が大変厳しい局面であるということである(本人が紐帯を望んでいるかどうかはまた別の話だが)。以前にも増して互いに選択的になっていくコミュニティにおいて、疎外される人が発生してしまう可能性がある。
 もう一つは、今の時代において、人と<新たに出会う>ということがかなり難しくなっているということである。この文章は、今年大学一年生になったばかりの学生を想定して書いたが、新生活が始まってただでさえ不安ななか、授業が延期そしてオンラインになり、そして新たなコミュニティにおけるつながりも築きにくいとなると、ほんとうに辛い思いをしていることだと思う。学術面・金銭面におけるサポートはもちろんだが、彼らの心のサポートをするシステムも大学において機能することを願う。

* * *

 やや散漫に書いてきた。最後に話をまとめておく。
 私たちは今、互いにSocial distancingする世界に生きている。物理的な身体をもった存在として人と「出会う」ということと、画面を通じて人と「出会う」ということは、何かが決定的に異なる(ように思える)。そして人々の紐帯は、サイバー空間においてこれまでと全く異なるものとして急速に組み直されている。そこでは<偶発的な出会い>が失われ、<意図的な出会い>が圧倒的に優勢になる。すなわち既存の紐帯は互いに選択的なコミュニティに切り詰められ、また、これまでなかった紐帯が新たに生まれる可能性は限りなく狭められている。
 緊急事態宣言が解除される(と現時点では言われている)5月初旬を境に、たちまち「アフターコロナ」の時代に突入するという楽観的な見込みを持っている人はもうほとんどいないだろう。少なくともあと一年は、「ウィズコロナ」の時代として「これまで通りの」生活は送れないと考えたほうが良いと思う。夏以降、人と対面でのコミュニケーションがどこまで可能になっていくのかは現時点で全く分からないが、変わりゆく紐帯のなかでこぼれてしまう(そしてそれを望んでいない)人がひとりでも存在する限り、私たちはそこへのまなざし・想像力を忘れてはいけないと思う。

私たちは忘れっぽい——だから記録する

 少し前、Facebookを眺めているときに、ふと昔の飲み会の写真を見つけた。それは明らかに2年以上前のものだったが、私は反射的に「うわ、これだけ大人数でしかも密集して飲み食いしてる、大丈夫なんかこれ」と考えてしまった。そのときは、「三密」なんて考えなくてもよかったはずなのに。またある日、大好きな漫才の動画を観ていても、彼ら/彼女らの口から発せられる唾が気になってしまった。見えていないのに唾が見えてくる。
 最近はそんなことばかりだ。確実に、新型コロナ以降の思考に着々と頭が侵食され始めている。

* * *

 一方で、いつからこのような思考になってしまったのかというと、なかなかそれを思い出すことは難しい。変化はある日突然起こるわけではない——少なくとも、日本に住む私たちにとってはそうではなかった。COVID-19は初め、中国の武漢で発生した、(私たち=日本人の生活にはほとんど関係しないという意味において)「取るに足らない」新型ウイルスのひとつだった。しかしご存知の通り、COVID-19の猛威は世界全体に広がり、着実に日本人の生活世界も変えていった。そして今も現在進行形で変えている。
 さらに恐ろしいことに、私は、こうなってしまう前に世界がどんな姿をしていたのかさえも、思い出せなくなりつつある。今や、何十人・何百人・何千人も集まるイベントを<感染リスクを考えることなしに>開催できていたときの感覚が信じられない。<感染リスクを考えることなしに>マスクをしないで歩いていても白い目で見られることのない世界が遠い昔のようだ。<感染リスクを考えることなしに>愛すべき友人たちと膝を交えて——唾を飛ばしながら——話していた日も。
 そう、私(たち)は忘れっぽい。

* * *

 だからひとまず言えることとして、大事なことは、この変わりゆく世界を記録しておくことである。「世界」というと大仰な話に聞こえるかもしれないが、何も小難しい評論を求めているわけではない。私たちが日常において感じる小さな変化、あるいはそれについての省察、を何でもいいのでスマホのメモ帳にでも書きつけておくことである。そうでもしないと、私たちがかつてどう生きていて、それがどう変化して今どう生きていて、そしてこれからどう変化していくのか、すぐに分からなくなってしまう。どんなに微細な変化でも重要な意味を持ち得ると思う。逆に言うと、何が大事な変化で、何が大事でないのかは、常に「一週間先、どうなっているか分からない」世界に生きている今の私たちには到底語ることはできない。
 肝要なのは「変化」を感じた瞬間にすぐに書くということである。「当たり前」になってしまったことを記述するのは非常に難しい。なぜなら「当たり前」だからだ。自分の思考・行動に染み込んでしまった暗黙の前提を問い直すには準拠点がいる。(文化人類学ならその準拠点を異世界の他者に求めるだろうが)今の私たちは、「かつての世界」との比較によってしか「当たり前」を問い直すことできない。
 「当たり前」になり切ってしまう前に、「変化」をほんの少しでも嗅ぎ取れば、それが書くべき時である。

* * *

 世界に目を向けてみると、少し調べただけで、今このコロナ禍の経験を記録して集めることを目指すプロジェクトがいくつか見つかる。 

(1)CALL FOR PERSONAL ACCOUNTS AND REFLECTIONS ON EVERYDAY LIFE DURING THE COVID-19 PANDEMIC

(概要)カルチュラル・スタディーズの研究者と人類学者によるプロジェクト
(目的)COVID-19のパンデミックが、私たちの日常生活・経験がどのような影響をもたらしているのかを明らかにするため
(対象) 誰でも
(内容) ①日常において「感染」を予期するのはどんなときか
     ②日常でどのようなmoral questionが立ち上がったか
(形式) どんな形式でも可、長さ制限なし

(2) COVID-19 Global Health Diaries

(概要)国際政治学の研究者たちによるプロジェクト
(目的)個々人の記録を集めた上でどのように分析するかは明記されていない
(対象)誰でも
(内容)science-basedでもpersonalでも、何でも良い
(形式)old diaryの形式でも良いので、毎日800語書き続ける

(3) First Denial, Then Fear: Covid-19 Patients in Their Own Words

(概要)アメリカのサイトWIREDによるプロジェクト
(目的)このクライシスを経験している人たちのリアルタイムの声を捉える
(対象)誰でも
(内容)"Living with Covid-19"と"Critical Condition"の二つに分かれている
(形式)Twitterの呟きなど、最もラフなものも含めて拾っている

(4) Call for respiratory nurses to record Covid-19 experiences

(概要)Solent Universityの呼吸器看護師によるリサーチプロジェクト
(目的) 看護師の生の声を通じて、このコロナ禍にどのように対応し、あるいは何を学んだのか、互いに共有し合う
(対象)呼吸器看護師
(内容)臨床実践における省察、あるいは、日々感じるストレスについて
(形式)?

 私が調べ切れていないだけで、世界にはこのようなプロジェクトがまだまだあるだろう。

* * *

 一方日本では、調べてみたがあまりヒットすることはなかった。唯一私が現在知っているのは、知人がやっている以下のプロジェクトである。

(A) 私たちにとっての新型コロナウイルス 感染症-医療系学生・若手医療者の視点-

(概要)「人と医療の研究室」によるプロジェクト
(目的) 「ナラティヴのアーカイヴ」を作ること
(対象) 医療系学生・若手医療者
(内容)医療系学生・若手医療者が何を考え、どのように行動しているか
(形式)自由

 このような取り組みは今後増えてくると思う。もし現時点で、同様の取り組みを知っている方がいればぜひ共有して欲しい。
 また、このようにオープンな形でなくても、ある特定の職種の人たちに新型コロナによる変化・その省察についてのインタビュー研究が行われ始めているとも聞く。だからもしかしたら、まだ世に出ていないだけで、同じことを考えている人はもっとたくさんいるのかもしれない。

* * *

 自分の思考・経験について記録する際に、意識すると良い点が一つある。それは「他者の目を意識して書く」ということである。これは、その記録を公開するのか、クローズドなものに留めておくかに限らず、大事なことである。他の人に分かってもらおうとして初めて、その言語化する試みに引っ張られるようにして、思考が進んでいくことはままある。また、経験を記述する際、相手の頭に同じ映像を浮かべようと努力することによって、描写の解像度を上げることができる。

 繰り返しになるが、今は、COVID-19によって世界のあらゆる価値観が転覆し、露わになり、問い直され、目まぐるしく更新され続けている。いわゆる「アフターコロナ」と呼ばれるような時が来るのか、あるいは「ウィズコロナ」として歩んでいくことになるのか、それは今の段階では断言できないが、いずれにしても、この混乱の時代に起こるあらゆることは記録に値することであろう。後になって振り返って考証する際に、どんな個人の経験でも必ず貴重な資料になる。そしてそれは、まさに「今」しか書けないのである。

 ——私たちは忘れっぽい。だから、記録しよう。

桜が好きだ

 緊急事態宣言が出る前の日、私は木屋町通を歩いていた。当分は大阪の家からほとんど出ないことを見越して、大学の研究室から必要なものを引きあげる予定だった。
 阪急河原町駅から大学まで歩こうと思うとそれなりの距離がある。普段は京阪祇園四条駅で乗り換えるところをどうしてわざわざ木屋町通を歩いていたかというと、理由は一つ、桜が見たかったからだ。ピークは過ぎて少し葉桜になりかけていたが、十分に美しかった。想像はしていたが辺りに人は少なく、木屋町通りは不気味なほど静かだった。世界は柔らかに壊れていた。

画像1

 私は今年で24歳になるが、相変わらず、自分が何のために生きるのか分からない。干支を2周してもなおこんな中学生みたいな悩みを抱えているとは思わなかった。情けないが、実際に分からないし悩ましいので致し方ない。
 以前の備忘録でも書いたが、私は基本的に、何かに突き動かされているような気持ちを抱きながら生きている。

satzdachs.hatenablog.com

 [私の休日の過ごし方は]大抵は、本を読むか、研究を進めるか(あるいは義務として医学の勉強をするか)だ。それが自分のやりたいことだし楽しくて仕方がないので、別に苦ではない。ただそうしているとたまにどうしようもない閉塞感に苛まれて、何かを求めて「遊びに」行く。行ったら行ったでこれも楽しいなと思うけれど、でも結局、読まないといけない本・進めないといけない研究を思い出して焦燥感に駆られて、また部屋に籠る。こう思うとき、私にとって読書や研究は「やらなければいけないこと」になってしまっているのだろうか?

 コロナのせいでほとんど全ての予定がたち消え、今は自分の自由にできる時間が無限にある。そのことが余計に、「無駄に過ごしてはいけない」という気持ちを増幅させ、私はどうにもならない焦燥感のなかで毎日を過ごしている。
 論文を書く。学会の準備をする。論文を読む。本を読む。医学の勉強をする。一秒も「無駄に過ごした」と思いたくなくて、必死に毎日を過ごしている。

 自分にとって無為の時間が必要なのではないか、とは何となくずっと思っている。しかし無為の時間を過ごすことがとても苦手だ。無為を求めた瞬間にそれは無為でなくなってしまう。というか、そもそも無為の時間って何なのだろうか? みんなはどうやって無為を為しているのだろうか?

 有意義なこと。将来の何かにつながること。自分にとってためになること。自分が「〜のため」にがんじがらめになっているのは自覚している(そして私の「ためになるか」の定義はしばしば酷く恣意的だ)。
 意味性の呪縛は趣味の領域にも及ぶ。読書はずっと好きだが、純粋に楽しんで読んでいるより、必要な知識を手に入れるためにという意味合いが強くなってしまった。息抜きのために合間の時間にお笑いを観たりもする。しかしどうしても、これはどうやったら構造分析できるだろうと考え始めたり、あるいはポリティカルコレクトネス的に不適切なところがないか探したりしながら観てしまう。お笑いを好き過ぎるがゆえに評論を始めたことによって、評論が観賞を侵食し始めたような感じだ。目的をもってお笑いを観てしまう。
 以前に備忘録を投稿したときも、有難いことに多くの友人から「無為に過ごすこと」の重要性、あるいは「無為の過ごし方」についての指南をいただいた。にもかかわらず、恥ずかしながらどれも上手くいかなかった。私は相変わらず毎日をひたすらに焦りながら生きている。

画像2

 ハイデッガーによると、世界は広義の道具の連関として立ち現れる。例えば目の前にあるハンマーは、「目」で見られるよりも前に「手」に対して差し出されている。わたし(現存在)にとってハンマーは、「何かを打ち付けるためのもの」として出会われる(道具的存在)。ハイデッガーの言う道具の連関としての世界が、明確にあらわれるのは戦場や兵営においてである。すべてが「戦争資材」として整序されていく。
 現存在にとって世界はかくして「有意義性」においてあらわれ、その世界へと関わり、世界に住う存在として、すなわち「世界内存在」として、現存在は存在することになる。

画像3

 まだ緊急事態宣言が出るかも分からなかった一週間ほど前(というか私たちは今、つねに一週間先にどうなっているか分からない世界を生きているが)のことだ。私は今出川通から四条通まで、鴨川沿いを徒歩で移動した。もちろん京阪電車で南に下ったほうが早いので、明らかにタイムロスだ。でも私は先に書いたような息苦しい生活に風穴を開けたくて、時間がかかるの分かったうえでわざと歩いた。焦燥感や罪悪感といった感情が次々に去来してくるのを無視しながら、鴨川を歩いた。

 そこには桜が咲いていた。

 私には、美しいものを「愛でる」感覚のようなものが自分には欠けていると常々思っていた(美しいものを美しいと思う感覚とはまた別である)。しかしそのときに見た桜はほんとうに綺麗で、私は幸福感に満ちていて、いつまでも見ていられると思った。歩を緩め上を向きながら、普段は絶対にやらない写真をパシャパシャ撮った。
 そこで初めて、私は桜が好きだということを自覚した。思い返せば、桜が咲く季節、私はいつも浮かれていた。神宮丸太町駅から研究室に歩くまでの間に桜の木がいくつか生えているのだが、3月の暮れから徐々に開花していくにつれて、確かに私は毎年ワクワクしていた。明らかに自分の体温が一段階上がっていた。この感覚は明らかに他の花に抱くそれとは違うし、あるいは紅葉や雪とも違っていた。私のなかで、桜だけが特権的な位置を占めていた。

画像6

 先にも書いたように、ハイデッガーによると、<何が何のためのどのような道具であるかが了解されている、道具の連関としての世界>のなかで、現存在は「世界内存在」として生きているのだという。しかしそれに対してレヴィナスは、世界の一切が「道具」であるわけではない、と反論する。
 レヴィナスは、ハイデッガーの用いた戦場の例で説明する。「兵営」は寝るために、「掩蔽壕」は隠れるために存在する。この「ために」は、もはやそれ以上の「ために」を指示しない。道具的連関はそこで止み、むしろそれ自体が「目的」となり「糧」となる。レヴィナスはそう主張する。

 私たちは『おいしいスープ』、大気、光、風景、労働、観念、睡眠、等々によって生きている。これらは、表象の対象ではない。私たちはそれらによって生きているのである。道具を使用することは目的関連を前提し、他のものに対する依存をしるしつづけているけれども、これに対して、~によって生きることは自存性をえがきとっている。享受とその幸福の自存性は、いっさいの自存性の本源的な構図なのである。(レヴィナス『全体性と無限』)

 レヴィナスによると、享受というのは、「食べること」や「眠ること」といった行為を、何かの目的のために行うのではなく、それ自体を目的(糧)として味わうという、ひとの根底的な生のあり方である。ひとは呼吸するために呼吸し、飲食するために飲食し、散歩するために散歩する。そしてあのとき私は鴨川で、桜を見るために見ていた。あるいは桜を楽しむために楽しんでいた。桜を享受していた。

 効用もなく、純粋な損失として、無償に、他のなにものにも送り返されることなく、純粋な浪費として享受すること、ここに人間的なものがある。生きるとはたんなるたわむれであり、生の享受なのだ。(レヴィナス『全体性と無限』)

 そのような、生きること自体がすべてであるような生き方には、ひとが生きることに特別な理由はない。そんなことにはお構いなしに、ひとはこの世に放り出されている。(ハイデッガーの思想には、このような「世界が否応なく在る」という事柄の消息が失われている)。
 ひとの存在の根拠は、ひとが生きている事実それ自体にある。すでに事実として存在しているものには、その理由をあとづけで説明する必要はない。ひとは生きているそのことだけですばらしい存在者なのだ。レヴィナスはこのようにして、ひとが存在することについて必ず何か特別の理由を見出してきた西洋哲学の伝統から、自由になろうとした。レヴィナスの哲学は、私(たち)を意味性の呪縛から解放させてくれる可能性を持っている。

画像5

 それから一週間、暇があれば鴨川を散歩していた。そこで気付いたことがもうひとつある。
 桜が咲いていようがいまいが、私は鴨川を歩くのが好きだということだ。
 京都に住まう多くの大学生と同じように、鴨川には京都に来てからの思い出がたくさん詰まっている(そのほとんどは下らなくて陳腐で、学生生活の一回性という点においてのみ大きな意味を持つ)。しかしそういう文脈を抜きにしても、鴨川を歩くというそれ行為自体が、どういうわけか私を幸せにさせるのだ。春も、夏も、秋も、冬も、私は、鴨川が好きだ。これもまた確かに陳腐な感情なのだが、しかし自分にとっては紛うことなき事実だ。
 私はまた考える。意味性の呪縛から逃れるためには、こうやって、自分が享受できるという事実をひとつひとつ見つけていけばいいのだろうか?*1

画像4

*1:参照した文献は以下の通りです。
熊野純彦レヴィナス入門』(ちくま新書, 1999)
小阪修平『そうだったのか現代思想』(講談社+α文庫, 2002)
小林義之『レヴィナス 何のために生きるのか』(NHK出版, 2003)
榊原哲也『医療ケアを問いなおすーー患者をトータルにみることの現象学』(ちくま新書, 2018)

<旧版・お笑いと社会> 日常世界における「いじり」と「いじめ」

 前回まで、バラエティ番組における「いじり」と「いじめ」の関係について、ごっこ理論をヒントに考えてきました。

satzdachs.hatenablog.com

 今回は、日常生活でも頻繁にみられる「いじり」と「いじめ」の関係について考えていきたいと思います。

1. 「いじり」における虚構的真理とは

 「いじる」という言葉は、松本人志に端を発して、平成の30年間で市民権を得てきました。私たちの日常世界でも、「いじる」「いじられる」の関係はよく見られます。例えば私なら昔、よく滑舌の悪さについていじられていました。特にい段が苦手で、「き」「し」「ち」が言えず、「キッチン」や「チキン」「敷地」を発音させられて周りに笑われる、そして私が怒る、というやりとりをよくやったものです。
 それに私が嫌な思いをしていたかというと、そんなことはなく、仲の良い友達との一種の「お決まりの下り」として理解していました。改めて「ごっこ理論」の復習をすると、ここにおいて、「私の滑舌が悪い」ということ自体は真なのですが、

①周りの友達が私の滑舌の悪さを悪意をもって貶す。
②私がそれを言われて怒る/悲しむ。

 という「悪意をもって」と「怒る/悲しむ」の部分が虚構的真理です。周りの友達は「本当に」悪意をもって私のことを貶していないし、私も「本当に」怒っているわけではない。それが虚構であると暗黙のうちに分かったうえで、それでも、「本当に」貶された私が「本当に」怒っているものとして表面上のコミュニケーションがとり行われるのです。

2. 「いじり」は冗談関係の変奏である

 バラエティ番組では、それを観る視聴者がいて、彼ら/彼女らに準優越感を感じて笑わせるために「いじり」というものが存在するのでした。それでは、日常世界における「いじり」は何のために存在するのでしょうか?
 もちろん、私と友達Aのやりとりを見ている友達B,C,D……がいて、その人たちを笑わせるらため、もしくは私も友達Aも自己再帰的に自分たちのやりとりを見て笑うため、という風にバラエティ番組と同様に「観客」を立てて考察することもできるでしょう。しかしそれ以上に大事なことは、「いじり」を通じてお互いに仲の良さを確認し合うという役割があることです。

 文化人類学に、冗談関係 joking relationshipという概念があります。これを提唱したのはイギリスの社会人類学ラドクリフ・ブラウンで、彼は構造機能主義(ある制度や慣習を、その社会における機能という観点から考察すべきである)という立場にありました。
 ブラウンは、いくつかの部族社会をフィールド調査するなかで、既婚男性とその配偶者の母親との間で相手に無礼な文言を含む冗談が交わされることに気が付きました。そして彼はそれを、「夫と妻がそれぞれ持つ家族関係の衝突を未然に防ぐための、からかいや無礼なふるまいをお互いに許しあう親密な関係の形成」という機能を有する制度だと解釈しました*1
  ブラウンによる冗談関係の正確な定義は、「他の人をひやかしたり、からかったりし、そのからかわれ方は、それに対して何ら立腹してはならないという二者間の関係であり、それは習慣によって容認され、またある場合には強要されている」*2です。このように人類学の文脈においては、単に個人的に親しいという理由ではなく、あくまで制度的にこのような行為が容認される場合に用いられてきた*3単語です。しかし「からかいや無礼なふるまいをお互いに許しあう関係」が「良好な関係」を意味するという点では、現代日本社会における「いじり」と共通の発想を持つと考えられます。

 表面上は貶しているが「本当は」悪意があるわけではない、受け手も表面上は応答するが「本当は」怒っていない……「いじり」というごっこ遊びに内在する虚構性を暗黙のうちに共有し合っている、という事実がすなわち相手との良好な関係を意味するのです。そして「いじる」「いじられる」の日々の繰り返しが、その関係の強化につながります。

3. ハリセンボン近藤さんの事例

 つまり、すべての「いじり」は親しさを確認し合う機能のあるごっこ遊びであり、それは「いじめ」とは本質的に異なる……のでしょうか? ここからは、「いじり」の持ち得る加害性について考えていきたいと思います。
 2018年、芸人のハリセンボン近藤さんがバラエティ番組に出演し、自分が芸人となった原体験について話していました。

 近藤は小学生時代、「ブタ」と呼ばれていた。それに「シュン」と萎縮してしまうとクラス中が悲しい雰囲気になる。そこで、「ブタって何よ!」と傷ついていないかのように言い返すと笑いが起き、その場が明るくなった。その体験から、イジられても「変な空気にならずに笑いになることが一番平和」だということを感じ、芸人となった今も「ふってくれることに対しては絶対応えたいという気持ちでいる」。

 ざっと、彼女の発言を要約すると上述のようになります。Kとしては、「いじめ」もこちらの受け取り方によっては「いじり」に転化され、お互いにとって幸福な関係を築くことができるということを伝えたかったのだと思います。さて私は、この番組の後に、以下のようなツイートを見つけました。

 "ボクらの時代。ハリセンボンの近藤春菜が「小学生の頃、ブタ!と呼ばれたときに傷ついていないように見せかけてリアクションしたら笑いが起こった。それが自分の原点」という内容の話をしてて辛かった。他者の容姿を嘲るという小学生の教室と同レベルの笑いを大人たちがTVで繰り広げている異常さ。
「ブタと呼ばれたことで自分がシュンとなったらクラス中が悲しい雰囲気になる。変な空気にならずに笑いになることが一番平和というか」
 侮蔑的な言葉を投げかけられた小学生の女の子が自分の気持ちよりも周りの空気を優先させる。誰も傷ついていないという見せかけの平和の為に自分が犠牲になる。辛い"

 非常に重要な指摘です。このツイートの批判の矛先は、近藤さんの事例における「いじり」は勿論のこと、親しさを確認し合うコミュニケーションとしての「いじり」の多くにも向けられていると解釈できます。となると、冒頭で挙げた私の「いじり」の例も批判の対象になる可能性も十分にあります。
  さて、近藤さんの「いじり」の原体験は、一体何が問題だったのでしょうか? 以下、その問題点を大きく3つに分けて考えていきます。なお、この議論は以前書いた記事を下敷きにしながら、全面的に改稿して論点を整理し直しています。

satzdachs.hatenablog.com

4-1. 問題点① 遡及的な「虚構的真理」への転化

 まず最も大きな問題点は、近藤さんとその周りの同級生たちは(彼女の発言から判断するに)事前に良好な関係を築いていなかったということです。つまり同級生は「本当に」悪意をもって、ブタという言葉を本人を嘲笑する/傷つける意図で言おうとしていた。そして近藤さんは「本当に」悲しんでいた。これは虚構などではなく、れっきとした真実です。
 その後、近藤さんのリアクションによって教室は笑いに包まれ、彼女と同級生たちは「良好な関係」になりました。この「良好な関係」はすなわち「ごっこ遊び」の成立のことであり、「ブタ!」という言葉には「本当に」悪意があるわけではない、という解釈が付与されるということです。また同時に、近藤さんも「本当に」悲しんでいるわけではなかった。ここに虚構的真理ができあがる。
 しかしながら、ここでいくら強調してもし足りないことは、その虚構的真理への転化はあくまで遡及的retrospectiveであるということです。上に述べたように、同級生の近藤さんに対する態度は、最初はれっきとした「いじめ」でした。それが彼女の応答によって「あれはいじりだった」と遡及的に意味が変質してしまったのです。それに伴い同級生たちも「始めからこれは『いじり』でしたよ」という顔をすることが可能になり、彼ら/彼女らの罪悪感も軽くなったのではないでしょうか。

 ここに、「いじり」と「いじめ」問題についての最も難しい点の一つを見ることができます。今回は近藤さんのリアクションがありきの話ですが、仮にそういう反応が受け手側からなされなかったとしても、「あれは『本当に』悪意を持っていたわけではなかった」と遡及的に説明を与えることによって、「だから『いじめ』じゃなくて、『いじり』(のつもり)だった」という弁明が可能になってしまうわけです。これは、前回も書いた通り、「いじり」における虚構的真理は外部の人間が見て判断できない部分であるために起こることです。

4-2. 問題点② 近藤さんの「純粋な自由意志」なのか?

 話を近藤さんの事例に戻しましょう。先に引用したツイートは、以下のように続きます。

 "自分さえ耐えればその場の「平和」は保たれる。傷ついたこと、辛かったこと、意に反していたことを告発すれば厄介者扱いされる。被害を受けた側が自分を押し殺す。社会の至る所で見かける歪な構造。その再生産にTVが加担しているのは間違いないと思う"

 「再生産」については後で論じますが、ここで注目したいのは「意に反していた」という点です。つまりこのツイート主は、近藤さんは自ら望んでごっこ遊びに「した」わけではなく、無理やり共犯関係に「させられていた」という解釈なわけです。
 この意見に対し反論する人が一定数いるだろう、ということは容易に想像ができます。近藤さんが望んで「いじる」「いじられる」の関係をつくったのだ、現に、本人が番組で美談として話しているのがその証拠じゃないか、と。

 この、「近藤さんの純粋な自由意志だったのか?」という論点については、私が以前書いた記事の中の議論を紹介しながら考えていきましょう。

satzdachs.hatenablog.com

 例えばAさんがある病気で入院し、自分の治療方針を決定したという場面を想定します。その場合、医師に言われた説明が影響していることでしょう。家族に言われた言葉があったのかもしれません。そしてその家族は、本で読んだ同じ病気の患者のストーリーに感化されたのかもしれません。その本は、家族の友人によって薦められたものだったのかもしれません……この例から分かることは、行為の原因というのは、いくらでも、過去と周囲とに遡っていくことができるということです。
 ところが、意志という概念を使うと、その遡っていく線を切断することができます。「君の意志がこの行為の出発点になっている」と言えるわけです。Aさんが「自分で」治療方針を決めた。言い換えれば、意志は行為の因果関係の連関を切断することにより、見せかけの「純粋なゼロからの自発性」を生み出します。

 記事では、ここから「する―される」という対立の限界、そして「中動態」というかつてあった概念の紹介になるのですが、本稿ではそこまで深くには触れず、「純粋な自由意志」を想定した議論そのものに困難があるという指摘に留めておきましょう。そう考えると、近藤さんが自分の「純粋な自由意志」でごっこ遊びに転化させたのかどうか、という論じ方にはあまり意味がありません。
 そうではなく、ここで問題なのは彼女にそれ以外の選択肢がなかったことだと私は考えます。同級生たちに「ブタ!」と言われること、「シュン」とした空気になること、自分自身が傷つくこと……そんな苦しい状況の中で、その全てを解決する手段は、「いじりとして処理すること」だけだったのです。彼女の見ている世界では、現状を変えるにはそれしかなかった。「いじり」にすれば、同級生の反応は変わり、空気は明るくなり、自分も傷つかなくなる……その問題点は既に指摘した通りですが、しかし、彼女にとってその変化は救いだったのでしょう。
 敢えて「能動―受動」のパラダイムのままで表現するならば、近藤さんは自分で望んで「した」とも言えるし、「させられた」とも言えるのです。意志の在り処が曖昧になる「せざるを得ない」という表現が最も近いのかもしれません。近藤さんのその帰結を責めることはできませんが、しかし、「本人が『自分の意志で』リアクションしたと思って/語っていた」からと言ってただちに「いじめではない」と判断できない、ということがこれらの分析から分かります。

4-3. 問題点③ ルッキズムの再生産への加担

 ルッキズムLookismとは、容姿が魅力的でないと考えられる人々に対する差別的取り扱いのことです。同級生が「本当に」悪意をもって、ブタという言葉で近藤さんを嘲笑していたのは、明確にルッキズムです。
 しかしそれが遡及的に「いじり」へと転化され、「ブタ!」と言っていた同級生たちが免罪されることによって、「別に、ああいうことを言っても良かったんだ」とルッキズム的な価値観が正当化されてしまうのです。そして彼ら/彼女らは、悪びれることなく、また別の場面でも同じような言動を繰り返す。そして言われた側は、「いじり」にして「面白く」返すことを(暗黙のうちに、時には明示的なルールとして)求められる。
 このようにして、近藤さんのような「いじり」を許容することによって、ルッキズムが強化・再生産されてしまうのです。

5. 「いじり」の暫定的3条件

 以上、近藤さんの事例の問題点を大きく3つに分けて分析してきまいた。さてここからは、以上の議論を踏まえて、許される「いじり」が存在するとすれば、それはどのような条件を満たすべきなのか、を論じてみたいと思います。この部分に関しては私もまだまだ考えている途中なので、これはあくまで暫定的な案ですが、条件を3つに分けて書いてみました。

「いじり」の3条件
①「いじり」が発生する前に、お互いが十分に良好な関係を築いている
②相手の本当に嫌なことは言わない
③相手が嫌かどうかに関わらず、社会的に容認できない価値観は採用しない

 一つ目の条件で「前に」と書いたのは、遡及的に「ごっこ遊び」が成立されてしまうことを防ぐためです。二つ目は、虚構的真理が守られるために当然必要な条件です。そして最後が難しいところです。「以前から良好な関係であるAさんとBさんしかいないクローズドな場で、『ブタ!』と言うことが社会的に容認できない価値観であり、他の場面で適用されないということは分かった上で、お互いに完全に同意のもとでAさんがBさんを『ブタ!』といじる」ことは許されるかどうか、というのが争点です。悩みましたが、

・いくら「他の場面で適用されないということは分かった上で」とは言っても、このようなやりとりを日常で例外的に認めることによって、「社会的に容認できない価値観」を内面化そして再生産する潜在的なリスクを否定し切ることはできない。
・上述の「純粋な自由意志」の議論から、「完全に同意」があったとしても、受け手側がその「社会的に容認できない価値観」への抵抗感がある可能性を排除し切れない。

 という理由から、「相手が嫌かどうかに関わらず、社会的に容認できない価値観は採用しない」という記述にしました。

 こう書いてみると、当り前のようでいて、穴だらけな「3条件」であることが分かります。「十分に」とは何か、「良好な関係を築いている」という判断は誰がどのように担保するのか、「本当に嫌なこと」と言うときの「本当に」はゼロサムの表現だがそのように明確なラインはあるのか、同じく「本当に」の判断は誰がどのように担保するのか、「社会的に容認できない価値観」と言うが一体それは何を指しているのか、など、無限に問題があることが分かります(特に最後のやつはヘヴィです)。ですが紙幅の都合から、これらについてはまた別の機会で詳細に論じて固めることとして、ひとまずこの「3条件」を議論の下地としてここに置いておきたいと思います。

6. 終わりに

 これまで、バラエティ番組の「いじり」について、そして日常世界における「いじり」と「いじめ」について、それぞれ考えてきました。次回は、最終的に目指す議論である「バラエティ番組はいじめを助長するか」の前に、「バラエティ番組と内輪」について考えてみたいと思います。
 なお、「バラエティ番組」と書きましたが、本稿で取り上げた近藤さんが「いじり」について語っている(真面目な)トーク番組もまた、その議論の範疇に含めるべき対象であると考えています。

 ※以下、<お笑いと社会>についての連載を改稿して新しく始めています。

satzdachs.hatenablog.com

7. 【追記】それでも、と思うことが私にはある

 本稿を締めてしまう前に、少しだけ、書いておきたい話があります。かなり個人的な話を含みますし、本稿の論旨とは少しずれもするので、読み飛ばしていただいても構いません。
 本稿の「4-2. 問題点② 近藤さんの「純粋な自由意志」なのか?」の節に、近藤さんにとって「いじりとして処理すること」が「救いだった」という記述があります。私は、それを並々ならぬ思いを抱きながら書きました。
 私もかつて、過度に貶めるような言葉を投げかけられたり、バッグを隠されたり、その他大っぴらには書けないような酷い仕打ちを恒常的にされ続けて苦しんでいた時期がありました。そしてあるとき、それを全て「笑いで返す」=「遡及的にいじりにする」ことによって抜け出そうと決心し、何とか地獄の日々から脱出した、という経験を持っています。その意味で、私は全く他人事には思えないのです。
 確かに「『いじり』にする」ことは本稿で論じたように問題だらけですが――それでも、と私は思います。苦境を解決する方法が「それしかない」ように見えている人に、「お前は悪しき価値観の再生産に加担している」と言うのはあまりに酷です。ましてや、「それを選ぶな」とは口が裂けても言えません(もちろん、本人がそう「せざるを得ない」社会構造を変えなければいけない、ということは改めて強く主張しておきます)。

 そんな風に悩んでいるときに、私は一つの記事に出会いました。それは、かつていじめを受けていたものの、文化祭でやるコントの脚本を書いたのをきっかけに一躍クラスの人気者になった、という経験を持つ霜降り明星せいやさんのインタビューです。

 このエピソードもともすれば、「いじめを笑いによってはね返した」という美談として語ることはできそうです。しかしせいやさんは一貫してそれを拒否します。

――高校生のせいやさんは、コントが書ける力を持っていたからこそ、あの状況をくぐり抜けることができたとも言える。一方で、多くの10代は、せいやさんと同じようないじめを受けたとき、ギブアップしてしまう人がほとんどだと思います。つらい思いをしている「普通」の10代に今、せいやさんが伝えられるメッセージを聞かせてください。

 これが一番言いたいんですよね、結局。僕は別に、自分の経験談を押し付けたいわけじゃないので。
 やっぱりね、逃げた方がいいですよ。立ち向かわなくていいです。僕は別に闘ってないんですよ。笑いではね返したっていう言い方をすることもありますけど、笑いに逃げただけ。僕には笑いっていう逃げ場所があったから。笑いって対人やから、向かっていったみたいになってますけど。
 音楽に逃げる。ゲームに逃げる。睡眠に逃げる。何でもええです。とにかく、そんなやつらに、人生終わらされてたまるかっていう気持ちを持ってほしいですね。そんなやつらに合わせる必要もないし、そんな環境に合わせる必要も全くない。自分の好きなことを、本当にチャンスやと思って見つけてほしいですね。

 せいやさんは一貫して、苦しい状況にあるときに「『いじり』にするしかない」「笑いに転化するしかない」なんてことはない、ということを強く主張しています。確かにお笑いは「助けて」くれる。でも他に選択肢はいくらでもある。逃げればいい。「あいつら」に合わせる必要はない。
 あの時期にこの記事があって、私が読むことができていれば、なんてことを考えてしまわないわけではないです。しかしそんな意味のない反実仮想よりも、今私が願うのは、もし今いじめに苦しんでいる人がいるならば、何かの検索で引っかかってこのせいやさんの記事にたどり着いて、ちょっとでも救われたらいいな、ということです。

 

 

 

*1:井上順孝『宗教社会学がよ~くわかる本』(2007年、秀和システム

*2:A・ラドクリフ=ブラウン『未開社会における構造と機能』(1975年青柳まちこ訳[1952年]、新泉社)

*3:今村仁司現代思想を読む事典』(1988年、講談社現代新書

<お笑いと構造 第9回> 既存のお笑い体系からの脱出方法――シュール、メタ

 前回は、<お笑いと構造>応用編の第一回目として、天丼をテーマに論じました。

satzdachs.hatenablog.com

 そこで最後にとりあげたのが千鳥の「開いてる店は開いてるけど、閉まってる店は閉まってる」漫才であり、これが既存のお笑い体系からの脱出の一つの方法ではないか、という話をしました。今回は、いかにしてお笑いの基本常識を覆すことができるのか、「シュール」と「メタ」の二つをキーワードを議論を進めていきましょう。

1. シュールとは何か:板尾創路

シュールの多義性、曖昧さ

 「シュール」という言葉、皆さんも一度は聞いたことがあるのではないでしょうか。ここまで多義的な言葉もないというくらい、「雰囲気のある」とか「ツッコミのない」とか「東京風」とか、お笑いにおいて「シュール」と言うときに込める意味は人それぞれです。
 しかし元々の語源はもちろん、フロイトの潜在意識の理論に端を発し「夢と現実の矛盾した状態の肯定」(アンドレ・ブルトン)を理想としたシュルレアリスム運動です。シュルレアリスム運動の流れを組む芸術作品が不条理で非論理的な風景を特徴としたように、語源に近い意味で使うのならば「シュール」なお笑いとは「不条理」で「非論理的」なものであってしかるべきでしょう。

1-2. 「ツッコミ不可能性」

 ただこれ以上、シュルレアリスム運動との関連で語るには私の知識は十分でないため、ここで、お笑いにおけるフォークタームとしての「シュール」を定義しておきたいと思います。お笑いにおける「不条理さ」や「非論理性」とは何か。
 私は「シュール」をひとまず、ツッコミ不可能性という概念から考えていきたいと思います。これは、かなり時代性を感じるブログですが、『130R 板尾創路について』という記事からヒントを得ています。この記事の著者は、ダウンタウン松本さんとの比較から、板尾さんがなぜ「シュール」たるかを論じています。

www.owarai-world.com

 ダウンタウン松本さんの笑いもシュールと言われるが、しかしながら、松本さんの発想には元となる根拠が存在する。だからこそ、浜田さんがツッコむ事ができる。
「なんで、二回ゆーねん!」
 そう、無駄に二回同じ事を言っているから、そうツッコめるのだ。松本さんのボケには、しっかりとした意味・理由があるのだ。だから、ボケ+ツッコミの形式で伝える事ができる。理屈で説明する事も可能である。であるから、私の定義で考えると、松本さんの芸風もシュールではないと思う。

 このように、「ツッコミ可能」な松本さんに対して、板尾さんは「ツッコミ不可能」である。そしてこれがお笑いにおける「シュール」であるということだ、というのがこの記事の論旨です。

 「ダウンタウンのごっつええ感じ」のワンコーナー「板尾係長」での一言。「お前とお前は帰ってよし」*1。さて、これを、どう理屈で説明できるであろうか?
 (中略)シュールは理屈で説明ができない…。それだけではなく、さらに、シュールの定義としてあげられるであろう事は、シュールはツッコミを必要としない。または、シュールにはツッコむ事ができないという事は考えられはしないだろうか?
 (中略)と言うのも、現に、あのダウンタウン浜田さんでさえも、
板尾さんのシュールに対するツッコミは全て、「それ、なんやねん(笑)」である。そして、松本さんのツッコミも全て、「どうゆうことやねん!(笑)」なのである。

 シュールをひとまず「ツッコミ不可能なもの」として定義することとしましょう。これを私の三尺度で考えると、意外感につらなる系譜ではあるが、その「共通認識の明瞭さ」が「0」であると解釈することができます。しかしながら、それだと(意外感の大きさ) = (共通認識の明瞭さ) × (共通認識からの距離)の式に代入したときに「意外感の大きさ(=面白さ)」がどう足掻いても0になってしまい、お笑いとして成立していないように見えます。この(一見)矛盾した状況をいかにして説明すればいいのでしょうか?

シュールの定義

 私は、シュールを「既存のお笑いの枠組みからの逸脱による、意外感の笑い」として定義します。すなわち、「意外感の笑いにおいては、元となる共通認識が分かる」ということ自体が共通認識であり、それを裏切ることによって意外感の笑いが生まれる、という多層的な構造をしているのです。いわば、お笑いのルールそのものに対してボケている。
 裏返せば、その既存のお笑い体系を理解していなければ(=その観客にとっての「共通認識」と思わなければ)ボケにならないので、シュールなお笑いは「一般受け」せず、(より多くのお笑いのパターンを経験している)お笑いファンには面白いと評価される、という傾向があります。
 これは現代美術でも同じ構図がありますね。それまでの芸術の文脈があるからこそ、男性便器を美術展に送ったデュシャンが「裏切り」になるわけです。

2. シュールのその先:Dr.ハインリッヒジャルジャル

 さて、このお笑いにおける「シュール」という領域も、進化し続けています。ここでは、「シュールのその先」を見せてくれるコンビとして、二組のお笑いコンビを取り上げてみましょう。

2018年M-1準々決勝のDr.ハインリッヒ

 Dr.ハインリッヒといえば、お笑いファンなら誰でも知るシュール芸人の関西の代表格と言ってよいでしょう。本当に訳の分からない(=参照元である共通認識が分からない)ネタばかりをするコンビで、そのブレなさが私はずっと好きだったのですが、2018年のM-1準々決勝で彼女たちのネタを観て、私は衝撃を受けました。シュールの一段階上にDr.ハインリッヒは進化していたのです(こう書くと上から目線のようになってしまいましたが、私は彼女たち目当てに劇場に行くくらい、本当に尊敬しています……)。
 幸いなことに、公式のYou Tubeにそのネタがアップロードされていたのでリンクを貼りました。『トンネルを抜けると』というネタです。

 序盤を観ている限りでは、いつものDr.ハインリッヒです。

幸(みゆき):トンネルを抜けるとそこには、めっちゃデブの鰯が、炒飯食べてたわ。

 幸はその鰯を海に返す。するとすぐに戻ってきてまた鰯は炒飯を食べ出す。鰯が尾ひれを叩いて地面が割れると、そこから向日葵が咲く。その向日葵の顔の部分から、「短いめになった鉛筆の持つとこ長くする銀色のやつ」がいっぱい出てくる。その「銀色のやつ」に鰯を入れると、「イワシンス」の球根が出てくる。すると向日葵が咲き、その顔の部分から今度は炒飯が出てくる。
 その炒飯を食べにデブの鰯がやって来て、幸はそいつを海に返す。するとすぐに戻ってきてまた鰯は炒飯を食べ出す。鰯が尾ひれを叩いて地面が割れると、そこから向日葵が咲く。その向日葵の顔の部分から、「短いめになった鉛筆の持つとこ長くする銀色のやつ」がいっぱい出てくる……

 これこそまさにシュールレアリスム作品のような、脈絡のなさ、非現実性、幻想的な情景の数々。これだけでも最高なのですが、事態は彩の一言によって違った角度で見えてきます。

彩:ちょっと待って、自分ってさ、「短いめになった鉛筆の持つとこ長くする銀色のやつ」作んのに参加してない? 鰯、自分、向日葵、炒飯、この四つの輪廻の中であれができあがってないか?

 これが本当に素晴らしい。準々決勝の会場でもめちゃくちゃに受けていました(未だにこれが準決勝に上がらなかったことを私は恨んでいます)。
 彩さんのこの一言によって、一見不条理に思えた世界に秩序が与えられます。それは現実に戻ってくるというわけではなく、あくまで「その非現実世界における」秩序だということが大事な点です。ここに、シュールのお笑いから最も遠かったはずの納得感の笑いがあるのです。
 すなわち、「意外感の笑いにおいては、元となる共通認識が分かる」ということ共通認識から逸脱し、彼女たち独自の世界をつくっているうちにその中で新たなルールを生成し、それを「共通認識」とし、納得感の参照元としたのです。ただ「訳の分からない」ということが面白いだけ(で十分過ぎるくらい好きなんですが)ではなく、さらにその一歩先の展開があるのだということに、私は心の底から感動しました。

2018年M-1決勝・2019年M-1決勝のジャルジャル

 さて、その「自分たちだけの世界を勝手につくり、その中で新たにルールができる」という意味では、ジャルジャルの「ピンポンパンゲーム」「国名分けっこ」の衝撃も同様に説明できます。

 彼らはもっと徹底的に記号化された世界のなかで、さらに4分の中でルールの再生成・破壊を幾度となく繰り返すのですが、それを「小学校のときの遊び」のような一見ポップな切り口で見せているのがジャルジャルの凄さです。「シュールで訳分かんないことやってんな」ではなく、「ジャルジャルぽいな」と受け取られるのは、彼らがこれまで積み重ねてきたプロップスの大きさ故でしょう。もちろん同時に、知名度があるからこそ「斬新だ」という評価がやや小さくなる、というデメリットもそこにはあるわけですが。

3. メタとは何か:アルコ&ピース

メタフィクション

 小説におけるメタフィクションとは、小説というのはもちろん言語によって構成された虚構世界なわけですが、その虚構性を登場人物が自認し、明示的に言及する作品のことを指します。私のメタフィクションの思い出といえば、三大奇書の一つでアンチ・ミステリーの傑作として知られる中井英夫『虚無への供物』ですね。まだ読んでいない方のためにネタバレは避けますが、中学生の私がこの作品のクライマックスを読んだとき、衝撃で当分の間頭から離れませんでした……

お笑いにおけるメタの定義

 少し話が逸れました。シュールほど議論はややこしくなく、お笑いのネタにおけるメタの定義は簡単です。それは、「ネタ中のお笑い芸人が、『今自分たちがネタをしている』という事実、もしくはお笑い一般の枠組み自体に言及する」ことです。
 ここにおいて強調しておきたいのは、「自分たちがネタをしている」という事実に触れること自体は、ある意味で簡単にできるということです。「ツッコミ多いな」「このネタ何やねん」「観客もっと笑うと思ってたわ」……ネタに転調を加えるにあたって便利過ぎるが故に、M-1の予選などで安直にメタに走ってしまうコンビが少なからず観られるのもまた事実です。しかしな簡単にできるからこそ、自分たちにしかできない独自のメタの切り口を探求すべきではないか、と一視聴者として私は思います(また少し偉そうになってしまいました)。

2012年THE MANZAI決勝のアルコ&ピース

 ほとんどのお笑いファンは、このメタのお笑いの最高傑作としてアルコ&ピースの「忍者になって巻物を取りに行く」を挙げるでしょう。ちなみにですが、私はこのネタを観たとき、テレビの前で興奮で震えていました。
 このネタの導入は、忍者になって巻物を取りに行きたいから今から演ろうと言う酒井に対し、平子が一言、「じゃあお笑いやめろよ」と言うところから始まります。これは、漫才でよくある「〇〇やってみよう」というコントインの台詞を逆手にとったメタ発言です。
 普通ならこれを「いや漫才だから演じればいいんだよ!」と酒井がツッコみ、その下りは終わるはずですが、このネタはそう一筋縄ではいきません。今[2012年当時]の自分たちを取り巻く厳しい状況、お笑いにかける熱い思いを平子さんが滔々と語り、「忍者になって巻物取りに行く時期じゃねえだろ」と酒井さんを叱りつけるのです。そして次第に、忍者になるという設定の馬鹿馬鹿しさと、真剣な平子の語り口とのギャップが大きな笑いを生みます。「忍者になって巻物を取りに行く」がキラーフレーズとなり、それが平子の口から出るたびに、漫才を辞めて手裏剣をシュッシュッと飛ばす酒井の姿が観客に見え始めます。

 詳細に順を追ってお笑いの構造分析をしてもいいのですが、とにかくこのネタの何より凄いところは、メタ発言を出発点として、そのまま最後までメタで一本突き通した点です。それでいて高い水準の笑いを保ち続けたネタは、後にも先にもアルピーの『忍者』だけでしょう。その意味でこれはメタお笑い界の記念碑的作品で、漫才の歴史が書かれるならば必ず載るべきネタです。
 このTHE MANZAIの直後、2013年の春に当時高校3年生の私は、次のように感想を書いています。

――今後仮に誰かがメタだけで構成された漫才をしたとしても、必ずこれと比較されるし、そう早くはこれを凌駕するようなものは生まれないと思う。

4. メタ、シュールを超えて:ぺこぱ

 さてここまで、「既存のお笑い体系からの脱出方法」として、メタとシュールについて語ってきました。シュールの一歩先の世界としてDr.ハインリッヒジャルジャルを紹介し、メタに関しては「そう早くはこれ[忍者]を凌駕するようなものは生まれない」と書きました。しかし昨年2019年のM-1グランプリで、シュール的な要素とメタ的な要素のどちらをも含みながらそれだけでない、既存のお笑い体系からの完全に新しい脱出方法が提示され、私は久しぶりに画面の前で震えました(その型を初めて見たのは3回戦のGYAO!動画でした)。そのコンビとは、皆さんご存知、ぺこぱです。

 彼らのスタイルについて命名は未だ定まっていませんが、今のところダウンタウン松本さんが言っていた「ノリツッコまないボケ」が私は一番好きです。シュウペイさんのボケに対して松陰寺さんがツッコむと見せかけて、そのまま言葉をつなげて最終的に相方の発言を許容する。これが基本フォーマットです。
 このとき、漫才にツッコミは存在しません。松陰寺さんも、既存の漫才の構造――ボケがあって、それにツッコむ――をフリにしてボケているわけであって、観客個々人がそのおかしさを見出して笑うわけです(ここで観客自身が心の中でツッコんでいるという表現を使っても良いと思います)。そして「既存のお笑いの枠組みからの逸脱による、意外感の笑い」という意味では、シュールのお笑いと共通点を持ちます。ただし一見して「ツッコミ不可能性」がなく、「既存のお笑いの枠組みからの逸脱」であることが明示的である点では、ぺこぱはよりポップで分かりやすいのが素晴らしいです。

 しかし彼らのネタを詳細に分析していくと、「シュウペイさんのボケに対して松陰寺さんがツッコむと見せかけて、そのまま言葉をつなげて最終的に相方の発言を許容する」だけでないことが直ちに分かります。
 例えば、最終決戦の「漫画みたいなボケって言うけどその漫画って何」というくだりは、「漫画みたいなボケするな!」というよく漫才で使われがちなフレーズに対する非常に批評性の高い言葉になっています。言ってみれば、これは(既存の)ツッコミに対するツッコミであり、お笑いの枠組み自体に言及しているという点でメタ的な意味合いを備えています。
 また、以下の下りも印象的です。

シユウペイ:今ボケのたたみかけ中ですけど、みなさんどうですか?
松陰寺:いや聞かなくていい!……けど、実際のところどうですか?

 これも「たたみかけ」という賞レース漫才用語をネタ中に出すという点では、メタの範疇に含まれます。しかし先ほどの漫画の下りがツッコミに対するツッコミによる納得感の笑いだったのに対して、こちらは「最終的に相方の発言を許容する」のと同じ、「既存のお笑いの枠組みからの逸脱による、意外感の笑い」です。このように、既存のお笑い体系をフリにしながら、その脱出方法が一通りでなく、あらゆる類型がマージされているのです。そしてその意味でも、(俯瞰で見ると、大きな展開として)ぺこぱは私たちを裏切り続けているのです。
 この複雑な多重性を備えたぺこぱの漫才は、ここ数年の漫才界で最も大きな発明だと私は思います*2

5. 終わりに

 今回は、「既存のお笑い体系からの脱出法」と題して、メタとシュールを大きなテーマに解説をし、Dr.ハインリッヒジャルジャルアルコ&ピース、ぺこぱのネタを取り上げました。いかにして賞レース漫才が進化してきたか、その一端を皆さんに分かっていただけたかと思います。
 次回は、漫才の進化が顕著に分かる別の題材として「ツッコミ」に焦点をあて、「現代ツッコミ論考」を展開したいと思います。

satzdachs.hatenablog.com

 

 

*1:このセリフ、「板尾係長」のコーナーがどういうものかが分からないと余計に理解不能だと思うので、ぜひ「ごっつええ感じ」のDVDなどでご覧ください。

*2:あるいは別の見方をすると、この漫才が成立するという事実が、「こういうものが漫才である」という認識がかなりのレベルで一般の人々に浸透しているということの顕れである、という意味でも大変興味深いです。M-1が毎年これだけ盛り上がり、賞レース漫才の認知度が飛躍的に向上した結果ですね。